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        メールマガジン:カンバセイション・ピース
                             vol.16 2005.01.03
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                 はじめに
あけましておめでとうございます。
毎年、元旦に夫と娘ふたりとがぶんさんと五人で、お雑煮を食べながら、今年の目標
を宣言し合うんだけれど、わたしが、「今年は我慢しないで、周りに気兼ねしないで、
ほんとに、自分のすきなことをする」って言ったら、みんなに「これ以上わがままに
ならないでね」と言われましたが、元旦からすきなものを食べようと考えて、思いつ
いたのは一番目にアワビ、二番目にからすみ、三番目にカニ、全部お酒に合うものば
かりでした。そんなにお酒を飲む方じゃないんだけど、不思議です。
いろいろ抱負とか、書こうと思ったんだけど、口ばっかりになったら悲しいので、こ
れくらいにしておきます。去年、あれよあれよと、思い掛けないことに巻き込まれて、
大忙しで自分を見失ってしまいそうになったので、新年そうそう元気がないのです。
でも、昨日、アワビを食べ、きょうはカニをたべたので、ちょっとご機嫌なのです。
お酒もちょっといただきました。あとはおいしいからすみ、さがそーーっと。
ことしもどうぞ、よろしくお願いします。(けいと)

◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆もくじ◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆

 ●突然だが、「近代」の終焉について−−やっぱり「近代」は終わりつつある−−
                                 保坂和志)
 ●年賀イラスト:「申・酉ガールズ」  まゆ子
 ●連載:極楽月記 号外「ムチゴローの動物民主主義獣民共和国の巻」がぶん@@
 ●連載:<ひなたBOOKの栞>BOOK12:けいと
  きりのなかのはりねずみ」ユーリ−・ノルシュテイン、セルゲイ・コズロフ 作 
             フランチェスカ・ヤルポーソバ 絵
             こじまひろこ 訳  (福音館書店) 

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●突然だが、「近代」の終焉について−−やっぱり「近代」は終わりつつある−− 
                                  保坂和志

 これから私が書くことは、ちょっと込み入っているかもしれないので、パソコンの
画面上で読むのが辛いと思う人は、(1)この文章全体をコピーして、(2)次に
「ワード」等を開いて、そこに張り付けて文字を大きくするか、(3)プリンターで
プリントアウトして(場合によっては縦書きに変換してからプリントアウトして)読
んでください。

 大括りの時代区分で言うと、いまはいちおう「モダン」=「近代」ということにな
っている。80年代から普通に言われるようになった「ポスト・モダン」を、「近代
以後」と訳すか「後期近代」と訳すかによって、自分たちが生きている時代の意味合
い・位置づけが変わる、というのはよく言われることで、「後期近代」なら「近代」
の一部に含まれるから「近代」のままでかまわないけれど、「近代以後」だとするな
ら、「モダン」はもう終わっているにもかかわらずまだ正式な名前がついていないと
いうことになる。
「ともかく、ひとつのことがたしかなのである。それは、人間が人間の知に提起され
たもっとも古い問題でも、もっとも恒常的な問題でもないということだ。(略)それ
は知の基本的諸配置のなかでの諸変化の結果にほかならない。人間は、われわれの思
考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そし
ておそらくその終焉は間近いのだ。
 もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれが
せめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も
認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲り角で古典主義的思考
の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば−−そのときこそ賭けてもいい、
人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。」
 と、これは私と同じ10月15日に生まれたフーコーが1966年に出版した『言
葉と物』のあまりに有名な最後の一節だが、問題は、人間がどういう風に消滅するの
か? ということだ。
 時代が「いま」とか「ここ」とか、事件の現場を目撃するようにはっきり変わるは
ずがなくて、いろいろな分野で少しずつ変わっていくわけだけれど、私はやっぱり「
近代」は終わりつつあると考える方がいいじゃないか、という考えに最近傾いていて
(このあいだまでは「近代以後」でなく「後期近代」の方の立場だった)、次にくる
時代の名称は「エコロジー」なんじゃないかと思う。

 ちょうど最近『四色問題』という数学の本が新潮社から出て、ちょろちょろ拾い読
みをしただけだけれど、地図やなんかで色を塗り分けるのに「四色あればすべての場
合に、隣り同士同じ色にしないで塗り分けることができる」という四色問題は結局、
人間が理解できる明快な数式による証明でなく、数式をコンピュータに入力してすべ
てのパターンをコンピュータが解く、とかいう方法で証明されてしまった……しかし、
それを「証明と呼べるのか?」というようなことが書かれているみたいだ。
 ここで人間は、「人間によって把握できないがコンピュータによってなら確実に見
渡せたと断言できる状態を受け入れることができるかどうか」という選択に立たされ
たということになる。私の『四色問題』の拾い読みによる理解が間違っていて、「四
色問題」の証明方法が突き付けた問題がそういうことではないのだとしても、早晩人
間はそういう決断を迫られることになる。
 コンピュータの中で何が起こっているのかがすでに人間には把握しきれなくなって
きていて、「コンピュータが間違いを犯していたとしても点検できないじゃないか」
と思ったりするわけだけれど、そういう「近代」的思考をする人たちはいずれいなく
なっていって(死んだりするわけだから)、「コンピュータの中で何が起こっている
のかなんてわかるわけなんじゃないか」という風に考えるのが普通の時代がくるだろ
う。
 それで思うのだが、「近代」というのは、「世界が人間によって見渡せることがで
きた(見渡せるようになることを望んだ)明証性の時代」だったということなのでは
ないか。近代以前というより、遠くギリシャの昔あたりから「見える」ということが
確かさの最高の保証みたいになってきたわけで、「近代」に至ってギリシャ以来の価
値観が完成された、かに見えたわけだけれど、「近代」が造り出したコンピュータの
中こそが「見えない」ものになってしまった。
 でも、人間に見通せなくても世界は無事に活動している。木の中で何が起こってい
るか? 森全体で何が起こっているか? それをとうとう「近代」は解明できなかっ
た。−−というよりも、近代の最後に来て、人間は「森全体で何が起こっているか人
間にはわからない」ということを発見した。
 というのは、60年代くらいまでは「森全体で何が起こっているか、いずれ人間は
知るだろう」と楽観的な自信を持っていて、それより前は「森全体で何が起こってい
るか? そんなこと、どうでもいい。もっと重要なことはいっぱいある」と、きっと
考えていただろうからだ。
 森の比喩はなかなか便利で、多くのことを考えさせてくれる。森は、全体として活
動しているし、森の中にあるひとつひとつの木や草や苔、そこに棲む動物たち、それ
らすべてが個体としての独立性を持った活動もしている。「森を解明する」というこ
とは、個体の活動を解明することでもあり、それらの繋がりを解明することでもある。
そのどちらも人間にはできていない。−−まあ、これから先もできないんじゃないだ
ろうか。そして、しようとも思わなくなるんじゃないか。つまり、−−。
 コンピュータの中で何が起こっているかわからないまま、コンピュータの判断をあ
る程度、鵜呑みにせざるをえない時代がきて、そういうことが当たり前になったら、
森の中で何が起こっているのか解明しようとはもう思わなくなっているんじゃないか。
ということだ。
 だってそうでしょ? 「近代」の思考のモデルは、「部分に分解すれば全体がそう
なっているのがわかる」というものだったわけだけれど、私がたった今「エコロジー
」と名付けてしまったその時代には、思考という行為の中心に、中で何が起こってい
るのか人間にはわからなくなってしまったコンピュータがいるわけなんだから、「部
分に分解すれば全体がそうなっているのがわかる」なんてことを言っていたら、自分
たちが生きる社会の基盤が不安でどうしようもなくなってしまう。
 ここで私が言っていることを「人間の敗北」と取る人がいるかもしれないけれど、
それもまた「近代」的な枠組みの中での発想だ。死ぬことを人間の敗北と考える人が
いるだろうか? いや、かつてはそれが主流だったとも言えて、「癌との闘いに負け
た」とか言う人が多かったし、「老い」を拒絶して自殺を選んだ人なんかもいたわけ
だけれど、今ではもう少し「自然な」ないし「不可避」のこととして死を受け入れつ
つある。だから「死」が人間にとって敗北でないように、「全体を見渡せない」こと
も人間にとっての「敗北」とか「無力」ということではない。
 「人間が十全に把握できないこととか人間の自由にならないことが世界にはいっぱ
いある」ということを人間が受け入れる時代がくるということだ。
 何しろ、思考の枠組みが「近代」と全然違うものになってしまうのだから、次にく
る「エコロジー」の時代に人々が考えることを、「近代」の発想で否定したり肯定し
たりしても意味がない。その時代の発想によって判断することに意味がなくなること
が「時代が変わる」ということなんだから。
 コンピュータの中で何が起こっているかわからないままコンピュータが社会の中心、
つまり思考することのの中心になるということは、やっぱり基本的にはコンピュータ
が嫌いな私にとっては面白いことではないけれど、それによって「解明できているも
のなんてたいしたものじゃない」「人間によって解明できないものほど素晴らしい」
という考えが社会を支配するようになってくれたとしたら、私はそっちの時代の方が
ずっと面白いと思う。
 マルクスは「大事なことは世界を認識することではなくて変えることだ」と言った
そうだが、エコロジーという時代になったら、E=mc(2乗)(右肩につける小さ
い2の出し方がわからないのでこう書きます)みたいなシンプルで物事の根幹になる
式を発見することが重要でなく、「ひとつの事象に対してできるだけいろいろな解釈
を考え出す方が重要」というような価値観になっているかもしれない。自然というの
はあの手この手のいろいろなアプローチをしてみなければわからない。「これが真理」
という硬直したアプローチではたいてい失敗するのだから。
 つまり、「エコロジー」という時代になって、人間は人類史上はじめて自然を発見
することになる。昔々の人間は自然を発見していたわけではなくて、自分の身体の延
長として理解していただけなのだから。その自然はコンピュータとひじょうに似通っ
たものである、というところが「エコロジー」の時代の入り組んだところでもある。

 **最後になったが、ここで言っている「エコロジー」というのがリサイクルとか
環境保護とかいうちまちましたことではないということは当たり前のことなのただけ
れど、わかりが悪い人のために言っておくことにする。
 **では、みなさん、来年もどうぞよろしく。

 と書いたら、アメリカで、クローン猫が生まれてちゃんと育っている記事が新聞に
載っていた。クローン猫は元の猫と色も性格も癖も全部同じだということだ。何しろ
「クローン」なんだから。
 そのクローン猫の飼い主は、元の猫を飼っている気分でいることだろう。元の猫に
してやれなかったことを一所懸命してやろうとも思っていて、実際にそうしているこ
とだろう。
 しかしそれは元の猫ではなくてクローンの方だ。つまり、猫は2匹いる。クローン
猫にどれだけいろんなことをしてやっても、元の猫にしてやれなかったことの埋め合
わせがつけられるわけではない。元の猫が仮に10歳で死んだとして、クローン猫と
15年過ごして、それが合計で15年になると感じるのは人間の方だけだ。クローン
猫は後天的な部分はまっさら状態で生まれてくるのだから、猫と飼い主の関係は最初
から作り直さなければならない。
 ……などなど、などなど、そういういろいろなことは頭では最初はわかっているだ
ろうけれど、飼っているうちにやっぱりわからなくなってくるだろう。外見も中身も
すべてが同じ猫がまた目の前にいたら、区別がつかなくなってくる。猫の内面のその
また中核であるはずの、「その猫がまさにその猫であること」でなく、〈私−猫〉と
いう関係の方が一緒にいるうちに優位に立って、クローン猫は元の猫ときっと同じに
なるだろう。
 そしてもしかしたらそのうちに、生命を「個体の中で完結する」という風に感じず
に、クローンなどによって作り出される流れによって、「受け渡されていく」ものを
生命と感じるようになるのではないかという気がする。これはもう、どっちがいいと
か悪いとかの問題ではないのではないか。これはコンピュータの中身がわからないま
まその判断に委ねる態度と共通しているような気がする。
 ………うーーん、ではあらためて、皆さん、来年もよろしくお願いします。
 皆さんにとって、よい年でありますように。
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●年賀イラスト:「申・酉ガールズ」  まゆ子
   こちらからどうぞ
       ↓
http://www.k-hosaka.com/merumagaK/vol.16/mayuga16.html

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●連載:極楽月記 号外「ムチゴローの動物民主主義獣民共和国の巻」がぶん@@

今年一年ぼくは何をしていたかというと、パチンコ屋へ300日ぐらい通ったことと、
やたらめったらヤフオクで革ジャンを落札したことと、4畳半の居間兼寝室でこれも
またやたらめったら小動物を飼い始めたことだ。それ以外ほぼなにもしなかった。本
だって1冊も読んでいないし、難しいことを考えるということも一切しなかった。あ
ー、なんて楽しい一年だったんだろう。
さておき、えー、ほんとに無知なんですネコ以外の動物に関しては、ってことでムチ
ゴロー。
最初に飼い始めたのはオカメインコの○ちゃんで、次は決してミニではないミニウサ
ギのふくちゃん。
○ちゃんは口笛歌が上手で、最初に覚えたのは「ハトポッポ」、次に「ももたろう」、
次に「雨に歌えば」、で次に言葉で「まるちゃん!」で、次に「もしもしカメよ」、
で次に「与作」。今はこの与作ともしもしカメよを交互にあるいはミックスして歌っ
ている。で、このもしもしカメよを覚えた頃に「あっそうだ、ウサギがいるんだから、
カメも飼って、それを眺めながら○ちゃんがもしもしカメよを歌う、、という絵面が
欲しい」と思い立ち、ロシアリクガメを飼ってポチロフスキーと名前を付けた。
その一方で、熱帯魚購入作戦もじわじわ進んでいて、気がつけば水槽四つにランブル
フィッシュやらブラックテロラやらヤマトヌマエビやらフラワーホーンやらディスカ
スやらがいて、それが今はなんとなく淘汰されていくつか死んじゃったりして、メダ
カやドショウなんかもいたりする。その一方の一方で、ペット屋さんで最初見てあん
まりかわいいんで衝動買いした2匹のロボロフスキー(これはダジャレじゃなくハム
スターの正式種名だったんでもうびっくり)のピンちゃんとポンちゃん。このロボロ
フスキーという種のハムスターはハムスターの中でも一番小さい部類で、そのせいか
とっても臆病で手の上に乗せて可愛がったりはできない。後で気がついたが売り場に
は「観賞用ハムスター」とあった。で、見てる分にはとにかく可愛いんだけど、やっ
ぱりなでなでしたりしたいので、今度はハムスターの中でも一番大きい部類のキンク
マハムスターを1匹購入。これには実に安直にキンちゃんと名前をつけた。こいつは
いわゆるのんびり屋さんで、ベットで横たわっているボクのお腹の上でほとんど猫と
同じようなしぐさで毛繕いや顔洗いなんかをする。でもこれら3匹のハムスターを一
緒のカゴで飼うことはできない。強い弱いがでできちゃってケンカばっかりするよう
になるという。ということでハムスター用のカゴも三つ用意し、ベットとウサギ小屋
(これがやたらでかい。畳1畳の大きさで高さは1メートル)の間の通路に所狭しと
置いてある。そのウサギ小屋の上に○ちゃん、ポチロフスキー、ブラックテトラ(水
槽)なんかが住んでいる。
さてさて、こんなふうにいろんな動物がいると、それぞれ生活スタイルが違うんで面
倒を見るのも一苦労ということになる。
それぞれ生活環境上の適温とかが違ってたりするもんでやっかいなことおびただしい。
○ちゃんは暑いの大好き寒いの苦手、ふくちゃんは暑いの苦手で寒いのオッケー。熱
帯魚連中は摂氏26度くらいが一番大好き。で、たぶん一番やっかいなのはロシア亀
のポチロフスキーだと思う。最低限用意するものとして、紫外線を発する蛍光灯、ケ
ージの一部を温めるためのスポットライト、それに下に敷くヒーター。それらがない
とまず冬は越せないらしいんで、とにかく購入! それと毎日のお風呂、これがけっ
こう笑える。35度くらいのお湯に体をつけてしばらくすると、気持ちよさそうに、
くに〜っと手足を伸ばし始めて、ウンチやらおしっこやら尿酸(人間の精子みたいな
きも〜い物質)なんかを、ずるずると放出。で、もうしばらく入っていると、もう今
度はあつくなって出たい出たいと手足をバタバタ。でもって出してやって全身をよー
くタオルで拭いてあげる。とにかく乾燥好きな体質だから。あとはご飯食べて寝ちゃ
う。
というわけで、それぞれの動物用にいくつもヒーターやらモーター(水循環やエアー
ポンプ)が必要なわけで、もう我が家は電源コードだらけ。
さて、それぞれの寿命ももちろん様々だけれど、一般的にオカメインコは20年以上、
ロシアリクガメは30年ぐらいは生きると言われている。ということはほぼ私の残さ
れた寿命とほぼ同じかそれより長いわけで、仲良くやらなきゃしょうがないだろね。
、、といわけだけど、今回は時間がなかったりで、写真とかで紹介しないので、どん
なふうになっているのかよく分からないと思うけど、それはまた今度な。
ほんじゃま来年もよろしく!

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●連載:<ひなたBOOKの栞>BOOK12  けいと
「きりのなかのはりねずみ」ユーリ−・ノルシュテイン、セルゲイ・コズロフ 作 
             フランチェスカ・ヤルポーソバ 絵
             こじまひろこ 訳  (福音館書店)

わたしは北海道の十勝の出身なんだけれど、小学校一年生から三年生まで、ほぼ直線
の道路を、一時間以上歩いて学校に通っていた。大人になってからその道を歩いてみ
ても40分はかかり、坂があったり、線路があり、川もあってけっこうな距離だったの
で一年生のころなんて、とくに冬場はかなりきつかったと思うんだけれど、大変だっ
たという記憶がまったくない。わたしの家がかなり街はずれにあって、ものすごい田
舎だということは間違いない、でも、その一時間のみちのりの道路は、綺麗に鋪装さ
れたニ車線で、その道路沿いがその街でいちばん賑やかな商店街だったので、歩道も
かなりの広さがあって、そこをただただ、まっすぐに歩いていけば学校につくので、
迷ったことも、寂しくなったことも全然なかった。それよりも家が農家だったりする
と、これも北海道の酪農家はかなり大きいので、お隣の家まで行くのに30分かかっ
たりすることもあって、小学校まで二時間歩いてくる子もいて、冬になると一時間目
に間に合うのは、クラスの半分くらい。なので、たいていは学校に着くとグランドに
作られたリンクでスケートをやっていて、みんなそろって授業がはじめられるのは、
だいたい三時間目からだった。
覚えている限りで、わたしがはじめて道に迷った記憶は、小学校の三年の時、たまね
ぎ農家の子のところに自転車でいった帰り道だった。小学校からさらに家から逆方向
に30分くらい自転車でかかったと思う。行きはともだちと一緒だったのでよかったん
だけれど、帰りは独りで夕暮れ時。鋪装されたひろい道路沿いには家もなく、道行く
人も、もちろん人っ子一人いなくて、車も通らなくて、まわりの景色はたまねぎ畑と、
遠くに見える日高山脈だけ。道に迷ったのは右に行かなくていけない所を左に曲がっ
たという単純な間違いですぐに引き返して、左にまがったんだけれど、そのころから、
いきなり、霧が出始めて通い慣れた道までほんのわずかの距離だったんだけれど、怖
くて怖くて泣きながら自転車をこいだ記憶がある。
そういえば、北海道では霧もそうだけれど、降り続ける雪でまわりの景色も自分自身
さえ見えず、ただ薄ぼんやりと家や車のあかりや外灯が見えるだけということがよく
あった。子どものころはそういうことが底しれなく恐怖で、でもなんだか、ちょっと
わくわくするようななんとも言えない不思議な感覚だった。
実は去年の夏、その時のあの感覚を思い出した。
八月のものすごく暑い頃だったと思うんだけれど、保坂さんから「必見ユーリ・ノル
シュテイン」というメールがきた。それまで、保坂さんとノルシュテインの話などし
たこともなかったんだけれど、ラピュタ阿佐ヶ谷でノルシュテインのアニメが上映さ
れるという知らせで、見に行った。ものすごくよかった。見てる間中、感激で心が震
えるような感じで、絵本で知っていた霧のなかの本物のはりねずみに出会えたような
気持になった。映像も音も細かいすべてが丁寧で、気持よくて、なんだかささやかな
宝物って感じだった。
そして、小学生のころ霧の中で道に迷ったことをまざまざと思い出して、なつかしく
てたまらなくなった。
ユーリ−・ノルシュテインはロシアのアニメーション作家で、絵本として出版されて
いる「きりのなかのはりねずみ」はパッと派手ではないんだけれど、子ども達にはけっ
こう人気があって、絵本リーディングでアンケートをとっても好きな絵本として名前
があがる。わたしは、ロシアの絵本が大好きで、ものすごく大胆で奇想天外なあらす
じだったりするのに、絵がちまちまと神経質な繊細さだったりするラチョフの「てぶ
くろ」とか、ワシリ−エフが絵を描いたプーシキンの「金のさかな」のおかみさんの
顔がグロテスクで気持悪いのに、洋服がけっこうおしゃれだったりとか、デティール
のところどころにになんとも忘れられない物や言葉がでてきたりする。この「きりの
なかのはりねずみ」だったら、川に流されてるはりねずみの耳にバラライカの音がき
こえてくるところとかね。
ところで、ノルシュテインのアニメはすべてが気の遠くなるような細かい手作業で作
られている。「外套」という作品なんて中断した時期も含めると10年もかかってるん
だそう。ひとつの作品にそんなに時間をかけるなんてーと、驚いちゃったんだけれど、
アニメってそういうものだったんだよね。ノルシュテインの作品を見てると、逆に作
られ続けられる膨大なCGのアニメを、大変だともなんとも思わなくなってしまってた
んだなーという自分に、今さらながら、ちょっと気付いた。

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メールマガジン「カンバセイション・ピース vol.16 2005.01.03配信
発行責任者:高瀬 がぶん 編集長:けいと スーパーバイザー:保坂和志
連絡先:0467-24-6573・070-5577-9987
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