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        メールマガジン:カンバセイション・ピース
                             vol.12 2004.3.10
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                 はじめに
                  
配信が遅くなりました。しかも、今回は「配信」ですらなく、ホームページ上での掲
出です。個人のパソコンはしょっちゅうトラブルがあって、2月末に管理者がぶんの
パソコンが壊れてしまって、中にあったメルマガの配信リストが全部消滅してしまっ
たというわけです。すいません。

 これから情報はさらにコンピュータに集中されていくことになるのでしょうが、定
 期的にかぶんに襲いかかるトラブルが、大きなコンピュータに起きないのか、私は
 半分不安、半分興味津々です。私は、といえば、小説を手書きに戻し、現在「新潮」
 で連載している「小説をめぐって」というエッセイも手書きでやっています。メー
 ルなんかができるようになると、急に筆(?)マメになる人がいっぱいいますけど、
 なんだかそれも変で、つまらないことでもいちいちメールを送ったりしていると、
 2日で3通のペースでストーカーから手紙や絵葉書が送られてきていたのを思い出
 してしまいます。

 「本が届いたよ」とか「ワカメが届いたよ」という簡単で事務的な報告ならわかる
 けど(ワカメは鎌倉名産)、「今日、お尻に1本、茶色い毛が伸びているのを見つ
 けました」みたいなわけのわからないメールは、「なんだかなあ…」。そんなメー
 が届いたことはありませんが。


 ところで3月です。3月といえば確定申告で、私は1999年まで住民票を鎌倉に
 置きっぱなしにしていたので、確定申告は鎌倉の税務署でしていて、だいたい昼頃
 について、2時か3時に終わるのですが、その帰りに江ノ電の和田塚か稲村ガ崎の
 駅のホームのベンチにすわって、海ではなくて山の方の薄曇りの空を、うらうら暖
 かい空気の中でぼんやり眺めているのが、なんともいえない幸福な時間でした。

 江ノ電の駅で山の方がよく見えるところはほかにどこかわからないけど(鵠沼あた
 りはいいのかもしれない)、近くの人はぜひ一度やってみてください。「一度」と
 いうのは、15分から30分ぐらい、という意味です。(ほさか)

◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆もくじ◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆
  ●特別企画:中央大学での講演(2003年11月1日)
        〜小説が立ち上がるとき〜その1(全4回)  
  ●連載『引用集』第5回 「子どもたち」 保坂和志
  ●連載:「ねこちゃん話・『はじめての友達』 vol.04」  まゆ子
  ●連載:「ミニラボ」vol.05:ミワノ
  ●連載:「そらめめ」  くま
  ●連載:極楽月記 vol05 「梅は咲いたか、なんだまだかいな」がぶん@@
  ●連載:<ひなたBOOKの栞>日本の神話の世界 (1) :けいと 
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                募集します!          
     ・メルマガ版ピナンポ原稿:小説・エッセイ・論評・詩歌など
      枚数は自由(でも1万枚とかはダメよ)
     ・猫遊録掲載ネコ写真jpegでお願いします(3枚まで)    
     ・その他、なにかご意見などありましたら下記までメールを! 
              gabun@k-hosaka.com
  保坂和志公式ホームページ<パンっsドラの香箱>http://www.k-hosaka.com

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●特別企画:中央大学での講演(2003年11月1日)
        〜小説が立ち上がるとき〜その1(全4回)
        
司会:ただいまより保坂和志講演会「小説が立ち上がるとき」を始めたいと思います。
講師の保坂先生について社会的形容詞で説明させていただきます。

保坂先生は90年、『プレーンソング』でデビューされ、93年、『草の上の朝食』で野
間文芸新人賞、95年、『この人の閾』で芥川賞、97年、『季節の記憶』で平林たい子
文学賞、谷崎潤一郎賞を受賞されました。そして、最近では、2003年7月に『カンバ
セイション・ピース』、10月に『書きあぐねている人のための小説入門』を出版され
ました。

本日は「小説が立ち上がるとき」と題しまして保坂先生にとって小説を小説たらしめ
ているものは何か、などについて講演をしていただきます。では、よろしくお願いし
ます。


保坂:保坂です。

中河内(インタビュアー):今日、インタビュー形式で講演を進めていってほしいと
いう保坂さんの意向によって僕がインタビュー形式で進めていきたいと思うんですけ
れども。

まず、今週ちょうどでたんですけれども、『書きあぐねている人のための小説入門』
という形で、小説作法の本ですね、いわゆるそういうものを出版されたんですけども、
そこで、今までいっぱい小説作法の本ていうのはでてるわけじゃないですか。そこで、
かなりテクニックに偏った小説作法の本が多かったと思うんですけれども、ここでは、
小説はテクニックではない、ということをかなり強く主張されているんですけれども。

保坂:まず、インタビュー形式にしてもらった理由から言いますと、僕の話はこまぎ
れ、断片的になるんで、一人でしゃべっていると、次のことから次の話題に移るとき
に間が空くっていうか、すごく飛躍するっていうか、断片だから脈絡がなくなっちゃ
うんで。インタビュー形式にすればそこが回避できるわけですね。あと、聞いてる人
がいないと誰に向かってしゃべっているかわからなくなっちゃうんで。そういう意味
でこちらにいる中河内さんにはまことにご負担をお掛けするんですが、聞き役をお願
いすることにしまして。

で、『書きあぐねている人のための小説入門』というのですね、書いたわけは、今い
ろいろ小説作法の本っていうか書き方のマニュアルの本があって、つまり、マニュア
ル化してるわけです、小説を書くっていうことが。小説を書くことがマニュアルで伝
わる作業という誤解が生まれてしまう。だから、車の運転免許とか、それからもっと
いうと、ファストフードのカウンターで受付をするのとか、そういうのと同じものっ
ていう誤解が生まれて、誤解って言うか錯覚が生まれてしまうんで、そうじゃなくて、
大事なことは言葉では伝わらないんだってことをまずここで言う。で、大事なことは
言葉では伝わらないっていうことだと言われたら困ると思うと思うんだけど、言葉で
伝わると思って、そればっかり信じている人が増えちゃったら、あなたの信じている
言葉、信じているものは小説に通じる道ではないんだっていうことをまず指摘するこ
とが一番大事になってくるわけです。車の運転とは違うんだっていうことを。

で、僕はとにかく音楽聴いてた時間が長いんで、どうしても考えるときの比喩ってい
うよりも対比とか類似みたいなことで音楽のことを考えるんだけど、ブルースってい
うのはその日その日の感情を歌うようなもので、そんなにメロディーラインがしっか
りしているものじゃないんだけど、でもやっぱりブルースシンガーが歌うとブルース
になって、音感の悪い人が歌うとブルースにならない。で、ヒップホップもそれに近
いんですけど。やっぱり僕はねえ、日本人のヒップホップは、ラップっていうか、そ
の、音楽にどうしても聞こえないんですね。でも、ちゃんと、黒人って言うか、アフ
リカン・アメリカンっていうか、何と言うかわからないけども、あの人たちがやって
るのっていうのは、間違いなく音楽だっていうところはあるわけで、その辺にある音
楽性とか、リズム感とかっていうことが分からない限り、わからないっていうのと同
じように、テクニックだけ教わったって小説なんて書けない。

その、新人賞とか創作学校で書いてる作品っていうのは、いかにも小説、もうどこか
ら読んでも小説を書きたいつもりで書いたんだろうな、本人は小説を書いているつも
りなんだろうな、でも、それは悪いけど、小説ではないんだ、その感じを伝えようと
しているんですね。なにしろ、とにかく、あなた自身が感じることが、自分でいろい
ろ考えて、それで感じることができなければ、始まらないっていうことをまず伝えな
ければいけなくて、で、しかし、今大体出てる本っていうのは、小説に対して、みん
なが小説を書く気持ちに対して、抑圧的に働くんですね。何かをしなければならない、
ストーリーにはこういうものがなければならない、とか、登場人物っていうのは、少
なくともこれとこれとこういうパターンがなければならない、とか、その、何かをし
なければならないっていうのはマニュアルとまったく同じ、だからマニュアルってい
うんだけど、そういうので埋めていっても何にもならないっていうか、何かをしなけ
ればならないっていうことを本とか創作学校の先生が言うたびに、書く人の気持ちっ
ていうのは抑圧されちゃうんですね。で、そうじゃなくて、まず、あなたが小説で何
を書きたいのかっていうことを最初に考える。で、書きたいことがまずあればとにか
くスタイルなんてどうでもいいんだと。それで、こないだも、ある、なかなかパッと
しない小説家がいまして、で、その人の発表前の作品を読んで僕が感想を言ったとき
に、その人は、テクニックがないからってまだ言うんだけど、そうじゃない。テクニ
ックに頼ろうとするからいけないんです。とか、自分の力のなさっていうか、作品に
おける足りなさをテクニックがないっていうことでごまかそうとしてるっていうか。
そうじゃなくて、そこで、もっとちゃんと考えなければいけないところなのに、なん
かテクニックがあればそこを乗り切れると思っているんですね。一応その人は新人賞
とかも前にとっているんだけど、だから肩書はっていったら小説家ということで通用
するんだけど、でも、全然そういうことがわかってないから。足りないのは、小説が
書けない人に足りないのはテクニックでも才能でもないんですよ。頑張って仕上げよ
うという根性だけなんです。そこで頑張るっていう気持ちだけなんですよ。で、そう
いうことも言ってるんですけど。たとえば、この言い方はすごく月並みじゃないかっ
ていうのを、きちんと考えなきゃいけないんだよね。それはもうテクニックじゃない
わけ。なんかね、次に書く、次にこの人がこうするために、ここでびっくりさせるっ
ていうときに、次のアクションがもう決まっているから、びっくりしたっていう所を
それなりに、そこそこ考えたような表現にするわけね。だから、「自殺したっていう
話を聞いたときに、自殺したという言葉は、音としては聞こえてきたけれども、私の
心の中には定着しなかった、理解できなかった、数秒間理解できなかった」っていう
風に。その人はそこでそのびっくりしたときの状態をそういう表現で言えたと思って
いるわけ。でも、そんなのは、ちゃんと考えたことにならないんだよね。その人はそ
こそこ考えただけなの。もっといいかげんな人だったら「びっくりした」だけしか書
かない。で、どうせだったらもう全部いいかげんに書いちゃえよっていうようなこと
を割と平気でやるのが阿部和重とか中原昌也みたいな人で。それはすごくよく考えて
いるっていう証拠なんですよ。で、一応考えてますっていうふりをするんだよね。そ
れは、編集者に対してもそうだし、読者に対してもそうだし、自分自身に対してもそ
う。一応考えたんだっていう。でも、それっていうのは、もう考えなくても出てくる
程度のものでしかないっていうようなことを、そういうテクニックを批判することで
言ってるんです。

中河内:で、考えてないっていう風に保坂さんの側からは言えると思うんですけども、
実際に書いてる本人、書きあぐねている人の側から言わせてもらえれば、本当に考え
てるっていう風に思っているわけですよね。でも、気づいていないんですね、自分が
まだ考えきれていないことに。

保坂:あのね、気づいてないって言うけれども、どっかで気づいているんですよね。
っていうか、いつまでも発表前に誰かに読んでもらって書き続けるっていうことは出
来ないわけだから、どっかで自分一人で書いていくしかないっていうか、大抵みんな
デビューする前にある程度そういう体勢にはなってんだけど。で、そこで、自分がち
ゃんと考えてる、自分の考えてるのはまだ全然考えているうちに入らないんだなって
いうぐらいのことは感じなければいけないんだよね。そこで、字を書くっていうのが、
ここでも言っているけど、抽象的な作業なんで、わかりにくいんだけど、例えばね、
将棋で言うとさ、素人の将棋っていうのは一時間くらいあれば指し終わっちゃうわけ
ですね。で、プロの将棋っていうのは一手指すために二時間くらい考えたりすること
があるのね。その二時間って何考えてんだっていうことが、一応、それ、プロは二時
間かかって考えたっていうのを見るだけで二時間考えられるんだってことにまず気が
つくわけですね。で、小説っていうのは出来上がりしかないから、それ、気がつかな
いでしょ。それとか、楽器の演奏ですごく上手くパラパラパラーって弾いたときに自
然に弾いてるわけじゃない。その人が初めからそれが弾けたわけではないってことは
みんな知ってますよね。毎日、何時間か知らないけど、きっと一番練習した頃ってい
うのは10時間くらい毎日やってたんだろうっていうぐらいのことはみんな思っている
でしょ。それとか、絵がさ、絵っていうのは困ったことに実物見ないと本当に分から
なくて、写真とかカタログだけ見てても絵ってどういうものか本当にわからないんだ

けど、直に絵を見ると本当にもうぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ塗ってあるわけですね。
それっていうのは、それを見ただけですごくここに力が導入されてるっていうことが
分かるんだけど、小説だけは分かんない。でも、だからそういうふうに置き換えて考
えてみれば、自分は素人将棋ぐらいしか考えてないなっていうことに気がつかなきゃ
いけない、そういうことに想像力を伸ばしていかなきゃいけないんだよね。

中河内:気がつかせるための本っていうことですね。気づくために書き手として小説
家になろうとして小説を書いていくわけなんですが、書き手であると共に優れた読み
手でなくてはいけないということにも当然なってくると思うんですけども、小説を読
むということで、まあ、批評家と小説家との違いということをですねー。

保坂:80年代、90年代前半くらいまで日本の文学状況においては、批評家がすごく強
かったんですね。蓮實重彦と柄谷行人という大御所がいて、僕は95年ぐらいからあの
二人がいたために日本の小説が20年遅れたって言っているんですけど、批評家と小説
家ってのは、読み方がまったく違うんですね。で、非常に分かりやすい例で言うと、
優れた小説家であるところのある二人は、って名前を言っちゃうか。

中河内:是非聞きたいと思います。

保坂:僕は……(名前伏字・当日会場にいた人だけの特典)の書く小説はつまんない。
すごく本を読んでいる人も、それから批評家も、……のことは褒めるわけ。でも、そ
れは違うだろ。それで最近会った人でいうと、高橋源一郎と阿部和重に……のことど
う思うって聞いたら、二人とも関心ないんだって、やっぱり。つまり、そこで何か大
きなギャップがあるんです、書く側の人と読むだけっていうか、批評的に読むってい
うことの違いがあるんですよね。そこで、批評っていうので、こないだ阿部和重の
『シンセミア』が出て、それで、もうじき出る『群像』で、僕が阿部さんと対談して
るんですけど、で、朝日新聞のPR紙の『一冊の本』っていうので、こないだ2〜3日
前にうちに届いたんで、あれ、一冊100円かなんかですけど、無料(ただ)かもしん
ないけど、その中で、評論家の大塚英志が『シンセミア』のことを書いてるんですけ
ど、『シンセミア』の小説世界っていうのは、サーガだっていうことからっていうか、
『シンセミア』がサーガであるっていうことにこだわるわけね。サーガっていうのは、
フォークナーのヨクナパトーファ・サーガとか、それから、彼が直接考えたのは中上
健次の紀伊半島の路地のサーガっていうことで、そういう、あれ、サーガってどうい
う意味なの?

中河内:他の作品に、また、前作の脇役みたいな人を主人公にしてどんどん話を拡げ
ていくっていう。

保坂:ああ、それが主に一つの地域、土地を舞台にするとそういうことが出来やすい
っていう。

中河内:そうです。

保坂:で、あの、他にも『指輪物語』とかもサーガと言いますけれども、ファンタジ
ーの方が本当はサーガって多いんだよね。それで、そのサーガであることっていうの
にこだわる、まずこだわるんだけれど、それが大塚英志の読み方で、僕があれを読ん
だときに、やっぱりこの小説って何に似てるかなと思って、ガルシア=マルケスの『
百年の孤独』をちょっと読んで確かめてみて、それからフォークナーの『八月の光』
と『響きと怒り』とそれから『アブサロム、アブサロム!』を読んでみて、それから
中上健次、読んでるっていってもちらちらっと、で、中上健次の小説をチェックして
みて、それで、そうしたら中上健次には似てないです。それで、フォークナーの『ア
ブサロム、アブサロム!』には似ていないんだけど『八月の光』と『響きと怒り』に
は似てる。それで、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』には似てる。それで何が似
てるかっていうのは、中上健次の場合には、こう何かを、風景でも人でも語る時に、
ある人が見たっていう視点によってそれを書いていくんだけれども、『シンセミア』
の書き方っていうのは、そうじゃなくて、もっと無人格にこれを書いていくのね。で、
その無人格にいろいろ何かを風景だの人物だの記述していくっていうやり方が、『百
年の孤独』と『八月の光』には似ていたけれども、中上健次と『アブサロム、アブサ
ロム!』には似ていなかったいうことを言ったわけ。で、それによってこの『シンセ
ミニア』の世界が出来上がるっていう話であって、これが中上健次のサーガと似てる、
サーガと比べてどうかっていう大塚英志の論じ方っていうのは、これは読み終わった
論じ方でしょ。そうじゃなくてこの小説がどういう力学によって出来上がってきたの
かっていうことのほうが気になるわけで。それで、小説書く人間ていうのは、大問題、
小説書く人にとっていちばんの問題っていうのは、書き始めた小説を書き上げること
なんだよね。その書き始めた小説を書き上げることっていうのは、つまり、読者が読
み始めた小説が最後まで読まれるっていうこととまあほとんど同じ意味なわけ。とこ
ろが、批評家の場合には、全部読んだっていう前提で枠組みが始まっちゃうわけ。な
んでそれが最後まで読めたのかってところがいちばんの問題なのに。だから批評家っ
ていうのは、読む人なのかっていうと、実は読む人じゃなくて、批評を書く人なんだ
よね。ここはすごい大事なことで…。

中河内:読めてない…。

保坂:ていうか、批評家、なぜ、批評家って呼ぶかというと、批評を書くから批評家
って呼ぶわけで、小説を読むから批評家って呼ぶわけじゃないわけ。だから、その、
どんな読み間違いであっても批評家になり得るわけ。だからとにかく、書かないと商
売にならないんだから、読んでるだけだったら商売にならないんだから。そう、僕は
だから、大学の終わりの頃に、なぜ読むだけで商売にならないのかっていうのを結構
考えたの。これだけ職業が多様化しているんだから、読むだけの商売があったってい
いじゃないかって思ったんだけど。だから、そういう読むってことを、その小説がな
ぜ飽きなかったかっていうことは、批評の中では言わないんだよね。

中河内:ないですね。

保坂:言えないんだよね。っていうのは、書くようにしか、自分が批評を書くように
しか読む癖がついていないから、つまり、本当は読んでいないんですよ。

中河内:実際に批評家も最初から最後まで読むわけですよね。

保坂:はい。

中河内:で、それを後ろからまた、終わったあとからみるからだめ、いけないってい
うことなんですよね。

************************************************END*************************
●連載『引用集』第5回 「子どもたち」 保坂和志

 今回は”引用”じゃなくてチェーホフの『子どもたち』の全文です。「新潮」に連
載中の「小説をめぐって」の第3回で『子どもたち』の引用をしたら、「元はどうす
れば手に入るんだ」という質問が3人からメールで来たので、全文掲載してしまいま
す。

 これは90年代前半にちくま文庫で刊行された松下裕個人全訳「チェーホフ全集」
の第3巻に収録されているのですが、文庫の「チェーホフ全集」は現在絶版です。文
庫以前にあった単行本の「チェーホフ全集」も当然絶版です(私も現物は見たことが
ない)。

 みなさんもよく承知のことと思いますが、文庫本もあっという間に絶版になるので、
見つけたら買っておきましょう。そう思ってみんなが買ったら、結局絶版にならなく
て、「急いで買うんじゃなかった……」ということになるかもしれないけど、もし本

にそういうことになったら、日本の文化は少し程度が上がって、出版の質も少し好転
していることでしょう。ーーつまり、絶版を気にするような人は、現状ほとんどいな
いということです。

 私の知るかぎりでは、『子どもたち』は他に、中央公論社からかつて刊行された「
チェーホフ全集」の第4巻にも収録されています(池田健太郎訳)が、もちろんこっ
ちも絶版。しかし、この全集は、1冊、2冊と、ばらで、けっこうあちこちの古本屋
に出回っています。だいたい1冊500円。チェーホフはたいていどの短篇も素晴ら
しいので、見つけたら買っておいて損はない。

 もし、つまらなかったら、それはあなたが悪い。その人がじゅうぶんに成長してい
ないか、小説というものに、イデオロギーみたいなものとか、〈過度の〉感傷やドラ
マとかを期待しているという、そういう欠点が読者の側にあるということです。

 絶版になっているものを探さなくても、新潮文庫に1冊短篇集で『かわいい女・犬
を連れた奥さん』があるから、半年に1度それを読むのでもじゅうぶんかもしれない。
そんなことをしているうちに、必ずや、絶版に巡りあえることでしょう。『桜の園』
『三人姉妹』『かもめ』『ワーニャ伯父さん』の4つの戯曲はいつでも読めるわけだ
し。あ、それから、以前ドストエフスキー『未成年』を引用したときの「新潮世界文
学」、あれにはチェーホフがあって、短篇がいっぱい収録されています。1冊450
0円と高いけれど、古本屋を探し回る時間と手間を考えれば、それぐらい全然高くな
い。2年ぐらい前にみすずの「大人の本棚」というシリーズ(エロ本のシリーズでは
ない)から『チェーホフの短篇と手紙』というのが出て、その中にもいろいろ収録さ
れているけど、2400円で、量と値段を比べてみれば、新潮世界文学の方が断然安
い。



 『子どもたち』の面白さは、動きです。登場人物全員がずっと動きつづけている。

 全文を打ち込んでみて発見したのは、同じ言葉が繰り返し使われていること。これ
はたぶん翻訳の問題でなく、原文がそうなっているのでしょう。いい文章の書き方の
マニュアルでは、「同じ言葉の反復は避けること」ということになっているけど、こ
こでは言葉は極力単純に使われているわけです。

 前半部で、子どもたちの性格みたいなことが書かれていて、こんな説明的なことを
書かずにこれがやれればもっとずっといいんだけど、そういうことはやっぱり不可能
なんだろうか……。もし、この倍の長さで書いたとしたら、子どもをひとりずつ増や
していくようなやり方で、説明的な部分を置かずにできるかもしれない、とも思う。

 最近のカルチュラル・スタディーズとかポスト・コロニアリズムの読み方をすると、
子どもたちの属する階級に着目して、料理女の息子のアンドレイの扱い方と他の子ど
もたちの扱い方が、どれだけ違っていてどこが同じか、というようなことが問題にな
ってくるかもしれないけど、そんな読み方は簡単で、小説の生成とは全然関係ない。

 ただひとつだけ、チェーホフの計算には入っていなかったと思うことは、終わりち
かくでグリーシャが1コペイカ銅貨を落としたところだ。テーブルの下に落ちたそれ
を探すためにランプを下に持っていく。探すのをやめてランプをテーブルの上にもど
すと下は暗がりになる。

 ??このくだりを読んだときにはじめて、20世紀後半以降の読者は子どもたちが遊
んでいる食堂の照明を知る、というかそこに思いがいく。私たちはつい自動的に(無
条件に)、自分たちがいま生活している空間の明るさと同じ明るさの中に子どもたち
を置いてしまっているのだけれど、子どもたちが遊んでいるこの食堂はランプひとつ
かふたつぐらいによって照らされていたのだ。

 『子どもたち』は1886年、チェーホフがまだ新聞や雑誌に短篇を書きまくって
いた26歳のときの作品です。

 では、全文です!

 パパもママもナージャおばさんも留守でいない。みんなは、灰いろのお馬に乗って
行き来するあの年とった将校のとろこの洗礼式に出かけている。その帰りを待ちなが
ら、グリーシャ、アーニャ、アリョーシャ、ソーニャ、それに料理女の息子のアンド
レイが、食堂のテーブルにむかってロトー遊びをしている。ほんとうはもう寝る時間
なのだ。けれどもママから、洗礼を受けたのはどんな赤ん坊だったか、どんなごちそ
うが出たかなどを聞かないうちは、どうして寝られよう。吊りランプに照らされたテ
ーブルは、数字、くるみの殻、紙きれ、ガラスのかけらなどで斑(まだら)模様にな
っている。遊びをしているそれぞれの子どもたちのまえには、数字札(ふだ)が2枚
ずつ、その数字を隠すためのガラスのかけらがひと山ずつ置いてある。テーブルのま
んなかには、1コペイカ銅貨の5枚のった小皿が白く見える。小皿のそばには、食べ
かけのりんご、はさみ、それにくるみの殻を入れるための深皿が置いてある。子ども
たちは賭けごとをしている。掛け金は1コペイカ。ずるをしたら、すぐ仲間はずれに
される約束だ。食堂には、ほかには誰もいない。乳母のアガーフィア・イワーノヴナ
は階下の台所にすわって、料理女に生地の裁(た)ちかたを教えているし、いちばん
上の兄の中学5年生ワーシャは、客間のソファに寝ころがって退屈している。

 みんなはすっかり遊びに夢中になっている。顔つきからすると、とりわけ熱中して
いるのはグリーシャだ。小柄な9つの男の子で、くりくり坊主の頭、ふっくらした頬、
黒人のように厚い唇をしている。彼はもう中学予備科で勉強しているので、みんなか
ら、大きくて、いちばん賢いと思われている。彼がゲームをしているのは、なにより
もお金のためだ。小皿に1コペイカ銅貨がのってなかったら、とっくに寝ていただろ
う。その茶いろの眼は、みんなの数字札を不安げに、ねたましげにきょろきょろ見ま
わしている。勝てないかもしれぬという恐れと、ねたみと、いがぐり頭をいっぱいに
している財政上のおもわくとが、腰を落ちつけて気分を集中することを妨げている。
針のむしろにでもすわったように、そわそわしている。勝つと彼は、むさぼるように」
金をつかんで、すぐさまポケットに隠してしまう。その妹のアーニャは、とがったお
とがいと利巧そうなきらきら光る眼をした8つくらいの女の子で、やっぱり負けはし
ないかとびくびくしている。彼女は赤くなったり青くなったりしながら、みんなの手
もとを目ざとく見つめている。だがお金には興味がない。彼女にとって、勝つか負け
るかは自尊心の問題だ。もうひとりの妹のソーニャは、巻き毛の髪の、ひじょうに健
康な子どもか値段の高い人形やボンボン入れにしか見られぬような美しい顔いろをし
た6つになる女の子で、ロトー遊びをするのは遊びの流れそのものが楽しいからだ。
彼女の顔には感動があふれている。だれが勝っても彼女は同じようにキャッキャッと
笑って、ぱちぱち手をたたいている。まるまるふとった、まりのようなちびっ子のア
リョーシャは、息をはずませたり、鼻いきをたてたり、数字札にむかって眼を剥いた
りしている。彼には欲も自尊心もない。テーブルから追いたてられず寝かされないだ
けで、嬉しくてたまらないのだ。見かけはもっさりしているが、腹のなかはなかなか
食えない。彼はロトー遊びのためというよりもむしろ、勝負ごとにつきもののいざこ
ざのためにすわっている。だれかがなぐったりののしったりするのが、ぞくぞくする
ほど楽しいのだ。とっくに然るべきところへ駆けだして行かなければならないのに、
自分のいない間にガラスのかけらやお金をとられはしないかと気になって、1分たり
ともテーブルから離れられない。彼は、ひとけたのと、ゼロがつく数しか知らないの
で、かわりにアーニャが数字を伏せてやる。5人目の、料理女の息子のアンドレイは、
色の浅黒い、病弱の少年で、更紗(さらさ)のルバーシカを着て胸に銅の十字架をつ
るし、立ったまま身じろぎもせずに、夢みるように数字を見つめている。勝とうが負
けようが、てんで無頓着だ。ゲームの算数と、その単純な哲理に心をうばわれている
のだ??なんとまあ、この世にはいろんな数字があるのだろう、よくこれでごちゃまぜ
にならないものだ!

 ソーニャとアリョーシャを除いたほかの子が、みな順ぐりに数字を声高に読みあげ
る。数字だけではおもしろくないので、いろんな符号やおかしな名まえをくふうする。
たとえば7は火かき棒、11は棒2本、77(セーミデシャト・セーミ)はセミョー
ン・セミョーヌイチ、90はおじいさん、というふうに。ゲームはてきぱきと進んで
行く。

 「32!」と、グリーシャが、パパの帽子のなかから黄いろい駒を取りだしながら
叫ぶ。「17! 火かき棒! ドゥヴァツァチ・ヴォーセミ(28)ーーセーノ・コー
シム(草を刈る)!」

 アーニャは、アンドレイが28を聞きのがしたのに気づく。いつもなら教えてやる
のに、いまは小皿にお金といっしょに自分の自尊心がのっているので、大よろこびし
ている。

 「23!」とグリーシャがつづける。「セミョーン・セミョーヌイチ! 9!」

 「ごきぶりよ、ごきぶり!」と、ソーニャが、テーブルの上を走って行くごきぶり
を指さしながら叫ぶ。「キャッ!」

 「殺しちゃだめだ」とアリョーシャが太い声で言う。「子どもがいるかもしれない
からノノ」

「ソーニャはごきぶりを目で追って、その子どものことを考える。ーーきっとちっぽ
けなごきぶりっ子だろうな!

 「43! 1!」とグリーシャはつづける、アーニャにはもうふた組も札がそろっ
ているとやきもきしながら。「6!」

 「あがったわ! あたしあがった!」と、ソーニャは、媚びるような眼づかいをし
て、キャッキャッと笑いながら叫ぶ。

 みんなはがっかりした顔つきになる。

 「調べなきゃ!」と、グリーシャが、憎らしそうにソーニャを見ながら言う。

 年かさの誰よりも賢いものとして、グリーシャが決定権をにぎっている。みんなは
言いなりになっている。長いことかけて念いりにソーニャの札を調べるが、残念至極、
彼女はちっともずるをしていない。つぎのゲームが始まる。

 「きのうあたし見たわ!」と、アーニャがひとりごとのように言う。「フィリップ
・フィリップイチがまぶたをどうかしてひっくり返したの。悪魔みたいな、赤くてこ
わい眼になったわ」

 「僕だって見たよ」とグリーシャが言う。「8! だけど僕の学校には耳を動かす
 生徒だっているよ。27!」

 アンドレイがグリーシャに目をあげて、考え考え言う。

 「僕だって、耳を動かせる……」

 「じゃ、動かしてごらんよ!」

 アンドレイは眼と唇を動かす。それで耳が動いたつもりなのだ。みんなの笑い。

 「いけない人よ、あのフィリップ・フィリップイチって」とソーニャがため息を
つく。「きのうね、子ども部屋へはいってきたの、あたしがネグリジェ1枚でいる
のに……。失礼しちゃうわ!」

 「あがった!」突然グリーシャが、叫ぶと同時に小皿のお金をひっつかむ。「あ
がったよ! 調べたけりゃ、調べてもいいよ!」

 料理女の息子は目をあげて青ざめる。

 「そうすると、僕、もうやれないや」と彼は声を落として言う。

 「どうして」

 「どうしてって……僕、もうお金がないんだもの」

 「お金がなけりゃ駄目だ!」とグリーシャが言う。

 アンドレイは、念のためもう1度ポケットを探ってみる。パンくずと歯形だらけの
ちびた鉛筆のほかにはなんにも見つからないので、口をゆがめて、つらそうにまばた
きしはじめる。いまにも泣きだしそう……。

 「あたしがかわって賭けたげる!」と、ソーニャが、彼の受難者のような目つきを
見かねて言う。「でも、きっとあとで返してよ」

 お金が賭けられて、ゲームがつづけられる。

 「どこかで鐘が鳴ってるみたい」とアーニャが眼をみはって言う。

 みんなは手を休め、ぽかんと口をあけて、暗い窓を見つめる。闇のむこうにランプ
の灯がちらちら映っている。

 「そんな気がしただけさ」

 「よる鐘を鳴らすのは墓場だけだよ……」とアンドレイが言う。

 「どうして墓場で鐘を鳴らすの」

 「教会へ盗賊がはいらないようにさ。盗賊は鐘の音がこわいんだ」

 「じゃあ何のために盗賊は教会にはいるの」とソーニャ。

 「きまってるじゃないか、番人たちを殺すためさ!」

 みんなが黙って1分ほどが過ぎる。たがいに顔を見あわせ、身ぶるいして、ゲーム
をつづける。こんどはアンドレイが勝つ。

 「こいつ、ずるした」と、アリョーシャが太い声で出まかせを言う。

 「うそだい、僕、ずるなんかするもんか!」

 アンドレイは青ざめて口をゆがめ、アリョーシャの頭をぴしゃり! アリョーシャ
はぐっとにらみつけると、とびあがりざまテーブルに片ひざついて、しかえしに??ア
ンドレイの頬をぴしゃり! ふたりはもう1つずつ頬を張りあって、泣きわめく。こ
わくなってソーニャも泣きだし、食堂はいろんな泣きわめく声でいっぱいになる。け
れども、これしきのことでゲームはおしまいと思ってはならない。5分もたたぬうち
に、子どもたちはまたキャッキャッと笑いあい、なかよく話しあっている。涙に顔は
濡れていても、そんなことは笑うさまたげにならない。アリョーシャはむしろしあわ
せなくらいだ??いざこざがあったのだから!

 食堂へ、5年生のワーシャがはいってくる。眠そうで、つまらなそうだ。

 「こいつはけしからん!」と彼は、グリーシャがポケットを探って銅貨をちゃらち
ゃら鳴らしているのを見ながら思う。「子どもたちにお金なんか持たせていいのだろ
うか。おまけに賭けごとまでさせて。しつけがいいよ、まったく。けしからん!」

 けれどもみんながあんまり楽しそうにしているので、自分も1枚くわわって、運だ
めししてみたくなる。

 「ちょい待ち、おれもやる」と彼は言う。

 「1コペイカ置いて!」

 「よしきた」と彼は、ポケットを探りながら言う。「1コペイカはないけど、1ル
ーブルならある。おれは1ルーブル賭ける」

 「だめ、だめ、だめ……1コペイカでなきゃ!」

 「ばかだなあ、おまえたちは。1ルーブルのほうが何たって1コペイカよりも値う
ちがあるんだから」と中学生が説明する。「勝った者がお釣りをくれればいいんだよ」

 「だめだったら! あっちへ行ってよ!」

 5年坊主は肩をすくめて、ばあやに小銭をもらおうと台所へ行く。台所にも1コペ
イカは1枚もない。

 「じゃあ、くずしてくれよ」台所からもどってきて、彼はグリーシャにせがむ。「
手数料を払うからさ。いやかい。そんなら、10コペイカ1ルーブルで売ってくれ」

 グリーシャは、疑わしそうにワーシャを横目で見る??なにか裏でもあるのじゃない
か、ペテンにかけるのじゃないか。

 「いやだ」と彼は、ポケットをおさえて言う。

 ワーシャはかっとなって、まぬけだとか石あたまだとかいって、みんなをののしり
はじめる。

 「ワーシャ、じゃアかわりに賭けたげる!」とソーニャが言う。「すわって!」

 中学生は腰をおろして、自分のまえに数字札を2枚置く。アーニャが数を読みはじ
める。

 「1コペイカ落としちゃった!」ふいにグリーシャが興奮した声で言う。「ちょっ
と待って!」

 みんなはランプをおろして、1コペイカを探すのにテーブルの下へもぐりこむ。吐
きだしたひまわりの種やくるみの殻をつかんだり、鉢あわせしたり、それでも銅貨は
見つからない。みんなは本腰をいれて探しはじめ、とうとうワーシャがグリーシャの
手からランプをひったくって元の場所に置くまでやめない。グリーシャは暗がりのな
かで探しつづける。

 だが、ようやく銅貨が見つかる。みんなテーブルについて、ゲームをつづけようと
する。

 「ソーニャが眠ってる!」とアリョーシャがみんなに言う。

 ソーニャは巻き毛の頭を両手にのせて、まるで1時間も前に寝入ったように、さも
気もちよさそうにぐっすり、すやすやと眠っている。みんなが銅貨を探しているうち
に、うっかり寝こんでしまったのだ。

 「ママのベッドへ行ってお休み!」と、アーニャが食堂からつれて行きながら言う。
「おいで!」

 みんなは一団となってつれて行く。5分とたたぬうちに、ママのベッドは壮観とな
る。ソーニャが眠っている。ならんでアリョーシャがいびきをかいている。ふたりの
足の上に頭をのせて、グリーシャとアーニャが眠っている。そこには料理女の息子の
アンドレイまでがまじっている。みんなのそばには、新たなゲームのはじまるまで力
を失った1コペイカ玉が。いくつかころがっている。じゃお休み!

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●連載:「ねこちゃん話・『はじめての友達』 vol.04」  まゆ子
   こちらからどうぞ
       ↓
http://www.k-hosaka.com/nekobana/04/nekobana4.html

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●連載:「ミニラボ」vol.05  ミワノ
   こちらからどうぞ
       ↓
http://miwano.easter.ne.jp/mini-lab5.html

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●連載:「そらめめ」  くま
   こちらからどうぞ
       ↓
http://www.alles.or.jp/~takako9/sorameme040306/sorameme_top.html

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●連載:極楽月記 vol05 「梅は咲いたか、なんだまだかいな」がぶん@@

(掲示保板で話したことなんで、もういいよという人は読み飛ばして下さい)
宇宙には1立方平方メートルあたり水素原子が平均1.0~1.2個ぐらいしかなくて、そ
れよりもうちょっと多ければ引力が働いて宇宙はいつか縮んでいってビッグクランチ
を起こし、逆に少なければただただ膨張しっぱなしの宇宙、というわけらしいけど、
いずれにしても宇宙っていうのはあまりにも空いているところだということが分かる。
その点、地球あたりはひどく混んでいるわけで、だからいろんな出来事が偶然に起こ
る。そうなのだ、真の真空(変な言い方だけど)では出来事と言われるものはなにも
起きないのだ。そもそも出来事っていうのは素粒子のぶつかり合いがあって初めて起
こるわけで、真空中に何やら「存在」の大きな秘密があるというような説もあるけど、
もしその秘密が暴れたとしたら、たぶん、そこはホントの真空中じゃなかったという
ような話になるんじゃないかと思ってる。

            つづきは ↓ ここで
            
http://www.k-hosaka.com/gokuraku/gokuraku05/gokuraku05.html

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●連載:<ひなたBOOKの栞>  けいと

日本の神話の世界 (1)

日本の神話  赤羽末吉 絵   舟崎克彦 文

第一巻 くにのはじまり
第二巻 あまのいわと
第三巻 やまたのおろち
第四巻 いなばのしろうさぎ
第五巻 すさのおとおおくにぬし
第六巻 うみさちやまさち

赤羽末吉の絵は、なんといっても、モンゴルの馬頭琴の話「スーホの白い馬」が有名
ですが、わたしは、「ももたろう」が好きです。おばあちゃんの抱える重たそうな
「ももっこ」がほんとに、おいしそうだからね。で、このごろ、なんだか、日本の神
話が気になって、そういう絵本を探していたら、古本屋で、「中朝事実(ちゅうちょ
うじじつ)」の絵本をみつけ、横浜そごうのきれいになった本屋さんで、赤羽末吉が
絵を描いている、この日本の神話シリーズ全六巻をみつけました。その他にも、何册
か見つけたんだけど、絵が幼い感じはなんだか、よくない。
赤羽末吉の絵は素朴なんだけれど、洗練された色使いで景色の広がりが感じられる荒
涼とした空気を醸し出していて、特にスーホのなんかは、はじめて見た時には、ちょっ
と寂しくなったけれど、何度か見ていくうちにひきつけられていくような感じです。
ところで、この六冊の絵本は古事記、日本書紀がもととなっていて、かなり、忠実に
しかもわかりやすく絵本にしあげているんだけれど、題名をみれば、わたしくらいの
年代でも、40代くらいってことですが、まあ、なんとなく、知ってるような話でしょ。
自分たちがこどもの時代に、いなばのしろうさぎも、やまたのおろちもおおくにぬし
のみことのおはなしも、一度は聞いたことがあると思うんだけれど、今のこどもたち
は意外と知らないのね。でも実は、これらの絵本を読みながら、よーくわかったの、
わたしもくわしく知らないなってことが。特に、それぞれがつながってるのはわかる
んだけれど、そのつながりがつかめないので、すごく、未消化な感じで、気持が悪い
のね。なまじ、自分の国のおはなしだしね、しかも、聞いたことあるような地名や単
語が随所にでてきて、なおさら、知りたくなってくる、それで、古事記とか日向神話
とか、神々の世界とか、そういったものを読みあさっていたら、わかってきちゃった、
これはほんとに、おもしろい!

ところで、わたしが古本屋で買った「中朝事実」の絵本は、300年以上も前に山鹿素
行と言う人が漢文で書き記した本が題材になっています(そうそう、ホサカホームペー
ジで、ちょっと話題になった松蔭吉田がもっとも愛読していた本で、片時も手許から
離さなかったんだって)。この絵本、結局、天地開闢(てんちかいびゃく)から天孫
降臨、神武東征など、神話そのものに、ちょっとした教えを加えてわかりやすく作ら
れた絵本なんだけれど、なんだか、おもおもしいあとがきが、ちょっと不思議な感じ
もするし、そもそも、日本の神話自体が、戦後、旧憲法の天皇制崩壊とともに、否定
されてきた歴史があって、いろんな意見があるってこともわかるけれど、わたしとし
ては、そういったことにこだわらずに、読んでるだけでおもしろい日本神話の世界を、
これから、ちょこっとしらべていこうかなーーと思ってる所です。それにとにかく、
日本の神々はおおらかで、たのしくて、ちと残酷で、エロチックでね、あるがままっ
てところがいいですね。

第一巻、くにのはじまりでは、そもそものはじまりが、高天原(たかまがはら)とい
う天のかなたにある国にあって、そこにいる神様が天之御中主神(あめのみなかぬし
のかみ)。天地が開けた時に最初に成り座せる宇宙の中心の神と言うことなのね。こ
の神様から数えて七代めにあたる伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)がは
じめての男神と女神。天之御中主神がふたりに、「くらげのようにたよりない下界を
すみやすい土地につくりかえなさい」といって天の沼矛(あめのぬぼこ)を授けて、
それで、ふたりがかきまぜて、矛からしたたりおちた雫でできた島が淤能碁呂島(お
のごろじま)というのね。そこで、ふたりはこんな会話をかわすの。

「汝が身はいかに成れる」
(あなたのからだはどのようにできているのか)

「吾が身は成り成りて、成り合わざる処一処あり」
(わたしのからだには足りないところがひとつあるのです)

「吾が身は成り成りて、成り余れる処一処あり。成り余れる処を成り合わざる処に刺
し塞ぎて国生み成さん」
(わたしには、余った所が一ケ所あるので、あなたの足りない所を、わたしの余った
もので刺し塞いで、国を生みましょう)

ということで、ふたりは国生みをはじめるのね、淡路島、隠岐の島などからはじまり、
今の日本の国である八島の国土をつぎつぎに生んで、その後、神生みに移り、家の神、
川の神、海の神、農業の神、風の神、野の神、山の神、船の神など、これら三十五人
の神様の、最後に生んだのが火の神だったのね、それで、伊邪那美は御陰部(みほと)
におおやけどをおって死んでしまう。そして、死者の国である黄泉の国(よみのくに)
にいってしまったの。日本の神道の考え方では、他の宗教につきもののような天国、
地獄的な考え方はなくて、つまり、いいことしたら天国に行けて、悪さしたら地獄に
おちるとかね、そういうのがない、ただ、黄泉の国と常世の国があるだけなんだそう。
で、伊邪那岐は悲しくて身悶えして悲しんで、ひと目、伊邪那美に会いたくて、黄泉
の国にたずねていくの。そこで、伊邪那美は石のとびらのむこうから、とにかく、自
分の姿は見てくれるなと頼むんだけれど、誘惑に負けて、伊邪那岐は見てしまうのね。
それで、伊邪那岐は驚くわけ、だってそこには、生きてる時とは似ても似つかない程
腐り果てて、ウジがたかり、八雷神(やくさのいかづちかみ)がとぐろをまいている
醜い伊邪那美の屍だったから。それで、伊邪那岐は、情けないことにいそいで逃げ出
しちゃうの。それを知って追いかけてくる伊邪那美はものすごく怖いんだけれど、結
局、黄泉の国と、常世の国の境にある黄泉比良坂(よもつひらさか)で叫ぶの。
「かく為(し)たまわば、汝の国の人草、人日に千頭(ちがしら)絞り(くびり)殺
さむ」
つまり、あなたがそのようなしうちをなさるのなら、わたくしはこれから、あなたの
国の人達を一日に千人しめころしてやります、ってこと。
そうすると、伊邪那岐はこう答えるの。
「吾は一日に千五百産屋(ちいおのうぶや)立てむ」
つまり、おまえがそのつもりなら、わたしは日に千五百人ずつ子どもを生ませてやる
、ってこと。
こうして、黄泉の国からもどってきた伊邪那岐は死者の穢れを祓うために、筑紫の日
向の橘の小戸の阿波岐原(あわぎはら)でからだを浄めるのね。左目を洗うと、天照
大御神(あまてらすおおみかみ)、右目を洗うと月読神(つきよみのかみ)、鼻を洗
うと須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれ、天照は高天原、つまり天上界を、月
読が夜の国を、須佐之男が海上をおさめるようになったということ。

第二巻のあまのいわとは、有名な天照大御神が天の岩戸にかくれちゃうお話ですが、
今月、わたしは、九州の天の岩戸神社に行ってくるので、次回はそこのところに続き
ます。高千穂、霧島神宮なんかも廻る予定。
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メールマガジン「カンバセイション・ピース vol.12 2004.3.10配信
発行責任者:高瀬 がぶん 編集長:けいと スーパーバイザー:保坂和志
連絡先:0467-24-6573・070-5577-9987
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