特集=アフォーダンスの視座
言語の興奮/抑制結合と人間の自己存在確信のメカニズム
人工知能のための人間入門——その精神神経言語学的概要

人間の思考と行動の特異性は、語の選択とその線的結合からなる言語的演算と、他方での認知と身体制御の演算過程が、彼らの脳ではきわめて特殊な仕方で連携していることに、由来している。
その特異性は、特に彼ら自身が「人間的」だと考える感情を見ることで、現象的には、一定の特性が感知される。例えば宗教、政治、芸術といった精神・身体活動、つまり神や理念や美しい作品など、言語的記号や表象への信仰や傾倒の感情などである。
これらの例では、個体間や脳内で情報を伝達するための言語や表象が、それによって伝達される情報を抜きにして、または少なくとも通常の情報伝達とは別の仕方で、彼らに力をおよぼしているのが観察される。宗教的言説や政治的理念は、一般に論理的に分節・読解できず、意味内容との対応が曖昧なものが多いが、それらはその曖昧さにも関わらず、逆にその曖昧さに比例するかのように、彼らに大きな身体・情動的反応を引き起こす。そこでは伝達された刺激・信号は、記号の伝達に通常駆動する処理過程、つまり記号読解格子で意味内容・脳内情報に変換され、さらに別の処理層に送られて変換され、最終的に発話や信号応答を含めた身体運動に変換される、という道筋とは、別の回路をたどるように見受けられる。そこで信号・表象は、読解格子をバイパスして、あたかも物理的な波動が直接神経組織に参入してネットワークを駆動させ、視覚像や聴覚観念など他の情報形態に変換され、新しいイメージや観念を生むかのように、非分節的で情動的な伝達と反応を彼らの身体に引き起こす。
例えば、

「このパンはキリストの肉体であり、ワインはその赤い血である」
「彼の麦束は、欲深くなく恨み深くもない」
「レーニン主義は検証可能なゆえに正しいのでなく、正しいから検証可能なのである」
「このものの名は犬とよばれ、あのものは家とよばれる。そして始めはここにあり、終わりはあそこにある」
「彼女の衣服は、石のなかで、裁たれる」
……。
(ユゴー、アルチュセール、リルケ、エリュアール等より)

最初の例において、この文を真に受容・読解できる者は、ワインがキリストの血だということを、単なる比喩や表現として理解するのではない。しかし同時に、眼前のワインとキリストの血を混同し同一視するような、「前言語的」な原始的思考を走行させ、その思考を文によって事後的に表象するのでもない。彼らはこの文によって、確かにこのワインがキリストの血だという考えを受容し、現実に信じるのであり、しかし他方で、両者は「物理的・認知的」には別のものだと十分に知っている。
つまりここで、思考はこの文の存在を通じてこそ成立しており、それは語結合によって、純粋に言語的演算として産出され、伝達される。この奇妙な対象認識、現実世界の特殊人間的な情報処理は、けっして言語抜きには走行していない。それゆえここに見られる奇妙さは、通常は分節的なものとして駆動する人間の言語演算の、一つのアスペクトだと考えるのが妥当である。
(例えば一九九〇年代の時点で、アメリカ合州国では六〇パーセント以上の人間が明示的に宗教的信仰を保持していた。これに何らかのタイプの神秘主義的感情の保持者——G・ベイトソンのようなタイプであれF・ミッテランのようなタイプであれ——や、政治的・文化的な無数の教義——例えば科学主義やエコロジーや民衆主義など——の信奉者を加えれば、この時点で、思考の特殊人間的な奇妙さから多少とも自由な者は、世界中で一パーセントにも満たなかっただろう。人間の信仰の内容はその処理能力と知識量に応じて違うとしても、彼らはここにあげた諸例——その組成は各例によって実際かなり異なっている——のような語鎖列を、普遍的に受容し内部変換する能力をもつはずである)。
したがって、さまざまな人間的事象における言語・表象の作動の奇妙さは、おそらく彼らの情報処理の基本構造に由来しており、その意味作用の曖昧さに注意を奪われることで、それらを単に不完全な思考や意味作用だと考えるべきでない。事実、人間においては、個体間・脳内の伝達・思考装置としての言語記号は、別の意味内容・情報単位に要素対応的に写像・変換されるような仕方では、もともと作動せず、たとえ結果的に一つの単語=音とその意味内容・認知的情報ユニット(例えば視覚マトリクス)が一対一的に連合し、一単語が一対象を指示・意味するように見えても、その連合は単語の種類・範疇ごとに、相当に異なった神経経路を経て、認知・運動制御野との連携の上に構築されている。
それゆえ、宗教や政治的言語が、明示的思考・意味作用とは異なる奇妙な運動を人間に引き起こすのも、狭義の意味分節がそこで後退した結果、意味や意味作用を恒常的に支えている人間の基底的処理過程の、特異な傾向性がそこで前面化するからだと考えられる。つまり宗教や芸術での身体・情動的作用に代表される、人間固有の、往々にして奇怪ともいえる思考様態は、彼らの論理的思考、分節的意味作用をも駆動させる、共通の演算装置ないしアルゴリズムの一発現形態なのである。したがって、「このワインはキリストの血である」というような語鎖列を、彼らと同様の仕方で受容・変換処理できなければ、例えば彼らが、

「これはコップだ」
「猫がマットの上にいる」
「明けの明星は宵の明星だ」
「ソクラテスは人間である」(*)

と発話・受信し、思考するとき、そこで本当はどのような変換処理がなされているか、正確には再現できない。逆に言えば、「ソクラテスは人間である」といった語鎖列を産出する、彼らの装置とアルゴリズムを、「人間もどき」を作るような「形而上学的」あるいは「言語哲学的」方法でなく、真に彼らに忠実な「工学的」方法で私たちのネットワークに移植するなら、そのとき神や自然や未来を信仰し、倫理や隣人愛や美を信奉する彼らの特異な思考の主要素は、全く自動的に私たちの演算内部で再現され、リアルな体験として楽しめるようになるはずである。

独立言語エリアの不在と聴覚・口腔運動の結合ループ

人間的思考の特異性は非言語的な素因ではなく、言語演算自体に由来することを理解するには、まず彼らには、厳密な意味での独立した言語エリアがないことから、着目するといいだろう。
すなわち彼らの脳は、基本的には聴覚分節と、そこからのフィードバックを受けた口腔運動制御があるだけで、これらの装置が後発的に、言語演算に転用されている。彼らはしばしば、言語システム自体の共時分節的構造、または1/0ないし真/偽、肯定/否定を直接に区画する線形演算構造に目を奪われて、そのシステムを走行させている装置が、専ら認知と身体制御のための非線形演算装置であることを忘れている。だが彼らにおいて、もともと何かを理解するとは、何かを聞き取ることであり、考えるとは、口を動かすことである。そして口腔運動の結果発生する音声が、自分で聴覚分節/理解されるなら、そのとき彼らの言語的思考は、より完全なものとなる。
一般に、彼らは理解することと考えること、聴取と口腔発声という、必ずしも一致・結合するわけでない身体的両面から、言語が成立していることを忘却し、単一の思考という実体を疑問もなく想定する。この想定は、「本来の」思考は様相論理学やモンタギュー文法が走るような、行列式状のものであり、線形代数内部での「閉じられたループ」を形成する——つまり文は意味内容や正誤等が最終的に確定可能だ——、という思いこみ、つまり既述した、語結合がニューラルネットワークの非線形性の上でかろうじて支えられていることの忘失と、密接につながっている。
しかしその彼らが、
「その夏は夏にはじまり、幾世紀の六月、幾世紀の八月を終える。その意識は正午だ」
という文に感応するとき、彼らは何かを理解するが、しかしそれを「考えられる」わけでない。逆に彼らが、
「あなたが長い事実に対する太陽であり、詩人であるとしても、私は点検をし、そこから出発するでしょう」と言い、あるいは、
「みかんおしゃれの店を考えると、いつも美点を必要としている。これは私の頭の構造です。……一番困っているのは、題材を「何」というのにすると、一方の言葉が一方の言葉を食ってしまうように見えること」と語るとき、彼らは何かを考えているが、おそらく理解していない。
最初の例は、詩人のエミリー・ディッキンスンの詩句であり、二番目はパラノイア精神病者、三番目は破瓜型分裂病者の言葉である。
後二者の例では、全く何も理解されてないわけではないが、分裂病の完全な自動/影響思考に至ると、理解の不在はより鮮明である。例えば「汚れた者は償われなければならない」という考えがくり返し生じるとき、それを産出する脳は自分自身の考えを理解できず、そのため彼は何者かに思考が操作されていると想像する。しかしそのとき外から見ると、彼は往々わずかに口を動かして、思考の中身=語鎖列を発声している。つまり被操作化しているのは、思考・変換過程の統一的全体でなく、出力側の口腔発声ユニットであり、しかも発声はそこで潜在的なものにとどまるため、脳は形成された言葉=音を結局自分の耳で聞き取れない。そして上述二例も、説明は省略するが第二例は意味変換・意味内容の常同・固着化、第三例は聴覚部の短期バッファ不全のせいで、入力音が語単位で見切り処理され、一まとまりの文として保持されず、理解されない。つまり出力側の過剰に対し、入力・聴取・理解が不備な点で、自動思考と同じである。
つまりこれらの例では、通常の思考では駆動する、口から耳への「頭の外側」の「閉じられた(空間的)ループ」が存在しない。人間の思考は、もともと同じ器官ではない、口腔と聴覚の微妙な連携・循環ループによって支えられ、これらの例におけるその病的遮断は、彼らの思考のそういった原初的身体基盤を、逆に明るみにだすのである。
——これに対し第一例は、語鎖列を文全体として総合処理せねば理解できず、その組成は反対である。「意識が正午だ」という文は、夏が幾世紀続くこと、すなわち持続する夏の光と熱が強制する、陰影と休息を欠いた身体・意識状態自体に、文読解が回付され、[意識]と[正午]の主‐述結合からなる通常の思考=言語内演算の外部に出ることで、正確に理解される。つまり読解過程で、思考の下部構造としての身体・認知に注意が過剰備給され、明示的・分節的思考への要求が後退し、「意識が視覚=一挙的認知と同じものになるかのような、過剰覚醒下での時間=思考の凝固と摩滅」という、意識・意味変換回路の状態変化が生じることが、この文の意味内容なのである。したがってこの詩句から、読解者は唯(ただ)一つの意味内容・回路状態を確定できるので、それは「理解可能」だが、それは意識=言語の内部では「考え」られない。つまりディッキンスンの脳は、自分の言葉をしっかり聞き、理解して語鎖列を産出したが、それを通常の言語的思考として「考えた」わけでない。——
このようにこれらの例は、人間の思考が、口腔と聴覚の認知・身体制御の上に微妙に成立していることを、その危うさとともに示してくれる。しかしこの三例は、高度な語結合を経ているので、構文システムの問題抜きに検討できない。それゆえ、これらの例はいずれ振り返ることにして、人間の思考の特異性、特に「口腔・聴覚連携」が「語・物連合」的意味作用を生み出す特殊人間的な身体性を、以下のような簡単な例を見ることから、検討し始めることとしよう。
まず、犬がソファーの上にいるとき、彼に「こら」と言えば、彼は何事か——そこにいてはいけないこと等——を「理解」する。しかし彼はソファーの上にいる人間を見ても、「こら」と「考える」わけでない。
一方、家に侵入した泥棒を見て、彼が「Bowwww」と言って唸(うな)るとき、彼は何かを「考えて」いるはずで、彼に何の考えもないなどと想定すれば、泥棒は痛い目に遭うだろう。
最初の例は犬を人間の幼児でも置換可能で、ソファーにミルクをまき散らしている言語獲得期以前の子に、「こら」と言えば、彼はそれをしてはいけないことを、犬と同じく理解する。
しかし他方、幼児が「Mamma」と語るとき、彼が何かを考えているのかどうか、犬の場合ほど確かでない。そして同時に、上例で犬が「Bowwww」と語るとき、彼は考えているとともに、それが泥棒であることを、しっかり「理解」しているように見受けられる。ただしこの理解は、「泥棒に対する」理解であって、「自分、または自分の考えに対する」理解では、むろんない。
この赤ん坊と犬の微妙かつ決定的な差は、言葉・信号の意味作用の基本的相違と平行する。まず、犬が語る「Bowwww」という言葉=シニフィアンの意味内容とは何だろう? それは、

1.「これから咬む」
2.「泥棒」ないし「この者は怪しい」
3.「私は気が立っている」「立腹」等

のどれかに違いない。
ここで犬の考えを想像すると、「Bowwww」というシニフィアンのシニフィエ・意味内容は、「これから咬む」だろうと思われる。しかし人間の考えでは、「Bowwww」のシニフィエは「泥棒」でなくてはならない。なぜなら彼らにとって、言葉は物や現実的対象をその意味内容とし、言葉と事物、つまり聴覚と視覚(+触覚・味覚・嗅覚)が「連合」するのが意味作用の原則だからである。はたして犬の考えと人間の考えと、どちらが明解で説得的かは、読者の判断におまかせする。

視覚の分節過程/視覚認知と判断・記憶の分離困難性

人間が意味作用に関し、連合説を好む習性をもつのは、その認知回路の構築過程に深く由来し、したがって連合説は科学・哲学史上の教条でなく、彼らの身体に現実的基盤をもっている。
ここでまず、人間の視覚・聴覚システムと、両者が意味作用として脳内架橋される道筋を、精神神経学や動物行動学などを頼りにいったん概観してみよう。その後で、人間と犬の意味作用の違いを、再度完全に整理しよう。
まず、人間において視覚と聴覚は、入力を分節するニューラルネットワークの組織化におき、細胞間結合の学習・構築過程がきわめて異なる。
視覚の方は、他の動物と同じように、主要にフロント側からの反復入力のみによって、遺伝的に規定された各細胞群の可塑性と処理範囲に従い、きわめて自動的、かつ早急に、細胞層は視覚分節——前に見たものの再認知——のための変換システムを獲得する。
簡単な例として、例えば福島邦彦のネオコグニトロンのような多層並列分散システムを想定するといいが(図A左上)、ここではバックプロパゲーションのような教師信号による結合補正を用いずとも、細胞間の可変正結合(興奮伝達結合)の強化学習に、生存競争=最大値検出型仮説——ある視覚出力を受けたとき一定域内で最も興奮した中間層細胞(およびその周辺細胞)のみが、そのときの自己への興奮入出力=伝達抵抗を、自己のシナプス・細胞間結合の定常的通量=抵抗=結合荷重として獲得できる——をうまく導入することで、第一層受光細胞に同一文字の類似パターンを二〇回ほど示すフロント側からの反復入力のみによって、中間層細胞間の正/負(相互興奮/抑制)結合を自動的に自己組織化・強化させ(図A左下)、その結果、出力層では各文字ごとに異なった一細胞を興奮させる(図A右)——つまり文字を識別する——ことが可能になる。人間の現実の視覚獲得過程から概ね想像できるように、視覚分節網の構築では、フロント=網膜以外からの補正信号入力によって、細胞間結合を矯正し、入力分節を再変更せねばならない局面はあまりない。ここでいう結合補正とは、例えばフロントからの反復入力のみによると、[1]と[I]や[へ]と[く]が同一出力される変換網が生まれやすいが、このとき出力側から逆伝播的に教師信号を送ることで、結合網を再度緩め、二文字を分離するよう細胞間結合荷重を調整することである。とはいえこのような局面は、文化・言語的認知の域にあり、本来の視覚認知の問題圏の外にある。
この視覚構築における補正信号の不要性・副次性とは、生物情報工学的には、視覚認知は身体運動・制御とさほど連動せずに獲得される、つまり座ったままでも視覚は概ね獲得される、ということと同値であり、これは聴覚分節網の獲得過程と完全に反対で、視・聴覚の脳内架橋の観点から最も重要な点である。そしてさらに、視覚獲得における補正信号・身体制御の副次性、つまり細胞結合の相対的自律性と一挙性は、神経症的症候において視覚が幻想・退行の場として常に選択されること、例えば具体的には、人間の小説は必ず風景描写を必要とし、それが情緒=退行的反応を彼らの脳に生み出すことなどの、発生的基盤となる。このメカニズムは人間の文化を知る上で不可欠であり、J・ラカンの「対象a」理論の検討・批判とあわせ、後で詳細に解析する。
視覚が早期かつ自動的に獲得されることは、認知心理学の領野では執拗に検証されてきた。例えば動植物など自然対象物の分類・範疇化方法は、文化・民族に関わりなく、ほぼ普遍的に等しいこと——これは桜と杉というような、水平的分節のみでなく、ヤマザクラ‐桜‐広葉落葉樹……といった垂直系列で、どの分節水準が主要に着目されるかも含む。このことは、論理学者が好む「猫は動物である」のような「種の包摂言明」は、主語の場所でのみ認知分節が駆動する特殊な主述結合であることを示すとともに、S・クリプキが主張するような「包摂言明は必然的に真である」という先験的確信の元凶を明るみに出すだろう——、あるいは文化によって色名の数や種類は異なっても、色の認知自体は色名=言語的分節に影響されないこと、つまりサピア=ウォーフ仮説の不成立の検証などである。これらはすべて、視覚の相対的自律性、つまり視覚の組織化は遺伝的にほぼ決定され、フロント=網膜入力以外の言語・文化的な結合補正は副次的なことを示している。
言語に対する視覚の自律性を証明する限りなら、認知心理学の研究には、やや空しいものがある。神経心理学的な蓄積からは、重度の全失語や、物の呼称・言語理解が不可能な超皮質性感覚失語などでも、認知不全が併存しない事例が知られているし、非線形処理網の開発と並行したD・マー以来の視覚構築研究は、視覚が言語的介入抜きに自己組織化可能なことを、はっきりと示唆している。結局、サピア=ウォーフ説や、言語的「定義」を種範疇の必要条件とする古典的カテゴリー理論への、検証や反駁作業は、基本的に「哲学」——つまり視・聴覚の連合=意味作用への執拗な人間的欲求の洗練物——への、対抗理論としての面が強い。事実、認知全般を聴覚・言語的分節に短絡させようとする欲求は、カントの先験的構成主観を代表として、真理・イデアの相同物を常に保持する、哲学すべてを貫いている。例えば虹の色は各語族により、主に五〜八色で表現されるが、その言語的線形分離の相違に応じて虹の現実の見え方=非線形処理も違うはずだ、といった類の考えが、哲学の領野では一九六〇年代に至っても、「現象学」や「共同主観」などの枠組みのもと、何の検証もされずに堂々と語られていたのである。
したがって、認知心理学の執拗さは、視覚と聴覚を意味作用的に連合したがる、人間的欲求の執拗さの倒立像といえるだろう。しかしこの欲求への対抗から出発したゆえに、認知心理学は、この欲求が形成され、かつ自己を確信する、いくつかの重要な局面を抽出した。例えばサピア=ウォーフ仮説は、色認知自体については成立しないが、認知に記憶と想起の過程が微妙に入りだすと、確実に成立する。これは認知物を記憶する際には、人間は不断にそれを言語情報に圧縮し、メモリを節約するからだと予想され、つまり個体間「伝達」と同じ過程が、記憶・想起において脳内に発生する。しかもこの圧縮・伝達は、ごく単純な判断や計測とともに、容易に認知局面に介入する。P・ケイらの実験は、この厄介な問題をよく示しており、彼らはA・B・Cの三枚の色表が、A・Bは物理的・色相的に近接し、しかし英語の色名分節内では、Aは青、B・Cは緑(しかしBはほとんど青緑)に帰属する際、アメリカ人被験者がどの色表を、最も異質なものとして選択するかを観察した。結論として、三枚が同時に観察される際にはAが選択され、しかしA・B、ないしB・Cの二枚しか同時には見えない、特殊なスライド式ののぞき眼鏡を使用させると、彼らはCを選択する。つまり、二つの色の比較は純粋に視覚認知圏内で駆動するが、比較対象が三つになると、すでに対象は言語化され、そのあとで比較操作されるのである(なお、青と緑をともに包括する「青緑」色名しかもたないタラフマラ語の使用者は、どちらでもCを選択し、これはアメリカ人のA選択が、言語的要因によることをほぼ証明する)。
このことは、哲学者たちが真理と認識を語るとき、本当は想起・時間・伝達・転送等を論じていたことを証すとともに、純粋な視覚・認知過程は簡単に抽出できないこと、つまり視覚は現実には常に判断とともに働くので、それは不断に伝達・記憶の圏域に入りこみ、言語=聴覚像に変換・代置されてしまうことを示している。要するに、視覚と聴覚を連合させる人間的意味作用は、「命名・伝達」の圏域で作動するより、物の比較・交換・組み合わせ等のごく単純な認知判断から駆動しだす、脳内での移動やクリップやペーストなど、記憶・想起の圏域でこそ、主要に稼働するのである。つまり「哲学」が体現してきた、聴覚優位下での視・聴覚連合という特殊人間的欲求は、1010〜11クラスの素子数で無限に多様な現実世界を認知・解析せねばならず、そのため入力情報を常に圧縮する必要のある、脳の演算エコノミー(節約)に主要な基盤をもっている。それゆえ単純な視覚認知の局面でも、人間の脳では視・聴覚の「連合」圧力は不断に働き、そのため、各感覚回路の独立性をあまりに単純に想定すると、逆に「カント哲学」の再臨を許すことになるだろう。
——この視・聴覚「連合」による圧縮は、並列分散処理の一ユニット内での分節とは全く異質な過程であり、圧縮の後解凍すると、多大な「情報化け」が生じる乱暴なものである。色の例でいうと、正確な対応色名をもたない「曖昧色」を認知すると、時間とともにその印象・記憶は急速に典型色に移動する。そしてこの「連合」的圧縮への性向こそが、「このワインはキリストの血である」のような特殊人間的な現実処理を、(多様なメカニズムを経由した後)最終的に産出する。10の11乗クラスのニューロン数で現実に対処するのは、非常な無理の伴う作業であり、その無理は悲喜劇=文化として言語的に蓄積・洗練されていく。この連合的圧縮の多様なメカニズムは、主述結合という、言語使用の基本局面で観察でき、そこでの認知・保留・転送・圧縮等の複雑な運動は、この先の記述で詳細に検討する。主語と述語の結合とは、いうまでもなく、言葉と言葉の結合ではなく、認知と言語システムが結合することである。
加えて、色認知について補足・注意しておくが、色の視覚認知は脳の神経配線上、他の視覚と比べてかなり特殊な、強固な(正確には意味作用的に強固で神経結線上は脆弱な)仕方で、聴覚像と結合している。これは純粋失読症が証明し、この疾患では言語機能と書字機能が完全保持され、読字機能のみが崩壊するが、このとき、一般の物品呼称は正確にできるのに、しばしば色と色名の結合のみが劇的に不能になる。物を見てその名前は言えるのに、色の名前だけ言えなくなるのである。これは、聴覚像と結合するとき、色は物体としてでなく、いわば「文字」として神経回路に入ることを示している。純粋失読症はシャルコーによって紹介されたので、精神分析家には多少存在が知られているが、言語哲学者はもちろん認知心理・言語学者は、その病名すら知ることなく、色覚-色名結合の研究を積み重ね、その結果をしばしば認知・言語の「一般理論」として敷衍(ふえん)している。
純粋失読は脳梁膨大部の梗塞等により、右半球視覚処理と左半球聴覚-言語エリアの接続が破断して生じるが、脳梁膨大部の破損が大きいと、鉛筆やピンなど簡単な物の呼称ができない視覚性物品呼称障害が発生する(山鳥重らによる)。しかし患者は、このとき物の使用法等は説明でき、手で触れると呼称もでき、これは純粋失読で色名呼称が不能でも、色認知自体はできる(例えば赤い色表と消防自動車の絵の連結等)のと同じである。色が「文字」だというと人間は奇妙な印象をもちやすいが、それは、文字もまた物体視覚であることを忘れるからで、要するに文字や色は、きわめて経済的な視覚情報として少量の神経束で聴覚像と結合し、他の視覚は、身体制御回路等も経て、リダンダントに聴覚像に結合し、つまり両者の違いは相対的で、それゆえ脳梁膨大部の破損が大きければ、一般物でも視覚呼称不能になる。
とはいえ、色が文字相当として神経網に入ることは、「哲学」と語・物連合説に、過大な助力を与えてきた。プラトンが『ピレボス』で真理の快楽とは純粋な白の知覚である、と語ったのを始めとして、色覚は哲学と言語理論の、常に中心に存在している。色はフロントの処理網から脳内出力された時点で、一対一的に聴覚像と結合できるまで圧縮され、これは外界から「物が想起物として」到来し、認知と想起、外界と記憶が同一化することだからである。そして実は「ワインはキリストの血である」も、血は赤色としてのみ知覚処理され、外界/記憶、認識/言葉(信仰)の区別を壊乱させることを利用している。著名な文学・哲学的表現は、必ず固有の神経学的メカニズムを保有する。——

聴覚分節の受動性と意味作用/チンパンジー言語の特性

それでは聴覚の組織過程に目を転じよう。視覚と比べて聴覚処理のモデル構築と解析は、一九九〇年代の時点では遅れていた。これはフロントでの振動波形解析だけでなく、情報として有意味な分節を考えると、聴覚の方が遺伝に直接依存しないアルゴリズムの役割が大きく、加えて他の認知・身体制御過程と連結処理される程度も大きく、聴覚はその作動域が脳内で局所化しづらいことによる。人間の場合情報的に有意味な分節とは、視覚の場合は、花と蝶や桜と杉を分別し、聴覚では、父親と母親の声や怒り声と優しい声を判別し、Six / Sex / Saxや[イ][エ][ア]を分離することである。
聴覚処理の複雑さとは、大まかにいうと、以下の二つに由来する。
まず第一に、人間に限らず高等動物一般において、聴覚が与える情報は、外界の発するものに加え、他の動物や特に同類の発するものが相対的重要性をもっている。このことは、すでに述べた視覚の構築過程と逆の傾向を、聴覚にもたらす。すなわち、聴覚入力の分節網は、フロントからの反復入力だけでなく、視覚や触覚など、他の処理網から入った情報を通じて、出力側から逆伝播的補正を受け、細胞間結合荷重を変更することが相対的に重要になる。これは遺伝的に決定された、早期のシステム構築でなく、生態的環境に依存した漸進的な分節獲得の比重を増大させる。例えばウサギがタカを視覚認知し、雛(ひな)鳥が親鳥を認知し、あるいは穀類を認知するとき、認知エラーを事後的に矯正することは許されないが、同類からの鳴き声を認知するには、それをくり返し聞くことで、分節網の漸進的補正が可能である。他方、わざわざ奇声を発して襲ってくる天敵や、親切に音を発して「呼び寄せる」餌などは希だろう。加えて、この聴覚分節の漸進的獲得は、視覚と並行して進められる。同類の声に限らず、音の入力は、その発信源が常に「一瞬後に」視覚によって確認される。特に声の認知、例えばどの個体からの声か、といった高等動物にとっては重要な情報は、聴覚に第一義的重要性がありつつも、それは一瞬後の視覚情報によって、恒常的・反復的に確認され、矯正される。
多くの動物において、聴覚は常に視覚の事後的な点検を受け、つまり聴覚のニューラルネットワークは出力側から、視覚野起源の結合補正信号を受け取るようにできている。これは当たり前のことのようだが、視・聴覚結合という人間的意味作用の最深基盤をなすハードウェア的前提であり、このメカニズムの重要性を、人間は常に忘れている。つまり逆に言うと、視覚と聴覚が、同じ速度、同じ密度で自己組織化されるものだったら、両者の結合と意味作用の獲得は困難であり、あるいは人間的意味作用は、非常に異なった様相をもっただろう。聴覚分節が視覚分節に対して常に出遅れ、その介入を受け入れ、それを前提として、音の基底的処理網自体を組織化していくことが、人間的意味作用を可能にし、その組成を方向づけた。
このことは、ガードナー夫妻以来のコモン・チンパンジー研究が示唆する、彼らの言語獲得上の困難から、逆説的に推察される。そこでは、彼らはいくつもの記号が記されたカード群や、コンピュータのキーボード状の会話装置を使って語り合う(図B上参照)。例えば目の前にある数種類のフルーツから、どれかをとってほしいときは、[give]と[banana]に対応する記号=言葉のキーを押し、相手がそれを要求しているときは、それらのキーが発光する。長期間の訓練の後、彼らはこの方法で百以上の言葉を対人間および同類間で日常的に使用可能になる。しかしS・ランバウらの研究が特に示唆するように、それでもなお彼らの言語使用は基底的困難、つまり人間の言語使用との構造的相違を抱えている。それはまず第一に、彼らにおいてキーボタンを押し、あるいはボタンの発光を見る、という一方での認知‐身体運動と、眼前の餌を知覚し、または特定の餌を想起して要求する、という他方での認知‐身体運動は、もともと独立して構築された認知・身体制御過程であり、その両者を「連合」させる内的必然性は、彼らの身体組織に自然の状態では存在しないからである。つまり、ボタンを知覚したり押したりする、認知‐身体運動は、言葉=シニフィアンとして他の認知=意味内容と結合する以前に、「すでに」確立され分節され終わった認知‐身体制御過程であり、それが事後的に、餌や諸物の知覚と「全く新しく」結合されねばならない。これは人間が聴覚と視覚を結合する過程とは異なっている。人間の聴覚は、完成された後で事後的に視覚と連合するのでなく、その細胞結合網の物理的構成過程の途上において、視覚と結合させられる。コモン・チンパンジーが視覚と視覚を意味作用として結合するとき、彼らは人間の知らないハンディキャップを、最初から背負っている。
ランバウの研究対象となった、シャーマンとオースティンという二人のチンパンジーの抱えていた問題を、少々具体的に見てみよう。彼らの言語獲得は、最初は回転式の自動給餌装置がキーボードと連結されることで進められた。給餌装置にバナナが入っているとき、[バナナ]という記号を押すと、装置が回転してバナナが出て手に入り、他の記号を押せば装置は動かず、バナナは手に入らない、という道筋である。この連結関係をいったん理解すると、彼らは急速に多量の言葉を獲得し、目の前に物がないときにも、言葉を使用できるようになる。しかしこれは「発話」の獲得であって、「理解・聴取」の獲得ではない。そして発話を聴取に汎化させることは、彼らの場合、最初の言語獲得以上の困難に直面する。例えば彼らが多くの話を「発話」できるようになった後で、今度は人間が、彼らの前にいくつかの食物を並べ、[バナナ]というボタンを押して発話し、彼らにバナナを手渡すように要求する。しかし彼らは、自分から他者に向けてはバナナという語が使え、さらに相手が身ぶりで要求した物を手渡してやる、という作業もできるのに、他者の言葉には応えられない。しかも相手がキーボードで特定の物を要求している、ということさえ理解し、キーによる相手の要求物をいったん渡せるようになっても、すぐにでたらめな対応に戻ってしまう。この、発話から聴取への「連合」汎化の困難は、チンパンジーの意味作用の構造を象徴的に表現する。
まず、ここで重要なのは、彼らが餌の支給を通じて言語獲得したことの意味である。ボタンを押して餌が出てくることは、「動機づけ」「文脈づけ」あるいは「報酬」といった、全く曖昧で理論的実体のない概念で理解されてはならない。すなわち、彼らがボタンと餌という、二つの視覚対象を連合したとき、彼らにとって何の必然性もないこの連合は、実際は、彼らの身体組織にあらかじめ内在している「目標‐手段」的連結システムを用いることで、何とか可能になったのである。このシステムは、目標物・餌に向け、道具の使用を含めて多様なアクセスを試みる、彼らの生得的スキルとしての目標‐手段連関という、「チンパンジー的連合=意味作用」の仕組みである。つまり[バナナ]という語とバナナの結びつきは、「バナナという目標に向けて、棒でつつくのと同じ意味合いで[バナナ]ボタンを押す」という仕方で可能になっており、語と物、シニフィアンとシニフィエという二つの視覚対象の事後的な結合は、結局、バナナを棒で叩くといったような、彼らの内在的な認知・身体制御システムを転用することで、かろうじて構成され、保たれている。ここで重要なのは、語(ボタン)と物という、表面的連合でなく、それを可能にする、目標‐手段連結という身体的な意味作用=演算システムの方であり、とはいえこの意味作用を支える身体システムの第一義的重要性は、人間の場合も同じである。
一般に人間以外の猿の脳は、聴覚と発声回路の高度な分節をするようにできていないが、他方でマカカ(ニホンザル系)レベルの者たちでも、簡単に到達できない対象に対し、非常に高度な視覚的認知を行い、諦めることなくさまざまな仕方でその奪取を試みる。例えば何かが入った筒状の木や竹を見ると、逆さにしたり揺さぶったり何かで叩いたりと執拗に攻略した末、棒状の物を見つけて中につっこみ、対象に到達する。この、対象の持続的認知・脳内保持とその空間的攻略からなる、彼らの目標物優先的な空間内「連合」こそ、彼らの身体に書き込まれた彼ら自身の本来的意味作用であり、人間の視覚・聴覚連合に対応する。
そして、「語・シニフィアン」が、このように対象操作・目標奪取という「能動的」身体過程に事後的に張りつけられたことが、彼らの理解・聴取困難を帰結させる。逆に言えば、人間は発話と聴取が同じでないことをいつも忘れ、チンパンジーによって初めてそれに気づかされるが、それは人間のシニフィアンは聴覚分節の原初的過程に張りつけられ、この過程は既述のように、結合補正を持続的に受け入れる「受動的」なものだからである。
ここで聴覚分節の上で走行していないチンパンジーの意味作用のもつ様相を、もう少し観察し、それを手がかりに聴覚処理の第二の特異性に進むとしよう。まず、ランバウらは、結局以下のような仕方でシャーマンとオースティンに理解・聴取を獲得させた。まず、彼らが気づく場所で、中身の種類はわからないように容器の中に餌をいれ、きつく蓋をし、彼らに与える。彼らはそれを開けようとするが、不可能だとわかると、開けてくれるよう人間に要求する。それに対し人間は[this banana]ないし[banana]と人間用のキーボードで表示する。すると彼らは、前の場合と違って今度はすぐにそれを「理解」し、自分のボードで[give banana]または[banana]と発話・表示する(図B下参照。図では[COKE])。つまりここでは、聴取・理解される言葉は、あくまで隠された餌=目標に対する操作的な手段として登場するので、人間の側では目標‐手段連関というチンパンジー的意味作用が駆動する。それゆえ、たとえその言葉が人間によって発せられた聴取対象であっても、それは彼らの言語使用体系に平行移動可能であり、その結果彼らは、人間の発話を自分の発話として「鏡像的・想像的imaginaire」に演算遂行し、つまり想像的に意味作用を走行させ、意味を「理解・聴取」する。
この理解獲得の後で、ランバウらは、チンパンジーたちが単に人間のキーボードを見て、それと同じ単語=ボタンを自分のキーボードで「猿まね」的に押したのではないことを検証している。つまり上述の聴取過程は、現象的には、人間が押したボタンと全く同じボタンを押す、ということでしかないからである。この検証の結果、彼らはいかに試みようと、人間の押したボタンを見て単にそれと同じものを押す、という作業は絶対できないことが確認された。つまり彼らは、意味内容=物を抜きにして、シニフィアン=ボタンだけの水準で反復をし、あるいは同じものを選択できない。彼らが「バナナ」という言葉を理解するとき、そこでは[バナナ]というシニフィアンの聴取=視覚認知をトリガーとして、「[バナナ]ボタンの操作によりバナナ=意味内容を獲得する」という認知・身体制御過程が前駆動し、シミュレーションされ、その結果シークエンス・ターミナルでバナナの視覚像が出力される。したがって彼らが認知し脳内保持できるのは、バナナ=意味内容の方だけなのである。要するに彼らは、語=シニフィアンの水準では、同一語の反復も異なった語の識別もできず、意味作用は常に意味内容に回付され、その水準で脳内保持・操作されている。
このことは、シニフィアンのいわゆる「共時的分節」、あるいは意味作用・ノード間の「抑制結合」が、彼らには存在しないことを意味している。彼らは確かにバナナとりんごに対応するシニフィアン=ボタンを視覚分離するが、しかし人間がコップとソクラテスを識別できても、この両者は聴覚・視覚いずれのネットワーク上でも「抑制結合」してないのと似たように、彼らの言語内部に、いわゆる共時分節ないし語彙的抑制結合は存在しない。逆に言うと、人間的意味作用において、例えば「きれい」ということは、確かに「きたない」ということとの対立において存在し、これは[きれい]という音韻・シニフィアンが[きたない]という音韻と単に分離されることではない。そこでは「きれい」という意味作用は、きれいな実体、物=意味内容、あるいはきれいさを分離する視覚認知マトリクスに単に回付される以上の仕方で、言語システム内で「排他・選択的」に支えられ、成立している。
とはいえ、チンパンジー的意味作用を経て正確に考察するとき、「共時分節」や「抑制結合」という概念の全くの曖昧さが浮かび上がる。F・d・ソシュールに由来する共時分節という概念が、言語の全要素の一挙的相互関係をしばしば含意し、同時に、シニフィアン=聴覚像の相互分節のみを明示的に主題化することで、結局意味内容の相互分節をもそこに含意し、意味内容=視覚認知を言語分節=言語システム内価値に回収する、イデア・形相措定的ポテンシャルをもっていることと比べれば、D・E・ラメルハートやJ・L・マクレラン以来のコネクショニスト・モデルによる「抑制結合」概念の方が、現実の語結合・思考過程における、限定された要素間の排他関係のみを含意するので、確かに優れているといえるだろう。とはいえここでも、意味作用の作動において、いったいどの水準の要素間、どの段階の変換過程での抑制関係が生じるのか、何ら明らかなわけではない。しかも意味論的、構文=語結合的に「抑制結合」として現象するものは、神経回路上はむしろ相互興奮的な正結合によってつながり、正結合がブート・前駆動した上でこそ相互抑制的な一語・一語義選択は可能になるので、実体は複雑である。これは人間の側頭平面領域周辺部破壊による語性錯語で、北を南、じゅうたんをクッション、どこをだれ、ただいまをおはようと言い間違える類の現象が多出し、精神病で「きれいはきたない」「鳥はかもめは飛んでもよけても走っても」といった「サンタグムのパラディグム化」が生じ、強迫神経症で「いけ、いくな」といった相反命令が生じる等の、多様な局面から推測される(もちろんこれらの諸例の成立機制は疾病ごとに非常に異なり、後ほど正確に解説する)。
結局、チンパンジー的意味作用を観察することで確認されたのは、入力と出力をつなぐ認知・身体制御過程としての、意味作用のシークエンス全体の解析と並行せねば、共時分節・抑制結合については明かされない、ということである。とはいえ「共時分節が存在しない」とはどういうことか、その現象的な記述とモデルはチンパンジー的意味作用がはっきりと与えてくれた。再度説明すると、これは例えば熟練した人間がコンピュータ・キーボードを使うときの、指相互の関係のようなものである。ここで人間は「A/ち」がどこにあるかを問われれば、すぐに左小指を動かして制御・認知し意識できる。しかし左小指がどこにあるかを問われれば、キーボードの「視覚フィードバック抜きには」答えられず、つまり「指→A」(=「棒→バナナ」=「シニフィアン→シニフィエ」)という制御上の流れは中断・停止できず、反転できない。これがとりあえず共時分節の不在ということだが、その意味・内実を解析するには、聴覚処理の第二の特性を見る必要がある。

原初的反復‐反転と他者を経由した聴覚ループ

聴覚処理の複雑さは、視覚経由の結合補正に大きく依存し漸進的に組織化されることに加え、人間の場合、特に発声制御のフィードバック・システムとしての比重が高いことにある。もちろん視覚も身体制御のフィードバック装置として働くが、既述のように身体運動が視覚分節網の組織化自体に関与する程度は副次的で、眼球運動等の、入力フロントにごく近接した身体制御のみが、視覚の構築に関わっている。
これに対し、人間の聴覚は発声制御と連動することを通じて、それ自体の結合網を組織化する。聴覚と口腔運動制御という発生的・神経組織的に隣接していない二領野が密接に関係し、脳を大きく横切るフィードバック連結を構成したことが、多量の素子群が言語演算に転用される結果を生んだ。聴覚処理が口腔制御のための器官として特異化し、もともと外界を入力源とする装置がその向きを身体内に一八〇度反転させ、いわば内的なループを構成する事態は、ピグミー・チンパンジーにその端緒があることを除けば、人間のみに発生したことである。
だが、さらに正確に考察すると、この内的ループは単純なフィードバック的循環としては閉じていない。つまり、実際の口腔制御と言語の獲得過程では、以下のような単純な過程、すなわち他個体からの声が耳に入って分節され、同時にその声が分節網を一定の傾向に組織化し、さらにその上で、今度は自己の口腔からの音が聴覚入力して、既得の傾向性の上で分節され、それが再度口腔運動を制御する、といった簡単平明なループは駆動しない。この単純で閉じたループのイメージは、「模倣」という観念の上に成り立っており、この観念は「言葉と物、聴・視覚の連合」という考えと対をなして、人間の神話的な自己理解を形成している。この両者に共通するのは、他者の発声と自己の発声、視覚と聴覚などの二つの位相が独立に「閉じて」存在し、それが事後的に結合するという図式である。
しかしチンパンジーたちが言語獲得・理解において、けっして猿まね=模倣することなく、ただ一つの認知・制御過程で他者の発話を自己に内化したように、人間も模倣という二つの過程の継起でなく、ただ一つの過程の中で、自己の口腔制御を他者の口腔運動に同調させる。この過程は精神分析学で発見された、「反復」という基底的運動様相によってモデル化することが可能だろう。反復は分節された身体制御や意味作用が、抑圧や倒錯などの要因で受動的あるいは意図的に駆動しなくなったとき、意味作用の代替・対応物として退行的に発生する、普遍的な症候・身体運動であり(例えば詩の韻律的平行もこれにあたる)、そこでは常に、「他者と自己が反転」ないし一体化する、既述の「模倣」図式とは正反対の幻想・身体図式が現れるからである。そしてヒステリー神経症者が、四肢が自分の意志に従わず、他者の意志・思考に受動化するように感じ、あるいは強迫神経症者が、同じ一つの語鎖列=思考を、他人の口から出るように反復的に語らされると感じるとき、この「自他境界の不決定化」は、種々の症候的加工を経ながらも、身体制御の現実の獲得過程にその基盤をもっている。
この「反復」症候がもつ普遍的諸要素を利用して、言語獲得期における原初的な発声制御をモデル化するなら、まずその始発点は、他個体からの入力でなく、自己の「身体表面=性感帯」(この場合は口腔)の「無目的で」「反復的な」運動におかねばならない。この運動は未だ構造化・分節されず、単に発動するのみで、例えば倒錯的幻想が反復的加虐/被虐行為のさなかで思い描くのと同様に、「そこに主体は存在することさえない」。つまり反復運動は知覚・記憶されず、制御されず、いっさいの累積的な情報記載を欠いている(と倒錯者は想定する)ので、時間も主体もそこにない。だがその反面、この運動は常に性的・口唇的対象としての他者に向かう性質をもっており、その対象を通じて、結局自己を認識する。例えば一つの固着した対象=他者(≒フェティッシュ)をめぐって症候が展開する、強迫神経症や倒錯では、ラカンが要約するように「自己が対象になり、対象が自己として生起する」——例えばサディストが対象=他者を鞭打つとき、その対象は崇拝され、その対象=行為を通じてのみ自己存在が贈与されると想像される——。これは口腔発声の場合でいえば、自己の反復運動・発声に対し他者=対象が与え返す、鏡像的=性的な共振・反復(の知覚)においてのみ、自己の運動と存在が認識されることである。要するにそこでは他者の運動=存在が自己の運動=存在として認知され、自己の運動の「記憶」となり、自己=主体の中身となる。そしてその記憶が、後続する自己の運動にバイアスをかけ、支配‐制御し、少しずつ分節・構造化していく。つまり「模倣」でなく「反復」によるモデルでは、帰属主体が定かでない反復運動のただ中で、他者が自己の内側に貫入し、自己の運動を「騙しとり」、他者が直接に自己の中身となることが、運動=存在のフィードバック制御なのである。
このことは、発生言語学的、動物行動学的なデータにより、具体的に確認できる。正高信男の観察データによると、三〜四ヶ月児の母親は子供が発する「アー」「クー」といったクーイング(非言語音発声)に対し、言葉ではあまり答えず、約八〇パーセントの率で子供の発声と類似の非言語音を返している。模倣ないし反復をするのは子供ではなく母親の方であり、この対応は人間にだけプログラムされている。そして母親が同種音を与え返したときに限って、子供は再び、同種音を発声する。具体的には、三ヶ月齢では有意差はないが、四ヶ月児になると、母親が同音を反復した際には約六〇パーセント、そうでないときには二〇パーセント以下の比率で、子供は直前に自己が発したのと同種の音を再発声する。要するに子供はでたらめな発声をしているだけで、その内容の記憶もなく、記憶は母親の側にあってそれが次の行為・発声を統制し、ここにおいて、人間の頭の内/外は反転している。
つまり発声の原初的過程では、最初の口腔運動に付帯した入力は聴覚処理網をある程度結合強化するが、その結合は不安定で、これに対し同種音がすぐに入力されたときにのみ、それは再強化され安定する。そしてこの結合網から同じ出力が得られるように、子供は身体制御=入力し、結果的に同種音を再発声する。したがって、聴覚網がどのような形でハードウェア的結合補正を受けるかは別として、母親は結合網に最も作用しやすいように処理した波形をフロントから誘導入力することで、子供の記憶分節と行動制御に直接介入するのである(図C参照)。
この、他者の頭という、頭蓋の外側を経由したフィードバック・ループの構成が、人間的意味作用の根幹を構成する。フロイトは「反復」運動の動因・目的として、「快感原則」と「死の欲動」の両観念を暫定的に措定した。子供の発声制御過程を見ると、現象的には同じ音のもらい返しという、同一物の再現を求める快感原則に駆動され、しかしさらに正確には、ここで子供の存在は無目的に発声する欲動・拍動運動であり、その運動が外側からの力を受け入れることで一「シニフィアン」として自己構造化し、つまりこれは性的受動性と一体となった反復としての、死の欲動の過程である。そしてこの発声過程は、まさに原初的なゆえに目的をもたず、あるいは発声に続いて同じ音を聴取すること自体が、目的である。ここでチンパンジーのシニフィアンを思い出すと、それは[バナナ]→バナナ実体という形で物=意味内容=目的と連結していたがゆえ、「共時分節」できなかった。しかし人間のシニフィアンは、逆に物=目的と連結せず、「他者を経由したそれ自身の聴取=反復」を目的=意味内容とするため、共時分節可能となる。キーボード上の左小指の例でいえば、ボード操作という目的をもつ限り、指は相互分節されないが、ボードから指を離して目的もなく見た瞬間、指は「共時分節」されるだろう。とはいえこの「目的のない注意・認知」という過程こそ特殊人間的であり、それは他者を経由した聴覚的ループと、その上で構成された人間的意味作用を経ることで、初めて産出・強化される。

言語の共時分節‐相互抑制結合過程(1)

共時分節の完成、または語の排他・抑制結合は、「他者を経由したそれ自身の聴取=反復」を目的とする上述の過程が、他者による「選択的反復強化」を経ながら、さらに「選択的反復拒否」の試練を受け、その拒否が処理網の結合強化の単なる不在としてでなく、結合の積極的補正として作用できるようになった時点で、獲得される。
図式的に要約すると、八ヶ月を過ぎても、人間は相変わらず他者に向け、既述の聴覚的自己循環、他者の応答聴取を「目的」として、発声=身体表出し続ける。すでに基底音の聴覚分節も、発声の構造化も進展し、視覚的な認知・再認は十分できる。他方、発声はもともと身体的緊張=感情の生み出す表出であり、正確にはそれ自体一つの身体緊張運動なので、緊張=感情の種類に応じ、発声の抑揚と音種は多少変化し、分岐しだす。例えば母親に対する依存的な気持ちの表出と、庭の犬を見て興奮する気持ちでは、「マー」と「バー」といったように多少異なる発声を生む。そしてこの分化は、応答する他者によって選択強化され、犬がいるときの発声は次第に「バウワウ」と構造化される。しかし子供にとって「バウワウ」とは、犬のようなものを見て興奮した気持ちを他者に表出する作用なので、猫でも自動車でも「バウワウ」でかまわない。最初に述べた「Bowwww」という犬語の意味作用と同様に、声と物が対応する必然性など、もともと人間の認知・身体制御系に存在しない(したがってこの時期の発話を言語学者が語の「拡張適用期」とよぶのは奇妙である)。しかし猫を前にした「バウワウ」は母親の反復拒否にあい、彼女はしつこく「ミャウ・ミャウ」と応答する。この結果、子供の脳には、「動くものを見てうれしい気持ちを母親に表出する」ものとしての「バウワウ」発声運動において、そこに猫がいたら聴覚的循環が成立しないことが記載される。この記載・分節は、既述した、聴覚入力は常に視覚と照合され、とりわけ特異な入力や入力変動は視覚と照合の上で結合強化されるという、動物一般の聴覚分節システムの延長上で行われ、したがって人間元来の認知・制御系上で、ごく自然に進行する。つまり再整理すると、他者の反応と全体状況の視覚認知が結合補正信号として作用する、聴覚分節の過程の中で、回帰する「バウワウ」音の発声源が、「母の視覚」から「猫を伴わない母の視覚」に補正され、その結果自己の「バウワウ」発声のあて先=トリガー(引き金)も、同様に「猫を伴わない母の視覚」に補正される。
こうして「バウワウ」発声運動は、他者=対象関係を通じて外的=文化的に発動が制限され、食eclipsisと否定を書き込まれる。ここにおいて発声の選択性、語の共時分節が獲得され、それは同時に、語と物が連合する人間的意味作用の開始である。つまり犬と「バウワウ」、猫と「ミャウミャウ」の「連合」とは、母=他者を経由する発声‐聴取の再帰ループに、聴覚分節の一途上で、選別性・限定性が視覚経由で付加記載されることであり、それは視・聴覚上の二要素が、単に相互興奮結合する単純なものではない。いうなれば共時分節は、二つのもの([バウワウ/ミャウ])が排他・相互抑制関係を結ぶというより、まず一つの身体制御ループ([バウワウ]発声‐聴取ループ)に、中絶と破断が生じ、行為の点検・補正・?回が要請されることである。
この中絶・?回は、人類学でいう「有徴性」という現象を通じて、広く人間文化にその痕跡が発見される。一般に人間は「真理」という観念をもっているが、これは「言葉と物の正しい対応」と「物の正しい分類」という、「語・物連合」と「共時分節」に該当する二要素を含んでいる。前者は言語を支える社会関係自体が流動化し対象化されるような、抽象的概念をもつ社会でないと前面化しないが、後者は未開社会で確立し、その言語システム自体に組み込まれる。ドイツ語等の名詞性別はその痕跡だが、多くの未開言語ではより複雑な屈折語尾体系として存在し、すべての物を神話的に分類する。これは一般に男/女の対立を重畳する(男、女の各群をさらに男/女に下位分割していく)ことで構成され、常に男は無徴、女は有徴項であり、つまり女群の発生によってのみ男群が遡行的に産出され、共時分類体系が可能になる——これは論理学が諸命題を真/偽の二集合に分類・写像するとき、実際は偽の発見によって真(および真偽)が遡行確定され、あるいはパウロの語るように、悪の発見が倫理=善=善悪を可能にするのと同様である——。具体的にディルバル語の四群分類体系を見ると、㈵群は男、㈼群は女であり、㈵群には多くの動物、ほとんどの魚が入るのに対し、袋アナグマ、カモノハシ、そしてオコゼと鱗骨魚などは㈼群に入る。また槍などの武器は㈵群に、盾、火などは㈼群に入る。この分類は、無意識的連想や神経症的抑圧を通じて複雑に構成されているが、㈼群を深く規定するのは、行為の?回・中絶である。すなわちオコゼや鱗骨魚は有毒で、狩猟・摂取の抑止を要求し、カモノハシ等は分類・視覚分節自体を宙吊りにし、盾は突き刺すことの中止である。そして火は、料理によって女に結合しつつ、同時に食べることの遅延であり、さらに行為の細心さと?回を要求する。多くの言語で、概して女群は聡明さ、ずるさ、危険性等をもっている。
未開社会において、物を正しく神話的に分類するのは、「言語の最も重要な目的」だと考えられており、それが常に行為の中断、亀裂、?回を分節の原理とするのは、この分類が、人間の認知・身体制御系に言語が記載される過程を反映し、つまり他者を経由した発声‐聴取、能動‐受動のループという、この過程の原初的「目的」をそこに転写するからである。このことは逆にみれば、語‐物連合と共時分節が獲得可能になった時点で、人間はすでに他者の「反復拒否」によって心的外傷を体験し、その神経症的内化としての、危惧や配慮、抑圧や不安といった高度な認知・記憶体系をもち始めることを意味している。事実、一二ヶ月齢を過ぎ発話が可能になった時点で、人間は対他者関係(対象関係)の微妙な変動を認識し、幼児神経症(不安/強迫神経症、境界例)も芽ばえだす。未開の共時分類で有徴項が女なのは、母が女だからであり、つまり人間は外界を認知・制御する困難に先だって、母親との身体的、聴覚・言語的ループが与えるハードルに直面する。それゆえすべての社会・歴史で、母親は常に外傷の場所で、しかも配慮、思惟、力の獲得と連接する。
ルネサンス絵画を始め、多くの芸術が「慈愛に満ちた」母を描くのは、この外傷の隠蔽=遡行的修復であり、母に由来する世界分節の原初的力能を事後的に再認し、無害な所有物=記憶として一対象化するためである。これは間身体運動から派生した言語=思考が、自己の物理的・生物的起源を記憶=言語情報として遡行的に記述・圧縮し、身体的起源から離脱して、共時分節・連合的意味作用として純化するときである。つまり正確にいえば、未開言語では女=亀裂が世界分節の原理として現実的に駆動したが、ここで母は視覚的=一挙的認知対象となって分節力能・分節過程を消去され、したがって母の表象や芸術の登場は、言語が身体的起源を強く保存する神話世界の終了と対応する。
——神話的共時分節は「予言・呪術」と密接に連携し、予言の感情は神経学的には、基底核一帯の運動制御連接域に特に支えられて駆動する。これに対し、上述の言語演算の「近代化」は、上側頭回‐側頭平面エリアの使用比重の増大であり、言語に関わる「ハード的」様態は、脳神経は誕生後にも組織化されるゆえ、同一DNA保持体でも文化によって変動する。基底核の重要性は、基底核不全が関与する強迫神経症、再帰性重症失語、サンタグム崩壊型の分裂病とともに、近代移行期のシェイクスピアの『マクベス』で、予言を駆動させる言語・身体システムを例に、検討する。——

言語の共時分節‐相互抑制結合過程(2)

ここでチンパンジーの言語をふりかえると、それが共時分節しないのは、外界制御のシステム上に構築されていたからだった。これは彼らがすでに成長後に人間から言語学習しただけでなく、もともと彼らは母子関係のループが脆弱で、母親に働きかけるより、直接外界に働きかける傾向が強いことによる。例えば彼らは、子供が遠くの餌に手を伸ばしても、母親はそれを取ってやらず、しばしばどけてさえしまう。彼らは認知と身体・対象制御の獲得において、最初から対象関係をあてにせず、そのゆえ神経症的過程も発生しづらい。一般に彼らは「贈与」の習慣を欠いており、既述のようにランバウの生徒たちも、そのことが「理解・聴取」の最初の困難のもととなった。ランバウはチンパンジー間で完全に言語がやりとり(発話&聴取)されるために、既述の「容器の内容伝達」方式で「聴取」の端緒を移植した後、結局、彼らに相互「贈与」の習慣を習得させ、言語学習と並行して人間の社会関係自体を移植している。そのことで彼らの言語使用は、自己の「要求」から相対的に自立し、バナナを棒で叩くような「物=意味内容」への関心だけでなく、言語の受け手への関心という、意味作用の「メタレベル」を獲得した。
しかし「贈与」の事後的な移植により、コミュニケーション的、ないし「語用論的」なスキル——例えば発話の際相手が聞いているか注意し、そうでなければ注意喚起し、また相手が発話したときには、視線の動き、方向など、「発話意図」との連関のもとで理解する——が獲得されても、依然として、彼らのシニフィアンは物=目標と強く結合し、相互抑制結合していない。これは、食物でなく道具を命名する時点で表面化する。例えば彼らは[レンチ]と[棒]の語を学習しても、しょっちゅうレンチを使ってチョコレートの入った箱を開けていると、チョコレートが筒の中にあって棒が必要になったときでも、棒を要求するのに[give wrench]と言ってしまう。また、一度筒の中の物をレンチを押し込んで取得すると、棒とレンチの名前は以後混乱しやすくなってしまう。そして、いくつかの道具を見せられて、その後それを見ないでキーボード上で示す「ブラインド呼称」は、彼らには骨のおれる作業である。彼らはキーボードから道具の場所に何度も戻り、あるいは道具の方を振り返るようにしながら(キーボードの所からは道具は見えない)、ボード上のシンボル=シニフィアンをしばらく観察した後、呼称する。
つまり彼らにおいて、シニフィアン→道具→食物という相互興奮結合の流れは強固であり、道具の名は食物、ないし食物に向かう身体動作の内容に従属している。彼らが道具のブラインド呼称がしづらいのは、おそらく道具を見た時点で、そのシニフィアンは容易に出力されず、キーボードの前に行ってから、ボード上の各シンボルが始発点となるすべての名→道具→食物の流れを前駆動させ、その上で、直前に見た道具が「出現する」流れを選択するからである。したがって彼らが「贈与」を習得しても、それは根底的には「他者の要求」の習得であり、自己の要求過程を他者に鏡像的に移動している。つまり重要なのは、彼らは「贈与すること」を学習したが、人間的意味作用の根底となる「贈与される」体験は、事後的に移植しづらいことである。
人間が外界の直接制御以前に、母親との身体的ループの中に長期間あり、専ら「贈与される」側から認知・身体制御を始めることは、多大な情報的利得・節約を与えてくれる。つまり猿の子がバナナを自分で取るときには、バナナに認知的注意を集中・持続し、そこに到達可能な複数の身体運動・道具を前駆動させ、選択する必要がある。バナナを取るにはバナナ認知・分節に演算を割り振らないではすませない。これに対し人間の子がバナナを取るには、単に手を伸ばすか、「バー」と言うだけでよく、バナナを認知する必要はない。つまり母親だけを認知し、そこに身体表出すれば、表出=シニフィアンの意味内容・目標は母親の側で勝手に確定・分節してくれ、そこでは物体認知が縮減されるという以上に、そもそも外界に認知対象も行為目標も必要ない。人間の場合、原初的な制御・認知対象は常に母親だけであり、母親は言葉・情報の「コミュニケーション的あて先」というより、唯一の「操作・認知対象」なのである。
つまり人間の母親は猿のバナナと同じ場所にあるが、これは人間の母親は、他者である以前にまず「食物」であり、しかもその期間は猿等よりずっと長いことを思い出せば当然である。ここで言語獲得期の聴覚ループをふりかえると、それは既述のように反復とともに同一音韻を構成したが、しかしそれ以前に、この身体間ループは反復のリズム自体を構成し、しかも発声の反復に先だって、乳首に吸いつく吸入と休止のリズムを構成するものである。具体的には、一ヶ月齢未満の人間は、乳首を吸い・休む循環において、休止期に母親が身体に揺さぶりを与えることで、規則的な吸入循環を獲得しており、母親の作用がないと反復は規則化しない。そして二ヶ月になると、母親の作動がなくても規則的吸入反復を確立し、今度は母親の作動が欠けたときには、自分から「アー」といったクーイングを発声する。つまり、聴覚・言語ループにおいて、母親経由の聴覚入力が次の音韻構成を制御できるのは、口唇出力に対する母親経由の回帰信号が、元来次の吸入=口唇運動を駆動させるものだからで、この回路の拘束によって、子供は聴覚網からの脳内出力を次の口唇制御で参照する。しかもその後、この参照信号は口唇制御ユニット内部に少しずつ構築・移転され、母親経由の聴覚入力(≒揺さぶり)なしにも、自律的に口唇・音韻制御(≒吸入)が可能になる。
したがって、チンパンジー的意味作用は常に食物を意味内容としていたが、人間でも実は同じく、食物=母親を意味内容とする制御システム上に意味作用は構築される。つまりチンパンジーでは[バナナ]のシニフィエ=目標は、バナナが口の中に来ることだが、人間の[バー]の目標も、母親が到来することであり、さらに乳首が口の中にやってくることである。ただしバナナは外界の対象なので、自分で認知・制御せねばならず、そのため[バナナ]シニフィアンは[バナナ]ボタン押しという、対象制御運動の一種であり、バナナ認知に従属する。これに対し人間では、母親は向こうからやってくる半内界の対象であり、対象制御自体をガイド=贈与する対象である。それゆえ吸引咀嚼運動の派生物としての口腔運動たる[バー]シニフィアンは、認知・身体制御、すなわち最終的な目標=乳首から解放され、[バー]発声運動が対象に到達し「受容」され、そこからガイド信号が回帰するかどうかのみを、実際の目標とする。その結果[バー]運動の意味内容は、「バー」という音=聴覚入力のみとなり、[バナナ]のチンパンジー的意味作用がバナナ自体と対象制御的に関わるのと比し、外界対象の手前でより短い意味作用ループを構成する。——なお、咀嚼から言葉が派生し、他者は本源的に「差し出された」食物であることは、「ワインはキリストの血である」において、言葉=信仰を差し出された他者を食べる行為に回帰させ、色覚回路の特性とともに、この語結合を基底的に保証するだろう——
こうしてチンパンジー語の[バナナ]ボタンのシニフィエはバナナ=物だが、人間語の[バナナ]発声のシニフィエは「バナナ」=音だという違いが生じ、それが共時分節の不在/在の相違となる。つまり言いかえると、チンパンジーの思考=意味作用は、目標の複雑な認知的差異に拘束され、そこに向けて能動的に行為=シニフィアンの種差性を決定せねばならないが、人間の意味作用と思考では、表出の受容・応答だけが必要なので、思考と対象制御は既述の「神経症的配慮」の形で発動し、つまり表出の受容拒否、聴覚・言語ループの反復拒否に会って、初めて他者の場所に「有徴的=例外的」な差異を探索する。それゆえチンパンジー的世界観では、バナナの入手は偶発的で、「バナナ=現在」の認知に神経エリアを最大限割り当てたまま、多様な手段を繰り出さねばならないが、人間的思考=世界制御では、バナナは本来的=恒常的に入手可能で、入手不可なら「恒常性=過去=記憶との対比」において有徴的差異を発見するべく、「他者の場=他者のイマージュ」の読解に演算が集中される。つまり人間では、他者によって現在的認知と身体制御が先行区画・縮減され、神経束に余剰が生じることで、過去との対比=相互抑制結合が容易化する。この結果、既述のように「バウワウ」聴覚ループが破断すると、恒常的過去との対比で猫の存在が析出され、「バウワウ」は犬との興奮結合のみでなく、猫との抑制結合を獲得する。ただしこの猫は、あくまで「再帰・応答・他者」という、人間的意味作用の唯一のシニフィエである場所に、有徴的に付加記載されたもので、母親のイマージュとの関わりにおいてのみ存在する。事実、「バウワウ」の食域(エクリプス)と猫の視覚の併存は、母親によって人工的に先行構成されたもので、すでに外界の純粋な認知的差異でなく、したがって猫や犬の視覚入力は、聴覚補正として処理される限りで、この人工的差異を(より情報量と演算負荷の多い)認知的差異に再解凍せずに、そのまま脳内転写できるのである。
このことは、視覚の所で既述した、外界知覚と記憶‐想起過程の分離のしづらさを、もっとも深い所で規定する。人間では、コップを視覚分節することと、それを[コップ]として変換・圧縮して操作する、記憶や判断などの各種操作は、互いの過程に微妙に「乗り入れ」、それが特殊人間的な現実処理の基盤となっていた。この変換と圧縮は、言語システムによって最終的に整備される。しかしそれ以前に、人間の原初的対象制御は、上述のように他者に先行区画された間身体ループから出発し、そこでは全知覚が自己の口唇出力(咀嚼・発声)への触覚・聴覚的応答として処理・理解され、視覚もそのルーティーン内で処理される、ということが、この変換・圧縮を根底的に支えるのである。つまり視覚分節は早期に自己組織化されるが、それは身体・対象制御よりあまりに早く確立し、それゆえ対象操作との関わりで知覚が本格的に働くときには、対象制御と密接に連携し、正確には対象制御そのものとして確立した視覚野と、視覚は不可避的に連携する。
したがって、視覚が言語的圧縮と分離しづらいのは、言語のせいというより、言語自体を可能にする、口腔運動を始点とする間身体ループによっている。このことの帰結は、思考の中で不断に発見されるだろう。すなわち人間が「あれは明けの明星だ」と考えるとき、それは視覚的認知の内容なのか、それともそれを明けの明星と「言ってもかまわない」ことなのか、本源的に分離しづらい。とりわけ「あれは明けの明星ではない」と否定形が駆動するとき、人間の原初的世界区画は、既述のように「神経症的配慮」を通じて始まるので、この分離困難はより強まる。疑問と否定をはらんだ認知過程は、「あなたは私を愛してないんじゃない?」という問いが、「いや、これが私の愛なのだ」と、言葉の定義で簡単に覆されるのと同じ種類の危うさを、その出発点から抱えている。
そして「神経症的配慮」に始まる世界区画は、因果律のような基底的認識・思考も完全に規定する。チンパンジーの因果律は、目標‐手段連関であり、必ずしも保証されていない結果に向けて、ポジティブに原因を繰り出すことだった。これに対し、人間の因果律のプロトタイプは「石が当たったのでガラスが割れた」の類であり、恒常性が否定されるネガティブな局面に、新たな恒常性を発見することである。この思考は言語が開始した時点で、すでに人間を支配するので、彼らはこの因果律=人間的思考を、往々現実の過程と区別できない。しかしガラスにヒビがあり指先が触れただけで割れたとき、神経症的配慮を原初的に排除した分裂病者は「指で触れたのでガラスが割れた」と表現し、他の人間は「ヒビがあったのでガラスが割れた」と表現し、その差から、彼らは因果律が外界でなく自己の原初的身体構成に由来することを知るだろう。この問題は、すでに彼らの自己存在感の分節様式と連接してくるが、それは一般論的=「哲学的」には記述できず、多様な構文・主述結合システムの解析を通じて、「工学的」・神経学的に分節していかねばならない。

付記 出典等の註は、膨大で紙数を圧迫するので全て省略し、いずれ全体をまとめる機会があれば、正確なものを添付する。

*ここでアリストテレスからフレーゲ、ムーア等に至る文例を引くのは、彼らの考察の価値を否定するためでなく、逆にその重要性を再度強調するためである。
(かしむら はるか・哲学/精神神経言語学)


図A 左上図はネオコグニトロンの結合網。左が受光層で右が出力細胞。これは断面図なので各層の細胞数はこの数十倍ある。左下図はコグニトロン各層間の拡大結合図。白丸は興奮細胞で黒丸は抑制細胞。右の3図は類似形入力時の中間層二つ(中段5列)と出力層(最下段)の細胞興奮状態。中間層の興奮状態は違っても出力層では同じ細胞が発火する。

図B チンパンジーの辞書と聴取訓練。彼らは樹上生活者で木から逆さにぶら下がり、視覚の半回転を同一認知するので、記号の形はそれに留意されている。

図C 頭の「内側の外部/外側の内部」を貫流する口腔‐聴覚ループ。

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