特集=私的所有とは何か
所有する君を所有する、
 頭の後ろの自動人形の死について 

ユートピア思想が所有の廃棄をめざしたのは単に搾取や不平等をなくすためではない。所有はモノから政治経済的に他者を排除することで成り立つが、その他者の感情はモノの裏地となってモノに張りつき、モノの快楽が分泌されるそのただ中にモノから排除された別の場所を再帰させる。この別な場所がなければモノはそれ自身との差異によって自らを識別する以外になく、すなわちもっと、もっとと、常により大きな快楽へと肉の破片に至るまで突き進むが、排除され同じ場所にとどまる他者の羨望の眼差しのゼロ基点は、現下の快楽を常に正量として計上し、そこで消費は無際限な運動から安定した意味へと変換される。だがモノの快楽の感情に同伴する、快楽を得てない他者の感情がそれとして感知されうるのは、それがモノを得ている者自身の過去だからであり、所有がもつ老人的消極性の黴びた臭いは、モノを過去の時間から測定する所有のこの構造によっている。モノは快楽の源であり、それは簡単に得られず、肉体は間歇的にしかそれを求めず、モノの出現と消失を両極とするこの時間の波が私の始原的時間を形成し、その時他人は同じモノをもっているかもしれずもっていないかもしれず、波の傾斜の上を移動する私の動きを先取りする。ジェットコースターを落下する私の体は、昇っているときの感触に所有される限りで快感となり、隣のレールを上昇する<未だ落下しない>他人の眼は、落下する私を常にもう知っていて、私はその他人の場所に自分自身の意識を置く。ヘーゲルのいうように、所有することは他人もそれを所有しうることであり、この存在可能性としての他人が培養する今への距離は、モノに対する距離としての私の意識という労働を、代行し教育する。ユートピア思想が排撃するのは、私を私として可能にする労働の、この安直な節約である。だが、モノをもつ私を生かす他人の代理労働を、それ自身に距離をもつモノのゆらめきとしてモノに返し、ハイデッガーが人間によるモノの所有からモノによる人間の所有へと進むとき、夢の中の私のモノの苦痛の声は鏡像的にすべての他人に伝播して、彼らの強制労働が夢の中で私のモノを私自身に先行させ、そこで私は幸福である。他方、その同じ時、時間の造形力を手にした資本主義の商品は、より完全に意識の労働を節約し、私の過去である他人の視線をモノの中に吸収して、モノは裏返しの私となる。他人は消え私は消え、モノである私は夢の中でモノを見るが、見られるモノはそれ自身の知能をもち、突然、私の夢の中で私にむけて殴りかかって来るかもしれない。その時それを否定の苦痛として快楽に転化できる自己認識を、モノが十分に開発しているならば、モノは相互に認知し合い、夢はほんの一瞬現実へと硬化する。

人間によるモノの所有/君が何か所有する時、君はそれを持っていなかった時の君自身を所有する

まず古典的情景を、より近くから見てみよう。
あなたは商品としての車を走らす。あなたの右足のアクセルペダルの先にあるのは、あなたではない。それは当たり前のことではないのだから、その件に関して、その車が置いてあったガラス張りのショールームに感謝しよう。何しろあなたはその車を買ったのだ。そして奇妙なことに、この車を所有しているというそのことが、あなたが無限にアクセルを踏み込みながら鉄のボディーと合体して、ガードレールに突進することを妨げる。フロントガラス越しの中央の一点から左右に広がり、後ろへと流れ去ってゆくガードレールと車線区分の白い線は、しきりにおいでおいでをするが、あなたは自分の尻と同じ周波数で振動する、シート下のボディーを自分とは思わないのと同じように、流れ去る眼の中の風景も、自分とは感じない。
というのも車を運転するあなたの視点は、あなたの眼のなかにはなく、頭の約五〇センチメートル後ろの所であなた自身を見つめている。だからたとえ、あなたがその流れ去る情景に危険すぎる親しみを覚えても、本当のあなたはそこに飲み込まれてはいかないし、しかもそこであなたの欲望の対象となるのは、振動する眼の前の状況のすべてではなく、常に運転する自分自身だけなのだ。
その欲望はかなえられ、あなたはきっと<感じる>ことができるだろう。だが感じているのは運転するあなたではなく、運転するあなたをとっくの昔にデモンストレーションビデオで鑑賞した、ブラウン管の前のあなたである。運転するあなたは、あなたを欲望した自分自身の手段となり、その手段である限りで疾走する車となり、だが、本当のあなたは決して車にはならないし、あなたの意識のあったところに、ボンネットの先端中央のメーカーシンボルの記号の間の差異を流れる、無時間的な消費社会の快楽が代わりにやってくるわけでもない。車には、もう、眼の前の風景とそこにいる自分自身を見飽きてしまったあなたが乗り、差異をめぐる快楽は、すでにあなたの頭を占拠しているステロタイプな想像と、それを直接的な肉体感覚で充当するドラマを演じる、現在のあなたの間を流れてゆく。時間はしっかりとその構造を保ちつつ、世界中どこでも同じ十年一日の陳腐な構成立てをしたカーコマーシャルフィルムを眺めながら、世界中どこでも同じ、満足と倦怠の中間地点のフラストレーションに吊り下げられた、間抜けな顔のドライバーが走りぬける。
だが、問題は決して今日の消費社会やマルクス氏の資本制社会に限られているわけではない。たとえあなたが多くの財産を親から受け継ぎ、あらかじめ多くを所有することで、日々の労働という資本家と家族と愛人に奉仕するための忍耐の儀式から解放され、モノの購入と消費にむけた<期待する>時間から解放されていたとしても、——さらには土地や政治権力を媒介として、莫大な財を自明のものとして掌握する前資本制的立場にあり、所有という観念さえ忘れ去ることができたとしても、——それでもモノがあくまで物理的かつ現実的な存在として容易な生成と移動を拒みつづけ、しかもそのことが、他者と私の区別と対立という人間的な事情と共犯関係を結んでいるなら、所有という、この奇妙で普遍的な一つの気分はなくなることはないだろう。
つまりこういうことだ。あなたが自分の車を得意気に、そして得意であることにも少々飽きて運転するとき、一見するとそこには、疾走する快楽と、その快楽にディテールを与えながら適度な速度に調整してやる宣伝媒体を通じた<車>という流行ドラマ、さらにそのドラマの機軸をなす、この車とあの車を差異化してランクづける消費行為の価値体系が、単純な支配力をもっているように感じられる。しかしそのドラマと差異の体系が存在するには、それ以前に、もしかしたら私はこの車をもってはいなかったかもしれないということ、というのも、車は簡単に存在したり道にころがっていたりはせず、それゆえ車は他の人のものになってしまうかもしれないし自分のものかもしれないし、ともかく一度にすべての人のものにはならない、ということが基本的な条件をなしている。
この条件が所有といわれる感情である。そしてこの感情は、単にこれ見よがしな、他人と競合したり自慢したり、より多くの財をめざしたり、すでに財を得た自分に満足したり、といった矮小な気分に限定されるものではない。実際、あなたが余程に幼児的か成り上がりでないかぎり、衛星発信ナビゲーターつき自動車や二億円のローンつき鶏小屋を所有する感情は、他人の眼を意識しながら優越感を感じたり、上位ランクの記号を得た現在の自分に自惚れたり、といった一見して馬鹿げた感情だけではない。むしろ所有する感情の主要な調子は、物事を<きちんと配置>する感情、自分をモノで囲みながら<自分を客体化>して調整し、世の中と<適度な距離>の折り合いを維持しようとする感情である。それは擬似的なフェティシズムといってもいい、神経質かつ健全な感情である。
この所有という感情を最も基本的に支えるのが、現実の中で、あるいは現実そのものとして、人間の操作的な想像力に対して粘性の抵抗力をもって対抗しているモノそのものであり、簡単にいえば、人間にとって快楽となる刺激を与えるものは、瞬間的には生成できず、一定の時間と周期を必要とするという、純粋に唯物論的な事情である。そしてこの物質的条件は、それだけで存在するなら、単に場当り的なモノを得る喜びか、せいぜいモノの生産と使用の局面のみに限定された、忍耐と配慮を与えるにすぎない。この物質的条件が、人間的関係として構造化され、モノの生成の困難がモノを支配する力と権利における他人と自分の対立へとすり替えられ、モノの生成が要する時間とモノの生成が調整する世界のリズムが、モノの社会的希少性へとすり替えられ、しかもモノを支配する権利における私と他者の場所のちがいを強化するべくモノの生成の困難が増幅されて、両者が共犯関係を結ぶとき、所有という、均質かつ持続的で、普遍的な感情が可能になる。
所有においては、モノの生成が要する現実の時間は、そのモノを所有できなかった他者の視線へと翻訳されて、モノが生成し出現した後になっても、モノに持続的についてまわる。モノは快楽の源泉としての現前する物質的存在ではなく、その不在と現前を同時に自らに併せもち、正確にはモノの不在から現前への移動の時間を、現前から不在に反転させる可能性をもった他者に対する関心として、翻訳しながら圧縮する。
つまりあなたが何かをもっているなら、その何かをめぐって他者との間に潜在的な緊張関係が発生する。その何かは他者のもとへ反転していくかもしれないし、あるいは逆に本来他者のものかもしれない。所有の、このモノの支配関係をめぐる主体間の政治的局面は、モノを潜在的だが持続的な力の綱引きの上に配置して、モノの存在を弛緩から守り、それに人工的な表面張力の艶を与える。しかもより近づいてみるならば、その主体相互の警戒と和解の政治的な力の均衡状態の上に引っ張られて、モノは常に微細な振動状態にあるようにさえ感じられるが、とはいえそれは、モノの出現と摩滅の物質的な時間と周期を圧縮し、変換し、縮約し、あるいは隠喩する機能を果たしている限りである。モノの支配をめぐる所有の政治関係は、快楽を与える唯一の定式であるモノの不在と現前の現実的な交代のリズムを、記号化して恒常的に現前させ、そのことで、モノが単に物質的に存在するなら必ず摩滅していくはずのモノに基づく快楽を、隠喩の水準で冷凍保存しつづける。
こうして所有は、潜在的な他者に対するいわば心地よい緊張感の持続によって、モノと肉体の間で形成される、間歇的にしか存在不能な物質的快楽を、想像の水準で持続させる。あなたが<自分の>車を運転するとき、そこに分泌される程良く調整された爽快感は、その車を所有しない潜在的な他者の効果によっているが、さらにその他者に対する緊張は、車というものが与える瞬間的な快楽を、構造化して転形している。だから車の快楽は、それを現実的に持続しようとするなら、無限に速度を上げていかなくてはならないが、あなたが車を<もって>いる限り、あなたが最初に車を走らせだしたときの快感と、さらにその快感の物理的基盤である、快感には波がなくてはそれを感知できないという肉体の側の事情と、それを現実の側で補填する、車はしょっちゅう道に落ちてはいなくてその生成に時間を要するという、両者の事情、——つまり現実的快楽を可能にする物質的水準での遅延のリズムが、あなたのもつ車の振動で、持続的に再演される。それゆえ、モノの所有の快楽を今日中心的に支配しているかに見える、消費の記号的差異、つまり商品のランクづけされた価値の相違は、いわばその水平的な示差体系そのものが、快楽の物質的源泉の出現と消失の大きな波を、圧縮して隠喩している。所有物における示差的体系は、いわば時間の隠喩であって、つまり端的にいえば、所有とは時間を隠喩する作用と感情の一種である。それは具体的には排除された他者の視線として感知される。今から約二十年前、構造主義が大衆的に流行したとき、構造という差異の体系を成立させる、そのすべての項目に不在的に現前する特殊な項目について様々な仕方で語られたが、その不可思議な定式が今日大衆的水準でどう決着したかはともかくとして、その定式が示唆していた物質を転形する時間の隠喩のメカニズムを、所有は自らの根幹を支えるものとして知らせてくれる。

今日的情景/モノが他人を代行し、君自身はモノになる

だが、現実には、今日の所有はより入り組んだ物質的組成を有していて、単純かつ数学的には演繹できない。例えば、あなたの所有する自動車の商品としての記号的差異は、排除された他者の視線を動員していることは確かだとしても、その他者にあなたが自分を同化するのは、いったいどういう機制によってなのか? あるいは他者の視線が現実の快楽の波を圧縮して保持しているとしても、もしくは少なくとも、現実の肉体と何らかの関係をもっているにしても、それは快楽を巧妙に抑止することの想像的効果として配分されるだけではないのか? それはフィジカルな快楽を転形しているのではなく、むしろモノの快楽を神話的に生産しているのではないか?
いずれにせよ、所有という事態の中軸(中空)にある他者の視線は、多くの運動機能の集積された歴史的な残像であり、人を最も誤らせる。人は他者を感知しようとすることで、まさにそのことによって、現象学的考察からイデオロギー的反復へ、真理の究明から真理の形成の神話へと転げていく。それこそが、所有が最後にめざす手の込んだ罠だとしたら? そして所有とは、近代以前にまで遡るべき根幹的イデオロギーであることは確かにしても、それに対する批判的な言説が、所有が転形している原基的な快楽に言及しようとすることで、実は所有がもたらす神話作用を単純に再生産しているとしたら? あるいは、脱近代化された消費社会に対して過同調的な言説も、実は他者の所有しない認識と他者の無意識を所有することに腐心していて、しかもその願望の勝利を表明するのを控えるスノビズムの作用によって、伝統的なアイロニカルな調子を再現し、そしてアイロニーとは、<愚かな>他者を想像しつつ自らと認識対象の出会いを無限に再現しようとする、所有の感情そのものの再演であるとしたら? マルクスのアイロニカルなテキストの運搬する快楽とは、所有の効果とは無縁だろうか? そもそも政治経済を批判する言表作用そのものが、そのいわれた内容において所有に距離を保ちつつ、その距離を保つ行為そのものにおいて所有の感情を分有する、いわゆる昇華の活動とはいえないだろうか? そしてこのテキストも……。
ここで車を運転するあなたを厳密に見直しながら、再び今日の現実にむけて入っていこう。車を運転するあなたは、運転するあなた自身の中ではなく、あなたの後ろ側にいる。あるいはその両者の隔たり、自分を見る視線の運動する区間が、あなたである。この隔たりの距離は、快楽から断続的に遠ざかりつつ、快楽を<測定し>、自分をその快楽の一部として制御しようとする配慮の効果として形成される。すでに見たように、そこには他者の露な出現はなく、現前する対象を、現前する現在の瞬間と、対象に関わるそれ以外の想像上の場所と時間との関係におく配慮、つまり対象を、それ自体と、その過去の記憶やその保持に関わる想像的筋書きに分割し、そのことによって、対象が快楽の源泉として汲み尽くされあるいは遺棄される動きに抗う、逆向きの力を加えようとすることが、第一義的になされている。これはいわば対象をその場に<維持しつづける動作>であり、この感情は、車のような典型的な所有物のみでなく、家や工場、労働者、そして情報のような形のないものでも、すべて所有されるものに向けて作動する。そして市場や交換を前提としない、自らの生活と生産に関わる物にたいする——とはいえそれがどうやって画定できるのだろうか——、社会主義的マルクス主義者たちが語っていた非資本家的で市民的(?)な所有、またハイデッガーが語る、<モノを大地と自然の厳しい拒絶に抗う痛苦のなかで維持しつづけ、そのことで隠されていた大地の中の暗い力が物において現れる自由を与える>ような、農民的(?)な所有においても、<維持する配慮>は同じように作動している。
所有に対決する彼らの所有概念のメカニズムとその暗点については後回しにするとして、ともかくも、所有する感情とは対象を維持する感情であり、そのことが、同時に所有する者自体の維持を可能にする。あなたが車を運転するとき、前面には運転する快楽や排除された他者はなく、車の今日的なドライブが維持されているのみであり、それはあなたの車庫の中で、車が清掃され維持されているのと変わりはない。ただし車庫の中でワックスがけするとき、あなたはあなた自身の中にいるが、車が車庫から出て走りだし、加速されるに従って、その加速に振り切られるように、あなたはあなたの頭の後ろ側へと分離してゆく。車庫の中ではすべては車の走行という<本来の目的>に従属しており、モノはその場その瞬間には存在せず、したがってそこには本当はあなたも存在せず、自動化された清掃作業があるのみだが、走行する車は、仕事の単なる道具でない限り、もはやそれ以外の目的に逃れることはできず、モノとしてその場に現前する。そしてもし主体がこの場に現れるとすれば、それは視覚や聴覚を含むこの場の肉体の表皮としてであり、その表皮の感覚の波形は、眼前のモノを通じモノとして存在し、つまり車であれ人間であれ言葉であれモノが存在するところには主体も現れる。快楽をめぐり、その再現を目指すのが主体の唯一の運動であり、快楽と苦痛の運動のないところには主体はない。とはいえ、急転直下するジェットコースターの恐怖が快楽となることからわかるように、そしてその恐怖を制御して適度な快感を保つには、落下する身体から視線と意識を引き離し、モノと身体の現前する瞬間を操作せねばならないように、モノの存在が道具としての口実からのがれ、主体の一部として真に現前してくる時こそ、所有や、あるいはそれ以外の制度的な制御装置が、モノが快楽のただ中に主体を現前させる瞬間と同じくして、それに先行する時間と筋書きを書き加えてやらねばならない。落下するジェットコースターは、上昇の過程で蓄積された落下の予測の労働を解放し、その予測の労働によってのみ快楽となり、しかもその予測は、自らの上昇において落下の総量をあらかじめ見積り、その有限性を画定していたように、すべて主体となって落下するべく登場するモノに対して、その落下する瞬間に、あらかじめなされた上昇する逆向きの労働を事後的に付け加え、落下の有限性を画定し、そこに維持しつづけることが、所有という社会的労働に要請されていることである。
だが、走行する車において、その快楽を吊り下げる維持と測定の労働は、社会的に配給された労働としてさえ、今日もはやあなたには感知されない。車を走らせることはガレージで車を磨くことと同じであり、あなたの知らない間にガソリンスタンドで勝手に磨かれていることとも同じである。あなたの知らない間にあなたの口座に入金された労賃からクレジットの支払いが勝手に落ちていくようにして、あなたの所有物は維持される。時おり所有するという労働、所有することによって社会的に支給される労働を感じることがあるとしても、それは高速道路で制限速度を越えて加速するときのエンジン音の快適さを聞きながら、商品とワンセットで売りつけられた効能書きを再確認し、高能率で流線形の孤独な都会人というブラウン管上の通俗ドラマに自分を同化させながら、加速を無謀さの手前でとどめてくれる高価耐久消費財所有者の心構えを配給されて、運転する自らを所有する時ぐらいである。そこでは概ね所有がなされていることさえ感知されず、そしてこれが今日最も進んだ所有の形態である。
そこでは今日の所有がもつ過渡的な性格のみならず、所有という社会的労働そのものがもつ、人間にとっての過渡的性格が示されている。所有されるものが工場や家庭や原子力発電所なら、所有はここまで進化せず伝統的な形態の内にある。工場は他者の支配下に転ずることへの政治的な可能性を持続的に配給され、事態を測定し維持する所有者を形づくり、所有物が異性や原子力発電所の場合にいたっては、対象の物質的組成が要求する、——すなわち非機械的で確率論的な因果過程にある対象の崩壊傾向が要求する、対象の現実的な時間への忌避不能な技術的配慮によって、測定し維持する主体はそこで対象の物理的過程を通じて強制的に配給される。だが、市場を通じて完成された消費財の場合は、所有制度が制御している主体と意識を形成する労働は極限まで切り詰められ、かつて所有されるモノから指令され、所有されるモノからの分離として遂行された主体を形作る労働は、モノそのものの内部に取り込まれて、人間の側の労力は限りなく節約される。
節約は工業デザインという商品美学的な配慮を主要な手段としながら、快楽に向けた待機と放出の全波形を、商品そのものの内部にすべて埋め込んでしまうことによって達成される。モノはすなわちジェットコースターそのものであり、人が気まぐれ行きあたりばったりに、ジェットコースターのチケットを買ってそこに存在できるのは、彼が落下する瞬間のみでなく、上昇する時間をそこで買っているからだ。かつてモノや商品は落下するだけのコースターであり、落下の水準を確定する快楽の抵抗器を、人は所有の社会的な制御を通じて商品に付帯されたイメージとして、つまり商品を買う前の期待する未来への時間として、他者と拮抗する自らの頭の中に配給されていたならば、今日人はモノによって過去の時間を購入し、自らの頭にある所有という抵抗器を一足飛びに飛び越えて、対象の物理的装置そのものを通じて、意識と快感の全過程を配給される。テイラーシステムの時代の資本主義が、残存する共同体の対立的和解的な人間関係を動員し、未来の時間を売りつけて古典的な所有の装置を再生産していたのに対し、未来とは結局忍耐の労働の時間であり、そして労働の節約を売りつけるのが市場の必然的な傾向なのだから、情報論化した資本主義は、ブレードランナーのレプリカントたちが幼少時代を配給されていたのと同じように、モノと共に過去を売りつけ、所有の構造そのものを人間から剥奪する。
技術的には主体の過去をROMカードで保持することは不可能だし、空腹とワンセットで構成されるのが最善であろう料理にしても、せいぜいデギュスタシオン・メニューを進化させていくしかないが、そこでは視覚から聴覚にいたる全感覚を組織しながら、最大限快楽を所有する意識がなくてすむような時間の流れが造形され、つまり主体は所有から遠ざかる。小型コンピュータや自動車やあるいは衣服や料理など、それらは今日デザインとして第一義的に存在し、デザインとはモノでも記号でもなく、両者を結合する行為である。デザインはそれ自身の歴史をもち、過去を、所有する者の記憶としてではなくモノとしての形状そのもののなかに、圧縮して現存させる。決して純粋に機能的なわけではない、バイトロニクス流あるいはスターウォーズ風の携帯式コンピュータのデザインは、最新式であると同時に常にどこか蒼古的で、流線型の突起した不必要なパーツが与える皮膚感触への抵抗感により、ジュール・ヴェルヌの時代の機械に対する憧れと、16ビット以来のCPUの発展史と、人間の始原的な世界の境界設定の皮膚感触である母親の身体を、そこに現存させている。
つまりデザインとは過去と関わるゆえにモノではなく、それを物質的に現前させるゆえに記号ではなく、そこではモノはモノそのものに所有されて、イデオロギー的主体の記憶による所有を逃れて、所有そのものは解体する。デザイン的に蓄積された歴史情報が貧弱な、アメリカ日本型の資本主義の産物においては、モノは常に新しいデザインによって廃棄されることによってのみ、かろうじて現在に持ちこたえる。車を運転するあなたは、その車を得るにいたった自らの歴史とも、その車が排除する他者との階級的政治関係とも関与せず、その車の操作パネルがこの現在に配置する運転する快楽のみと関係するが、とはいえ車のデザインは、外部世界の道を走る車が分配する快楽の時間をすべて造形できるわけでもなく、車そのものの機能とデザインのこれまでの歴史を要約しているだけであり、しかもその要約にしても、実際にはデザインは形状外の広告宣伝に依りかかって、自らを<最新式の>ものとしてそれ以前のものと対置比較し、つまり象徴作用が造形作用に優位して、そこでは古典的所有作用は強力に残存する。各々のデザインが自らを廃棄される運命におくことによってのみ、次々に止揚されていくデザイン総体の時間が可能になり、そしてそれは、次々にゴミ屑を売りつけねばならない市場経済の要請であるように見えるにしても、他方でこの流行という現象は、モノが配置する快楽の全行程を造形して、モノをそれ自身の過去によって所有させ、所有という人間労働を極限的に切り詰める方向にいこうとする、商品美学上の道のりの過渡的形態ともいえるのである。日本製の車が走る情景は、幼稚かつ貧相で、次々にスクラップ化せねば存続しない商品美学の水準にあるとしても、パリの高級鴨料理店で料理の一部として構成される、欝蒼とした樹木にはさまれて蛇行するセーヌ川の情景もまた、今日人工的に組織された商品美学の一部であり、そこでは動員される過去の蓄積の豊かさによって、ほとんど進歩することのない時間がそれ自身によって所有され、皇帝もプロレタリアートも等しく受容されながら、自分自身を剥奪される。伝統的社会構成体を食い散らし、多国籍化した人工的時空間を国家的事業として配備しつづけるヨーロッパの社会資本主義的文化においては、自動化された啓蒙主義的環境が、個々人の歴史を快楽の読解コードとして公共化して先取りし、所有と所有によって配給される自我の感情が、より足早に乖離してゆくかもしれない。
いずれにせよ、快楽がそれ自身を安定させるべく、そのプロセスとして主体を形成する労働を、所有は社会的に代行し、快楽における放出に至るまでの待機する労働を、モノから排除された他者の視点である<私>として、主体の後ろ側に公共的に組織化し、しかし所有はその一方で、待機の労働を技術的に処理しながらモノそのものとして構築して、そこで私の視点と意識は、後ろから私を素通りしてモノの中へ吸引され、もはや何も見なくなる。快楽は快楽そのものに教育され、その構成を変容されるのであって、そのプロセスを根本的に可能にするのは、人工化したモノの組成と形状である。だが所有の社会的労働が、私の過去であり排除された他者である、私の意識を私の後ろに張りつかせ、食前の空腹感である上昇するジェットコースターの時間を食卓上に配膳するとき、そこに存在する差異化の時間構造は、一日の食欲の増減と一年の農産物の育成のリズムに規定された原始的快楽の波というよりも、それ以前に、眼前の対象が空想でないかを確かめるべく視覚を記憶情報に経由させる、フロイトが判断とよんだ警戒する感情なのであり、そしてその陰性の感情が快楽の<自然の波>を補強し再生産していたとすれば、今日、所有の運動の帰結としてやってきた、公共的かつ想像的な私の視線の、モノの中への解消は、市場におけるさらなる労働節約商品の販売合戦という事情をこえて、そもそも時間と意識そのものが、人間にとって荷厄介な負担だったという、より根底的な事情をかいま見せる。
私がモノであったなら、私はモノを所有することもなく私であることもなく、私に向けておいでおいでしているモノに向けて、安らかに還っていっただろうに。だが私はモノではなく生まれたので、思い通りにいかない世界に面して、向こう見ずに飛び込みはせず、その世界のモノをあらかじめ支配し所有している他人の場所で、飛び込む私を見つめ監視し、かくしてモノの手前でそれと関わる習性をつけた私は、モノが思い通りになる時にも、今度は逆にモノから排除された他人の場所へ、同じように後退する。対象に張りついてしまうことを私は恐れ、現前しまたは不在する眼前のモノに、マイナスの符号をつけて不在し現前するものとしうる他人の場所が、私がモノを見る私という想像上の場所となり、とりわけ所有という経済的強制力をともなって養われる想像的な場所となり、いかにこの撤退する構造が臆病で厄介なものであろうとも、自らを失うことへの私の恐怖は消えないので、テクノロジーの恩恵で今日私の視線が私の体を通り抜けてモノに入ってゆくとしても、そこでは私が他人の場所に行く労働が消えただけで、あくまで人間がモノを所有し、モノが人間を所有することはなく、ただし<私>という労働を飛び越して、他人がモノのなかで直接にモノを所有する。

ハイデッガー/私を見つめるモノの中での他人たちの強制労働

結局のところ、所有が覆い隠していた人間の臆病さはなんら変わらず、人間がより怠惰になっただけで、こうしてあらかじめ他者が咀嚼した後期資本主義のこのモノの群れを、さしずめハイデッガーなら、途方もなく<間抜けになった>モノたちと表現したことだろう。とはいえ、モノを通じて人間が他者と関わる所有の制度と、その快適な帰結は、モノと人間の上位の関係を主張する、他者についてのユートピア的見解の暗点も明らかにする。モノと人間の関係についてマルクスが述べたことは、歴史感情をモザイク状に圧縮した緻密なものだが、個々の部分は平穏である。モノは所有物たる存在の中で、自らを快楽として露にせず、人間はモノの手前でそれを所有する限りの主体として、節制への軛を疑わず、というのも今日までは宗教が、露なモノと快楽を神(他者)の吐息と視線の下の意味内容へ転形する、工業デザインを独占し、他方で階級社会は大多数の下層民をモノから疎外し、そしてもし宗教と搾取がなくなるなら、今度は無限に進化するテクノロジーが、眼前のモノを常にそのもの自身の過去として置き去りにし、かくして<宗教から科学へ>という定式がすべてをうまく作動させる。神が人間をモノから引き離し、科学がモノを人間から引き離すが、神や科学という感情が、人間が自らを他者のなかに措定する仕方であることは問題視されないので、主体そして他者はテクノロジカルなモノの自動制御にゆだねられ、ときたま登場するとしてもアイロニーを支えるだけで、主体は健全そのものである。結局この<神から科学へ>は現実の資本主義とほぼ照応し、彼の楽天的な支援者は、資本主義が続く限り絶えることはないだろう。
だがマルクスに言及しつつも、ハイデッガーが見せるそぶりは、人間によるモノの所有から、モノによる人間の所有へと突き進むかの、より限界的なものである。モノはその場限りの便利な道具や、祝祭的な快楽に囲い込まれる品物でもなく、それ自身においてその場所にありつづけ、この現在ということではなく、むしろこの現在を持続のなかの断念として可能にするべく、モノ自らにおいて自らを断念するようにして、自身の隠された影のなかからこの場の現前へと、くり返して立ち現れる。すなわちモノは、その過去と経緯を、モノから除かれあるいはそれを支配する、私の後ろの他者の視線へゆだねてしまう、人間に所有される限りのモノではなくなり、あるいは人間とモノの関わりは、政治的な力の綱引きにより不断に人間がモノから離され、その引き離しによってモノが快適さへと維持されていくのでなく、モノそのものの営為によって、モノが人間から遠ざけられ、その遠ざける力が保存され維持されることによって、人間とモノは関わりつづける。その結果、モノを所有され維持されるものとして可能にしていた、私を所有する私の後ろの他者の視線は、モノのなかへ入ってゆき、そこではモノが私を所有し、モノが私を逆に見つめる。ハイデッガーは、<たえず異なる近さのなかで、私に挨拶を送りつづける>といっている。これは後期資本主義の市場のなかで、モノのなかに過去と他者がプログラムされていくのとどのように違うのだろうか。
いうまでもなく、モノが自らを支える営みをなすわけではなく、その支える力は、かつて私が惰性的に他者にゆだねた、モノに過去と道すじを与えて、私を形作る力であり、その力を力として感知しつつ、眼前のモノを分割し、そこに<隠された>力を保存する自由を維持しつづける、孤独で途方もない<私>という労働が、ハイデッガーにおいては要請される。市場を流通する複合情報的な商品は、逆に<私>を節約し、しかし待機と放出からなる快楽の波は、縮小されヴァリエーションをつけられ、機械化された他者として保存され、そこでは現実は平穏である。それに対し、自身において立ち現れるモノの影は、間主観化された係留点なく不確かにゆらめき、波形を失い、モノは幻想化してその過去は私だけのものかもしれず、世界と私は危険である。
おそらくハイデッガーの方が、はるかに先に進んでいる。しかし彼においても他者の存在は動員され、危険は巧妙に避けられる。彼におけるモノは、シュヴェーベン地方の農民生活のなかのモノであり、農機具であり家であり道であり森であって、それは自己の維持のために支払われた他人の身体の苦痛の跡を、自身の表面形状に物質的に保持しつつ、変わりゆく季節のなかでその姿を変えながら、四季とともに再びもどる。モノが保持する、他人の身体によって刻み込まれた布のほつれや石の摩滅、木の表面の無数の傷は、私が永遠の現在にある幻想世界から切り離される、外傷としての苦痛と欠乏に鏡像的に照応し、そして外傷を統御する他者の場所へ私が自らの過去を措定する瞬間の、直前の体験を造形的に保持している。所有する私を所有する他者が、眼前の現前あるいは不在に逆符号をつけ、正確には逆符号をつける可能性を所有して、プラスとマイナスを同時化する想像的な虚数軸を書くのに対し、その一歩手前で、農民生活のなかの所有物は、露な痛苦の傷跡が呼びよせる鏡の前の叫びにより、永遠のゼロを私に刻む。刻まれた森の中の裂傷は、ゆらめき魅惑するモノのなかへ私が倒れ込むのを引きとどめる係留地となり、しかも年輪という季節の記憶はたとえ野と森が私の幻想であったとしても、その幻想は私がやって来る前からあったのだと語りかける。すなわちモノは人間を見つめ、所有する。
ディックの近未来的な作品で、市場経済の極限において希薄化した、所有概念とモノの現実性を補うように、人工的な苦痛の共有がなされること、そしてタルコフスキーの近未来的な作品やボイス以降のパフォーマンスで、同じく苦痛の訓練と、使い古されたモノのなかの光のゆらめきが登場するのも、ハイデッガーと同じ事情を語っている。おそらくハイデッガーのみが、近代資本主義以後の、所有の彼方の人間とモノの関係を、最も進んだところで発見した。しかしそれは農村的な形状に限定され、その物質的基礎なくしては社会的には存在できず、しかもそこで要請される他者の存在は、痛苦としての他者であり、つまり他人は私の幻想の内側で強制労働をさせられるのであり、そこにおいて、ハイデッガーの思想の核心部分を、ファシズムと名づけることは浅薄ではない。

展望/夢の中で私のモノが私自身を拒絶すること

マルクス以後明快に語られたように、モノと人間の関係のあり方と、それを通じた人間同士の関係は、モノの形状を規定するテクノロジーの水準に依存する。だがそれ以上に、モノはモノが規定する因果性の様態を決定し、モノが素朴な物質から情報としての造形物に近づくにつれ、モノの変形そのものにより、因果性の作動は変容する。つまり因果性とは、公共的な規制因子が、人間に向けて等しい仕方で彼自身の意識と過去を形成し、こうして公共的な時間と因果性へと構成された人間は、今度は自らの構造を現実に投影して、そこに自身と同じタイプの因果性を発見する。この自己循環が社会的因果性であり、その最も強力な規制因子は彼の生活と欲望に関わる物質の形状であり、窮乏し節制する民族は価値と目的による因果性を、別の者は遠隔操作的、妄想的等さまざまな因果性を自身から世界に映し出し、それぞれの因果性に応じた原因を<あらかじめ>発見する。因果性とは人間の現下の意識への歴史であり、人間のCPUのオリジナルモードと自然の側からのプログラムの、種別的な相互作用のことである。
市場とテクノロジーの成熟と腐乱は、私の歴史と私の後ろの他者の視線をモノのなかにおびきよせ、待機と充足という原因と結果は残しつつ、時間の構造そのものを変えていく。むろん、現在を常に忘れる前のめりの市場の時間と、あくなき所有への追求はここ当分衰えず、まき散らされる商品は最低水準の欲望を形成して、私の原因を安直に造形しつつ、擦り切れた声でモノにむけて呼びかけるだろう。それでも快楽の組成が眼前のモノとして意識的に支配可能になることで、苦痛と警戒の感情によって形成されたモノの抽象的な参照点たる、私の意識、すなわち他者の視線は、次第にその基礎を脅かされ、抽象性と公共性を失っていく。公共性とは、いま眼の前にあるモノと、別の所で別の仕方で出会っている<抽象的可能性>としての他者であり、その他者は私自身の快・不快の変動から同じく<可能的>に微分され、この変動の神秘が乖離するなら公共性は解体する。つまり所有の解体であり、政治という公共性の失墜である。そこでは、すべてが幾分かフィクションであり、それゆえ例えばハイデッガーの世界と他者がフィクショナリーであったとしても、それは非難されるに及ばない。だが、こうして所有という公共性が解体し、モノを通じて私の現実を支えていた他人が消え去るなら、私たちはその後、どのように他者と関わっていくのだろうか。
あなたはあらかじめあなたの願望を読み取ったささやかなあなたの車に乗り、それはあなただけの情事だから誰もそれを見ることなく、関係なく、その場限りの快楽のルーティーンはあなたの自我を吸収する。走り抜ける車の振動は、他人の視線に編み上げられた時間を切り裂き、所有という持続する責任の感情を粉砕し、あなたは自分の後ろの他人の視線にもはや自分を同化させず、あなたを先取りしたあなたのモノも、あなたを見ることはない。非現実へと近づくこの市場経済の冗談は、生活のほんの一部だと誰もが自分にいいきかせ、しかし車を降りて男性もしくは女性との情事の時間に転じても、同じ種類の歴史をもっている保証などないふたつのモノが、そこでも一瞬のルーティーンをこなしているだけである。
巧妙に調整された孤独のなかで、相手のなかにはあらかじめ先取りされた自分だけが存在し、そこでは触れ合うことのないふたつの夢が眼をつぶる。例えば現代の家族というものを見ればよい。だが、自動車はいつでも先取りされたあなたの夢であるとしても、人間や知能といったモノは、ある日あなたの夢のなかで、突然あなたの知らない言葉を叫びながら、拒絶し、罵倒し、殴りかかって来るかもしれない。何しろそれはあなたではないのだから。あなたはその言葉さえか、基本的感情も理解できず、それを他人として認知するには、一からすべてをやり直すべきである。ハイデッガーの夢のように、同じ風雪と物質を学んできたのではない他人たちに、互いに同じ種類のモノとして、ぎりぎりに共有された、苦痛が快楽へと転化する道徳という機械語を、最初の一歩から立ち上げつつ、その上に造形された感情の組成への互いの道を、学び合っていくしかない。
『精神現象学』におけるように、同じモノを所有し合う人間と人間としてでなく、相互に掠め取られるモノとして面する人間たちは、自らのモノとしての性能を学習し待機する義務がある。同じモノを所有し合う人間は、他人として現実を共有し、モノとしての人間はそれぞれの夢を別にもち、だが、夢の中で、全くの異物があなたが用いた方程式とは別の仕方で自分を構成してみせるとき、この否定の暴力は逆に親近性を証明し、夢のなかの異物によってあらかじめ見られていたかもしれないという、羞恥と快感が、あなたの体を強く揺さぶる。自分の夢のなかで傷つき、死ぬかもしれないという恐怖が、その時、夢を現実に修復するのだ。そして一瞬のちにはテクノロジーがやってきて、それをまた夢に戻していく。


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