○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
        
        メールマガジン:カンバセイション・ピース
                             vol.13 2004.4.07
○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●

                 はじめに
この頃、春になって、花が咲き出すと、それらの名前が気になってしょうがありませ
ん、でもね、こないだ、いろいろ話していて思い出したんだけれど、昔、住んでいた
家の庭におおきな木があって、その木がいったいなんだったのか、まったく覚えてい
ないんだよね、その木だけじゃなくて、園芸好きだった両親が育てていた花の名前も
全然興味がなかったから知らないしね。
その大きな木があった家に住んでいた頃、わたしの母は亡くなったんだけれど、死ん
だ次の年あたりに、帰省する列車で偶然席が近くになった男の子と話したことがあっ
たんだけれど、それがほんとにまったく信じられない程、奇遇だったの。わたしもそ
の子も同じ年で大学生だったんだけれど、なんと話してるうちにわかったんだけれど、
実はその子はわたしが住んでいた家に、その前に住んでいた人だったの。でね、もっ
とすごいのが、実はその子の母親もその家に住んでいて亡くなっていて、もちろん病
気だけれどね、でも、もっともっと怖いのが、その子が言うには、その前に住んでい
た人がその家の大きな木に首をくくって死んだってこと、今おもいだして、書いてる
わたしでも、なんか作り話みたいに思えるけど、ほんとの話です。
全然、ご挨拶らしくないけど、急に書きたくなったので書いちゃいました。(けいと)

◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆もくじ◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆

  ●特別企画:中央大学での講演(2003年11月1日)
        〜小説が立ち上がるとき〜その2(全4回)  
  ●連載『引用集』第6回 「死せる魂」保坂和志
  ●連載:「ねこちゃん話・『副丸の町案内』 vol.05」  まゆ子
  ●連載:「そらめめ」  くま
  ●連載:極楽月記 vol06 「なんで買っちゃったんだ大図鑑(革ジャン編)」
  ●連載:<ひなたBOOKの栞>日本の神話の世界(2):けいと 
  
**************************************
               
                募集します!          
     ・メルマガ版ピナンポ原稿:小説・エッセイ・論評・詩歌など
      枚数は自由(でも1万枚とかはダメよ)
     ・猫遊録掲載ネコ写真jpegでお願いします(3枚まで)    
     ・その他、なにかご意見などありましたら下記までメールを! 
              gabun@k-hosaka.com
  保坂和志公式ホームページ<パンドラの香箱>http://www.k-hosaka.com

**************************************

●特別企画:中央大学での講演(2003年11月1日)
        〜小説が立ち上がるとき〜その2(全4回)
        
保坂:うん。それで、もうひとつが、高橋源一郎、『現代詩手帖』の高橋源一郎の別
冊っていうのが、最近出ていて、その中の僕と高橋さんとの対談の中でも言っている
んだけど、小説っていうのは文字で書かれちゃうから、批評が小説を語れるっていう
誤解をしがちなのね。で、絵とか音楽っていうのは、文字じゃないから、文字による
批評がそれを語れないってことはみんなわかってるわけですよ。音を、音である音楽
を言葉である批評で語りつくすことなんか出来ないっていうのは、みんなまずわかっ
ているわけ。絵だってそうで、あの見た感じっていうのを文字に全部置き換えるのは
不可能だっていう前提でみんな始まっているから、批評をそんなに信じないんだけど。
小説だと文字で書いてあるから、文字による批評で、その小説が語れるっていう、う
っかり間違っちゃうんだよね。ところが、小説っていうのは、批評の言葉と全然違っ
ていて、一種の音楽性があるっていうか、読んでいるときに論理的思考能力だけでは
もちろん全然なくて、小説読むときには、非言語野のほうも使いながら読むんだよね。
言語野だけじゃない。そういうやり方っていうのは、小説の文章っていうのは、批評
の文章とまったく違うものなんですよ。だから、そういうことで言うとやっぱり小説
っていうのは芸術形態だから、音楽や絵にずっと近いの。批評よりも。そういう空間
的な近い遠いって言ってもあんまり意味ないんだけど。だから、そっちの側のものな
のね。小説っていうのは。だから、そこで批評家が小説のことをいろいろ言って、で、
そういう言い方で小説がわかるっていう思い方がおかしい。で、そういう人が、小説
の書き方の本を書いても、やっぱりどうしても抑圧的な書き方になるから。そういう
ことじゃない。それをしたって、全然だめっていう事をもっと分かってもらうのは、
書く人だけじゃなくて、読む人の読み方に大事っていう感じなんですけど。

中河内:じゃあ、小説を批評は語れないっていうことになってくると、だんだん、批
評はあまりいらないっていうことではないんですか。

保坂:あの、ええとね、こう付箋をつけるっていうかさ、ポストイットをつけるって
いうか。やっぱり読むときに、どう読めばいいのかっていうのが。で、批評いらない
って言っても、そういう批評類が一切なくなると、世の中小説しかなくなると、とに
かく読むしかなくなっちゃうわけよ。この読み方、とりあえず、これのどういうとこ
ろに注目して読めばいいのか。読めばいいのかっていうか、注目して読むと面白い、
もっと面白い、もっとずっと面白い、ここに注目しないと全然つまんないとかってい
うことの…。

中河内:指針ていうか、目印みたいなものには、

保坂:はい。

中河内:役立つ。

保坂:必要だと思う。

中河内:必要。

保坂:で、ただそれが、批評家のやり方が、今やっているやり方はチェックする場所
を間違っているんだよね。…これ何の音?

中河内:ベル?

保坂:非常ベルじゃない?すごいまずいことが起きていたりして。…うん、だからい
らないわけではないんですけど。

中河内:じゃあ、もっと、その指摘するポイントが間違っていない、批評がもっと進
んで、小説に追いついてくる可能性っていうのはこれからある?

保坂:可能性っていうのはわかんないんですけど、っていうかそんなに熱心に批評の
ことは考えていないからわかんないんですよね。それは、あなたの望むことでしょ。

中河内:そうですね。で、小説をずっと書いていて、小説の話をちょっとしていない
んで小説の話をしたいと思うのですけれども、ずっと、デビュー作の『プレーンソン
グ』から、この今回今年出た、『カンバセイション・ピース』まで、一貫してですね、
結構、著者の保坂さんとその中に出てくる登場人物の主人公が結構保坂さんと似たよ
うな考えをしていて、結構これ私小説として読まれる可能性もあるのではないのかな
と思うんですけれども、そのへん、私小説に関して、どう考えて…。

保坂:うん、まず、私小説として読まれるっていうことはありますね。かなりね。そ
れとか、私小説の枠組みを使って書いているっていう言われ方もすることあるんだけ
れど。まあ、本人は全然そういう気はないわけで。それで、…こういうときにね、一
人で喋っているとすごい大変になってくるんですよ。横に聞き役がいないと、なんか
一人で喋るっていうのは、やっぱりすごく話がいろいろに飛びにくいことなんですよ
ね。で、なんか、話をいろいろ飛ばす余裕がない。ところが、僕が喋ることのプロだ
ったらそういうことも平気で、外で音が鳴ってたりすることも、なんかこう話題に取
り入れたりしながら喋ることも出来ると思う。で、小説っていうのが…、話ちょっと
それちゃって、最初の質問覚えておいてね。それで、話それちゃって、それた話を小
説の中に入れるっていうか、話がそれてもそのまま小説を続けていけるっていうこと
は、小説書くときにすごく大事なことなんですよ。その、話をそらさないように夾雑
物を全部とっていっちゃうみたいなことをやっぱりみんな良いとしがちなんだけれど、
そうじゃないんだよね。それで、近代文学でも短編を良しとしていた、まあ、近代文
学の人が全員短編しか書かなかったわけじゃないんだけど、近代文学には短編を良し
とする風潮がすごくあって、で、むしろごりごりの私小説みたいな人のほうが、結構
変な長い話書いてたりするんだけれど。で、そのコンパクトに出来上がった短編てい
うのは、夾雑物がなくてさ。で、そういうのを良しとする感じっていうのは、なんか
ね…。で、いまだにやっぱり芥川賞とか、受賞したり候補作に残ったりするのってい
うのは、そういう、何しろ芥川賞っていうのは百枚前後が基本だから、そうすると、
そういうコンパクトに仕上げて、夾雑物がなくて、話が脇にあんまりそれないってい
うのがいいと思っている書き手とか、編集者とかの勢力があるんだけど、それは間違
いってうか、古いっていうか、いびつっていうか、違うんだよね。なんかね、まあと
にかく、形容詞はよくわかんないけどそれは違うんだよね。アナクロでもあるし、な
んかこの、わかっていないんですよ。たとえば70年代の歌謡曲みたいなメロディーが
出てきて、これはいい、いいメロディーだねって、今、この今、そういうメロディー
が、キンキキッズの歌とかそういう風な感じっていうのはだってもう全然古いじゃな
い。カラオケで歌うには便利なんだけれど。全然こんなのって前から聴いたことのあ
るっていう、それだけ。それがああいいねって思う感じっていうような感じなんだよ
ね。で、うん。そういうことなんですよ。話を戻して、その私小説のことなんですけ
ど。

中河内:はい。

保坂:僕の場合もともと、最初この講演て話が来たときに、一人称と三人称の話って
いうことにしようと思ったんですけれども、それは全然解決がつかないってうか、考
えがなかなか進んでいかないんで、今の質問に対する答えもそういう一人称と三人称
にまつわる答えのことなんですけど。僕が小説の中に書く僕とか私っていう一人称は、
世界を見る、周囲を見る、そこにいる人物を見る、フィルターなんですよね。で、私
小説っていうのは、こんな大変な自分を見ろって感じ。僕の小説って言うのは、語り
手の自分、作者によく似た語り手の一人称に注目して欲しいとは小説を読んで思わな
いと思う。で、だいたいその語り手っていうのは苦労をしょっていないし。何かね、
いちばん話題、そういう社会的な意味では話題にする必要もないようなことなので。
そういう人だから、その人、その一人称を通して世界が語られるっていうのは、普通
に人が見ている人の世界との対し方なんだよね。私がまず、まずは私が見なければこ
の風景っていうのはないわけでしょ。

中河内:はい。

保坂:っていうことなんですよ。それが、言えない。何かそれ以上にこうわかりやす
いように言えないんだよね。だから、映画を映している時に全部レンズを通して映し
てるわけでしょ。

中河内:はい。

保坂:とか、全部それはスクリーンに映るわけだから。それ、だから、レンズでもス
クリーンでもどっちでもいいんだけれど、まあ一応レンズのほうがいいかなあ。レン
ズがなければ、映画っていうのは起こらないじゃん。作ることができないじゃん。私
っていうのはレンズみたいな感じなの。

中河内:それは一人称の場合のことですよね。

保坂:まあ、カメラってことですよ。

中河内:うん、カメラ。

保坂:うん、僕が書いている一人称っていうのはそういうカメラみたいなものなので。
だから、それは、みんな生きているときもカメラみたいなものなんですよ、ふつう。
私っていうのは。誰でも。

中河内:はい。

保坂:ところが、最近はそのカメラの不調のことばっかり書くわけよ。つまり、引き
こもりとか、自傷行為とか。だから私というカメラが壊れちゃっている話ばっかり書
くわけ。

中河内:そのカメラに焦点が合っちゃっている。

保坂:そう。でもそんなことやってたら、カメラが世界を写すことできないじゃん。
そっちのほうが大事なのよ。でさ、どっちが大事っていって、私じゃなくて、世界の
ほうが大事に決まってるんだよね。っていうことは、僕はそうなっちゃったんだけど。
私と世界があって、世界のほうが大事に決まってるって、その決まってるっていうこ
とはなかなか承服しがたい人はたくさんいると思うんだけど。
でもね、たとえば骨董があったときに、骨董で、なんかすごい骨董いろいろあるじゃ
ない。あの、古伊万里とか。そういうのってのは、持ち主よりも骨董のほうが大事な
んだよね。一千万とか二千万する骨董っていうのは。そりゃ持ち主だって死ねば生命
保険で一億円入るかもしれないけど、でもお金で換算できない大事なものがあるわけ。
で、だから番町皿屋敷のお岩(訂:お菊−講演中ずっと「お菊さん」を「お岩さん」
と言ってしまいました)さんは、皿一枚割っちゃったわけだけど、お岩(訂:お菊)
さんが割った皿ってのは鍋島藩のすごいいい皿なんだよね。それで、殿様に斬られち
ゃったわけだけど、そりゃ斬られてしょうがないものを割ったわけ。いやほんとに。
そういうことなの。で、お岩(訂:お菊)さんてのは、そこで自分の犯した過失に気
付かずに、斬られたことを恨めしく思うような自我の人なんだよね。だからいろいろ
ある話のなかで、お岩(訂:お菊)さんが近代まで生き延びたの。で、ほんとは鍋島
藩のほうが大事なんだよ。ていうか、その皿のほうが大事なんだよ。いやほんとに。
いやほんとに。笑いごとじゃなくて、ほんとにそうなの。で、その骨董持つ人っての
は、私が生きているあいだだけ、これを預からせていただく、で、これを次に受け渡
すっていう、そういう感じなの。で、そういうときの私のことなんですよね。僕が一
人称で使う「僕」とか「私」っていうのは。
で、ただし、そうは言いながらも、あの、なんかやっぱり、世界っていうのは科学的
に記述しただけでは、「ただ在る」ということと「在るが立ちあがる」というまさに
今日のタイトルの「小説が立ちあがるとき」の、その立ち上がる感じっていうのは、
一応ハイデガーが使うボキャブラリーなんですけど、その世界が立ち上がるとかって
感じ。で、ただ記述しても、立ち上がることはやっぱりこう、立ち上がってる感じっ
ていうのはしないんで。こう、あるバイアスをかける必要っていうのは、人間にはど
うしてもある気はするんだ。カメラが、ただほんとにこの普通に肉眼で見ているよう
なカメラじゃなくて、なんか少しだけゆがみが入っていたり、なんかフィルターをか
けたりすることによって、その写そうとして写している対象がもっと感じやすくなる
ことってあるじゃん。で、そういう意味で『カンバセイション・ピース』の前の『プ
レーンソング』『草の上の朝食』『季節の記憶』ってきている一人称ってのはもっと
ニュートラルな、そのできるだけ私がないような語り手に近かったんだけど、今回の
私っていうのはもともと死んだ猫のチャーちゃんをずっと思っている、ということは、
もうそれだけこの人が語る世界っていうのは、バイアスがかかっているわけだから、
それはそうしないと、「ただ在る」っていう世界からぐうっと立ち上がる感じってい
うのはでてこない、からそうしたんじゃなくて、結果そうなったんですよ。これが小
説家なんだよね。今回はなにしろ僕自身にとって死んだ猫のチャーちゃんていうのは
圧倒的に大事な問題なんで、それを主人公にしてみたら、なんというか、世界をぐう
っと立ち上げるしかなかったみたいな感じ。ただニュートラルに写し出す世界ってい
うものでは足りないっていうような感じがしたということなんですけど。だから、つ
まり、話を戻すと私小説的な一人称では全然ないんですよね。
それは、僕が西武百貨店でカルチャーセンターで働いてたときに、中国人留学生が来
まして、彼がねぇ、まず電話でしゃべっていれば日本人じゃないとは誰も思わないぐ
らい、日本語がぺらぺら。もう語学の天才ですね。それで、僕より2才年上で91年
かなんかに来ていたから、91年って僕が35才で、彼が37才ぐらいってことなのかな。
中国の大学出て、東大の大学院いって中大のドクターコースきたって人なの。それで、
野間宏をやりつつ、坂口安吾と宇野浩二か、主に。で、とにかく語学の天才なんだけ
ど、もうすごっく頭悪いの(笑)。完成された自動翻訳機のように、語学は天才なんだ
けど、思考力ゼロに近い。だから彼なんかは、僕の『プレーンソング』読んで、やっ
ぱり一人称が語り手のものは私小説ってもうそれだけしかないの。その考え方に近い
んだよね。私小説って実は三人称もたくさんあるじゃん。実際にあった主人公を三人
称にしているのもあって、それも私小説なんだよね。だから、そこでやっぱり考えな
きゃいけないことは、「この人は何を書こうとしているのか」っていうことなんだよね。
だから形式じゃないんだよ。

中河内:人称の問題ではない。

保坂:全然違うんだよ。だいたい「私小説」っていうネーミングが誤解のもとだった
んですよね、つまり。「自意識小説」とかさ、そういうふうにすればよかったんです
ね。

中河内:…話をまとめますと、保坂和志的一人称っていうのは、『プレーンソング』
から『季節の記憶』ぐらいまではカメラ、フィルターみたいなもので、世界をみる道
具としてあったけど、『カンバセイション・ピース』でようやくそのバイアスという
か、自分にとって大事なチャーちゃんの死というのがあって、変化があったというこ
とですよね。今『カンバセイション・ピース』から『季節の記憶』とかを振り返って
みると『季節の記憶』の一人称というのはどうですか?物足りないとか…。

保坂:ていうかねぇ、書いていること事体が物足りない。あそこで書き終わったとき
に考えたんだけど、『季節の記憶』というのは宇宙論のことだとか科学的なことをか
なり入れたんだけど、それであのときの気持ちというのは、実際に見たり聞いたりす
る経験が可能な世界だけが人の生きている世界ではなくて、みんな経験できないこと
なのに、地球は丸いだとか毎日同じ月がでてきてるだとか、民族の神話によっては月
も太陽もそうだけど、出て沈めば一度死ぬんだよね。また別のが出てくるって考え方
だって可能なわけだよ。その連続性っていうのは誰も確かめたことないわけだから。
そういう確かめたことないことがものすごくたくさんあって、それを自分でわかって
いるかのようにしゃべるというのが人間だっていう、その二つが共存している、って
いうような感じの小説にしたかったんだけど、あそこで二つが共存してるっていうか、
水と油のようになっていて、その連絡のつけ方をどうするのか、っていうことまでは
あの小説のなかでは考えなかったじゃん、ていうことに気づいて、それで今度はそう
いう連絡のつけ方も考えられるようなものを目指して書こうというつもりはあった。

中河内:『カンバセイション・ピース』を書くときに。

保坂:はい。

中河内:三人称の小説というのも『残響/コーリング』で書かれてますよね?書いて
みて何か違ったこととかってありましたか?いま変わらないっておっしゃってました
けど。

保坂:うーんと…違うっていえば書いているときの感じはすごく違うんですけど…。

中河内:便利だとか?

保坂:いや、便利、不便ていうのはね、どっちも同じだけ大変といえば大変なんで。
なんというか、メディア、手法としてどっちが優れているとかはあまり思わない。と
いうか『残響』書き上げたのが96年の7月なんで、それからもう7年も経つでしょ。そ
れっきり三人称ていうものを書いてないんで、はっきりした実感てでてこないんです
よね。
次のどうしようか、というのはまだ一人称/三人称というのは決めてないんですけど。
ついでだから、次のどうしようかっていうのでちょっと考えているのが、カラスの話
を書くわけではないのだけれど、カラスっていうのはすごく知能が高いって言われて
るんだけど、確かにやることみてると、記憶力はいいし、パターン認識も高くて、や
っぱりうちの猫とか外の猫たちよりも頭いいかもしれない、いいんだろうな、と感じ
ざるをえないときはたくさんあるんだけど、でもカラスは所詮カラス、ていうかさ、
人間を脅かすほどの存在にはならない。知性の面でね。ならないんだけど、世の中で
もともとはすごく素質としては頭がいいのに、向上心がなかったがために、それが十
全に開花しなかったっていうことってあるじゃん。ありますよね?あると思うんだけ
ど。それとか、代々職人の家庭に育っちゃって、学校もちゃんと行かないから、大学
にも行かずに、でもほんと言って素質としては湯川秀樹まではいかないけど、小柴な
んとかよりは頭良かった、ぐらいの人はたくさんいると思うんですよ。島津製作所の
田中なんとかさんよりは頭良かったっていうような人は結構いると思うんだけど。た
いしたことないと思うんだよね、あのレベルの人はね。そういうならなかったものと
か、実現しなかったものっていうのが何なのかっていうこと。

中河内:もし実現していたら、とかではなくて。

保坂:全然。世の中っていうのはそういう実現しないものだけに囲まれてるんだって
いう。でも、だから、でももだからもへったくれもないんだけど、接続詞すらそこに
でてこないんだけど、世界っていうのは実現しなかったものだらけなんだ、ていうよ
うな感じの小説、みたいな(笑)。だからそれは、絶対、書いてそれを読むまでは誰も
そういうことをしみじみと感じることはできない。はぁ、「こういうものなのか」っ
ていう。「全然違ったじゃん」ていう。

中河内:カラスの話とは?

保坂:カラスっていうのは向上心がないがために、あんなことしてるわけで、カラス
に向上心があったら、向上心っていうのがたとえば注射できたら、なんか凄いことに
なっちゃったかもね、というような…カラスはカラスとして何かこう、何か実現して
ないのかもしれない(笑)。

中河内:大変なことにならないんですか?

************************************************END*************************
●連載『引用集』第6回 「死せる魂」保坂和志

 今回はゴーゴリの『死せる魂』です。
 『死せる魂』は岩波文庫から何分冊にも別れて出ていて、アマゾンで検索すると、
何冊かが品切れで、まるまる通しては読めない感じですが、もし飛び飛びでしか入手
できなかったとしても、それでも読む価値があるのが名作というものです。最初から
最後まで一冊をきれいに通して読みたい、という気持ちはまあ誰でもそうでしょうが、小説というのは飛び飛びに読んでもけっこう楽しめるものです。たとえば、深夜にテレビをつけたら映画をやっていた、として、その映画のカメラの強度に引き込まれて、そこからだけでも見てしまう、というのが映画の力で(もちろんいい映画だけだけど)、小説もそれと同じことです。
 と言いつつ、これに書くくらいだから私は最初から最後まで通して読みました。私
が読んだのは岩波文庫でなく、近所の古本屋の店頭のワゴンの一冊100円で売られ
ていた昔の文学全集です。いまはアマゾンの検索がすごく楽だけど、アマゾンだって
ないときにはないわけで、そういう意味ではアマゾンも入手ルートのひとつにすぎま
せん。古本屋にはいろいろ特性があって、それぞれの店の特性を押さえておけば、有
力な入手ルートになりえます。それが近所、つまり散歩コースにあったら言うことな
し。それでもなくて、でもやっぱりどうしても読みたいと言うんだったら、図書館に
行けばいい。『死せる魂』は筑摩世界文学全集に入っています。
 結局、そのようにして複数の入手ルートを作り、それを束ねるのは機械でなく人間
の頭で、そういう束ねた情報群をどれだけ持っているかが、その人の主体に関わるわ
けです。古本にかぎればたいした話ではないけれど、すべて結局は、サーチエンジン
でなくその人の頭の中にある検索力・入手力にかかっているんですね。この「主体」
の問題は、けっこう重要で、私のエッセイ集『言葉の外へ』の19ページ「「記憶の
外部化」と思考の衰退」でも触れてあります。というか、そこから私の「主体」に関
する考えが始まったといっても過言ではないかもしれない。


 さて、『死せる魂』ですが、「死せる魂」とはロシア語で「農奴」を指すそうです。
この「引用集」は、絶版や入手困難な本を取り上げるのがねらいではないんだけど、
なぜかそうなってしまう。いまの日本はいい小説をよっぽど出版していないというこ
となんでしょう。出版社の人たちは、もう自分の仕事を「文化的」とか何とか言って、誇りを持つべきではないと思う。管理職になると、「学歴自慢のセクハラ親爺」になるみたいだし。セクハラはともかく、学歴自慢はタチが悪い。結局、そういう人たちはもうそんなプライドでしか生きていられないわけで、自分がいかに文学を読めないかということを認識しようとしない。自分が一番ダメな読者なくせして、一般読者を見下ろしていて、「おれに面白くないんだから、こんな小説は誰も面白がらないさ」などと思っている。だから、違うんだってば、一番最低の読者があなたなんだよ。
 それはともかく、『死せる魂』は、主人公のチーチコフといういかがわしい(けど
憎めない)男が、死んだ農奴の名簿を買い集める話。それを買い集めてどうやると金
が儲かる仕組みになっていたか、忘れてしまったけど(しかし、それはすごく簡単な
カラクリで、そんなことを思い出せないとは、記憶力が悪くなったもんだなあ、と痛
感します)、とにかく地方に行って、名士のふりをして訪ねる先々で手厚いもてなし
を受けつつ、死んだ農奴たちを名簿上で買い集めて回るという話です。
 私はこれを『カンバセイション・ピース』を書いている最中も最中、『カンバセイ
ション・ピース』の小説の核が決まる最も大事な時期に読んでいたので、『死せる魂』は「『カンバセイション・ピース』の魂」かもしれない。という裏話は、本邦初公開。
私の好きな小説だから、例によって激しい盛り上がりはないけれど、張り詰める手前
で我慢した緊張感みたいなものはずうっとあって、まあとにかく読んでて楽しかった
ですよ。
 いつもは引用箇所のページ数を出すのですが、今回の元本はあまりに古いので(1
963年)省略します。引用も細切れでなく、けっこう大きなブロックなので、ふた
つだけにしました。それから引用した箇所は、途中、1ヶ所も段落がないのですが、
全然ないのは読みにくいだろうから、適宜段落を入れました。翻訳は中村融。


(引用1) さてこれらの風評や、意見や、噂がどうした風の吹き回しか、一番こた
えたのは、気の毒にも例の判事だった。その衝撃があまりにもはげしかったために彼
は帰宅してからもさんざん考えに考えたあげくに、突然、いわゆる何ということなし
に、ぽっくり死んでしまったのである。脳溢血でも起こしたか、それとも何か別の発
作にでも襲われたのか、ともかく坐ったなりの姿で、そのまま仰向けざまに椅子から
どさりところげ落ちてしまったのだった。はたの者たちが手をうって、「さても一大
事!」と叫んだのも当然で、早速、放血をさせようと医者を迎えにやったが、なおよ
く見れば検事は既に魂の抜けた一個の亡骸となっていた。
 ここにおいて初めて一同は、生来つつましやかな性質(たち)だったのでついぞそ
んなけぶりも見せなかったが、故人にもやはり魂があったのだと悼(いた)ましい気
持ちで気がついた次第だった。いずれにせよ、死の出現ということは小人偉人の区別
なくだれにとっても恐ろしいものだった。ついこの間までピンピンしていて、ホイス
トをやったり、いろんな書類に署名したり、あの毛虫眉毛やパチクリ眼(まなこ)の
顔で役人仲間の間に姿を見せていた男が、今ははや卓上に横臥したまま、その左の目
ももはやまったくまたたかなくなってしまい、ただ眉毛だけはなにか物問いたげな表
情でまだ釣り上がっているだけだった。
 故人は果たして何を問いたがっているのだろうか、なぜ自分は死んだか、あるいは
なぜ生きていたのか、ということだろうか−−これは神さまにしかわからない。


(引用2)(以下は、主人公のチーチコフがもらってきた農奴たちの名簿を書き写し
ているところ。ここでチーチコフに訪れる感慨がなんともいい。)
 そして早速、仕事にとりかかった。まず手文庫を前にして、ちょうど審理に出向い
て来た清廉な地方裁判所の判事が前菜に近寄りながら採み手をする時と同じような満
足の色を浮かべて揉み手をすると、直ちにそこから書類を取り出した。
 彼はすべてを遅滞なく少しも早く片づけてしまいたかった。代書人などに一文でも
払う気はなかったので、証書の文案作成も、浄書も、写しをとるのも、みんな自分で
やることにした。書式にはすっかり通じていた。まず大きな字で「一千八百××年」
と思いきって書き、それからそのあとに小さな字で「地主何某」と記し、必要事項を
残らず型通りに認(したた)めた。二時間で全部がすっかりでき上がった。ついでそ
の書類を一瞥し、百姓の名前を眺めやった。
 いずれもかつてはまさしく百姓として手仕事をしたり、田畑を耕したり、酔っぱら
ったり、馬車引きをしたり、旦那の自をごまかしたり、そうかと思えば、ただの地道
な百姓だったりした連中なのだが、彼はふと奇妙な、自分でもわけのわからぬ感情に
支配されてしまった。どの名簿もその一つ一つがなにか特殊性をもっているようで、
そのために個々の百姓までが独自の性格を得ているふうに思われたのである。
 カローボチカに属していた百姓は、そのほとんどが注釈や縛名(あだな)をいただ
いていた。プリューシキンの名簿には字句の簡潔が目立ち、なかには名前と父称の頭
文字だけを並べて、あとは点を二つ打ってあるのもあった。サバケーヴィチの目録は、類のない充実ぶりと細かさで驚嘆させ、百姓の性質などにも一つとして書き洩らしはなく、「指物(さしもの)をよくす」とか「物わかりよく、酒を嗜(たしな)まず」などと書き添えてあった。父はだれ、母はだれ、両親の行状はどう、ということまで詳しく記されてあった、が、ただフェドートフとかいう男の場合だけは「父親不詳にして下婢(かひ)カピトリーナより生まれたるも、性善良にして盗癖なし」と書かれてあった。
 これらの詳細な記入事項は一種特別な新鮮味を与え、さながら百姓どもはつい昨日
までも生きていたように思えるのだった。長いこと彼らの名前に目をさらしながら、
彼はしんみりした気持ちになっていたが、やがて溜息をつくと、こんなふうに呟いた、−−《おい、おっさんたち、ずいぶんぎっしり詰めこまれているね! 一体、お前さんたちは、生涯何をやって通ったんだね! どうやって身すぎ世すぎをして来たんだい?》
 そのうちに彼の目はふとある一つの名前の上にとまった。それは往年、女地主カロ
ーボチカに属していた例のピョートル・サヴェーリエフ・ニェウヴァジャイ・カルイ
トという長ったらしい名前だった。彼はまたもや呟かずにはいられなくなった、−−
《こりやまた、なんて長ったらしい名前なんだ、行いっぱいにひろがってやがる? 
お前は職人だったのか、それともただの百姓か! 死にざまはどんなだったい? 飲
み屋でくたばったのか、それとも道ばたで寝ているところをうかつな荷馬車にでも轢
(ひ)かれたのかい? −−プロープカ・スチェパン、大工、典型的なる酒嫌い、か。
−−ああ、こいつだな、スチェパン・プロープカっていうのは。サバケーヴィチが近
衛にお誂(あつら)え向きだなどと言ったあの勇士だな! きっとお前は斧を腰にぶ
つ込み、長靴をを肩にしょって、県下を隈なくうろつき、一銭二銭のパンや干魚で腹
をふさぎ、家ヘ帰る時は銀貨で百ルーブリずつも財布の中に貯めこんで行ったんだろ
う、あるいは紙幣の一枚ぐらいはきれのズボンヘ縫い込むか、長靴の中へ押し込んで
いたかもしれない。だがお前は一体どこで死んだんだ? 大きな儲けをしようとして
教会の丸屋根の近くまで上ったんじゃないのかい。そして十字架へでもよじ登ったと
ころを、そこの横木から足を滑らせて地面ヘ墜落したんだろう。で、そばに居合わせ
たミヘイ小父(おじ)とか何とかいうのが首筋をなでて「ちょっ、ワーニャ、へまな
ことをしゃがるな!」とでも言って、そのまま今度は自分が縄を体にくくりつけてお
前の身代わりに登って行ったんだろう。−−マクシム・チェリャートニコフ、靴屋な
り、か。へえ、靴屋かい! 「靴屋みたいに酔っ払う」って諺にも言ってらあな。
知ってるよ、知ってるともお前のことなら。望みとあらばお前の素姓を言って聞かそ
うか。お前はドイツ人の親方のところで仕込まれたんだが、この親方はお前たちにも
みんな同じものを食わせ、怠けると皮帯でひっぱたくし、街ヘ悪遊びなんぞにもやら
なかった。おかげで(以下略)

************************************************END*************************

●連載:「ねこちゃん話・『副丸の町案内』 vol.05」  まゆ子
   こちらからどうぞ
       ↓
http://www.k-hosaka.com/nekobana/05/nekobana5.html

************************************************END*************************

●連載:「そらめめ」  くま
   こちらからどうぞ
       ↓
http://www.alles.or.jp/ ̄takako9/sorameme040407/sorameme_top.html

*************************************************END************************

●連載:極楽月記 vol06 なんで買っちゃったんだ大図鑑
                          (革ジャン編)がぶん@@

ずっと前に稲村月記でスカジャン編をやったけど、あれから幾星霜、今じゃすっかり
革ジャンに凝ってまして、それというのも去年の春にヤマハのドラッグスター(40
0cc)を買ったせいで、やっぱりバイクに乗るなら革ジャンで決めなきゃ話になら
ないと、見掛け倒しがコンセプトだった私にしてみれば当然のなりゆきでそうなった
次第であります。それならやっぱヤフオクしかないってわけで、入札するする落札す
るする、その代わり、買って届いてその日のうちに出品するするで、そりゃもう大い
そがしの日々。結局損して手放すこともあるけれど、案外儲かっちゃたりすることも
あったりして、これは革ジャンに凝ってるというよりヤフオクにハマッてるといった
ほうが妥当のような気もするわけです。
というわけで、ここに載っている革ジャンあれこれも手元に残ってるのもあれば既に
出品して売れちゃったものもあるという次第。けっこう高いものもありーのクズジャ
ンもありーので、ほんとにこうして並べてみるとけっこうな数で、まったくどうして!
 がぶんはけっこうなばかだということが分かりますね。

            写真は ↓ ここで
            
http://www.k-hosaka.com/gokuraku/gokuraku06/gokuraku06.html

*************************************************END************************

●連載:<ひなたBOOKの栞>  けいと
日本の神話の世界(2)

前回書いた、伊邪那岐が黄泉の国(よみのくに)から常世の国(とこよのくに)にも
どってきて禊ぎ(みそぎ)をおこなったといわれている池に行ってきました。そこは、
宮崎県の一ツ葉海岸沿いの阿波岐原町(あわぎはらちょう)にありました。つぶれて
しまったフェニックスリゾート「シーガイア」のすぐ近くにあるんだけど、もともと
そこらへん一帯は、松林の樹海が広がってて、長い間、自然そのままに風光明媚な場
所だったらしいのですが、シーガイアのせいで、すっかり、人工的に整備された景色
になっていました。ただ、伊邪那岐、伊邪那美を祀る江田神社からつづく禊池までの
道の雰囲気はやはり、ひとっこひとりいなかったせいか、ちょっと神秘的な感じで、
池そのものは、睡蓮がびっちり群生してるので、「こんなどろどろしたところで、体
あらってアマテラスオオミカミが産まれたの?」と次女が驚いた程、きたなかったけ
ど、私自身はなぜかぞくぞくするほど感動しちゃった。古事記にも、祝詞の中にも
「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に」という言葉が出てくるんだけど、この地名が、ここらへんには残っていて、橘は、宮崎市街地に「橘通り」「橘橋」というのがあり、鶴の島という所に移された小戸神社もこの池のそばにあったというし、ホテルで買った地元の「かたりベの会」で発行している薄い小冊子によると橘三喜の「一の宮巡詣記」の古文書にも小戸の地名が出てくるということで、古くからこの地名がここらへんで使われていたことはたしかです。

今回たずねた鹿児島県から宮崎にかけては、それこそ、「神話の里」として、観光地
化されているんだけれど、古事記に書かれている天照大御神の孫である邇邇芸命(に
にぎのみこと)が地上界におりてきたという天孫降臨の地、高千穂が鹿児島県の霧島
にある高千穂峰だという説と、宮崎県の西臼杵群高千穂町だという説があり、たしか
に行ってみると、どちらでも、「天孫降臨の地へようこそ」って文字がいたるところ
にありました。わたしはまず、鹿児島県霧島のほうから先に行きました。指宿(いぶ
すき)で墓参りする予定もあったので。
鹿児島の指宿には、夫の先祖の墓があるんだけれど、結婚してから今までに一度しか
行ったことがない、というのも、夫の父方の祖父母はもうはるか昔、父がこどものこ
ろに亡くなっていて、親戚も2.3人住んでいるだけで、夫の両親もそこから離れて暮
らしているし、なにより指宿が南の果てにあって、なかなか行きにくい場所というこ
とで、不義理をしてしまっていた。ところで、夫の名字はとてもめずらしい名前で、
こっちでみかけることはほとんどなく、たいてい「変わった名前ですね」と言われる
のだが、先祖の墓のまわりには、その名前の墓が、5.6個あったり、街でみかけた法
律事務所の立て看板がおなじ名字だったりして、けっこうポピュラーな感じでちょっ
とおかしな感じでした。
ちょうど霧島に訪れた日は全国的にあったかくなった日で、もう、初夏の陽気で太陽
もまぶしく、からからに晴れて気持のいいそよ風がふいていました。そのうえ、桜は
満開!これでもか、これでもかというように咲き誇っている桜は、たとえば鎌倉の段
葛の桜並木のすごさとも、どこかが違ってるようで、特に、空港からレンタカーで、
市街地にいけばいくほど、山裾や民家の脇にたっている桜の木の枝振りとかが絶妙に
バランス悪かったりして、大きな化け物が両腕を広げているように見えたりしてすご
かった。
霧島では霧島神宮、霧島東神社、狭野神社と、廻りました。
それらの神社から見える高千穂峰の頂上の石積みのてっぺんに、邇邇芸命が天上の高
天原から天照大御神にさずかってもってきたという「天の逆鉾」がつきたっていて、
これは霧島東神社の神宝とされているんだそうです。これは一巻にでてきた「天の沼
矛」を逆さにつきさしているので「天の逆鉾」と呼ばれているんだけれど、実際には、いったいこんな場所に、誰がいつどうやってさしたんだろうと思って、神主さんに聞いてみたら「実は、なにもかもよくわかってないんですよね、いつごろからささっているのかも定かではなくて、青銅製だと言われているんですが、それも、近頃、調べたところによると、どうもそうでもないらしく、はっきりしないんですよ」とのこと。
ここは、修験道の霊場として有名な場所らしく、そこに行くまでの細い道も、杉木立
が連綿と続いていてミステリアスな気分になった。
霧島の西を守る霧島神宮は御祭神が邇邇芸命、西暦540年から続く九州を代表する大
きな神社で、さすがにおごそかなで立派な雰囲気。参拝の栞には、伊邪那岐、伊邪那
美から昭和天皇までの系譜が書かれていて、神話なのか、史実なのか、わかんなくなってしまうような説明つき。
宮崎県西臼杵郡の高千穂町にむかったのは九州についてから二日目の夜で、高千穂峡
につくあたりで、すごい雨になり、それでなくても、灯りひとつないくねくねの山道
だったので大変だったけど、途中で道を横切るタヌキに出会いました。今まで見たタ
ヌキの中でも、いっとう貧弱なからだつきで、ぼろぼろにやせこけて、猫背でとろと
ろと道をわたっていくのが、なんともいえず、愛嬌があったなあ(それで、結局、タ
ヌキのせいではないけれど、遅くなってしまって高千穂神社で見たかった神楽が見れ
なかったのよ、阿蘇の秋嶋さん、またこんど、行こうと本気で思ってます)。
第二巻、あまのいわとでは「伊邪那岐の神は三人の子、天照(あまてらす)と月読
(つきよみ)須佐之男(すさのお)にそれぞれ高天原と夜の国と海上を治めさせたが、末の子須佐之男は、すなおにいいつけを守るような神ではなかった」というところからはじまります。それで、須佐之男のあらくれぶりはたいそうひどくて、たとえば、気に入らぬことがあると、泣き叫んで地団駄をふんだり、山をゆすって木をからしたり、屎をまき散らしたり、皮を剥いだ馬を、はたおり女のところに投げ込んでおどろかせて、殺してしまったりしたので、怒った天照は天の岩戸という洞窟に身を隠してとびらを閉ざしてしまうのです。全く、神様と言っても、ほんとに、神聖さとはまったくほど遠い感じの須佐之男だけど、後にでてくるヤマトタケルや、他の男神はほんとに野蛮。
天照は日の神様なので、岩戸に隠れて、世の中は真っ暗やみになってしまうの。それ
で、困り果てた高天原の神様達は天安河原(あまのやすかわら)に集まって相談する。
そして、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が進み出て、にわとりの声にあわせて、おがたまの木の枝を振りながら踊り始めるのね。宇受売が踊り始めてだんだん興がのってきて、そのうち、身にまとった服までぬいでしまう、古事記ではここの場面は、「胸乳掛き出で裳緒(もひも)を番登(ほと)に忍し垂れき」と書かれていて、結局、御陰部までだして見せちゃうの、で、見ていた神様たちは大喜びで大笑い、そこで、いったいなにやってるのかしらーーと不思議に思った天照がちょこっと、岩戸を開けて覗き見た時に、一気に力持ちの天手力男神(あめのたぢからおのかみ)が天照の手をとって引き出してしまう、それで、もとのように世の中があかるくなったという話。
須佐之男はどうしたかというと、手足の爪をひきぬかれて地上に降ろされることになったのね、地上でたどりついたところが、なんと出雲の国、ここで、やまたのおろち退治する話はつぎの三巻です。つまり、やまたのおろち退治をしたのは、このあらくれものの須佐之男だったんですよ。
ところで、この話にでてくる天の岩戸は実際あるんだけど、高千穂町の天の岩戸神社
の対岸の絶壁に洞窟があって、そこは、この神社の御神体で神官でさえ入れない御神
域なのです。神主さんに頼むと、神社の中に入れてもらえて、その洞窟を対岸から見
ることはできるんだけど、その岩戸は、入っちゃ行けないというより、絶対に人間に
は行くことができないような断崖絶壁にあって、もう、下を見るのも恐ろしいほどで
軽い高所恐怖症気味のわたしなんか、ぶるぶるふるえちゃうほどで、たぶん、がぶん
さんは大丈夫だけど、ほさかさんもだめだと思う。神社の境内にはりっぱな「おがた
まの木」があって、はじめて見たんだけど、ちょうど実もたわわになっていて、これ
を宇受売が持って踊ったのね、とうれしくなりました。わたしは、宇受売が好き。赤
羽末吉の絵の宇受売も陽気で可愛い表情で、いいのです。
(高千穂の話はもうちょっとつづく)
___________________________END_________
メールマガジン「カンバセイション・ピース vol.13 2004.4.07配信
発行責任者:高瀬 がぶん 編集長:けいと スーパーバイザー:保坂和志
連絡先:0467-24-6573・070-5577-9987
_________________ALL END_________________

-【まぐまぐ!からのお知らせ】-------------------------------------------
新入学・新入社でメールアドレスが変更になった方へ。メールマガジン登録ア
ドレスの一括変更は> http://cgi.mag2.com/cgi-bin/w/mag?id=728_040408
------------------------------------------------------------------------


 top