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        メールマガジン:カンバセイション・ピース
                             vol.03 2003.5.30
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 どうもみなさん、いきなり月イチになってしまいました。あーやっぱりとお思いで
しょうが、こちらもあーやっぱりと思っておりまして、誰だ月2回出そうなんて言い
出したのは! いやオレじゃない、ボクじゃない、私じゃないわよと、責任をなすり
つけあっているスタッフ3人ではあります。
ところで、ほんとにもうすみません、ってボクせいでもないんですがドメインのサー
バが理由も分からずダウンしてしまいまして、復旧に三日もかかってしまいました。
それと、もうひとつ謝らなくちゃならないことが……。
江ノ島散歩、、、これもまったく個人的な理由で勝手に変更なんかして、ほんとにほ
んとに申し訳ありません(詳しくは掲示保板を見て下さい)。
ああ、なんだか謝ってばかりの挨拶になってしまいましたが、ともあれ、毎回面白い
ことを考えていますんで、これからもよろしく。
               (がぶん@@)

◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆もくじ◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆
    
  ●特 集:保坂和志・ロングインタビュー・その3 聞き手:keito
       小説「カンバセイション・ピース」について
  ●特別企画:うらうら保板:枡野浩一の短歌教室
  ●エッセイ:REAL ROCK CHRONICLE 第2回 保坂和志
  ●不定期連載:へなちょこ研究者の日常「研究をする」:よ
  ●不定期連載:画素力弱めのデジカメ写真ギャラリー「そらめめ」 くま
  ●エッセイ:「がじんな日々」その2 高瀬がじん
  ●エッセイ:「お稽古の壷 二回目」:けいと
  ●連 載:稲村月記 vol.26「猫まんが」:高瀬 がぶん

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                募集します!             
     ・メルマガ版ピナンポ原稿:小説・エッセイ・論評・詩歌など
      枚数は自由(でも1万枚とかはダメよ)
     ・猫遊録掲載ネコ写真jpegでお願いします(3枚まで)    
     ・その他、なにかご意見などありましたら下記までメールを! 
              gabun@k-hosaka.com
  保坂和志公式ホームページ<パンドラの香箱>http://www.k-hosaka.com
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□保坂和志・ロングインタビュー その3  聞き手:keito

けいと■わたしね、最初の辺とか、わたしにとって、わかりにくいところがけっこう
あったのね。でも、最後の方がわかりにくそうなことがいっぱいなんだけど、わたし
には、わかりやすかったんだよね。すっごく、わかるの。わかるから逆に時間がかか
るのね。わかんないとね、わかるところとわかんないとこがあるとね、なんとなく、
つかみにくいなとか思うところはそう思って、わかるとこまで進むから、さらりと読
んじゃうんだよ。最終章はさ、2回読んだんだけど、2回とも違うんだよね。自分の
わかってる度合がね。 

ほさか■この小説は、、、いろんなことをさ、人間の心とか、、、その外側にある家
とか、、、チャーちゃんが死んだこととか、、、何らかの形でさ、一番いい言葉で言
うと、統合しなきゃいけないわけで、、、統合とまではいかなくても、いろいろなも
の同士の関係が、、、なんか、、、かなり密接な状態を探し出さなきゃいけない??
という方向だけは考えていたわけ。だから、それがどういう風に関係づけられるかっ
てのが、その、、、書いてる最中もやっぱりそれがずうっと、一番の関心事だったん
だけど、、、最終章の前の5章の、そう、5章書いてる途中くらいからある程度、関
係はつけられるなって気がしてきたのね。それまではさ、ほんとに、関係のつけ方が
まったく、わかんなかったの。4章までは。で、夏休み挟んでさ、その、5章書いて
る途中で、やっと薄ぼんやり見えてきたって言うか、少し手応えみたいなのが感じら
れるようになったんだけど、それもどこにどう辿りつくかがわかったとかそういうは
っきりした感じじゃなくて、「このまま進んでいけばどこかに辿りつける感じがして
きた」っていうだけなんだけど、だからそれまでは、わかんないどころか、「関係つ
くのかな?」っていう、書き出して発表もしちゃってるけど、最後の終わり方って、
なんかさ、ないんじゃないのかなって気がしてたんだよ。 
★このつづきは→ http://www.k-hosaka.com/merumagaK/vol.03/inta03.html
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■うらうら保板: 枡野浩一の短歌教室 その1

今回の登場は歌人の枡野浩一さんです。
「枡野さん、掲示板で短歌の添削指導みたいなやりとりできないでしょうか」とお尋
ねしまししたところ、快く引き受けて下さいました。それじゃ、生徒さんは?という
ことで、枡野さんがご自身のHPで、募集をかけたところ、20名ほどの応募があり、そ
の中から選ばれた4人の方たちが参加することになりました。18才の大学生から、ガ
ッツのある26才まで、4人とも若い女性です。
数日間のやりとりは、明け方から夜更けまで、眠らない掲示板で、こちらの予想以上
に熱いものになりました。枡野さん、4人の生徒さんのほかに、がぶん、ほさか、け
いとの三人が見ることのできるうらうら保板は、基本的にわたしたちは参加しないと
いうことだったのですが、思わずほさかが入る場面もあります。
もしかすると、このまま決裂するのではという真剣なやりとりで、枡野さんの大激怒
には見てるこちらまで、はらはらしました。
それにしても、枡野さんのしつこさは天才的です。
その枡野さんと、めげずに短歌を出し続けた生徒さんたちとあいだに見えてくる世界
は、短歌の添削にとどまらず、色んなことを感じさせてくれるはずです。
驚きの長さですが、今回は一回目。次回は、もっとすごいことになるんだから、おた
のしみに。
                      こちらのページへどうぞ
      http://www.k-hosaka.com/merumagaK/vol.03/masuno1.html#2
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■REAL ROCK CHRONICLE 第2回   保坂和志
「悲しき鉄道員」ショッキング・ブルー “Never Marry A Rail
road Man”Shocking Blue

 第1回のオリジナル・キャスト「ミスター・マンデイ」が、深夜放送から突然聞こ
えてきたのに対して、「悲しき鉄道員」はポップスのヒットチャートからだった。

 ロックとの出会いというとき、私はいつも「中学2年の秋」という言い方をしてい
て、それは「ミスター・マンデイ」でなくて「悲しき鉄道員」を意味している。この
REAL ROCK CHRONICLEというメルマガ連載も第1回は「悲しき鉄
道員」のつもりだったのだが、よく考えてみたら……でなく、ちょっと考えてみたら、
「悲しき鉄道員」より前に「ミスター・マンデイ」があった……。
 「ロックとの出会い」なんて、私の人生においてこんなに大事なことを間違ってい
たなんて、いったいどういうことだ……。とは思うのだが、案外そんなもので、やっ
ぱり大事なことは「出会い」でなく「それが継続していくこと」で、その後の「継続」
のない「出会い」なんて、きっと数え上げたらキリがないんだろうと思う。電車です
ごく可愛い女の子と乗り合わせたとして、そこからつき合いが始まったら「出会い」
だけれど、始まらなかったらそれこそ本当の「出会い」、「継続」のない「出会い」、
「純粋出会い」だ。
 ということは、「ミスター・マンデイ」はただの「出会い」で、「悲しき鉄道員」
こそが「継続のスタート」だったのかというと、そういうことでもなくて、「継続の
スタート」もやっぱり「ミスター・マンデイ」だった。
 私の記憶の中の「ロックとの出会い」の座を「悲しき鉄道員」が奪った理由につい
てはよくわからないけれど、とにかく結果としてそうなった。しかし、3回目、4回
目と進んでいくときっとわかるだろうけれど、本当の意味での「ロックとの出会い」
は「悲しき鉄道員」でもなかった。つまりやっぱり、「出会い」なんてわかりやすい
時間的な一点はきっとなくて、いろんなものに接していく過程でぐんぐん深化してい
くものなんだろうと思う。さて、本題。

 中学2年の秋になると、日曜日の朝(たしか9時だった)、布団の中でラジオのポ
ップスのヒットチャートを聞くのが習慣になっていた。1970年9月。その頃トッ
プ10に入っていた曲でいまでも憶えているのは、ジリオラ・チンクエッティ「ツバ
メのように」、バニティ・フェア「夜明けのヒッチハイク」というような感じで、ジ
リオラ・チンクエッティは「ノノ・レタ(邦題はたしか「夢見る想い」といった)」
と「雨」(これは最近、車CMに使われていた)で有名なカンツォーネ歌手で、カン
ツォーネやフランスのシルビィ・バルタンがトップ10に入っていたんだから、アメ
リカの一国支配もまだ全然進んでいなかったと思うがそれはともかく、バニティ・フ
ェアの「夜明けのヒッチハイク」なんていったら、完全にマイナーというか、つまり
その1曲だけで、一発屋というのはつまり日本だけでなくどこにでもいるということ
なのたが、「夜明けのヒッチハイク」は爽やかないい曲でした。
 そして私のうろ憶えの記憶によると、上位にそういう曲があったときの7位とか8
位くらいに、チャートを下っていく途中の「レット・イット・ビー」があった。当時
の(今も?)ヒットチャートというのは上がる曲は長くかけるけれど下がっていく曲
はちょっとしかかけないことになっていて、「レット・イット・ビー」はちょっとし
か聞かなかったけれど(いや「ロング・アンド・ワインディング・ロード」だっただ
ろうか? そんなことはないと思うのだが……)、「ビートルズって、こんな馴染み
やすいメロディを作るのかぁ」と、すごい違和感を感じたことを憶えている。

 前回私は「ビートルズといっても、『イエスタデイ』ぐらいしか知らなかった」と
いうようなことを書いたけれど、正しくは「イエスタデイ」も知らなかったのかもし
れない。ビートルズはあの時代、「どこがいいのか、ガチャガチャ、ワーワー、キャ
ーキャーやかましい音楽」と中年以上の大人たちに言われていて、だから当然、「ヘ
イ・ジュード」がビートルズだということも私は知らなかったし、「レット・イット
・ビー」をはじめて聞いたら(「ロング・アンド・ワインディング・ロード」だった
かもしれないけど)、もう気が抜けるほどメチャメチャ聞きやすいわけで、私は曲そ
のものを味わうというよりも、「どこがいいのか、ガチャガチャ、ワーワー、キャー
キャーやかましい音楽」という世評とのギャップに悩んだんじゃないかというような
気がする。どうして「どこがいいのか、ガチャガチャ、ワーワー、キャーキャーやか
ましい音楽」という世評だったかというと、ビートルズといったときに「抱きしめた
い」とか「シー・ラブズ・ユー」なんかのイメージか先行していたから、というよう
な理由ではなくて全然なくて、たまにニュース映像で流れるステージを取り囲んでい
る女の子たちが絶叫しているコンサートの様子が普通の人たちに一番流通していたビ
ートルズのイメージだったからだろう。
 話のついでにもっと脇道に逸れてしまうけれど、1983年に、当時、いまとは伝
説となっている(なっていないかもしれないが)文芸誌「海」で毎月のように凄くお
もしろそうな海外文学の書評を書いていた池澤夏樹に、私はどうしてもカルチャー・
センターの講師を頼みたくて、しかし当時の池澤夏樹は「海」で書評を書いているだ
けの無名の人で、受講生を集められる見込みは全然なかったけれど(それでもどうし
ても講師に頼んでみたい人がたまにいたわけで)、会って話をして、ガルシア=マル
ケスを読む「マルケス読み」という講座を企画して、結局やっぱり数人しか集められ
なくて講座は成立しなかったんだけれど、それはともかく、そのとき池澤さんと話を
しているうちにビートルズの話になって、
「そうなんだよなあ。カルチャー・センターの講師も、おじさんたちばっかりじゃな
くて、ビートルズくらい普通に聞く人じゃなきゃダメなんですよね。いま講師やって
る人たちで、ビートルズを聞きそうな人はいませんもんねえ」
 ということを言ったことがあって、つまり音楽と日本人、というかポップスと日本
人の関係はそういうものだった。
 私はビートルズを特別好きなわけではないけれど、ビートルズはたとえば長嶋茂雄
のように、記憶(または日本人の変遷)に非常にわかりやすい切れ目を入れてくれて
いて、だから私もなんだか知らないうちにビートルズにまつわる記憶が多くなってし
まっているし、それを使うと話が通用しやすい気がする。
 脇道ついでに言うと、あのとき私が池澤さんに「小説を書いたりしないんですか」
と訊くと、池澤さんは「書いてないわけじゃないんだけど、難しいね」というような
ことを言っていて、その池澤夏樹のはじめての小説「夏の朝の成層圏」が掲載された
のが「海」の最後の号で、そのとき同時に、待ち望まれていた高橋源一郎デビュー第
2作の「虹の彼方に」が一挙掲載されてしまったたものだから、「夏の朝の成層圏」
は前半しか「海」には掲載されなかったのだった。「海」の廃刊は85年だったか、
84年だったか……。

 さて「悲しき鉄道員」に話を戻すと、70年の9月にぐんぐんチャートを上昇して
きた曲があって、それは「悲しき鉄道員」ではなくて、「男の世界」だった。
All the world loves a lover……という歌詞で始まるその曲は、チャールズ・ブロ
ンソンが登場する「マンダム」という男性化粧品のCMソングで、最後にブロンソン
が髭を剃った頬と顎に手のひらをあてて「んー、マンダム」というそのCMはバカ当
たりして、商品も大ヒットになったが、歌っていたのはもちろんチャールズ・ブロン
ソンではなくて他の誰かだった。
 しかし当時、大半の人は、とまでは言わなくてもかなりの人たちは、「男の世界」
という歌までもチャールズ・ブロンソンが歌っていたと思っていたのではないだろう
か。「男の世界」という歌は、それくらい完全にチャールズ・ブロンソンのイメージ
の中で歌われていたわけで、今はもう私の記憶からも名前の出てこない「男の世界」
の歌手もまた一発屋だったというわけだが、それどころか、「男の世界」という70
年の秋に日本のポップスのチャートを席巻したその曲は、アメリカでは発売もされて
いなかった。何故なら「男の世界」という曲があったから「んー、マンダム」という
CMを作ったわけではなくて、「んー、マンダム」というCMのために「男の世界
(Mandom)」という曲が作られたからだ(断言はできないが、確かそうだった)。
2ヵ月くらいヒット・チャートの1位にいつづけたその曲は、しかし私にはまったく
ポップスには聞こえなかった。
 「演歌と一緒じゃん」というわけだ。
 というわけで、なんともセンスの悪い「男の世界」が1位に君臨し続けていたとき
に、2位か3位まで上がっていった曲が「悲しき鉄道員」だった。「悲しき願い」
「悲しき街角」「悲しき雨音」「悲しき17歳」と、「悲しき」という言葉は日本発
売されたポップスの枕詞みたいなものだが、アニマルズが歌い、尾藤イサオが歌った
「悲しき願い」がロックであるように、「悲しき鉄道員」もロックだった。「悲しき
熱帯」というのも忘れてはいけないが。
 ショッキング・ブルーはその半年前に「ビーナス」を大ヒットさせていたが、私は
「ビーナス」は知らなかった。70年代前半というのは、テレビでかかる曲とラジオ
でかかる曲がほとんど完全に分かれていて、ラジオを聴かなければポップスというの
はもう本当にいっさい耳に入ってこないようになっていたのだ(連載のたった2回目
で、私はこれに類したことをもう何度書いただろうか)。
 ヒットしてから1年、2年……と経ち、「ビーナス」はギターのイントロが印象的
なために、その部分がギターを弾き始めた中学・高校生が必ず1度は覚えるフレーズ
という、一風変わった定着の仕方をしたが、「悲しき鉄道員」はヒットの期間が過ぎ
去るのとともにまあ普通に忘れられていった。80年代になって、「ビーナス」はバ
ナナ・ラマによってディスコ風にアレンジされてリバイバルするのだから、確かにシ
ョッキング・ブルーと言えば「ビーナス」なんだろうが、私にはやっぱり「悲しき鉄
道員」の方がいい曲に聞こえてしまう。
 ところでショッキング・ブルーというのはオランダのグループです。「ダッチ・サ
ウンド」なんて名前もついていたが、オランダのグループが大挙して英米のヒットチ
ャートを賑わしていたわけではない。だいたい「ダッチ・サウンド」という命名自体、
日本でのことだけだったかもしれない。……しかし、それから1年後くらいにアース
・アンド・ファイアーというグループが出てきて、「シーズン」という曲をヒットさ
せることになる。
 それは私の『残響』の中の「コーリング」に出てきます(中公文庫では53ペー
ジ)。雑誌掲載時も単行本にするときも、文庫にするときも、「アース・アンド・フ
ァイアー」というグループ名を、校正者が必ず「アース・ウインド・アンド・ファイ
アーではないか」と指摘してくる。「前後を読めばそれがディスコ・サウンドじゃな
いことぐらいわかるだろ!」と、おこりたくなるのだが、私の怒りの本当の原因は、
アース・アンド・ファイアーが完全に忘却されていることなんだと思う。アース・ア
ンド・ファイアーが忘れられているということは、まあやっぱり、ショッキング・ブ
ルーが忘れられていることも意味している。他人の個人史なんて知ったことじゃあな
いだろうが、本人にとってはやっぱり小さくないことなのだ。しかし「大事なこと」
と言うほどでもないような気がする。それを考えるのも、このREAL ROCK 
CHRONICLEの目的なのではないかと思う。

 で、「悲しき鉄道員」だが、中学2年の秋、私は45回転のドーナツ盤のレコード
を毎日毎日2回、3回、4回とかけつづけた。
 「45回転? ドーナツ盤? EPレコード? 何ですか? それ?」と、言う2
0代後半の編集者がいるからもうホントにいくら説明してもキリがないのだが、レコ
ードには1分間の回転数で33回転と45回転と78回転があって、順にLP、EP、
SPと呼ばれていた。SPはほとんど蓄音器の時代のレコードで、蓄音器は78回転
させなければ音が悪かったのだろうが、その後改良されて、45回転、33回転でも
音質が保てるようになり、普通は、シングル盤は45回転で直径17センチ、アルバ
ムは33回転で直径30センチだから、シングルをEPと呼び、アルバムをLPと呼
んでいたりもしたのだが、直径17センチで33回転にして片面に2曲ずつ入れた「
シングルLP」というのもあったりした。60年代後半になると、SPをかけられる
78回転の機能は普通のレコード・プレイヤーにはついていなかったが、私の家のス
テレオは古かったので、78回転もついていた。
 ついでに言うと、78回転だと直径30センチあっても片面で6、7分しか入れら
れない(33回転では25分くらいが上限だっただろうか。回転比の単純比較でも7
8回転?6、7分、33回転?25分というのがだいたいわかってもらえるだろう)。
片面6、7分しか録音できないとなると、クラシックの40分とか50分ある交響曲
をレコードにするとどうなるか? 1曲の交響曲のためにレコードが4枚も5枚も必
要になる。いまのDVDの箱入りセットみたいなものだが、SP盤時代はその4枚5
枚ある1曲の交響曲が昔の立派な写真アルバムのような形にセットされていた。33
回転のLP盤を「アルバム」と呼び、その後CDになっても残っている「アルバム」
という名称は、たぶんここから来ている。話を戻します。
 で、「悲しき鉄道員」だが、中学2年の秋、私は45回転のドーナツ盤のレコード
を毎日毎日2回、3回、4回とかけつづけた。
 勉強机とベッドと小さい本棚とステレオでいっぱいになってしまう自分の部屋の中
で、「悲しき鉄道員」を聴いている自分の姿が見えるような気がする。シングル盤の
ジャケットを持って、裏に印刷された歌詞を見ながら、私は何度も聴いた。毎晩7時
と決まっていた夕飯までの時間、秋だからもう外はすっかり暗かった……。
 ポロロン、ポローン。ポロロン、ポロンポロンポロン。ズッチャチャチャ、チャッ
チャー、チャッチャー。と、アコースティック・ギターのイントロがあって、女性ボ
ーカルのマリスカ・フェレスの Have you been broken hearted once or twice? 
という掠れ声の歌が始まる。バンドはボーカルを除いて、ギター、ベース、ドラムス
の3人だから、演奏はぺらぺらに薄っぺらくてチープ。しかしそれはいま聴くからで
あって、当時そういう風には感じなかった。当時の音はクリームやレッド・ツェッペ
リンなどごく一部のハードロック以外はみんな薄っぺらかった。
 しかし1番が終わって間奏に移る寸前の「アーーーーーッ」というシャウトは、そ
んな薄っぺらさを、時代をこえてぶち破るように聞こえる。私は内面に逆巻くリビド
ーの嵐の中で燃えさかる炎にガソリンをぶっかけられるみたいな気持ちで、あのシャ
ウトを聴いていたことだろう。演奏は技術も形態も時代とともにどんどん進歩するけ
れど、ボーカルは一回性のパフォーマンスだ。

 ショッキング・ブルーの最大のヒット曲は「ビーナス」で、「悲しき鉄道員」は「
ビーナス」にはだいぶ劣るけれど2番目のヒット曲だろう。それ以外の曲を記憶して
いる人は私の同世代にもきっとほとんどいないだろうけれど、ショッキング・ブルー
で1番の名曲といったら71年に発売された。BlossomLadyだと思う。これまた日
本では「悲しき」がついて、「悲しき恋心」というタイトルだったことは、
http://www.d3.dion.ne.jp/~gonohon/pop8.htm
を見つけてはじめて知ったのだが、そのBlossomLadyは、アップテンポのはずなの
にひどくかったるく、そのかったるさの中でマリスカ・フェレスの掠れ声が炸裂す
る。シンプルで記憶に残るメロディといい、薄っぺらい演奏といい、全体が70年代
のATGの映画に通じるテイストに満ち溢れている。BlossomLadyは、世界中のポ
ップスの中で(ロックとは言わないが)70年代前半を代表する曲なんじゃないだろ
うか。
 ショッキング・ブルーはオランダではたぶん国民的ロック・グループで、HMVに
行けばいつも3枚か4枚はCDがある。たいていは「ビーナス」や「悲しき鉄道員」
や「悲しき恋心」の入っているベスト盤だが、どうも最近でもまだ活動をつづけてい
て、新曲も出しているみたい……なのだが、何年か前に買ってみた、80年代くらい
までをカバーしているベスト盤の、その80年代に作られた曲を聞くと、聞くに耐え
ない。
 70年代前半の曲は、私がかつて1度でもそれを聞いたからという理由だけでなく、
まるっきり聞き憶えのない曲でも、それなりに「いいんじゃないか」と思えるのだが、
80年代に入って、ロックに対する別の思想が入り込んでくると、このバンドの作曲
者のメロディ・メーカーとしての才能が一挙に崩れる。この作曲者の場合には80年
代にふさわしい曲への転換に失敗したということだが、80年代に入ってなおも70
年代風の曲を作っていたとしてもその悲惨さは変わらないだろう。70年代風の曲は、
80年代以降の演奏技術や録音技術や、そういった環境のすべてに合わないのだ、き
っと。
 そんなこともまた、どこかで自分自身の過去が傷つけられるように感じてしまうほ
ど、ショッキング・ブルーには思い入れがあるのだが、そんな私でもやっぱり当時シ
ョッキング・ブルーのLPつまりアルバムを買おうとはまったく全然思わなかった。
私がはじめて買ったLPはレッド・ツェッペリンだった。
______________________________END______

へなちょこ研究者の日常 「研究をする」  BY/よ

わたしは生きものの研究をしている。今、世の中で生命科学といえばちょっと最先端
風でかっこよく白衣を着て「このまま順調に行けば30年後には臓器移植なんて要ら
なくなるかもしれません。」とか言っていそうなカンジだけれど(わたしの思い込み
か?)、そんな世の中の役に立って人に喜ばれるような研究にはわたしは縁はなく
て、わたしがやっているのはいわゆる基礎研究というやつでそれは「生きものってど
うなっているんだろう?」という純粋にヒトの好奇心からのみ端を発しているモノな
ので多くの場合は何の役にも立たず、だからこんなことで人様からお給料を頂いちゃ
っていいんだろうかと思わないこともないのだけれど(でも貰うけど)、かといって
別に人の役に立つ研究をしようとも思わない。それは別に科学とはそもそも真理を探
究するものであって人の役に立とうという目的でする研究は技術開発であって純粋な
科学ではない。と思っているからではなくて、というかわたしはあまり科学とは何
か。とか、技術とは何か。真理とは何か。みたいに言葉を定義することには興味はな
くて、もちろん人が話をする上で、特に科学論文のようなものであれば余計にすべて
の人が共通してソレと認識できるような言葉、たとえば「まつ毛」と言えば「上下の
まぶたの縁に二〜三列に並んではえている毛(小学館国語大辞典より)」というよう
に定義づけされた言葉が必要だけれど、たとえばほんの一週間くらい前にわたしのい
る研究室のメンバーたちがなぜか「ウイルスは生きものか」ということを熱心に議論
していて、それは言い換えればウイルスが「生きもの」の定義に当てはまるか。とい
うことだから「生きもの」をどう定義するかでその答えはおのずと決まってくるわけ
だけれど、わたしはそのために「生きもの」をはっきりと定義する必要性も興味も感
じなくて、そんなことよりもウイルスが増えたり感染したりするしくみの方にずっと
興味がある(とはいっても実際はウイルス自体にあまり興味がない)。つまり、わた
しは言葉の定義よりもわたしの外にあるはずの現実世界に何があるのか。ということ
に興味があって、かといってそれを自分で理解する(理解したと感じる)ためには、
あるいは人とその認識を共有するためにもその現実世界を言葉に変換しなければなら
ないわけだけれど、今、わたしが言いたかったのはそれではなくて、世の中には何の
役にも立たない(立たせる気がない)のにただ「知る」という目的のために日々研究
をして暮らしている人間が存在する。ということだ。

春というのはおもしろい季節で、特に日本では年度が終わって始まる季節だから職場
で人がいなくなったり新しく入ってきたり、テレビ番組が大幅に改編されたり、サッ
カーや野球の新しいシーズンが始まったりする季節で、そんなころに桜が咲いて散っ
たと思ったら木々がいつの間にか濃いのや薄いのや黄色みがかったり赤みがかったり
した緑の葉っぱをたくさん出して、それが大げさでなく「日に日に」成長して、冬の
間は枝が妙な方向に曲がりくねっていてへんてこな形をした木だなあと思っていた木
の枝が葉っぱに覆われてフツウの街路樹に変身したりする季節で、たぶん。希望に満
ちて研究室に新しく入ってきた新人を見たり、植物の圧倒的な生命力を見せつけられ
たりするせいだと思うのだけれど、春になった最近、わたしの心にはどうしてわたし
は毎日代わり映えなく研究室に行って知っても知らなくても何が起こるわけでもない
ことを知りたいと思って研究をしているのだろう。という思いがよく浮かんでくる。
それは五月病に括られるような種類の春に蔓延する気分の一つに違いなくて、いつの
間にかワサワサと生い茂った木々の葉っぱは冬には落ちてもまた来年も再来年も50
年後も春になれば生い茂るだろうし、来年も、再来年も、生まれた子供たちはいつの
間にか大人になって、職場にもどこからか新人が現れて、そうやって植物も人間もあ
るいは他の生きものもみんな季節のなかで生まれては死んで行くなかで世界は変わら
ずそこにあって、わたしはいつの間にかそこからいなくなる。そう。どうせわたしは
いなくなるのに、わたしは「知って」どうするんだろう?
この、どうせいなくなる(死ぬ)のに。という気持ちがここでは大きなポイントにな
って、さっきも書いたようにわたしは単にソレがどうなっているのが知りたいから研
究をするのであって、自分の研究が社会に役立つかということには興味はないから、
わたしが死んでわたしの脳が機能しなくなったら、せっかくわたしが「知った」その
中身はみんな無駄になってしまうことになる。ていうか、どうせ死ぬのになぜソレを
するのか。という疑問はもちろん他のあらゆることに当てはまって、要するに、それ
はどうせ死ぬのになぜ生きるのか。という疑問にきっと収束していくものに違いない
けれど、けれどもわたしはその問いに関しては疑いを持つつもりがないのはたぶんわ
たしが自然科学の信奉者だからで、生きているのはわたしが生きものだからに他なら
なくて、死ぬまでは生きることは純粋に自然現象で疑問を持つ余地もないと思ってい
る。で、どうして「知る」のか。という疑問に戻るのだけれど、そこには短い人生だ
から他にもっと良いことがあればむしろソレをしたい。という思いも含まれている。
残念ながらわたしは今、ここにその答えを見つけたからこの文章を書いているわけで
はなくて、それでも「自分の住む世界を知っている方が生きていく上で有利だから、
ヒトは生きものの生存戦略として好奇心を発達させた」というような理由ならば思い
つかないこともないのだけれど、わたしの知りたいのはそういうことはなくて、たぶ
ん「知る」ということがわたしにとって個人的な目的である以上、死んですべて消え
て無駄になってしまうというのは動かしがたい事実で、それでも、わたしはわたしの
外にある世界がどうなっているのかを知りたいし、おそらく百年前の誰かも、千年前
の誰かも、もっともっとずっと前からヒトはそれを知りたいと思っていたに違いなく
て、その人たちが個人的ではなく、社会のために世界を知りたいと考えていたとはあ
まり思えなくて、そして今も、わたしもたぶんその他の誰かもやっぱり自分が住んで
いるこの世界のことを知りたいと思っていて、その(その科学的な部分の)積み重ね
でいつのまにか科学はなぜが人に疎まれるくらいに発達したのだろうけれど、そうや
って多くの人が自分には何も残らないのに(名前が残った人はいるけど)それでも世
界を知ろうと世界に働きかけて生きて死んでいくというのは(それは科学には限らな
いけれど)よく判らないけれどもなんだか凄いことのように思う。今はここまで。来
年も春になったら同じことを考えるだろうか
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■画素力弱めのデジカメ写真ギャラリー「そらめめ」 くま
            こちらへどうぞ
               ↓
http://www.alles.or.jp/~takako9/sorameme030530/sorameme_top.html
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 その1 を読みたい方はこちらへ(写真付き)
http://www.k-hosaka.com/merumagaK/gajin/gajin.html

□連載:「がじんな日々」その2 高瀬がじん

そんな時代を経てツッパリで名を売った俺は、学校内の弱虫どもに尊敬され、子分を
引き連れ次第に街へ繰り出して行くことになる。藤沢南口ロータリーはJR東海道線
と小田急線が交差するもっとも学生の通行人数の多い登下校の合流地点だ。たいがい
みんなそこにタムロするのがツッパリの日課だ。学校という枠組みを越え、そこには
OB、暴走族、テキヤ、チンピラやくざなどの、まさに世の中のクズのオンパレード
だ。まぁ、テキヤはちょっとは役にたってるかなぁ(?)。学ランの下は、夏はTシ
ャツかアロハシャツ、冬はセーターなどを着て、コインロッカーにカバンと学ランを
隠してしまえばそのまま私服同然。どこから見ても学生には見えないとみんな思い込
んでいた。ところが、俺もそうだったが、みんな薄っすらと生やしたホコリの様なヒ
ゲがどこかガキ臭い。にきび面の肌はまさに学生そのものなのだが、喫茶店で煙草を
吸っても文句をいう奴はいない。俺達は体育界系なのでそこいらの大人よりも喧嘩は
強い。それを恐れて誰も文句を言わなかったのだろう。もちろん上には上がいるもの
で、学校にも番長や副番長と呼ばれる存在もあったのだが、俺達は番長グループに属
する存在と言っていいだろう。藤沢南口ロータリーでは毎日喧嘩がしたくて、5、6
人でウロウロしながら、他の学校のツッパリを探して歩いた。ある時、小田急線の改
札から背の高いリーゼントのツッパリが降りて来た。校章を外しチョンバッグに白い
テープが巻いてある。チョンバッグとは、その当時流行ったカバンなのだが、取っ手
の部分が通常の学生カバンより長く、輪っかの様な形状をしていて、ペッタンコに潰
してある、要するに不良が持つカバンのことだ。その取っ手に白いテープが巻いてあ
るということは、「喧嘩上等!買うぜ」を意味しており、喧嘩に自信のあるツッパリ
の決まりきったスタイルなのだ。そんな奴を目の前にして、俺達は見て見ぬふりが出
来るはずもなく、そいつとの距離を近づけ眼(ガン)の飛ばし合いだ。目と目が合っ
た。相手の引きつった表情がわかる。相手はリーゼントでどちらかと言うと格好良い
軟派系の学生だ。それに比べて俺達は、丸坊主でが体が良く、デカイ剃り込みを入れ、
眉毛なんか半分くらい無くなっているほど剃り落とし、しかも昆虫の触覚の様に尖っ
ていて、ある意味気色悪い。そんな人相の奴等が5、6人で半径15m以内に近づい
て睨み付けるわけだから、今考えてみると俺でも怖い。というか、長髪が許されてい
る学校の奴等が羨ましいやら憎たらしいやらで、とにかくそいつ目がけて突っ込んで
行った。チョンバッグに白いテープを巻いてある以上言葉は必要ないのだ。しかし、
5、6人で袋叩きにする様な卑怯な真似はしない。
あくまでもタイマン(1対1の喧嘩のこと)だ。相手は見かけほど強くなく、睨めっ
こ状態の時から腰が引けていた奴だから、大して喧嘩も強くなかった。「おいこらぁ
!白いテープなんて舐めた真似すんなよ!!」「はい!す、すいません!!」ってな
具合で片が付いたのだ。そんな日々を生き甲斐として、硬派を気取りながらまるで自
分達の縄張りの様にイキがって歩いた藤沢南口ロータリー。時には相手を間違え、自
分の学校の先輩をシメて、朝学校の下駄箱でばったり顔を合わせてしまい、先輩達に
袋叩きにされたこともあった。しかし、その生活の中で何かを学んだこともあるのだ
ろう。もっともそれがなんだかわからんが。
そんな俺達にも欠点があった。硬派を気取っていて奥手な俺達は、女との縁も薄くシ
ャイなのだ。外ではイキがってはいるものの、こと女問題となると純粋というか、み
んな自宅の部屋でオフコースを聞いたりもする。丸坊主で剃り込みが入り、その上、
眉毛が半分になった顔にオフコースが似合うはずもないが、とにかくその当時、恋愛
事となるとみんなオフコースを聴いたのだ。俺は、不純異性交遊で訓告処分を受けた
こともある。しかも、情けないがその女との出会いで人生が捻じ曲がった。今考える
とアホらしいが、そんな時もあるんじゃないかなぁ(?)。中には高校の同級生を妊
娠させ、高校生で子どもを産んでしまった奴等もいる。そして、中には相手が分から
ず妊娠してしまった女の子もいたのだ。その子の親が学校で大騒ぎした。ホームルー
ムで議題にあがったくらい問題になったのだ。その子は相手の名前を言わない。先生
に相手は誰なんだ?と聞かれても、泣きながら首を横に振るだけだ。先生が、「お前
等男らしくしろ!!」と怒りだした。「正直にこの子と関わりのある奴は、たった今
廊下に出ろ!!」と言ったら、クラスの三分の一の男子が廊下へ出てしまった。とい
う事件も冗談ではなくあったのだ。俺のクラスは男子だけなのでそんな問題はなかっ
たが、先生はその状態をその子の親に報告するのかが気になるところだった。まぁ、
振り返るといろんな出来事があった訳だが、やっぱり街へ繰り出し喧嘩をしている方
が性に合っているのだ。その頃の喧嘩は、今の様な陰湿なものではなく、スポーツと
も言えるほど清々しいものだった。・・・と思う。そんな俺達を暴力のプロ達が見過
ごすはずもない。俺の同級生の叔父さんで、藤沢のそこそこ偉いやくざがいた。俺達
はその同級生(そいつも俺の子分の一人のようなものだが)と一緒に、毎日のように
やくざの事務所でタムロすることになった。寿司は食えるは、小遣いはくれるはで、
学生の分際で常に3万〜5万くらいの金を持っていた。特に金の使い道など無いのだ
が、毎日の喫茶店代にインベーダーゲーム代、仲間が女を妊娠させた時などの中絶費
用のカンパ金として使う、いわゆる互助会費の様なものだ。その頃、世間(学生の間)
では俺達を「金ボタンやくざ」と呼んでいた。背景には地元暴力団のお偉いさん、子
分が十数人、資金源はやくざから貰う小遣いと喝上げ(恐喝)した金。それだけで充
分楽しかった。後に、がぶん兄もその暴力団のお偉いさん達とソフトボールの試合を
やったりするほど親しい仲になったのだ。
(がぶん@@からの補足)
がじんはどうやら思い違いをしてるようだが、実はソフトボール大会は実現しなかっ
たのだ。その組長にボクが野球の試合を申し込んだら、「軟球の上投げ?」と聞くの
で「もちろん!」と答えたら、「オレはこれだからよー」と言って右手を出してみせ
た。そしたら指がまとめて2、3本ほど欠けている。そして、「でもソフトボールな
ら慣れてるし」というので、なるほど塀の中で……と思い、「じゃ、ソフトボールに
しましょう!」といった。で、試合場所を鎌倉の市営球場にするんで、まさか「湘南
ヘッヘヘーズ(ボクが持っていた野球チーム)VS○○組」ってわけにもいかないんで、
ボクが「『懲りない面々ズ』っていう名前でどうですか?と尋ねたら、これが大受け。
というわけで試合をすることにはなったのだが、その後、ボクがその話を持ち帰って
チームのみんなに伝えたら、「アウト・セーフで刺されりするかもしれないからヤダ
ー!!」という意見が大半を占め、結局試合はご破算になってしまったのです。懐か
しい思い出だ。あの組長どうしてるかなぁ……そうそう、数年前に割腹自殺しちゃっ
たんだった。
                 つづく
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■お稽古の壷 二回目  けいと

今、お茶には月に三回通っています。
去年一年間は、月一回のコース(お茶には不似合いな言葉です)で通っていて、そう
すると、お稽古でやったことが、次には一ヶ月あいてしまって、なんだか、いくらな
んでも、身につかない気がして。もし、休んだ時には二ヶ月も、なにもやらないわけ
だから、全然だめ。すっかり忘れてるんだから。
お茶の場合、千利休のかるたにもあるように、「茶の湯とは、ただ湯を湧かし 茶を
をたててのむばかりなる事と知るべし」ってことで、基本的に、茶道で習うことは、
お茶を煎れてお客さまに出して飲んでもらうという、その一連の動作なわけだから、
そんなに、ややこしいことをすることもないことだろうと思うけれど、こんなこと言
ってると、それこそ、お茶をやってる意味がなくなってしまうので、いまのところ、
考えないことにする。岡倉天心の「茶の本」に「茶はわれわれにとっては、飲む形式
以上のものとなった。それは生の術の宗教である」なんて、ふむふむとわかったよう
な気になれないこともないような記述もあるんだけれど、やっぱり言葉じゃなくてこ
ういうことは、身につかなきゃしょうがない。
まあ、「身につく」ということで言えば、月三回というのは、ちょうどいいのかもし
れないけれど、それにしても、このごろのわたしは、随分、お茶三昧な感じがする。

とにかく、なんで、こんなにと思う程、お茶には決まりごとがあって、お作法もなん
やかやとあって、ちゃんと把握しきれないから、適当にやって、他の人と違ってる
と、あせったりもするけれど、だからといって、ものすごく恥をかくとか、右往左往
するほど困ったりしないから、ほんの少しずうずうしくなってきた年代には、なかな
か緊張感のある楽しいお稽古ごとだなーと思う。美味しいお茶菓子も楽しみだし。
実際、お稽古にきているお弟子さんで、もう、30年以上というおばあさまが三人い
て、その三婆様は、まるで、ピクニックにきてるみたいで、いつもほんとに楽しそ
う。三人とも東京からお着物で通ってるんだけれど、お弁当持参で一日中いる。ひと
りは柳橋さんといって、偶然なのかどうか、柳橋に住んでいる。ふたりめは、目が細
くて丸顔でいつも笑った顔なんだけれど、むかしのお人形さんみたいに愛らしくて、
話の内容から、家には、しっかり者のお手伝いさんがいるらしい。三人目は、昔の女
優さんのように美しい人で、聞いて納得、元芸者さん、置き屋の女将さんだったそ
う。この方たち、60才は越えてるだろうとは思っていたけれど、そのうちのひとりが
ニ.ニ六事件の時、小学校6年生だったと、こないだ話していた、つまり、もうすぐ80
才。そんなお年には見えないけれど、もう亡くなった先代から習ってる訳だから、ち
ょっとすると、今の家元よりも貫禄がある。よろよろしながらでも、お手前はしっか
りしてて、適度な間や、余計なおしゃべりもなんだか風流で、やっぱり、たてたお茶
の味が違う。
薄茶は、シャカシャカと茶筅を目にも止まらぬ速さでふって、お茶をたてるわけなん
だけど、20回くらい振るのがおいしいらしく、これは、かき混ぜるのとはちょっと動
作が違ってて、やっぱり、「たてる」という動作なんだろうけど、その間にお茶を醗
酵させるんだそうだ。これはたてすぎてもだめで20回以上ふったら、まずくなると先
生が言ってたけれど、当然ながら数えながらたてている人はいない。ちなみに濃茶は
たてる時に目にも止まらぬ速さで振らず、どちらかというと、「練る」という動作で
す。
さてと、お茶を習いはじめたからと言って、すぐにお茶をたてられるかというと、そ
うじゃない。しつこいようだけど、やっぱり、その前におじぎだとか、床の間、茶花
の拝見から、お茶の頂き方だとか、おぼえなくちゃいけないお約束事がいっぱいだ。
だいたい、お茶室に入る前から決まりごとははじまるんだよね。
まず、お庭にまわって、蹲踞(これ読めたらすごい!正解は「つくばい」です)で、
手を洗う、正確には、手、口、そして、ここが重要なんだけど、心を浄めるんだそう
なの。俗世の汚れを清め、あらたな心で席入りするんだそうです。
普段、そんなところで、手なんて洗ったことないし、そうでなくても柄杓で水くんだ
りしないから、こんなかんたんなことでも、なめらかにするするとはできなくて、初
めての人は戸惑っちゃうけど、決まりごとにのっとると、それぞれの動きがちゃんと
合理的に美しく進められるのだ。
次に、玄関の戸を開ける。この戸ももちろん日本家屋だから、ドアじゃなくて引き戸
で、しかも、ほんの少し、2センチくらいかな、開いてる。これは「どうぞ、中にお
入り下さい」というサインで、それがぴったり閉まっていると、「まだ、入れません
よ」と言うことだと、最初に習ったのだが、もう、すっかりお茶の稽古が始まってる
時間帯にも、ぴったり閉まってることが多くて、たぶん、お弟子さんの中でも、忘れ
っぽい人とか粗忽者が、うっかり閉め切ってしまうみたい。
トイレも、ちょっぴり開いてる時には、「中には人はいませんよ」という意味、閉め
切ってる時には「使用中」、どんどんたたく必要もないし、これはとっても優雅でし
ょ。こっちのほうはみんな忘れないみたいで、そのサインはちゃんと守られている。
まあ、所作としては、流派は当然だけど、その中にあっても、お茶碗や茶入れなど細
かいお道具によって、扱い方から順番まで変わるし、季節で炉の種類、窯の置く場所
が違っていて、そうすると決定的に座る場所や向き、それにあわせて道具を置く場
所、扱いが変わる。
ね、こんなこと読んでるとうんざりするでしょ。そういうわたしも、書こうと思って
たことからどんどん遠ざかっていくような気がしてきて、まどろっこしくなってるん
だから。
でも、しょうがない。
だって、まず、「炉の種類、窯の置く場所が違う」と書いて、全く茶道をやったこと
のない人で、ぱっと、その図が頭に浮んでくる人なんていないでしょ。やってる人だ
と、夏は風炉(「ふろ」と読みます)、冬は炉、で、場所も全然違うってことくらい
わかるんだけれど、やってない人に説明するのは、ほんとに、難儀なことです。それ
に、わたしのように、お茶に興味があって、習っていても、お茶の本を読むとわかん
ないことだらけ、それどころか、読めもしない字ばかり出てきて、どうしましょうっ
て感じ。読める字でもね、わたしは、「茶花」をずっと、「ちゃか」だと思ってい
た。本当は「ちゃばな」と読むんだけれど、実際、床の間に飾ってある花を見て「今
日の茶花は、、」なんて言うのを耳にしたことがなくて、ただ単に「今日の花は……」
って言うから、ずっと聞くこともせず、当然、本に振り仮名もふってないから知らな
かった訳なのだ。
それに、着物。これもまた、やっかいなのね。
でも今は、やっかいなだけにおもしろくなってきたところ。
そこのところは次回に。
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■稲村月記・vol.26 猫まんが「二イちゃんの疑問」 高瀬 がぶん
  →http://www.k-hosaka.com/gekki/gekki26/gekki26.html
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メールマガジン「カンバセイション・ピース vol.03」2003.5.30配信
発行責任者:高瀬 がぶん 編集長:けいと スーパーバイザー:保坂和志
連絡先:0467-32-4439・070-5577-9987
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