「投げられた石にとって、落ちて行くのは悪でなく、昇って行くのが善でもない」 ストア派のマルクス・アウレリウスが記した、この言葉は、WTCの壁面に吸い込まれていった、アメリカン航空の機影をうまく表現している。 転移と想像的同化から遠い人々、同化を生み出す無知と貧困、羨望と敵意の世代間連鎖から解放された人々には、彼の言葉は、今日すでに平凡である。 世界を連続性の観点、とぎれない因果関係の網目として見る仕方は、ストア派の始祖、紀元前三世紀のキティオンのゼノンによって準備された。この考え、あるいは感情は、ソクラテス/プラトンの真理/善の構造と根本的に対立する。 連続性の観点は、人間をそこに含めることを前提する。人間は自然の連鎖の中に、欲動と表象という経路を通じて、自然と同様の必然性として埋め込まれる。つまり人間は表象・言語を介在して自然に従属する動物として客体化される。 だが、人間は動物に同化し、転移することはできない。転移の経済の上で駆動する、善と憧憬、他者との同一化、崇高性など、プラトンやカント以来の近代哲学の立つ場所は、この連続性の中にはない。 マルクス・アウレリウスと同様、本質的にストア派であるスピノザは、上述した石の比喩を、より散文的に記述する。 「精神は、あらゆるものを必然的なものとして認識する限り、感情に対してより大きな力をもち、感情から影響を受けることが少ない」 マルクス・アウレリウスと同じく、スピノザは実践的な関心、とりわけ政治・道徳的関心から、思索した。スピノザが理想的なもの、当時の現実ではしばしば困難なものとして提示した態度は、二一世紀の先進国、少なくともEUの市民階層ではありふれたものである。 ニューヨークの高層ビルが幾つか崩れ落ちたとしても、誰も驚き、怒りはしない。マグレブ、エジプト、マレーシア等々で、この一〇年の資本主義経済成長が生んだ、階級・地域分化と、敵意と羨望。それを牽引する投資家の中で、ひときわアメリカ人が市場経済への強迫的で一元的な信仰心にせき立てられ、伝統社会に精神的緊張を与えること。その伝統社会の外傷に、アメリカがパレスチナで行い続けた殺戮、居直り、二枚舌が、いかに恰好の隠喩を与えたか。こういった周知の事実の、必然的帰結。 そしてアメリカの大統領が、「これは新しい戦争だ。私が大統領だったことを、連中に後悔させてやる」と叫んでも、同様に、誰も苦笑さえしない。この国だけが膨大な労働力と高度な頭脳を世界中から受け入れ続け、文化的熟成を犠牲にしつつ、新たな投資と技術革新の輪を作って、世界経済を支える生産力となっていること。そういった国では、クリントンやゴアでさえ自己の鏡像にはできず、より素朴なイデオロギー的同化対象を必要とする人々が、数多く存在すること。人がブッシュや共和党の存在を否定するなら、それはこの国の存在を否定し、今日の科学技術の過半の存在を否定する、反実仮想と等しいこと。 ブッシュが何かを叫ぶ毎に、嘲笑する感情のわずか手前で、この認識が身体反応を抑制する。食事の席で「ブッシュが十字軍を送ると言ったらしいですよ」と誰かが言えば、人は一瞬微笑する。彼がレバノン系、中近東系なら、あるいはアメリカ人なら、数秒長く微笑する。政治社会への認識は、概ね飽和状態にあり、誰もがだいたいのことを知っており、しかしその先の、現実の技術的、経済的、心理的細部は、わからないことだらけであるのも、また人々は知っている。我々は本当はどのくらい搾取されているのか、あるいはしているのか。都市郊外のアラブ人は本当は貧しいことが苦痛なのか、広告業者やカルフールが煽り続ける貧しい欲望が苦痛なのか……。 はたしてブッシュが全くの馬鹿なのか、全くの馬鹿を演じているのか、その両者のどの程度の中間なのか、人は知りたい。この手の問いは、出された瞬間自分にも向かい、同じ程度に答えが出しづらいことを感知しつつ、ビンラディンやブッシュの直接の知り合いが彼らのことを話してくれると、人々は束の間、本当に微笑する。細部の認識は、科学のように、あるいはまさに科学として増進しえるが、それは政治、社会の統括的認識の増進には、ほとんど常に結びつかない。細かな知識の集積は、現実社会への総合的認識、感情を、ある時突然変更する。だが、多少の文化資産をもつ者がいい年になれば、それもなかなか生じないこと、それを知りつつ、その感覚を共有する儀式のように人々は議論し、新たな部分的認識が、凝固した総体的認識を一瞬動かす幻想を楽しむ。政治的な事件が与える一瞬の驚きと、それが既存の現実認識に結局吸収される失望と安心は、人々の間の個々の出会いが、彼の自己認識に何も影響しないことの、隠喩である。ビンラディンが神を信じているのか、神を信じていると信じたがっているのか、現実がそのどちらであろうと、各人が既に彼についてもっている、精神分析的、思想史的、社会・経済学的観点から演繹されたイメージを、あまり覆すことはないだろう。 連続性、という観点は、ストア派の根幹を規定する感覚であり、かつ、この学派にのみ存在する。連続しているのは、基本的には真理と認識である。スピノザにおいて実体と属性、あるいは神的領域と人間の認識が、差異の減衰によって前者から後者に漸進的につながる、相対的にしか違わない二領域であるように、ストア派において、真理は無限に隔てられた高所ではなく、人間の無知と闇の上で昂然と輝く光ではない。 真理が可能だとしても、せいぜいそれは、より多く知っている、ということである。私は絶対的に知っているけど、君は何も知らない、あるいは誰それのみが(ソクラテスが? ヘーゲルが? マルクスが?)画期的に知っていた、といった幻惑は存在しない。このことは、まさに現在が重要であり、永遠ではなく限定された今の時間で、何を認識し、何をなし得るかだけが大事なのだ、という実践哲学に結びつく。この考えは、セネカを始めローマの政治家、いわゆる後期ストア派において明確な姿を取った。プラトンの理想国家、という考えほどの迷妄はない、と、マルクス・アウレリウスは明言する。 世界を冷静に認識し、私と隣人が秩序あるただ一つの宇宙を分かち合えるよう、いま現在可能なことを、できる限り誠意をもち能動的に遂行すること。ストバイオスが記すように、この考えはすでにゼノンに胚胎しており、彼は幸福とは「生の滞りなさ」だと表現し、幸福を絶対善と真理から切り離した。そして世界の連続性の認識を第一位におくこの思想が、幻想と欲望を完全に認識の下に抑えこみ、限定された現在の行為を永遠と絶対善の上位におくのは、ローマの言説と生産力、史上唯一の無神論的環境においてである。その役割において、幾分か精神分析家だった、ネロの後見役、執政補佐官セネカらを経て、ストア派の思想は、皇帝マルクス・アウレリウスにおいて、その十全たる論理的帰結に到達する。そしてそれは、暗く、悲観的な調子を帯びたものだった。 後期ストア派とスピノザは、連続性に基づく存在論においても、認識によって感情を統御し、幸福を得ようとする実践的態度においても、うりふたつである。だが、後期ストア派の論理的帰結にあるのは、世界への冷静な認識が進めば進むほど、現在ある世界と人間の姿が必然的なものとして理解され、その汚濁と愚鈍さを含めて、そのようなものとしてあるしかない、全体の因果的連関と現在に至る経緯が、強固に自己主張し始める、ということである。世界を夢想するのでなく、現実に改良しようとすれば、世界全部を焼き払うのでない限り、変えられる部分は驚くほど僅かである。他者を自己の鏡像として目的化し、崇め、隔て、無視するのでなく、彼の欲望と考えを冷静に理解すれば、常に彼は見窄(みすぼ)らしい。スピノザを始め、カントもヘーゲルも、マルクスも、近代哲学者は政治と人間を書斎の中で考える、無力な想像者だったのに対し、ストア派の人々は現実に政治を遂行し、人間、特に他民族とも関わり、想像という言葉を心の底から軽蔑していた。とりわけマルクス・アウレリウスは強大な権力をもち、スピノザの言葉を転用すれば、最も「能動的」な存在だったが、しかし彼が直面したのは、認識と力が増えるほど、自己の手中に入らない膨大な統御不能領域が見えて来るという、極めて無力で受動的な状態だった。 スピノザが、認識の増大、そしてそれが感情を抑制し支配する状態を、能動性の極み、喜びとしてとらえ、信じて疑わなかったのは、直接には、彼がボエティウス流の神秘主義に囚われていたからである。彼は認識の極点に、永遠性、あるいは存在の無限の享受がまさにこの精神で発現する瞬間を想定している。彼にとって、神あるいは無限の差異の認識は、無限の差異そのものである現実へと、認識・精神が溶融し解離することではなく、差異が精神に領有されることである。ここには、諸物の認識を、形象の多様性ではなく、形象を浮かび上がらせる光そのものの知覚とすりかえてしまい、光源そのものに目を向ける感覚の麻痺を、無限の差異の認識だと思いこむ、中世末キリスト教に深く巣くったプラトニズムの残滓がある。 スピノザにおいて、連続性の観念が流出する光の感覚に侵されたのは、太陽を直視し感覚の麻痺に浸る、ソクラテスと似た彼自身の親分裂病的資質のせいもあったが、重要なのは、この時代の科学・数学の特殊性が、認識の増大を、無条件に情報の縮約と思いこませたことである。スピノザや、以後三〇〇年の哲学者が想定していたのは、任意の場所で一様に微分可能な、二次関数のような式である。これは一つの数式によって全体の情報を圧縮でき、関数全体を「見渡せる」という幻想を生む。微分可能性は、図全体を無限遠まで一望可能だと思わせることであり、そこでは純粋に言語的な認識としての科学は、常に視覚という原初的・身体的認識に、幻想的に係留される。 今日、人々はソリトン風の発散し爆発する式に慣れているが、つい数年前まで数式は常に一望可能で、視覚的表象と常に幻想的に結びつき、神学的効果をもっていた。そして何かが一望できる、一挙に捕捉可能だと考えることは、素朴で単純な信仰でなく、常に神経症的な二次的防衛過程である。数式が崇拝され、あるいは弄ばれる時、実際は原初的攻撃性や多形倒錯の回路が思考とつながり、思考から言語野は離断し、何事かが意識の外におかれ抑圧される。ここでどのような形の防衛が生じ、何が抑圧されるかは、思想家の数と同じだけ多彩だった。マルクスの『資本論』からラカンの『エクリ』に至るまで、数学あるいは数学もどきが、世界を叩きつぶすヒステリー的言説から世界と戯れる口唇欲動にまで、少しずつ分析・去勢されだしたのは、つい最近のことである。 ゼノンに由来する連続性の観念が、スピノザにおいて後期ストア派と対照的な感情にたどり着いた背景には、近代科学の特殊性があり、それは本質的には、世界の一挙的知覚という幻想のために、数学や論理学を症候として使用することだった。この幻想的知覚が対象とし、よりかかるのは、世界・現実そのものでなく、世界を完全に補足していると想像された他者、いわば幼児にとっての原初的他者であり、あるいはその他者に付属する欲動の部分対象である。連続性の認識を数学・幾何学で隠喩したことは、スピノザにおいて無神論、つまり幻想的他者は存在しないという事実認識、に対する防衛として働き、そのことが、認識の帰結としての感情の平定を、喜びとして現出させる。 他方で後期ストア派は、科学や論理学を弄ぶことの危険性を経験的に知っていた。生産力が高まり文化が熟成すると、古インド、ギリシャから今日までどの時代にも、科学や疑似科学が幻想的他者=神に付属する部分対象としてピタゴラス派的に弄ばれ、無神論的・唯物論的環境のなかで、無神論に対する最終防衛として利用される。キケロからアウグスティヌスに至るまで、ローマには「カルト的部分対象」についての、この認識があり、その帝国の最盛期、マルクス・アウレリウスは、人生を科学や論理学に騙し取られなかったことを神々に感謝しつつ、実質的に無神論の道を進み、帝国がつぶれる最後の瞬間、アフリカのアウグスティヌスは同じ仕方で正反対の道を選び、知性的なマニ教を捨てて、あえて「非科学的」なキリスト教に改宗し、それとともにこの認識は知的世界から消失した。 近代は、ローマよりはるかに貧しく、知識階層は分断され、この認識は不在であり、無神論を受け入れる下部構造は著しく欠けていた。抑圧と転移の力動から最も遠い論理構成をストア派から継いだスピノザは、このように神秘主義に拘束され、それ以外の無神論は、せいぜいフロイトがヒステリー患者の普遍的症状として発見した無神論、つまり他人の信仰・無知に掻き立てられ再帰する、抑圧された敵意でしかない、不信仰への信仰たる左翼的無神論の類である。だが、セネカがヘラクレイトスよりデモクリトスを賞揚し、他人の無知を哄笑した時、見かけの去勢の裏で彼は同様のヒステリー的攻撃性にとらわれており、マルクス・アウレリウスがヘラクレイトスを真に賞揚し、自らの存在の不確かさを受け入れるには、さらに一〇〇年余と、より豊かな下部構造、物質的生活が必要だった。 冷静な認識と細心の誠意をもって滞りのない生を保障すること。今日、この観念は、社会の深部に再び着床し、権力を掌握したヨーロッパの社会主義者を着実に支配しだしている。移民と失業をめぐる万年危機局面で惰性的に使用される、人間性(ユマニテ)を賞揚するカント主義的言説の陰で、市民階層に確固として広がるのは、非超越論的な、幸福についてのゼノン的感覚である。例えば私が住む南仏モンペリエでは、複数左翼連合の絶対多数に支えられた元毛沢東主義者の肥満した知事の一党が、ことある毎にローマへの帰還を標榜する。ローマが意味するものが、民主制なのか貴族制なのか、多神教なのかキリスト教なのか、言説の洗練とハドゥリアヌス的文化政策なのか、山ほど酒を飲んで朝まで売春婦をはしごすることなのか、その中身は定かでないものの、それがアメリカの対立概念であり、アラブはそこに含まれず、非超越論であり、マルクス主義でないことだけは確かである。 連続性というストア派的感覚は、直接には、マルクス主義の消滅の後の空隙を満たすように、政治社会に侵入した。それは未だ普遍的人間主義の後ろに隠れ、明確に結像せず、人々の精神の中で自己を発酵させている。誰もが不安に思うこと、すなわち連続性とは、世界市場と資本主義への単なる降伏、アメリカ人の技術力・投資力と攻撃性、中国人の低賃金と適応力に完全に接続され従属することの、婉曲な表現なのかどうか、ということは曖昧なままである。連続的な世界、つまり市場に支配された世界の上で、例えば社会党大臣のエリザベト・ギグーが、市民生活の円滑と滞りなさを支え、生じつつある苦痛に能動的に介入する現実的限定的な左翼的戦略を称揚自賛し、そして誰かにその倫理的哲学的裏づけを問われるや、理性と進歩を重んずる百科全書派的格言を昂然と引用して冷笑する時、人々が知るのは、彼女が何も語ってないこと、同性愛夫婦の法的承認や女性優遇枠設定法のような知識階層内部で誰一人反対しない案件にのみ、この左翼的能動性は頼もしいこと、このような抽象的方便による嘲笑的回答は、彼女がたいそう美人の限りで喝采されること、そしてそういった全てが、資本主義の利益と感受性に、結局何一つ相反しないことである。 だが、連続性の感覚は、マルクス主義的二元論に、政治思想的な皮相な水準で取って替わろうとしているのではない。確かに、マニ教的階級二元論や善悪二元論、外傷と死の恐怖を正義と善への想像的同化で抑制する者、つまり政治を症候の場にする者たち、ピューリタンやジャコバンや共産主義者や原理主義者が政治に関わると、後には山ほど死体が残る、というのは、この三〇〇年で得られた最重要な知的共有資産である。この認識は、それを担保にアメリカとピューリタンがアフガニスタンでの限定殺戮に人々の同意をとりつけるほど、強固で正しい。しかし、二元論の彼方でストア派的連続性が世界に醸造している認識と感覚は、原理主義的、神経症的症候性とは対照的な見かけの穏便さだけでなく、その真の論理的帰結を含めたものである。連続性は善悪を完全に棄却する。それは攻撃性としての悪を遠ざけるだけでなく、想像的同化としての善をも消滅させる。そして鏡像と転移を侮蔑し、現実認識と言葉によってのみ人が自らを支える時、幻想と視覚的同化に基づく自我はその価値を拒絶され、人格的同一性は危うくゆらぐ。 貧者の精神主義ともいうべき、プラトン的超越性を引きずるスピノザ以降三〇〇年の近代思想が、他者を目的とし/または承認し、倒錯的仕方で/穏便な神経症的愛により、カント的/ヘーゲル的に崇める時、自己の存在の単一性と絶対性は何一つ疑われないが、真に無神論的、物質主義的な思惟が、他者もまた物質ないし言葉とみなす時、その相対性は自己に反照し、侵入し、自己の境界と尊厳の感覚を侵しだす。連続性の中での善悪の対立の中性化は、似たように善悪を相対化した、例えばパウロが善悪を規定する超越性を無根拠さから再度呼びよせ、あるいはニーチェやラカンが、侵犯を反復させる分裂体勢/欲動の場に自らを召還して躁的自我肥大化あるいは多形倒錯化させたのとは異なって、善悪の対立の基礎にある抑圧と欲望そのものから存在を解離させ、幻想的な自己能動感を根元から窒息させる。そこでは思考と観念の変動は、そのまま自己の変容であり、死は存在の裏側から生をせき立てるのでなく、生と曖昧に混ざりだす。「考えを新たに得る度に、私は私でなくなり、この生の中で、私は何度となく死んでいく」とマルクス・アウレリウスは言っていた。そして、この解離する自我の感覚を軸にして、自由や自己尊厳、幸福や正義といった、自我同一性、幻想的能動性の相関物でしかないいくつもの政治的諸観念が、真の無神論的環境では、同じく塵のように舞い、消えていく。それは政治思想的水準でなく、その下にある物質的生活と存在論の水準での消失であり、人々は、それなくしては世界を保ち、変革することが不可能だと信じ込まされていた様々な二元論的観念の、揮発が引き起こす無重力状態で、そこに留まる曖昧な倫理性を受容するか、自由と屈従、平等と不平等といった、信じてもいない古い対立に祈るかを迫られる。 今日人々は、デカルト以後三〇〇余年の後、はじめて二〇〇〇年前の生活と文化の水準、真の無神論と現世主義に還りつつある。ローマ的、多神教的無神論は自らを抽象的に語ることができない。キケロは、ゼノンの幸福概念は何も規定せず中身がない、という疑念と不安を打ち消すことができなかった。他方で自由や愛といったプラトン的概念は、同様に中身は空でありつつ、分節の彼方で欲動を指し示し、私はかけがえのない絶対的な存在だという感覚を再帰させ、実際にはそのかけがえなさが否定された場に穿たれた抑圧と敵意を駆動させつつ、この現在を克服して前に進めと命令する。「人間は自由である」と人々が語る時、命題の中身のなさの彼方から、空白の力が語る者を支配し命令し、その支配を自らの力だと感じる欲動の循環水準での鏡像的反転が組織され、沸き上がる力を我がものとして人は悦ぶ。これに対し、否定性をもたず、命令しない概念体系、自己のかけがえのなさを自らの財産としない概念群、現世的・連続的な体系は、自らの記述の蝕を力として利用できないので、容易に不安を喚起する。それは「滞ること」に対し脆弱であり、法と存在論の外側・手前で既に繊細に欲動が調整され、物質的・性的・言説的な多形性が適切に保証された現実世界でのみ生息する。 ブッシュが「アメリカへの攻撃は自由に対する挑戦だ」というとき彼は正しい。この言葉が笑いではなく漠然とした居心地の悪さを人々に与えるのは、アメリカという、世界の中で特殊な一群、神に向かって宣誓することを強要し、自由や愛を文字どおりの普遍性として信仰する唯一の集団が、その信仰ゆえに、絶え間ない技術革新と投資に邁進して世界経済の生産力となり、それを信じない者の下部構造となっているからである。膨大な階級格差と敵意の連鎖は善意による防衛の原動力であり、起業資金を求める者がフランスや日本で体験する、耐え難い銀行の高慢さや怠慢さとは、正反対の誠実さをこの国で準備する。アメリカの投資が経済を成長させ、剰余価値論的には搾取率を上げつつも、新技術がそれをはるかに超えて生産性を上昇させ、国民全体の資本蓄積と実質生活水準を向上させるのは、マハティールもベン・アリも知っている。 ジョゼ・ボヴェがマクドナルドを打ち壊しピザハットに攻め込む時、アメリカのせいで世界が貧しくなっているかのように語るのは、古風な左翼的デマゴギーであり、中国人と同じ賃金で働きたくない、という要求を隠蔽する。しかし、すじ肉だらけのゴミ屑のようなハンバーガーや、機械油に雑巾を浸したごときピザなどの、犬の餌を世界中に食べさせ、時給五ドルで働くことを分相応だと信じさせ、それら全てを人生には成功すべきだという布教と共に世界中で遂行する者たちを、彼らの領分に留めおき、耐え難いことを耐え難いものとして記述し続ける営為は必要である。彼らの神と彼らの人間性は彼らだけで食べるがよい。 しかしアメリカは敵ではなく、人々の困難は、野蛮な信仰ではなく自らの不信仰の未熟さの中にある。まだ数年試されたにすぎない社会民主主義は可能な最善の選択である。自らの階級制に由来する眼前の政治経済的困難を蛮族=アメリカの狼藉のせいにし、経済的下部構造を想像化して、想像的な敵を措定するのは、過剰なローマの模倣である。何かことを起こす者がいると、人はすぐに、背後に貧困か幼児虐待を指摘する。マルクスとフロイトの下部構造は大流行だが、因果関係というものが元々そうであるように、それは単に因果関係の想像化であり、人は、すぐにミサイルを撃ち返したがる野蛮人、精神病者が事件を起こせば厳罰を要求する野蛮人と、自分を区別するためだけの呪文としてそれを語る。しかしビンラディンは貧乏でも病気でもなく、たとえ貧乏か病気でも、人が人を殺すには十分な文化精神的理由がある。彼らが耐え難いと考えているものは、私たちがそう考えるものと同じであり、他人を蹴落とすことを自分への挑戦だと考える類の信仰である。 しかしアリストテレスと超現世主義、優美な絶対的階級社会の挫折した末裔であるビンラディンたちの劇は、彼らが想像的に虜になっている敵の水準で演出され、二五〇〇年前の観劇水準に奉仕する。それは一瞬先の不可知の未来に観客を釘付けにすることで、それが劇でしかないことを観客に忘れさせ、その場のゲーム、その規則、その善悪、その真実の共同体に、人々を囲いこむ。それはフェニキアのゼノン、マケドニアのアリストテレスより遥かに古風な、アテネ的小国家的劇の模造品である。崩れ落ちるWTCとハリウッド映画の、どちらがどちらの模倣であろうと、どちらが想像的で、どちらが現実的なものであろうと、要するに抑圧物を再表象し、再度その症候となり、疾患を強化するだけの退屈な戦争劇は、子供と神経症者だけを喜ばせる。イスラムのアリストテレスは、欲望を分節するだけでなく、死と欲動を予め完全に象徴的に造形し、すなわち排除し、去勢を絶対的に忌避しており、それゆえ彼らが排除するものを自らの力とする者たち=アメリカに敗退する。敗退を避けるには、アリストテレス/トマス・アクィナスを捨てた宗教改革に倣って、彼らも新教徒となるしかなく、結局禁欲者同士の悲劇が上演される。傷つき死ぬ者に観客は同化し、自らが生きている生のやっかいさを暫く忘れ、そこで人は幸福である。 ゼノンがどのように連続性の観念を獲得したか、原テキストの失われた今日、多くはわからない。スピノザが自らをデカルトの後継者だと信じたように、おそらくゼノンもプラトンの延長上で思索を開始した。しかし彼は表象の問題を純粋に認識的、科学的観点から処理しようとし、個別的表象が幻影とは異なり固有の権利をもつことを基礎づける過程で、実在から表象代理に向け、切れ目と空虚のない連続性を強く想定するようになったと思われる。これに対し、ソクラテス/プラトンにとって表象とは、結局は善の表象の問題であり、現実世界とその象徴的認識の関係には本当の興味がなく、抑圧を挟んだ意識と無意識の間の関係、抑圧物とその症候的代理物、その症候をめぐる想像的同化の関係こそが重要だった。 後期ストア派において、連続性と必然性の観念は、転移や陰性転移とは対照的な、世界と他者に対する醒めた実践的態度の基礎となるが、ゼノンにおいて、それは実践的でなく純粋に認識論的・存在論的関心から獲得された。しかしゼノン自身、現実認識と切断されたプラトン的真理と善の転移経済からは自由であり、人間精神を自然の一部としてとらえるアリストテレス的地平の上で連続性観念を得たのであり、後期ストア派の汎神論的無神論と能動的絶対受動性は、ゼノンにあった萌芽の論理的帰結である。 ゼノンの世界をソクラテス/プラトンから本質的に分かつのは、ソフォクレス的劇構造への距離である。ソクラテスはその知己ソフォクレスを、共に深く女性嫌悪者であるという理由を超えて近しく思っていたが、ソフォクレスの作品を成立させる、観客間での外傷と抑圧物の共有、国家的運命の普遍性は、ソクラテスにおいて、個人的な症候としての想像的対象を、そのまま象徴的、道徳的価値に高めることを可能にした。それに対しマケドニアが各ポリスを溶融しヘレニズム世界に開いた時代、アッティケの旧都市ではなく島嶼に生まれ、海運投資家として諸都市を移動したフェニキア人ゼノンにとって、個人の外傷を共同体の外傷と結合し、想像的対象を普遍的善へと結びつける可能性は皆無だった。 ソフォクレスとソクラテスを等しく魅惑したのは無知である。オイディプスは羊飼いに真実の開示を命令し、その開示が自らの近親相姦と身の破滅を開示することへの、自らの無知を知らず、クレオーンは自ら発した敵の埋葬の禁止令が、アンティゴネーと共に息子と妻を死に至らしめることへの、自らの無知を知らない。彼らが知らない真実を観客は既に知り、真理は開示されており、劇中人物の非知と観客の知の対称性が劇の遂行を可能にしつつ、観客はそのことに無知であり、オイディプスやクレオーンの無知と、やがて生じる真理の開示を、現実とみなし、感動する。同様にソクラテスでは、単なる知の不在は非知ではなく無知であり、それは誰かがそれを知っているからであり、知っているのは当人でも哲学者でも、精神分析家でもなく、すでに原抑圧として開示/抑圧された知の無意識的主体である。そこで開示され、予期なく到来したものは、常に忌まわしく欲動と死に関係し、それ以来非知は無知となり、開示の再演として真理は到来し、そこでは常に魅惑的で妖しい善が開示される。 悲劇において災厄の到来が単なる出来事ではなく、無知と知の対立、真理の開示なのは、それが戦乱・悪政・疾病など都市国家の外傷、原抑圧として既に刻印済みだからであり、その知を既有する観客は、遅れて到来する舞台上の時間を一段上から二次的に体験し、しかしその二次性、時間のずれが意識されない限りで舞台は観客の症候となり、劇中人物は想像的に同化され、演劇は現実と混同される。災厄に賭けられているのは転移であり、単なる出来事は真実の開示となるが、最初の外傷を共有しない者にこの開示は生じない。劇を理解する者は、自分が劇を見ていることを常に知らず、その知らない場所に留まる限りで、劇/真理の周囲に配置される、正義や自由や幸福の感情が共有される。 演劇/真理のこの構造から解放され、現実と劇の差異と共犯を論ずるには、都市国家と運命を共にせず、マケドニアの側にいたアリストテレスが必要だった。そしてゼノンにとって、各都市は投資と債権回収の場所であり、外傷の共有に基礎づけられた真理の開示は既に過去のものである。ローマに至り、戦争と災厄は日常の政治となり、重なり合い交配し合う多民族の喧騒の中、時間は複線化し外傷は個人化する。アリストテレスがいまだ観劇者の場から劇を考察したのに対し、マルクス・アウレリウスにとって悲劇とは即観劇の行為であり、それを物のように外側から考察する。「人は忌まわしい劇に感動する。それゆえ忌まわしい現実もまた、苦痛以上の何かを与えるはずである」。彼は転移と真実ではなく、その基盤の欲動と一次過程の側におり、快楽と嗜癖を症候とした時代、つまり現代に住んでいる。セネカはストア派こそエピクロス派であると自認していた。 真理あるいはその開示が、そのまま善として倫理的価値をもつのは、開示の実体が転移だからであり、外傷の共有がそれを支える。真理はポーカーの札をめくることであり、自由とは、どのカードを取るか自由なことに過ぎず、幸福は、よいカードのことである。近代の自由の観念、哲学者を悩ませた自由と必然の関係は、この内部にある。無数の森と無数の街を、日々訪れ通り過ぎゆく者は、それを自由とも必然とも思わず、限定された選択とその帰結に身をまかす。円卓に座り、対戦相手と鏡像的関係を取り結び、自分がカードをめくった瞬間、他者が既に席を立ちゲームが放棄される可能性など夢にも思わない者だけが、共時的に並列化された選択肢の複数性と、自分が現実に取れるカードの単数性の落差に驚き、それを自由として概念化する。自由の内実とは、人工的に準備された複数選択肢の等質性のことであり、頭の中で想像し均質化された限りの、殺すべきか、殺さないべきか、という法論議であり、つまり他者と一致・同化して単一の人工規則に従うことである。しかもそこでは、各人を支配する規則・法は、各人相互の鏡像的同化の背後に隠れ、主体はどのような象徴的規則に従っているのかも意識化しない。 そして今日、人々は国境を越えはじめ、全ての国籍は債券として取り引きされ、その結果従うべき法もまた取り引きされる。転移と想像的同化に依存する、自由や正義といった抽象観念は陳腐であり、暫定的にのみ使用される。中でも最も多用される暫定概念は、人間性という言葉だが、この人間性、人間主義的普遍性が先進国、とりわけフランスで語られる時、その中身は組成の異なる次の二種類の感情である。 一、どんな馬鹿でも(=どんなアメリカ人でも、アラブ人でも)死に瀕する苦しみにあれば、私もまた苦痛を感じる。 二、どんな馬鹿でも(=どんなアメリカ人でも、アラブ人でも)、教育すればその子は馬鹿でないかもしれないし、彼自身もそうかもしれない。 さらにこの二つの背後には、三つ目の命題、それに私も馬鹿かもしれない、が存在する。 三つ目の去勢の観念は、イスラム的自己抑制やアジア的自己卑下とは異なり、自己と世界の存在の偶然性についての科学的認識を、近代的自我と和解させるものであり、近代社会の成員と非成員を本質的に選別するが、同時に、二つ目の文化的統合の観念が前提する自己優位性を隠蔽し、去勢の受容が常にはらむ皮肉な優越感、去勢の宮廷的使用法の伝統をも継いでいる。 一と二の原理、一の切り詰められた瞬間性と鏡像的同一視、二の長期的待機と自己優越性は、組成も起源も異なっている。現実にヨーロッパの人間主義によって助けられるアフリカ人にとって、一のカント的原理は重宝だが、死に瀕していない先進国民には自分自身の原理ではない。現下の、あるいは開示される災厄が、他者を目的に高め上げるのに必要な先行的外傷は、カントにおいて既にそうだったように共同体に欠在し、カントは他者との個々の出会いを無媒介に原光景での遭遇と短絡し、鏡像性に超越的価値を付与したが、今日の手法はより穏便に、外傷を遡及的人工的に造形する。現下のアフリカ人の死体が、人間の死としての意味をもつには、その死が隠喩し喚起する外傷が必要であり、そのために、すでに「人間」と認められている者の死が求められ、自己の記憶と歴史に事後的な外傷として記載される。アフリカ人の死が映像化されるのと並行して、ユダヤ人の記憶と外傷が喧伝され消費され、外傷もその再帰も主体の脇腹をすり抜けつつ、人間主義は模倣され社交的に演じられる。 この手法は暫定的には有用だが、歴史から切り離され極限状況に切り詰められた他人の外傷の氾濫は、存在を欲動と反復強迫の水準に引き下げつつ、実際には各人を制している第二の原理、象徴的に分節された文化の機微、差異、優劣の感覚を言及の外におき、帝国主義と社会主義に由来する寛容的統合性が立脚する自己文化の優越性の内容を、分節・点検することを免除する。実際、中東で続く殺し合いの各当事者の正義と法になど人々は関心なく、抽象的な苦難と死体だけが受容される。三〇〇〇ドルで世界一周できる時代に、爆弾が飛び交い常時徴兵義務がある場所に居続けるのは、愚か者か貧者であり、真の構造的対立は、この場所から逃げ出した者と居続ける者、ニューヨークのユダヤ人とイスラエル人の間にある。愚か者は殺し続ける。そしてさらに重要なのは、そうして逃げ出す能力をもった者、例えばオーストラリアやスウェーデンやセネガルに豪邸を構える元レバノン人のような者の多くが、なお、西欧文化のいくつもの機微、とりわけアメリカ人とアメリカ的な攻撃性、挑戦性、単純性、物質性を心底嫌悪していることである。 ビンラディンを経済的、精神的に支えているのは、アメリカ人とロシア人の区別もできない貧しく無知な人々だけでなく、資本主義を知り尽くし、フェニキア人のように故郷をもたず、しかしなお自らの文化を、それとして分節し名指そうとするアリストテレス的伝統を保つ人々である。欲動と反復強迫、現実的なものを予め刈り込み排除するイスラム教に、偶像崇拝も転移もなく、ビンラディンはカルト的教祖ではなく、彼の戦いは確かに文化的なものであり、その敵はアメリカ政府でなくアメリカ人全てである。しかしアフガニスタンの恐怖政治を苦々しく思いながら、彼を支える人々も、結局は西欧人となって自らの文化を名指さなくなり、既に存在するアメリカと中国への漠然たるヨーロッパ的不安に包摂される。つまり事態は入り組んでおり、ビンラディンの唐突で単純な自己記述は、ある意味で、自己を一切記述しない文化統合主義、人間主義の症候でもある。 ストア派は「滞りのない生」としての自らの幸福の中身を記述できなかった。セネカやマルクス・アウレリウスは戦争や執務に忙殺され、幸福の支点である自分の身体さえ領有せず、そのことは自らの生活と幸福についての彼らの寡黙さの口実となった。しかし例えばマルクス・アウレリウスは彼自身の症候を明確に保持しており、それは第一に彼が『自省録』を書き続けたこと、次に妻への愛である。彼は言う。「人間には人間的でないことは生じない。牝牛には牝牛に自然でないこと、葡萄には葡萄に自然でないこと、石には石に特有でないことは生じない。生じることは全て自然であり、君は不平を言うべきでない」。転移を遠ざけ、人間を客体化した彼にとって、人間の全ての愚かしさは必然的連関の中にあり、了解可能である。しかしこの文が本当に言うのは、人間も牝牛も葡萄も石も同じだという、存在への無関心と失意であり、それ以上に、そのことを牝牛や葡萄に向けてくり返し言い、反復し循環し、欲動に回帰し退行することで子供じみた復讐をなしとげる、その感覚の幸福である。 今日人々は、家族・性愛と個人的欲動対象によって、自らを何とか支える。誰もが人間主義者だが、階級・階層はますます固定し、毎晩ボルドーをあける者とスーパーマーケットのテーブルワインを飲む者は、人生で一度も出会わない。真理や善悪、自由や正義など、歴史書の言葉であり、真理の開r示、善悪の峻別は、クレオーンの法の下に生きるイスラエル人やパレスチナ自治区民にだけ約束される。外傷を共有し抑圧する者は真理の開示に出会い、正義を知るが、戦場から脱出できる者は欲動と資本主義の道を進み、真理や善など恐れるに足りない。誰もがアンティゴネーであり、彼女は死なず、先進国民として生きつづける。クレオーンの法、ソフォクレスの劇の外でアンティゴネーを祝福する、例えばラカンの唐突な、デリダの退屈愚鈍な文章は、ギリシャをこよなく愛した三〇〇余年の貧者の精神主義の、倫理的無効性と消滅を記念する。 戦場の外、連続的世界の中で、アンティゴネーは過食・拒食とアルコール依存と、転移を排した次世代の嗜癖的宗教に祝福される。アリストテレスによって開かれた現世主義の線上の一五〇〇年、セネカ、アウグスティヌス、トマス・アクィナスらは、許される飲酒の程度を哲学的議題として真剣に論じたが、この伝統は復活が望ましい。どの程度の酒、どの程度の過食、どの程度の虚言が許されるか、知者や聖職者はどの程度の労働を許容すべきか、野蛮人はどの程度人間か、等々、トマス・アクィナス的問いは、可能な去勢の様態の隠喩である。去勢は単一ではなく多様であり、各人の経済的、知的、性的資産に依存する。いずれ消滅する人類史の中の僅かな時間を、どの程度無理をせずに、どのような仕方で、どのような人々と、何を語り、食べ、見、触り、聞き、存在を受容/断念し、生きられるか。その様態は人々の利用可能な快楽の中身に依っている。世界と自分の存在の絶対性を疑わない者、存在の偶然性を知り狼狽する者、知った上でなお楽しむ者、年収一〇〇〇ドルの者、年収一〇〇万ドルの者、醜い者、美しい者、それらが住む世界は別であり、異なった善悪と法に従っており、しかも資産のある者はその違いを知りつつ、ストア派的/人間主義的穏便さにより口をつぐみ、貧者は普遍性の神話を信じ、階級制は持続する。 アメリカの愚鈍さを必然性によって了解し、人々がストア派的に口をつぐむ時、愚かな者はしばしば顧客である、という今日的事情がある。教師にとっての学生、作家の読者、分析家の患者、政治家の選挙民、フランスの日本、日本のアメリカなど。もっともこれはローマでもほぼ同様だった。その事情に汚染されることで、ストア派的了解は人間主義、文化統合主義的待機と手を結び、自らの文化・去勢の様態の記述を無限に待機し、自己優越性を内心に貯蔵する。しかし分節されない曖昧なものは不安を生み、不安は自らが本当は利益を得ているアメリカや中国に投影される。 先進国に住む者は、一人で難民数百人を救える財力をもち、一生に四人以上の妻(夫)・愛人をもつ。言い換えれば、なし得る善を全てなすわけではなく、三人以上の愛を捨てる。現実的力、能動性の増大は、善悪の区画を曖昧にするが、それでも人々は固有の倫理をもち、それは去勢の法の内実を構成し、またそれに従い、しかしそれらは、適切な程度と滞りのなさという、ストア派的非‐表現に吸い込まれる。遂行的で言表されない法に従うことで、人々は疑似解離し、実際以上に受動化するが、人間の鏡像的同一性を信仰し法の中身を一切記述しない近代哲学の見かけ上の存続が、この非言表と怠惰の口実となる。この沈黙、解離、受動性を、アウグスティヌスは危機的なものだと実感し、神への愛がなければ自己への愛もない、と自己愛の再確立を賭け新たな超越性を導入し、そしてアリストテレスに学ぶトマス・アクィナスはその性急さを超え超越性を現世へと再度開き、しかしアウグスティヌスを引用しつつ新教徒がトマス・アクィナスを捨てた時、彼らはアウグスティヌスを育んだ緩やかな解離とは遠い厳寒と貧しさの中、むき出しの死の恐怖に苛まれ、攻撃と転移を欲していた。法の内実を語らないことによる去勢の受容、去勢の超越的法を語ることによる自己設立と去勢の忌避、そしてその間を折衷的に進むこと。これらの歴史の全てが忘れられ、デカルトとスピノザ、カントが訪れ、法と倫理は真理に従い、法とは法の権利・手続き問題となり、法が何を許し許さないかは、語るべきでないこととなる。 ビンラディンは何を許し何を許さないべきかを語る。しかし彼の法は真理に従い、その文法は新教徒のものである。ローマ的生活水準とストア派的連続性に人々がやっと帰った今日、その地平をなし、あるいはその先に到来すべき「分節された」現世主義が、イザベラ一世の勝利によるトマス・アクィナスのイスラム人教師たちの駆逐を許さない者の後ろで、再び招聘を求めている。 【註】 一神教、三位一体論、アリストテレス主義等について、これまで精神分析学が試みた分節化は、フロイトのそれを含めてぞんざいなものだが、本エッセーも、それらの厳密な精神分析的分節を目ざしていない。来春刊行の拙著『症候言語学(仮題)』世織書房を参照されたい。 |