『資本主義』

第1部 文 化

■欲望と資本主義

資本主義とは何か? ここかしこに散在し濫流する商品の流れ、無類の機械化された生産力。加速される競争、時間。逼迫する運動性とそれが生みだす勝者と敗者。脱落する者たち。烈化する速度のなかであたかも空洞へとくり抜かれ、過剰さと稀薄さを併せもたされて、それに喘ぐ人々の生活。一方での冷徹な支配と計算高さ、そして他方での暴力的野蛮と賭博性。禁欲と享楽の共存と相補。しかしその狭間でなお声をひそめるささやかな幸福の、無数の沈黙。
資本主義は<すべて>である。私たちの最初に資本主義があった。資本主義はここに存在する。資本主義はそこかしこに存在する。そして資本主義とは私たちであり、資本主義は私たちを<使って>自らを表現し、私たちとなりすまして地を覆う。
資本主義とは何か? その問いにおいて強く理解せねばならないのは、文字どおり私たちの立ち振舞いの<すべて>が資本主義だということだ。まず最初に工場や事務所での、生産を通じての人々の関係。そして商品流通や賃金の支払などを通じて人々が交通しあう、古い言葉で生産関係(1)といわれるもの。さらには教育制度や警察やマスコミといった、政治的な諸装置(上部構造(2))を巡る人々の動き。しかしそういった剛性の形状をもち、一見してそれと解る、同じリズムで自身を再生産する振舞いのみならず、より微細で多様な人々の感情——半ば挑戦的で陽性の、あるいは半ばやけ気味で陰鬱な人生観といったもの、さらには異性や家族について抱くイメージや現実。将来への期待、または将来を期待しないこと、死生観、等。それらの文字どおり<すべて>が、資本主義そのものとして自らを展開する。
その<すべて>であることには二つの意味合いがある。まず弱い方の意味。いかなる社会構成体(3)、どのような社会的全体においても、人々の現実的行為と、人々が自分や他人や世界に対して抱くさまざまなイメージは、密接な因果関係をもち循環的に絡み合う。たとえばアマゾンやアフリカ高地などで狩猟生活を営む者たちが、自然や世界に対してもつ感覚は、むろん私たちのそれとまったく姿を異にする。彼らは私たちのような分析的な言語はもたないが、しかし人々の息遣いと空気の重さと鳥の速度と陽の光の調子とを、すべて通約できる言葉と感覚をわかちあい、私たちより多くのことを、より淡白に認識する。すなわち彼らは自らを自然とより一体のものとして理解し、主体や自‐他、ないしは生‐死といった観念を、私たちほど強く保有しない。この事態は、一方で彼らの生産の形態に規定されつつ、しかしまた彼らが一定の集群をつくらず、あるいは一定以上の財や食料をストックしないことなどにも規定され、加えて彼らの棲む自然そのものの様相をも強く反映する。それらのすべてが彼らの存在の様態、世界に対する理解の仕方を決定づけ、すなわち自分が何者であるかというイメージを決定するとともに、逆にその理解の仕方が彼らの生活のあり方を規定し再生産させていく。つまりそれぞれの社会は、それぞれの仕方で自分の存在(=自分を囲む世界)についての意味をもち理解している、と表現できる。そして私たちの世界もまたそうであり、その固有の意味を通じてすべての振舞いが連関づけられ、一つの様式へと規定されあう。すなわち資本主義が<すべて>であるとは、私たちは自身と世界の意味を通じてそこに閉じ込められ、その外部をもたないということである。
しかし私たちの振舞いが、<すべて>資本主義の発現であるというのには、もうひとつより強い意味がある。ひとことで表現すれば、私たちの社会では、およそすべてのこと(=物や振舞い)が濃厚な社会的意味をもち、それゆえ逆に、すべてのことから自立した意味をまったく揮発させる、特殊な環境が形成されはじめているとでも要約できる。これはモダニズム(4)がその強度の果てで超近代へといたり、ポスト・モダニズムへと反転しはじめつつある今日に、特に極限的な事態である。多少迂回しつつ、私たちがこの社会を<資本主義>として規定することの基本的意味合いを探ってみよう。
まず上述したように、すべての社会とその成員は、自らを理解する固有の仕方と、その存在の意味を保有している。その様態は、マルクスとエンゲルスのいったように、概略その社会の生産および生産物の流通のさせ方と、さらに生殖関係を司る家族結合の様態のタイプととりわけ強く規定しあうので、社会が自らに抱く意味の種々の様態は、マルクスの言葉を用いて種々の生産様式とよぶことができるだろう。さて、ひとつの社会、ひとつの生産様式において、すべての人々のすべての振舞いは、その社会固有の意味や自己理解=イメージをもって社会総体と規定されあうが、そこにおいてすべての振舞いは、同じ密度で自己の意味をもつわけではない。一般に収穫や出産は日々の食事より、日々の食事は日々の排泄よりも強い意味をもつ。また特定の儀式や祝祭の機関においては、食事をすることがふだんよりも強い意味をもつ。また家族制生産様式(5)における出産は、私たちの社会よりもはるかに強い意味をもつ。もっとも私たちの社会においても、山口百恵や松田聖子の出産はそれなりに強い意味をもつのかもしれない。それは単なるイベントである以上に、この時代の人々が自分の存在や人生について了解する仕方を強く凝縮する演劇的な働きをもち、逆に人々の自己理解を規定するからである。加えて天皇家の出産こそ、今日なお社会の自己了解=自己規定に関わる強力な意味をもつといえるだろう。しかもそこでは、その意味を増大させようとする右翼的な人々と、そうでない人々の闘いが発生するが、それは社会の自己了解や形式をめぐる闘争と表現され、広く歴史的に存在するものである。
このように、ひとつの社会におけるすべての振舞いは、相互に連関しながらも、それぞれの種類によってその意味の軽重をもつ。これは行為によって<構造化される度合>が異なり、あるいは<欲動の付加のされ方>(6)が異なる、と表現される。そして最も強く構造化された振舞いの場所、すなわちそこにおいて人々の行為が、最も強く自己の意味を求め、その行為の形式の重要性を自覚し、そこにおいて自分を、ないしは自分と他人との関係を集中的に表現し、関心をよせる次元は、特に<社会の主要な審級>(7)と表現される。私たちの資本主義社会についていえば、その主要な審級はいうまでもなく経済であり、あるいは市場を通じて利潤を拡大することであり、そこでの競争に打ち勝って人生に成功することである。経済という審級、すなわち生産と生産物の交通‐分配、消費、あるいはそれらを通じての人々の関係、つまり生産関係といわれるものは、どのような社会でも必ず存在するが、それが主要な審級である社会は資本主義社会だけであり、これは歴史的にはかなり特異な事態である。というのも一般的にいって、他の多くの社会構成体は、祭祀や政治や宗教などの、主に演劇的な構造によって自身の歴史やその結構を圧縮して開陳し、その正統性を再確認してみせる場所に、主要な審級を有するからである。
こうして資本主義においては、歴史汎通的に存在する日常消費物資の生産と消費の場所が、特殊例的に、各人が自己や世界の意味を確認し、自己の存在を了解するための、欲望の集中的な付加部分と重なることになる(ただしこのためにはプロテスタンティズム等を契機とする、抽象的な利潤増殖という媒介が必要である)。つまり資本主義社会は、日常的な物資をめぐる欲望と、人々が自己の存在形式を確認する、より根源的な欲望の場所が隣接し、ないしは重なり合うことで、そこにおいて自己を確認し、その形式を再生産する文化‐社会的行為が見えにくくなる社会だと言うことができる。これは日常生活と宗教が重なりあった社会である、とも表現されるが、そのことが私たちの社会の、他の非資本主義社会と比べてのとりわけの強迫性、ないしは力動的な性格を決定づける。すなわちそこにおいては、宗教的な自己確認が通常の欲望と重なることで、欲望そのものの歯止めがなくなりランナウエイしだす特殊な社会が形成されるのである。この事態が、前述した、とりわけ資本主義社会においては<すべてが>資本主義である、ということの内実をなす。もっともこれが強い意味でいわれ得るには、前述したように、いわば正統近代資本主義とでも表現できる、禁欲を人生訓とし、抽象的な利潤蓄積のみに意味を見いだす資本主義が頂点に達して、すべての物が商品化されたあげく、消費を軸とする日常の振舞いそれ自体が、ひとつの社会的意味をもった自己確認行為として登録されるようにならねばならない。そのことによって企業活動のみならず、すべての個人的営為が資本主義化され、強迫化するとともに、また新しい歴史的条件をも準備することになるのである。
(樫村)


(1) 人間によって生産された財物の、具体的な流通や帰属(所有)をめぐる関係。生産現場における道具や人々の配置を意味する<生産力>と一体となって、生産様式といわれる社会の基底的構造(下部構造)を形づくる。
(2) 政治や法・イデオロギー・宗教など。その形態は前述した下部構造の種類と規定しあう。
(3) ひとつのシステムとして把握できるかぎりでの、下部構造と上部構造からなる社会的全体。複数の生産様式から成り立つこともある。
(4) 近代。明快で合理的な、主として科学的言語によって自身を理解し規定しようとする態度。「ポスト・モダニズム」の項を参照。
(5) 家族を最大の社会単位とし、階級分化をともなったより上位の結合機制をもたない社会。原始共産制と表現されたりするものに近い。
(6) 言語にせよ社会システムにせよ、何らかの構造が人間にとって意味があるのは、それが主体の欲望を媒介しているからである。その事態は特に精神分析が解明しつづけたが、そこでは<構造に欲動が付加される>と表現される。
(7) 下部構造とは異なる。下部構造の種類が社会の主要な審級の場所を決定する、などと表現される。



■プロテスタンティズム


プロテスタンティズムが資本主義の形成においてはたす重要性を強く理解させたのは、周知のようにマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1)であった。ウェーバーはこの本において、資本主義が、いわゆる近代資本主義といわれる合理的、組織的な形態をもつにあたって、プロテスタント的倫理のポジティヴな作用を強く必要とすることを例証し、それを近代資本主義形成にあたって決定的なことがらとして定置しようと試みる。彼によれば——
(1) (まず議論の前提として)資本主義は近代資本主義のみに限られた経済形態ではなく、宗教改革以前から広くヨーロッパ的、ないしは世界的に存在したものである。貨幣や金を媒介として、利潤を目的とする営利活動(2)は、高度な金融、商取引形態とあいまって、すでに前近代で完成された行為であった。
(2) しかし単なる営利ではなく、資本の抽象的な増大のみをめざす、組織化され、規律づけられた資本主義だけは、近代ヨーロッパ固有のできごとであった。
(3) その形成にあたって、プロテスタント的教義が強い力を果たしたと考えられる。プロテスタントの信条は禁欲の称揚と享楽への敵意を旨とするものである。彼らは冒険的、投機的、奢侈的、射幸的な、貪欲な古代資本主義に対する最大の敵対者であり、そのことが逆に近代資本主義の発生を促した。それはベンジャミン・フランクリン(3)に典型的にみられるような、「時は金なり」という観念にもとづいて、消費を敵とする世界観に発展する。ここにおいて、とりわけルターやカルヴァンの救霊予定説(後述)は決定的に重要である。
(4) 加えてプロテスタント的教義は、時間的にみて、けっして資本主義興隆の結果としてできたものではない。
かくしてこの本は、近代資本主義形成についての社会科学的理解の発展に大きな寄与をなすものとなったが、とはいえそのインパクトは、当時(二〇世紀初頭)のマルクス主義の支配力を知ることなしには理解することが不可能である。というのも、当時の通俗マルクス主義的な社会・歴史理解においては、ひとつの社会を規定するのは、生産力と生産関係からなる生産様式であり、そのひとつの生産様式を自壊させ、新たな段階へと移動させるものは、生産力(機械力や生産現場における人間配置)の発展のみだと信じられていたからである。それゆえそこにおいて、ウェーバーの宗教社会学が提示したように、数ある古代的資本主義、すなわち冒険的・商人的資本主義のなかで、とりわけプロテスタント的な禁欲的倫理が影響をもった地域でのみ近代的=秩序的な組織だった資本主義が発生したということは、争論に値することだった。
そこでこの本をめぐって、歴史の発展要因はモノかココロかという愚かしい議論が、その後おびただしく発生することになる。確かにマルクスにもウェーバーにも、そのような単純な二元的対立を許す部分は濃厚に存在したといえるだろう。ひとことでいえば、マルクスにおいては生産力という名の社会の基底的部分が、自動機械のように自己成長し、それが力学的(デカルト的)に全体に影響を及ぼすとともに、その総体がヘーゲル弁証法の語るような、単線的‐目的論的な上昇線を描くというイメージが濃密であるし、他方ウェーバーにおいては、当初の宗教社会学という試みを達成するに性急なあまり、プロテスタンティズムの<倫理>や<教義>が資本主義的な<近代的‐合理的精神>と結びつく、ダイレクトな関係のみをことさら抽象化してしまい、プロテスタンティズムに当然付帯している教会的な諸制度、特にその教育的な側面(普遍的‐体系的な法の観念の育成や団体的な規律生活の訓練等)が、資本主義が近代化するにあたって必ず必要とする、近代的経営技術や近代的労働力を準備する道筋を、看過する傾向をもつからである。
今日、より冷静な眼で歴史の発展を追うことができる私たちには、むろんこの両者は相互に両立可能なものである。まず第一に、三圃式農耕等を基軸とする一定程度の生産力の増進がなくては、マルクスの語ったように、資本主義の基盤そのものが形成されえない。一四〜五世紀における農業的余剰生産物の増加が、汎ヨーロッパ的な流通経路と貨幣経済の進展を招き、逆にその余剰生産物の貨幣化を通じて、封建的自給自足共同体が解体するとともに、独立自営農民層と農村手工業の発展を促し、将来の工業基盤となっていったことは疑いえない事実である(4)。しかしこれらの貨幣経済は、封建領主と結びついた特権商人層や、冒険的な商業資本と結びついており、それ自体では封建制生産様式を完全に解体して近代資本主義へと発展していくものではない。マルクス的な歴史の移行理論では、資本主義を準備する多量の流通‐蓄蔵貨幣の形成までしか厳密には論じることができず、むしろ彼の生産力理論は、ひとつの生産様式の解体の局面を論じるのに優れた理論であることがわかるのである。
ここにおいて要請されるのがウェーバーの理論である。その意義を要約的に述べるなら、彼の理論は、自身の解体の危機に直面したひとつの社会構成体が、自らのあらたな部分に自己再生産のための(前項で述べたような)主要な審級を設定し、すなわち解体に面した前資本制的共同社会が、外側から流入してくる貨幣経済そのものを、逆に自身の宗教的な自己確認の場所へと転換するプロセスを描いたものだといえるだろう。つまりマルクスの議論がひとつの社会構成体と、その主要な審級(中世的政治‐神学)の解体を論じるとすれば、ウェーバーは、解体にひんする社会が経済そのものを自らの社会の主要な審級に登録する、新しい訓練の様態を記述する。じっさいどのような社会であれ、完全に無秩序化して解体してしまわないためには、何らかの形で社会構成員に一定の形式を通じて自己確認をさせ、自己の存在意義を与えつづけてやる、儀式的な審級を必要とする。そして近代資本主義の、秩序だった強迫的な性格は、その儀式的な場所が経済と結びつかなくては存在しえないものである。
このことからみると、ウェーバーが注目したところのプロテスタンティズムの救霊予定説の奇妙な内容——すなわち、(1) 自らへの神の救い、恩寵による聖別を、各人は日々の労働と隣人愛によって<証しつづけ>ねばならない。(2) しかしその労働と来世での救霊には、<いかなる因果関係も存在しない>——のもつ重要な役割も理解しやすい。というのも、ひとつの社会が常に対面する解体の危機に対抗して、あくまで任意のものでしかない自らの形式(自らの社会構造)を、とりわけそこにおいて集中的に再生産し安定させる、概して宗教的、儀式的な社会審級は、(1) 自らの形式そのものを目的とする異常な反復的行動形態と、(2) さらにその行動が、社会の他の要素から完全に独立し、通常の意味合いでは無意味なものである、という二点をもつことによって、その儀式的で自律的な、社会形式の再生産能力をまっとうするからである。この二点は、啓蒙主義の偉大な思想家であり、かつプロテスタンティズムから切り離すことのできないカントや、あるいはルソーにおいて、より洗練された形で理論化されることになるだろう。
こうしてみると、資本主義形成にあたってマルクスがモノを主張しウェーバーがココロを主張したことは、それなりに意味をもって二項対立を形成していることが理解できる。すなわちひとつの社会は、まったく任意でしかない自らの偶然的様体を、増大するエントロピーに抗して維持せねばならないが、その維持、いわば検閲の作業をすり抜けてしまうものを、マルクスはモノや生産力の観念によって提示する。それはフロイトの無意識に似かよっているが、その新しい無意識は、明瞭な形式を与えて社会に登録せねば現実的な組織原理になりえない。この部分をウェーバーは論ずる。しかもそこにおいては、森羅万象の意味であったところの、かつての中世的な至上の神は一度死に、新たな眼前の経済的行為がすべてのものの意味となるわけだから、その行為自体は他の場所に自らの意味をもつことは許されず、自己目的化せねばならないことになり、したがって強迫的で奇妙なものになる。ウェーバーはこの点を極めてよく理解していたといえるだろう。かくしてマルクスとウェーバーのモノとココロは、社会変動において一般的に注目されるべき重要な要素を、相補的にわかちもっていると言えるのである。ただし今日の歴史的時点は、新たなものが形成されるより前に、まず現存のものが解体する動きの方に注目せねばならない段階なので、その点ではマルクス的な視点の方が、当面効用が大きいといえるかもしれない。
(樫村)

(1) 一九〇四年に発表。河出書房新社『世界の大思想・ウェーバー』等。
(2) 古代以来の地中海を舞台とした交易活動などが有名。
(3) 正確には、フランクリンはプロテスタント的倫理が資本主義的精神へと純化・堕落した例である。ウェーバーはこの著作を通じて本来のプロテスタント的倫理の再生を夢みていた。
(4) あくまで概略としての話である。ひとつの社会の変動は対外的な関係の変化を必ずきっかけとするが、それが大変動に結びつくには、内在的な変化が用意されていなければならない、ということである。



■啓蒙主義——合理性と暴力


啓蒙主義とは、一八世紀フランス、イギリス、ドイツ等、当時のヨーロッパ先進地帯において、イギリスを中心とする自由資本主義の興隆やフランス重商主義を背景として栄えた、一連の合理主義的な思想運動である。それらはイギリスにおけるロックやアダム・スミス、フランスにおける百科全書派として知られるディドロ、あるいはヴォルテールやモンテスキュー、国家経済の再生産分析によってマルクスに影響を与えたケネー(1)などにみられるように、全体として自由‐資本主義的、経験主義的、相対主義的な思潮を形成した。すなわち近代合理主義と表現される際、一般に予定されているところの陽性な価値を体現する、反宗教的で科学的‐分析的、そして唯物論的な傾向である。通常、啓蒙主義といわれる場合、これらの流派がまず念頭におかれる。じっさい<啓蒙時代>という言葉は、それを代表する国であるフランスにおいては、本来<リュミエール=光の世紀>と表現されるのであり、当時の増進する科学技術と資本主義経済、そして教会的権威の衰退を反映する、きわめて明るい光を、その楽観的で人間肯定的な合理主義的世界観へと映し出しているのである。
しかし啓蒙思想や啓蒙時代を代表する思想家といえば、フランスのルソーとドイツのカントがずば抜けて重要な位置を占める。しかもこの二人の著作の内容は狭い意味で合理主義的なものではなかったし、いわんや相対主義や経験主義、ないしは唯物論的傾向といったものとは無縁であり、端的にいうとその内容はきわめて観念的で専制的、かつ暴力的な要素を内包している。それは現実の近代資本主義の姿に正確に対応しているのであって、じっさい近代とは、合理性と科学性、あるいは自由と寛容が主張されつつ、しかし現実には歴史上最も大がかりな規模で暴力性と専制性が猛威をふるった時代だったのである。例えばファシズムやスターリン主義の経験がそうであり、あるいは今日の日本においても、次第にその程度が強まる学校教育での暴力的な統制や、あるいは新興企業における社員管理などにそれは見れる。日本における事態は、個人主義がいまだ十分に形成されない集団主義的土壌が、資本主義的合理性‐競争性の苛烈さと結びついたものなので、ヨーロッパの主流のモダニズムと単純に併置することはできないにしても、しかし社会の自己再生産の局面において、問題を処理する回路や知恵の、いわば複層的クッションといったものが合理性の名によってそぎ落とされてしまう点においては、資本主義の合理性が同時に非合理性や野蛮に至る道筋を、かなり類型的に示している。
すなわちルソーとカントの偉大さは、ひとことでいえば一八世紀当時の概して楽天的傾向をもった思想とは一線を画し、合理主義を暴力性や専制性と連接させつつ配置づけたことである(カントがルソーとフランス革命に絶大な影響を受けたことは有名である)。これはある意味では、自ら暴力性の地平を切り開いたともいえるかもしれない。しかし人間社会は何らかの形で暴力的な要素を宗教や政治の形で統合的に処理しているのであり、しかも近代化の激動のなかで暴力性がより直截に噴出しやすい当時の歴史状況において、それをあらかじめ思想的に先取りして処理することは、偉大な思想に求められる最も火急な作業であったといえる。ルソーの思想は過激かつ神秘主義的で、自然回帰的な傾向を強くもち、カントのそれは冷静かつ科学的で文明肯定的なものであるが、その底流にはきわめて似通った調子が流れている。それは単純に要約すると、社会的局面においては共同体からその先験的な権利をいっさい剥奪し、個々人をそれじたいにおいて共同体たらしめることであり、それと平行して人間学的には、時間(ないしは歴史)と事物の内容といった要素を哲学から完全に放逐することである。
ルソーとカントの社会的思想をとりわけ集中的に示すものは、『社会契約論』(2)の第一篇第五〜六章と、『実践理性批判』(3)の第六〜七節である。『社会契約論』の当該箇所でルソーが主張するには、結社ないし共同体の形成においてなされるべきことは、「各人はすべての人に自分を与え、そのことによって誰にも自分を与えない」ようにすることである。これはよくみるとかなり奇妙な主張である。というのもルソーは、自由な諸個人が個々の権利を保有したまま、おたがいの利害の調整をはかることをもって社会契約と共同体の形成を後づけているのではなく、各人が自分のもつ権利を相互に<全面的に>譲渡することをもって、社会的結社と社会的自由の基礎とするからである。つまり社会契約とは社会のみならず諸個人をも一挙に基礎づける理論であり、そこに激しく存在するのは、強迫的ともいえる全面性と一挙性への執着である。
すなわちそこでは、自由な諸個人(=自然状態)とそれによって形成される共同体は、別々の次元に存在してはならない。社会契約論とは社会を自由な個人の自由な意志に基礎づける理論というよりも、個人と社会を等しいものとし、その両者が別々の起源をもつことを禁止する理論なのである。社会契約論においてはすべてが新しく基礎づけられるとともに、実際にはそこにおいては何ごとも変わらない。彼によれば人間は新しい力をつくり出すことはけっしてなく、何かがなされるとすれば、現にもっている諸力を結びつけ、その方向を変えることだけである。すなわち社会契約とは、そこで新しい何ものかが形成される振舞いではなく、そこで何ものも形成されないことを、人間が自己の力において明示的に確認し、それを自らに引き受ける振舞いでなくてはならない。というのもそのことによって、逆にすでに存在するすべてのことは、人間の自由な意志の結果として、常に新しくそこで起源づけられることになるからである。つまり社会契約とは、社会をあらかじめ存在する自然状態や個人に基づかせる行為ではなく、あらかじめ存在する自然や諸個人を、あらたな意志の帰結として逆向きに一挙に基礎づけ、まったく新しい時の流れを開始する振舞いとなる。そこにおいて歴史的時間の因果関係は、意志における時間の因果関係へととって代わられ、その時間の向きを逆転される。
そこから帰結するのは、過去の時間と歴史の流れの、全面的な権利剥奪の暴力であり、同時にその時間を自身に育み退蔵してきた、現実の共同体の否定である。そこにおいては、「各人がすべての人と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず」、すなわち、「われわれの各々は、身体とすべての能力を共同のものとして、一般意志の最高の指揮のもとに置き、それに応じて、人は団体のなかでの各構成員を、分割不能な全体の部分として受け入れる」。
ここに端的にみられるように、歴史的時間を意志の透明な時間へと圧縮することは、例外的存在を排除する行為だともいえるだろう。具体的諸物と内容の排除といってもよい。というのも時間とは、複数の異質な要素を考慮し、それを結びつける行為のことだからである。
ルソーがこのように奇妙な理論を立てたのは、別に個人的偏執といったものの結果ではない。それは社会というひとつの形式が、自らの根拠づけを脆うくしていた時代に、その根拠づけを新たに自らの意志において再開する行為だったのである。すなわちそこに頻出する全面性と一挙性のモチーフ、分割不能な全体という観念は、すでに自身の根拠を過去や共同体のさまざまな具体的諸相に求められない時代において、根拠の不在を自覚的に自らに引き受ける、力強い作用を体現している。そして社会の根拠づけとは、いわば自身の形状を肯定する振舞いのことであるので、それはあからさまに自らを引き受けた暴力的な自己肯定ともいえるだろう。
すなわちそれは理論と知の水準で、社会がはらむ暴力的自己形成を先取りすることにより、それを明るみのもとへと公然と出し、堂々と処理する可能性を社会に与える。この意義の重要性は、今日の日本社会の現状と比較するとわかりやすい。そこではやはり<明るい社会>が、学校教育や警察など国家権力によって主張されつつ、しかし自らの社会の無根拠性、あるいは現下の社会を唯一の形状として肯定する暴力性は、その作用を陰へ陰へと隠蔽される。社会の起源は概して<伝統>へと姑息にあずけられ、その根拠、あるいは無根拠さは、社会自らの意志の強靱さにおいて引き受けられることはない。つまりそれは脆弱な陰湿さに基づいた明るい社会なのである。
こうしてみると、啓蒙思想の最高の部分がもつ暴力性の、なお今日的な意義は明らかとなる。ではカントにおいてはその思想はどのように展開されたか。
彼の理論は膨大なものであり、その内容は多岐にわたるきわめて精緻なものだが、全体の特質をひとことで表現すれば、それは物自体を世界から排除する思想だと要約できる。物と対立するのは種々の先験的・非経験的な形式であるが、彼の主著である『純粋理性批判』(4)においては、世界の認識が経験的な作用においてではなく、人間の認識の能力とその図式に基礎づけられることが主張される。結局そこで意図されていることは、世界の存立を、人間の現在的=抽象的営為以外に基礎づけることの禁止であり、人間の自己認識を神の援助から切断して、それ自身において神と同等の普遍性をもって引き受けさせることである。これはルソーの場合と同じく、例外と個別的時間の禁止という内容を内にはらむ。
そのモチーフが強く前面化するのが前述した箇所であり、そこでは各人は自身の個別性、すなわち個別的快楽といったものを捨てるとともに、「なんじの意志の格律が常に同時に普遍的律法の原理として妥当しうるように行え」と主張される。つまり概略すると、なされるべきことはあらゆる人間に、あらゆる時間と場所でなお好ましいと思われることであり、自らの特殊性や具体性の否定を欲望することのみが、唯一求められるべき快楽となる。
いうなれば、カントにおいてより明瞭に主張されているのは、個別性の廃棄といったものは、単に共同体の歴史の始点に予想される、社会契約のような一過的な事件ではなく、常に人がそれを欲しつづけることが求められる、ひとつの哲学的な訓練として存在せねばならないということである。ルソーにおいては世界の透明な一挙的構造といったものは、ある程度自然から与えられたものだったが、カントにおいてはむしろ能動的に構成されるべきものとなる。これは最終的には知と現実の一致という形で主張される。つまりカントが認識の根拠づけの問題を論じたのは、正しい認識を可能にするためというよりも、認識という問題を通じて、それじたい他に根拠づけをもたずかつ普遍性を有する(因果律のような)抽象的範式を、人間の能力として取り出すことをめざしてであった。しかもその普遍性は所与のものではなく、人がそれを常に欲望しつづけることによって、常にそこで新たにひとつの能力として自らの権利を獲得しなおす。こうしてカントにおいては、現実の多様性や、快楽の多様性といったものを禁止する行為じたいが、その一般的妥当性の力ゆえに善なる行為とされるに至る。したがってその道徳性は、世界を根こそぎにする苛烈さを自身のものとするのであり、近代資本主義という抽象的社会が十全に自己肯定するには、それほどまでの激しさが、一八世紀の楽天的光のもとで、逆に求められていたといえるのである。
(樫村)


(1) これらの人々の思想も、実際には多種多様である。ただ全体としては、イギリスにおいては経験重視的、大陸においては諸物の内在的論理性を強く予想していた、といわれる。多少とも内容を知るには、カッシーラー『啓蒙主義の哲学』紀伊國屋書店、あたりが平明(ただし大陸についてのみ)。
(2) 一七六二年に発表。白水社『ルソー全集』第五巻等。
(3) 一七八八年に発表。河出書房新社『世界の大思想・カント(下)』等。
(4) 『実践理性批判』が人間の欲望の問題を論じているとすれば、これは人間の認識の問題を論じたカントの主著である。美について論じた『判断力批判』とあわせ、カントの三批判といわれ、近代哲学の頂点をなす。



■家族——エディプス複合


資本主義という社会を形づくる基本には、まず、抽象化された商品と資本、およびそれが労働者を使って利潤を生み出す資本循環があげられる。すなわち資本主義経済だが、この資本の運動メカニズムを安定させるには、政治という領域においてそれを法の名のもとに固定し、かつ強制する暴力が必要となる。いわゆる国民国家といわれる領域であり、それが資本主義の第二の要素となる。しかしいくら国家が法を設定しても、法の前に自立した個人として存在し、一人の主体としてそれを自らのルールとして尊重する観念をもった人間が存在しなければ、資本主義は成り立たない。そのような主体を準備する最小単位が家族であり、それが資本主義の第三の要素を構成する。
すなわち家族は、資本主義経済と政治の仕組を天与のものとして受容させる知識=イデオロギーの媒介装置となり、その意味で<国家のイデオロギー装置>(1)の筆頭ともいえる。その点では国家のイデオロギー装置の代表格たる学校、あるいは教会や企業と併置できる。しかし家族というものの特権的機能は、単にイデオロギーや道徳観、世界観といったものを伝達するのみならず、そのようなものを一貫した観念として受容し、それを機軸にして自らの一貫性を形づくる、概して<主体>といわれる、人間の基本的構造と態度そのものを形成することである。そのような作用は、特にエディプス複合(コンプレックス)といい、その作用を自らの機能としてもつ家族を、近代家族、エディプス的家族という。
この作用は「プロテスタンティズム」の項で述べたような、常に自らの行為が神の恩寵や、あるいは何らかの価値を体現しつづけねばならないとする、一種の強迫的な志向を、人間の基本構造に埋め込むことといえる。その意味で近代家族とは、歴史的に存在したプロテスタンティズムの運動や、その広い社会的な作用を、人間が誕生する最初の場所において、凝縮的に伝達しつづけるものだとも理解できる。
つまりこのことは強く理解しておかねばならないのだが、どのような経済観念や道徳観念をもつか、例えば自由主義者であるか絶対王制主義者であるか、といったこと以前に、人間というものが一貫性をもった自律的存在であり、その生存と生活において、何らかの価値、つまり目の前に直接存在しない抽象的な何ものかを支えとし、あるいはそれをめざして進まねばならないものだとする、ひとつの<態度>じたいが、歴史的に特殊なものなのである。例えば「欲望と資本主義」の項で述べたような、狩猟採集経済と移動型居住を営む民族においては、<主体>という観念は存在せず、それぞれの日々の、あるいはそれぞれの場所における自分という存在は、明確な一者として統合されてはいない。それは今日の精神分析の用語でいえば、分裂病的と表現されるものだが、逆に近代家族が生み出す主体は、実は神経症的なものなのである。
さて、まず、そのような<主体>を形づくるエディプス複合の基本的ストーリーは、フロイト以降述べられたところによれば、(1) 生まれたばかりの幼児は、自らの欲望の対象である母親と一体の、無言の関係のもとにあり、(2) そこに父親が登場して母親を取り上げ、それとの直接的結合、すなわちダイレクトな欲望を禁止し、(3) しかしそのことによって、子供はやがて父親になるべき存在として小さな父親になり、自らの欲望を遅延させ、それをことばで語ることによって表現する者となり、一人の社会的化された<主体>へと成長する、というものである。ここでの父親や母親は、一方では単なるメタファーで、人間が欲望や言語の主体となる道すじを象徴的に示すものであり、しかし同時に現実の、歴史的な父や母も意味しており、その両者は完全には分離できない。つまり人間という存在の性質は、生物学的規定因と社会的規定因を複合的にもち、その両者は判明には分離できないのである。
概略してこのエディプス複合の基本作用は、人間に直接的な満足を禁止し、そのことによって、禁止され棚上げされてしまった満足との関係で、それぞれの具体的な存在物の価値を決定させ、世界を統一的な全体へと組み上げさせるものである。つまり禁止された直接的満足は、価値の機軸となり、世界は価値に基づくものとなる。
前述したように、これは特に神経症といわれる状態に近い(2)。それらの患者は自らの欲望の十全たる満足を期待するあまりに、逆に現実にそれが満たされることを恐怖し、それは延々遅延され続けることをもって、自己の存在証明となるのである。いずれにせよ、そこでは現下に存在しないものが最も重要なものとなる。
なお、エディプス複合を通じて形成された人間主体を、フロイトは局所論という図式に要約したが、そこでは超自我—自我—エスという三層からなるものとして主体は構成される。超自我とは自己を監視し、その同一性を保持させつづける審級であり、自我はおおむね意識とよばれるもの、エスは無意識の欲動の場所である。これはマルクスが資本主義社会に与えた、法・イデオロギー—生産関係—生産力という図式と平行するもので、つまり主体と社会の両者は、ひとつの歴史的帰結としての相同的な構造をもって、相互に規定しあうのである。
だが、これらは全体としてはもはや資本主義の古典的モデルである。というのも資本主義的競争の内容の多様化とともに、単純な禁欲という観念は失せ、多層的な支配の具体的拡大とともに、自律的な個人という装置も不要化してくるからである。そこにおいては近代家族の権威は解体し、自らの目的を逸して激しい混乱に陥るとともに、逆に分裂症的態勢が神経症にとって代わることになるだろう(3)。
(樫村)


(1) グラムシ、アルチュセールといった人々によって形成された概念。特に西洋において今日なお教会がはたす、重要な社会的結合機能を念頭においている。
(2) いわゆるノイローゼ。強迫神経症やヒステリーといわれるものを下位群とする。精神病と異なって意識が解離することはない。マックス・ウェーバーが重度の神経症患者であったことは有名。これに対し分裂症とは、パラノイアなどと並ぶ精神病の下位群をなし、自我の解体をみる。
(3) 「フェミニズム、エコロジー」の項の注(1)を参照。



■テクノロジー


テクノロジーには未来があるが人間には未来がない。それが今日私たち人間が立たされている場所である。とはいえそこにことさら悲壮な意味合いをこめて、慨嘆することはない。というのも未来や成長あるいは進歩や理想といった観念じたいが、とりわけ一九世紀来のテクノロジーの進展に歩調をあわせて形成されてきた、一過性の流行概念だからである。
すなわち今や、テクノロジーと文化の結びつきのあり方の、異なった段階への移行がおこりつつある。まず第一の古い段階として、今日にいたるテクノロジーは、機械やその運動、近代兵器や破壊性といった物理的実在物であることに加えて、その独立した実在性というイメージそのものが、社会‐文化的な価値を濃厚に担っていた。つまりテクノロジカルな製造物が配するイメージは、その物理的実在性に加えて、抽象的な実在性という、ひとつの歴史的な文化的価値を同時に代行していたのである。今日にいたる二〇世紀中葉において、私たちがテクノロジーというとき、それは鉄鋼業時代のテクノロジーのイメージと結びついており、そこには剛質さ、速度、瞬発力、結合力、破壊力といった観念(1)が強く賭けられており、ひとことでいえば、能力という文化‐歴史的な価値がそこに体現されている。それは近代テクノロジーが出現する以前から、文化的、哲学的に用意されていたさまざまな真理の観念、つまり人間が自分の存在や自分の社会のあり方を根拠づけ確かめる、抽象的に練り上げられた価値の範式を、機械の固有の形状にふさわしい仕方でそこに翻訳したものである。そして機械やテクノロジーがあらかじめ文化的価値と強く結びつけられる、特殊歴史的前提があればこそ、不断に進展するテクノロジーの進歩じたいが、人間の未来の可能性として理解される。つまり逆にいえば、それはテクノロジーそのものの存在が未来や能力という観念に包まれて、直接には現われにくい時代であった。
そして事実、テクノロジーはイメージや観念である以前に厳然たる実在物であり、それじたいの技術的必然性をもって変動・成長し、イデオロギーや文化の様態から一定程度独立して、社会や人間のあり方を深く決定づけていく。ここにおいてテクノロジーと文化の関係の、今日の新しい局面が登場する。今日のテクノロジーは、自己成長そのものの結果によって、その主要な文化的影響力の中心を、原子力発電所や高層建築といった一九〜二〇世紀的なハードな部分から、コンピューターや有機生化学などの情報理論的な工学装置と、その具体的運用に関わるよりソフトな領域に移行しはじめている。その結果、強い意味でのモダニズムの価値と直結した、未来や進歩という陽性の単純成長的な規範形成力は、テクノロジーが代弁する文化的価値の中心から剥落しはじめ、一方ではテクノロジーそのものが、逆により復古的な、あるいは古典的な価値へと結びつきやすい状況がつくり出される。そして他方、情報論化されたテクノロジーは、未来や理想などの文化的理念を経由せずに、視覚‐聴覚的な回路を通じて、より直接に人間の精神作用と結合しだす。いずれにせよテクノロジーが固有の新しい人間的<価値>を表現しないのが、今日のあらたな事態である。
今日のテクノロジーの前者の側面にかかわる中心的なタームは、たとえばヒューマン・サイエンス(2)という流行語にみられるように、一見すると人間性を標榜するものであることが多い。そこでは、かつて社会主義革命やファシズムの時代を頂点とし、日本でいえば一九六〇〜七〇年代の、鉄腕アトムや万国博覧会に代表される時代まで存続した、力強い成長性と明快で単純な美的様式、一見してわかる機能性といったものを、機械そのものの技術的必然性からなる形状が担う状況がある程度終了し、それに代わって微細化し、より情報論的に人間化されたテクノロジーが、旧来の歴史的価値——例えば人間性、融和性、安定性、等々——に奉仕することをめざす状況が出現する。しかもそのことによって、テクノロジーはより完全に人間生活を支配する。さらにその中心となる人間主義的なスローガンの周辺には、よりオカルト的な感覚を体現しつつ、メディテーションや身体コントロール、あるいは神秘体験といったものまでもテクノロジカルに再生しようとする動きなどが登場する。むろんこれらは、たぶんに古めかしい宗教的理念と結びつき、そこに奉仕するものとなるが、しかしそこで、前述した人間精神のあたらしい情報回路が生産される可能性もまた存在し、その価値は一概に断定できない。
ともあれそこで発現する状況は、全体としてはより微細化し、情報制御能力において人間に近づいたテクノロジーが、かつての技術至上主義的な文化状況を逆転させて、既存のイデオロギーにあからさまに奉仕しはじめ、国家‐企業的な人間管理の道具になるとともに、他方では、コンピューター端末機の普及などに端緒的にみられるごとく、商品として流通させられた情報機器が、幾層にも自立的な情報網を——ハード的にもモード的にも——展開し、しかしそれ自身がまた文化産業の資本力に支配され、そこに寄生するという、文化‐政治的にきわめて不分明な事態の展開である。
もちろん、この時代においても、原子力発電所や核ミサイルなどのようなハードなテクノロジーは、資本主義社会の存立にとって基幹的な位置を占めるが、工業生産におけるそれじたいの比重が低減するとともに、その規範形成力においては、さらに比重を低減させる。その基本には、まずGNP比、特に利潤付加率においてソフトな領域がハードな領域を上回りだすという、資本主義経済的な因子が作用する。さらに加えて、生産‐管理現場におけるコンピューター化の進展は、教育や企業における人材配置も激変させるので、そのことは人間の集団生活の様態にも影響を与えだす。例えば一九〜二〇世紀的テクノロジーは、鉄鋼、石炭、鉄道といった基幹産業と結びついていたので、そこに集められた多量の労働者は、今日の視点からみるといまだたぶんに農村的な共同体を構成し、しかもそれが先端的テクノロジーと結びついていたがため、それは比較的容易に社会主義革命という大規模な政治‐文化的価値を形成しえた。今日でも自動車や家電機器などの大工場は、資本主義経済において大きなウェートを占めつづけるが、総体的な方向としては、産業ロボットとともに工業生産の場所そのものが分散化しはじめ、いわんや経済の中心たる第三次産業の、もっともクリエイティヴな部分においては、人々の配置はきわめて分散的、流動的、多層的なものとなる(3)。このことが社会の平明な見取図や、その明るい未来を、工業プラントのような大規模テクノロジーに重ね合わせて表現せしめた、技術至上主義的時代を終了させ、古典時代的、ないしは疑似バロック的な歴史環境を準備する。
総じて今日のテクノロジーは、資本主義経済のもつ個々の企業の利潤率増大(=相対的剰余価値の増大)をめざすメカニズムそのものによって、自らの進展を無際限に受け入れさせつつ、しかしテクノロジーの進歩そのものが、かつてのように人間社会の陽性の価値をダイレクトに代弁、代行することはなく、テクノロジーと文化‐古典的価値が、相互に相手を利用し、口実にし、責任を転嫁しあうような色彩が増している。かつてヴァルター・ベンヤミンは『写真小史』や『複製技術時代の芸術』(4)において、工業化時代における複製‐商品芸術と、オリジナルな作品がもつアウラ的な光輝を対置してみせたが、今日明らかになりつつあるのは、どのみち商品として流通せざるをえない文化や諸様式が、その表現の明快さではなく、その明快さから抜け落ちることによって文化の祭祀的説得力を準備する、いわばアウラ的な次元じたいを、テクノロジカルに操作しはじめつつある事態である。
ここで再度、文化とテクノロジーの関係の第一段階に帰ってみると、工業化時代のテクノロジーの作用の固有の文化的側面は、大筋としては一八三〇年代前後からの、反ロマン主義の運動に重なっている。これはフランスにおいては、フローベールやスタンダールをユゴーから分かち、ドイツにおいてはゲーテを向こう側に、ハイネら青年ドイツ派をこちら側へと囲い込む。哲学的には、その『美学』においてロマン主義的段階を頂点に設定したヘーゲルと、ヘーゲル左派を分割し、そのヘーゲル左派の延長上にマルクスが存在する。
もちろんテクノロジーの作用は、主要にはそれが与える社会的・生産関係的影響を通じて文化的に作動するが、スタンダールやフローベールの文章は、それじたいそれまでの文学と比して、金属的な調子を一挙に増したものだった。彼らには「鉄鋼のような文体の」という非難が当時しばしば浴びせられた。すなわちそれまでのロマン派的文学が、一定の人間ドラマ的筋立てを展開し、読者を感動させることで共同体に根づいていたとすれば、反ロマン主義時代を境に、文章が自らの分析的能力や描写力じたいを目的化し、その固有の物質性をめざす事態がはじまりだす。そこには、この時代のテクノロジーの産物がもっていた冷たい剛質さや破壊力、自己目的的な機能美、伝統工芸への侮蔑性といった感覚が、直接的に、またそれが共同体に与えた壊乱作用を通じて間接的に作用している。
これらの感覚は、大まかにいえば一九三〇年代あたりでその翳りをみせはじめる。未来派の機械‐兵器崇拝的な末期的明るさと、自動筆記という観念をフロイト的モチーフから組み上げつつ、そのことによって自らの表現存立を瓦解させていったシールレアリスムの間に、一定の分断線を引くことが可能だろう。哲学的にはこの感覚の中心には、マルクスに加えてニーチェがとりわけ強く存在する。「ハイマーで哲学せよ」と語りつつ、未来派とファシズムに大きな影響を与えたのは彼である。ニーチェの中心に濃厚にあるのは、それじたいを目的とする能力の剛質な輝き、というモチーフだが、それは古代ギリシャ以来の、自己を完全に支配する力としての善=真理という社会的価値が、当時の科学的=テクノロジカルな力能を背景として極限的な形をとったものとも、一面では理解できる。つまり一九世紀来のテクノロジーの進展は、没価値的、没倫理的な風潮を強く形成したが、それじたいが古典的な西欧の価値観の、テクノロジカルな表現であったともいえるのである。だとすれば、そこにおいては古典的な倫理性や宗教的暴力性は隠蔽されていただけであり、テクノロジーの形状の変化にともなって、再度それは別の文化的平面を通じて社会的に前面化する。
要約すると、一九〜二〇世紀が、マルクスとダーウィンとニーチェに代表される、明快な力の時代であったなら、今日はフロイトとウィーナーとハイデッガーによって端緒づけられる不分明な力の時代である。精神分析とサイバネティックスに発する科学の情報理論化‐ソフト化は、人間や社会が自分の様式を肯定する倫理的力を、テクノロジーの固有の形状に代行させることを、逆に不可能にしてしまう。そこでは揮発した明るい規範性になり代わって、多様な蒼古的価値が渦まきだし、加えて文化様式の明快な=テクノロジカルな見取り図の不在は、逆にその明快さをより暴力的な形態に求めやすい状況を準備する。したがってそこでは、一九三〇年代の明るいファシズムとはまた異なる野蛮さが、右翼的暴力と左翼的暴力が多様に交差する混沌のなか、超管理社会を背景として展開する。しかしその一方で、より微細化したテクノロジーは、政治や社会といった倫理的‐理念的言語によって自らを語る場所じたいを、文化と生産力の最高の場所から脱落させつつ、あたらしい情報‐思考様態の形成に向けて、人間精神の暴力的改造をはるかに準備しているのである。
(樫村)


(1) イタリアのマリネッティなどに代表される未来派のスローガン。ファシズムもこれらの観念をめぐっていたが、社会主義リアリズムといわれるものも同様なモチーフを重視した。
(2) 『ヒューマンサイエンス』全五巻、中山書店。具体的な科学的内容は皆無に等しいが、科学がより<人間的>になりつつあるという主張を集大成しており、その意味で今日の科学がもつイデオロギー的側面のあり方を、一見して理解させる。
(3) これらは雇用形態の変化と一体化して進展する。テクノロジーの進展は熟練労働といった観念を喪失させるので、雇用関係においては、一方でパートタイム的・一時的な関係を増加させる。しかし他方、それは企業社会の不安定化を招くので、企業内部の人的結合は逆に家族的な密接性をより強く求めだし、相反する方向が当面は並存する。
(4) 邦訳、晶文社。アウラとはオーラと同じで、たとえば聖像が後ろに放つ神々しい雰囲気のようなもの。



■文化装置——文化支配


今日の文化と文化装置のあり方を考え、理解するには、カフカの小説を読むことをおすすめする。特に未完の作品『城』(1)が好ましい。
主人公の測量師<K>は、城を中心とするらしいとある寒村へ、そこの伯爵から与えられたはずの仕事をなすべく、ある夜単身訪れる。しかし彼を待ちうける困難は、彼がはたして測量師として招請、採用されたかどうかも一向に明らかではなく、彼は自らの責務をあらたな形で人々に証明せねばならないことである。その証明には、村の中心にある城と、その官吏であるクラムに到達せねばならない(らしい)のだが、じっさいそれはどこにも存在しないと同時に、あらゆる場所に存在し、Kの行動の半歩先を、常にすでに逃げつづける。おそらくこの村では、何ごともそれじたいにおいて意味や存在を許されてはいず、それゆえ自分を自分で直接に証明しようとし、あるいは直接にクラムに到達しようとするKの性急さは、常に村人から指弾されることになる。とはいえ他方、そこでは隠れた支配や意味や体系といったものが、裏側に控えているわけでもまったくなく、その村の世界の裏側は、メビウスの輪のようにやはり村そのものなのであり、しかしそこに存在するものは、それ以外の何ものかによって、自らの目的や意味を証明することを、常にあらたに要求される。
実際、クラウス・マン以来声高に語られつづけてきたように、この作品世界の構造は第三帝国と国家社会主義のそれであり、前資本制的な共同体や彼岸からの神学的支配といったものとは異質である(2)。『審判』のような作品においては、よりあからさまにその暴力性が描かれたように、そこでは自らを随意に役人へと任命する、市民とSS突撃隊員の間の不分明な境界線が、その世界の掟を刻印すべく、何の前触れもなく突発的に攻撃を開始しだし、しかし何ごとをも達成することなく、切り裂かれた個別の生の残骸と、世界の無傷を自身の後ろへと残しつつ、嘲弄的にもとの場所へと去っていく。そこでは市民社会的価値や意味といったものが、明らかに翻弄されているにもかかわらず、それは安楽死させられることなく、屍体となって自身の停止した未来の時間を舞いつづけることを命ぜられる。あらかじめ均されてしまった、世界がかつて内にはらんでいたその恐怖は、その均されてしまった道ゆきじたいを最大の恐怖と変じつつ、文字どおり白色化して猛威をふるう。
このファシズム的世界を特徴づける性格をひとことでいえば、すべてがあからさまに現前し、今、ここにあるものがこの世の全体であることを、常に主張せねばならないことへの逼迫する要求として集約される。自己を主張する主観性は廃棄されるのではなく、むしろ主観性が全面化することが称揚されることによって、それは避難所を失いつつひからびる。あるいは精神的なものが物理的なものに代わられるのでなく、精神的なものがむき出しに自己証明することを要求されて、それは物自体へと退化する。それは挫折した市民社会の死体であるというよりも、その輝きの増した果てに、なお燃えつきえぬ姿の残酷である。この、すべてに遍在するゆえに死にいたらしめられる主観と意識の剛直は、フロイトやハイデッガー以来の伝統によって、「不在スルモノノ不在」とも、あるいはスキゾフレニー=分裂症とも表現される。
すなわちこれがファシズム的世界であり、しかも、今日の私たちの市民‐文化的機械装置のあらましの姿である。いうなれば、私たちの文化装置がいくぶんかファシズム的危険性を帯びている、などというのではなく、ファシズムとは、今世紀末期に展開する文化環境を先取りした、画期的な社会運動だったのである。
そして今日の私たちは、それをさらに徹底的に引き受けつづける、より全面化したファシストへと、自らを任命していかねばならない。世界の隠された意味内容を殺したのが私たちの力なら、今度はその力がさらしものにされることで、その死は贖われねばならないからである。そしてその力の極みで、なおその贖うことの不可能が知られるとき、私たちに自由が返る。じっさい資本主義的文化支配のまやかしは、その生き返らぬ世界の意味を、なお売り与えると誘惑することにのみ立脚する。
ここで文化支配の平板な水準に目を転ずるなら、今日の文化的支配装置は、例えば日本においては国家‐独占資本主義、すなわち大資本、地主‐小ブルジョア(自営業)層、そこに基づいた自民党と官僚からなるブロックの、経済‐政治的な利益に奉仕することを、確かに社会の諸表現に対して要求している。その要求を達成する道筋は、じっさいたいそう古典的な検閲や禁止の力であり、それらはマスメディア、特にテレビやラジオ、あるいは学校などを通じてあからさまに存続する。そこでは国家の認可・任命権を通じて、政治的な批判行為に通じると予想される表現行為は、きわめて厳密に禁止される。
しかしそれにもまして決定的な文化的統制装置は、上述したどこに中心があるかも定かでない、文化の薄明的自己緊縛状況である。すなわちそこにはある種の統制があることは確かなのだが、それは単純に支配や禁止として表現されえるものではない。いわんや<本来の>文化が商品化され、資本主義的利害へと奉仕せしめられることによって、民衆の手から奪われたものだなどということは、まったくできない。むしろそこにあるのは、自己表現の禁止ではなく、自己表現を完遂させることへのあまりにも過剰な要求であり、しかも、それぞれの表現と文化の諸相において、すべてが今ここにおいて自分を証明させられる、性急な命令の過酷さとその蔓延である。
すなわち今日の文化支配の作用とは、表現の禁止ではなく、表現を留保することの禁止であり、自己を表明することの禁止ではなく、自己を表明しないことへの禁止である。それは最終的には、商品として流通せねばならないすべての文化が、その享楽的効用の増大と流通時間の短縮を自己に命ずる、経済的な必然性によって規定されている。しかし同時に、その流通能力の増大への要求は、文化的様式にさらなる洗練を訓練し、加えてその訓練の成果をたちどころに水泡に帰す。そこで最も痛めつけられるのは、人間が奥深く自身に抱える、癒しがたいネガティヴな調子と、何ものによってもあがなわれることのない表出を拒まれた孤独な存在の、その翳りである。というのも、それらは常に自己を表出‐証明することを、商品経済化した文化の要求によって厳命されつづけ、その強制化した明るみのもとで自己の生存権を奪われることになるからである。
ここにおいて、文化的諸様式が本来担うべき、人間存在の無底性への畏れと恐怖の表明と、その暴力的表現の振舞いは、あらかじめ十全に表出された人間の全人格が、その様式において他との比較で市場価値を劣化せしめられるという、商品経済の競合的暴力によって代置される。今日の資本主義的文化は、あらゆる領域において十全な自己表現を人々に求めつつ、表現が担うべき人間の否定的側面は、商品となった自己表現の市場からの脱落として、再度平板な見せ物の水準で表現の外側で代演される。
事実、人々に求められる個性、明快さ、説得力といったものは、テロル的法のようなものである。かといって奥ゆかしさがそこに属さないわけでもない。そこにあるのはすでに隠れた意味を失った世界において、なおその意味を十全に表出させようとする、二律背反的な要求である。それゆえ真になすべきあらたなことは、不在の意味の表出ではなく、自身をあらたな意味となすとどまる力と、言葉の量の育成となる。
とはいえ安直な意味でのその道ゆきは、私たちには存在しない。表現を留保することの多義的な能力も、また表現の能力として商品市場で争われることになるからである。しかし、より具体的問題としては、文化の享楽装置=文化産業やそこでの職業的文化製造者と、他方でのその消費者の間の、ますます増大しつつある能力の落差といったものを、問題にすることができるだろう。その落差が、すべてを相互に参照したがる愚かしさと、性急で単純すぎる享楽的要求を生みだしつつ、落差そのものを誘惑する意味となすからである。それを埋める戦略の一環としてのみ、教育と文化装置の、脱国家‐脱資本化が課題になりえる。それは商品の流通過程‐流通時間をより延長することで、その受容に執行猶予を与えつつ、そこでの絶対交通量を増加させ、人人に自らを肯定する力と苦痛を与えることになるだろう。ただしこの文化の民衆化は、退行的自己満足の温床ともなりやすい。その場合には、それは無類の現在的自己表出をなす最高の文化商品によって、再度破壊されつくすことになるのである。
(樫村)


(1) 新潮社『カフカ全集』第六巻。分裂病的というと概してカフカが想定される。すなわち安定した意味体系の不在、自我の一貫性の解体といったことなどである。ともあれ、それらを否定的意味合いでのみ理解してはならない。
(2) この差は、「消費」の項で述べるニーチェとフロイトの差に近い。



■制度——学校


——学校てさ、何か役に立つことあるのかしら。
——それに関しては国家の方も悩んじゃってると思うよ。ただその、役に立たないからっていうより、どういう仕方で役に立たないものにするかってな感じで。
——えー…?
——あのさ、例えばコカ・コーラとかペンギンズ・バーなんてのは役に立ってるわけ?
——あー、そーいうことね。もちろん問いつめれば全然役に立ってない。
——じゃ全然役に立ってないことのために何万人もの人が働いているわけだ。
——うん。今の社会で役に立つことしてるって人は、相当オクレテル人でしょ。お百姓さんとか。役に立たないこと同士でもたれかかって、成り立ってるわけだからさ、今の社会は。あ、で、もうひとつの仕方の役に立たないことってのは、あれね。
——そう、宗教とか教会だよね。坊さんというべきか。その人たちも現実に大量にいるわけ。で結局今の学校てのは、どっちの仕方で役に立たないものにするか決めかねちゃってる状態だと思う。だからごたすたして無茶苦茶なことになったりしてる。もちろんこの二つは、資本主義の今と昔でさ。
——その二つの仕方がはっきり別のものになっちゃったのは、わりと最近のことよね。資本主義の仕組というかな。仕組は同じなんだけど雰囲気が変わってきちゃって。……ま、それが大事なんだけど。くっついて一緒になっていたものがはっきり別なものになってきちゃった。その影響をモロに学校が被ってる。家族もそうだけど。
——うん、啓蒙的神話の解体というやつだよね。何か新しい科学的知識を伝授するっていうサービス業的な部分と、それをこう、未来や人生への希望みたいな形で有難がって受けとるっていう、本来は宗教的な部分が、昔はそのまま同じ形で重なってた。
——特に知識伝授の方が前面化してたわけよね。しかもそれは役に立つことだと思われてた。あ、そうじゃなくて、役に立つことってのは宗教的側面か。役に立つって宗教の方が前面化してたのかな。
——変動の原因は、やっぱり生産という観念がつぶれてしまったことだよね。つまり一九世紀的な資本主義だと、テクノロジーの水準がまだ絶対的に低いってとこがあって、主要な産業てのはいわばハードな形で<生活向上>的な部分に限られてる。つまり知識の社会的価値が見えやすい。しかもそれが利潤率の高いセクターを形成してるわけで、そういう意味で社会的ステータスみたいなもんも、それにひっついてたし。
——要するにそれじたいで意味ある生産てのがなくなってしまう。で、それは知識にも同じ影響を与える。市場に投下して、どのくらいの速度で他との記号的格差づけに成功して回収できるかってことのみが、ほとんど自立しちゃって。
——おいしい生活、おいしい利潤。だから知識も即おいしくなければならないと。
——それはつまりこうかな。学校で伝授される知識みたいなものが、資本主義総体にとって、昔はメタ言語(1)だったのに、今はマージナル化してくる。初歩にはなっても強い意味で中心みたいなもんにはならない。
——うん。知識の分極化ということでね。だいたい今、教師になろうって人間じたいが資本主義の落ちこぼれなわけ。演説好きなわりに市場価値はなかったりして。で、資本主義の中心から剥落した知を抱えた落ちこぼれ教師たちが、生徒に落ちこぼれだって言われるのを畏れつつ、おまえらは落ちこぼれだって、暴力教師になったりして。
——うん。で、今後学校は、より明らさまに宗教化する?
——というか、もともとは、はっきり教会の代替物だったわけだよね。つまり神の名によって、ひとつの文化的秩序や道徳観を有無をいわせず押し付ける、という。だから国家のイデオロギー装置とか呼ばれたりするわけだけれど。
——で、今日、狭い意味での近代主義時代が終了して、むしろ本来の姿にもどりつつある? 戦後民主主義みたいなのが特殊だったわけで。
——いや、それは難しいと思う。つまり資本主義総体との関係でね。教会に基づく学校てのは、それぞれ一人一人が自立した個人として神の前で主体たる、てな道徳観を植え付けることでね、資本主義が形成されるなかで決定的な重要性をもっていた。つまり資本主義の謹厳なるゲームプレイヤーを養育する、という意味でさ。むろん教会の教義体系と、科学的知識の体系性も、昔は今よりずっと相似的な関係をもっていたし。で、今の資本主義ってのがね、そういう形の主体を要求するのとは、ちょっと形が変わりつつある。もう少しなしくずしの形でゲーム参加を求めるというかな。なんか、学校で伝授される透明な倫理観を機軸にして資本主義が動くなんてことはなくて、もっと多様化したゲームの規則みたいなのが、社会のすみずみに不透明に編み込まれてしまってね。それを個人個人でうまく渡っていかなくてはならない、という。
——いかにして多様な仕方で法や道徳をくぐり抜けるか。
——今後ますますね。教会ってのはさ、それこそ役に立たないものの筆頭なんだけど、堂々と役に立たないことを宣言しえる力みたいなのはあるわけ。それは儀式的な力(2)っていってもいいんだけど。つまりそこから世界が始まる、という。で、古典的な国家のイデオロギー装置の学校というのは、その子分みたいな形で、小さな教会の形で機能していたわけだけれど、それが機能するためには、いずれにせよ社会の最高の地位がそこに与えられていないと……。
——うんうん。で資本主義のゲームプレイヤー精神より、商品のデタラメな差異化速度みたいなのが社会の最高所を取っちゃうと、学校で何を言ってもお笑い草になる。
——そう、規範という観念がすでに古いんだよね。だからむしろイデオロギー装置の中心みたいなのは、企業教育とかに移りつつある。これは明快な一元的規範というんじゃなくて、実用性と倫理性がごっちゃに一体化した土俗宗教みたいなもんでね(3)。
——ただ、そうやって特殊化した形で人間形成装置が分立しちゃうと、外圧とかで社会に変動が生じたときにすごくモロくない?
——そう、まったく日本的にね。
——で、最終的に学校とかはどうなるのかな。
——もちろん必要知識量は、資本主義が高度化すればますます増大化するから、それを伝達する効率的な制度が必要なんだけど、ただハイテク情報社会ってのは、社会の上層と下層での、必要知識量にすごく格差をつくってしまうんだよね。上層部はものすごい情報を駆使して機械とソフトウェアをつくり上げるし、……といってもたいして必要がないね。で、下の方の人間は、仕事でも私生活でも、知識なんか本当は昔よりずっと必要量が減っている。中間技術者みたいなものも減ることはあっても増えることはない。つまり文化的な階級社会が形成されつつある。だから要約すれば、学校みたいな制度はますます上下分化して、そこで伝授する知識の落差を通じて、社会の階級化を再生産することになるだろう。しかも社会の規範てのが、すでに抽象的な形では抜き出せなくなってるから、イデオロギーそのものが格差づけされた生活技術として売買されるような、奇妙なことになる。で、そうやって形成された諸階級は、今後は文化サービス製品の売買を通じてのみ結合する。
——例えば病院の高度な装置みたいな。
——うん。しかし病院てのは、珍しくもはっきりと役に立つものだから、両者を結合する新手の神話的イデオロギー装置となる(4)。でまあ、下層の方は、資本主義の知識体系から結局落ちこぼれる。だから国家の方は、教会的統合機能を学校にもたせたいだろうけど、ハイテク社会の、本当の文化・科学的知の形状てのは、すでに多極化しすぎて倫理的な一元的形状と一致しないから、それは嘘くさくなって、やはり難しい。
——でもう、下の方にかんしては、いっそ徹底的に野蛮に管理しちゃえと。
——当分はね。でもそれも長続きしないと思うよ。
——そのうち全員が落ちこぼれたりして。そうしたら面白いんだけどね。社会がごちゃごちゃでバラバラになったりして。
——いや、国家もそこまで馬鹿ではないだろうし、上層部は絶対落ちこぼれない。むしろ全員が自覚的に落ちこぼれる道を探すべきだな。知識が大義名分なしに流通する装置と、人間が具体的に出会う機会が、同じ制度へと一体化できるようにね。
(樫村)


(1) 上位レベルとなる言語。下位レベルの意味作用を規定する。
(2) 新しい文化・社会的形式をそこで生み出す反復的作用。儀式的な力はアウグスティヌスやパスカルをはじめとして、長年の社会哲学の中心課題のひとつである。
(3) 日本の場合やや特殊なほどそれが肥大化しているにせよ、日本流の<カイシャ>は、今日の企業内管理形態のひとつとして、資本移出とともに世界的に繁殖しはじめている。
(4) 特にイリイチなどが病院について注意を換起した。



■フェミニズム、エコロジー


フェミニズムやエコロジーは今日流行の思想である。そしてどんな思想も、ひとつの社会的現象であるかぎり、いずれはその姿を過去のものとなして消え去っていく。というのもひとつの思想が社会的流行として存在するには、概してそこに両立しえない複数の要素をはらんでおり、それはいっときの間は社会的陶酔や無知の効果によって看過されるが、やがて現実的にその両立不能性が明らかになるからである。
とはいえプロテスタンティズムにせよ資本主義にせよ、それらもある意味ではひとつの流行だったのであり、必要なのはその変動する流動的形態のなかに、新しい文化的可能性を発見することだろう。その意味ではフェミニズムなどのこれらの思想は、従来の近代的価値観を転倒させようとする根源的問いかけを、そこであらたに発見することが可能である。それはひとことでいえば、人間の存在を、その価値や意味や未来によって決定するのでなく、その無価値さや無意味さを含めた現在的存在において、まるごと肯定ないし受容しようとするものといえよう。
これは一面では、マルクス主義や共産主義の用語で従来も語られてきた。だがそれらが、全体としては人間の能力の開化や新しい社会原理の共有、といったことに重きをおいていたのと比べれば、フェミニズムなどは能力や抽象的原理などの観念じたいを認めないことで、より過激な思想である。
そこには資本主義の形態変化が全体として反映している。すなわちマルクス主義が資本の抽象的利潤原則や剛質なテクノロジーによる、暴力的な文明化時代の産物であったなら、フェミニズム等は多様化する文化商品とソフト化したテクノロジーからなる、停滞的‐分散的な資本主義時代の、先端的思想といえる(1)。特にフェミニズムの最高の部分は、思想的にはハイデッガー流の西欧形而上学批判と近接する。近代資本主義の<男性的な価値>と根底的に対峙するとき、そこでは人間を能力、とりわけ認識の能力に基づかせ、透明で一元的な記号の配置の中に世界を包摂しきろうとする、プラトン以来のメジャーな西欧的知との、鮮明な対立関係が発生するからである。そして例えばハイデッガーがそこに対置したのは、人間がお互いに自身を表明し主張する営みにおいて、ある種の留保の感覚を、共同体的にあらかじめ育ませることだった。
とはいえそれらはラディカルな思想であればあるほど困難をはらみ、ただの流行に終わる危険性をもつ。その主な理由は、人間が自らを表現し他人に押し付けようとする激しい欲動の働きを、<社会的に>処理する方策が、いまだそこにおいて開発できていないことにある。というのも今日の資本主義社会のような、不特定な人間が広範に出会う社会においては、資本主義的利潤のような抽象的な価値基準が、人間が激しい力とともに自らを表現し、あるいは他人に自身を伝えるための道具に、最終的にはどうしても必要とされるからである。むろん高度な意志疎通と高度な文化循環が具体化された社会なら、能力や価値といった、現下の人間以外の抽象的で不在の何ものかが力をもつことなく、今ここに存在する人間が、その現在的様態において自身を十全に保持‐主張することになるだろう。というのも能力や価値といった観念は、相手のことを十全に知ることを節約するための道具であり、それゆえ今日の資本主義社会のようなせわしない条件においてこそ、重宝されるからである。したがってそれとは逆の、重厚な情報循環があらかじめ存在し、それによって相手が直接表現せずに留保し、あるいは後ろに<隠しもった>ものも十分に推察できる共同体社会なら、それらの抽象的価値は衰退させることが可能になる。
じっさいフェミニズムやエコロジーは、人間存在にかかわるあらたな共同性の試みを、さまざまな形で論じてきた。とはいえそれらは、家庭教育や学校制度や企業運営や国家的意志決定において、性急で専断的な判断と決定を排除する、あらたなシステムと具体的に組み合わされねば現実化不能である。つまりそこには、きわめて高度な政治的プラニングが要求される。さらにその試みは、究極的には資本主義的利潤‐搾取のシステムとは両立しない。しかもその問題を処理せねば、人間が自らを粗暴に主張することを忌避しようとする、これらの深い思想は、その根拠を高度な文化的共有にではなく、例えば出産や自然といった、あらかじめ存在する特定の様態を特権化して、人間存在の隠れた本質たらしめる復古的罠に陥り、あるいは逆に、それを商品化することで資本主義的逼迫性と共犯することになるのである。
実際、ここで現実の社会運動の諸相をふり返ってみるならば、今日フェミニズムという場合、そこにはまったく傾向の異なる二つの方向が存在している。その一方は、より自らを逞しい力となして資本主義に進出し、それを推し進めようとする、プロレタリアート以来のあらたな新興階級ともいえる女性の運動たる、反性差別主義(2)であり、他方は女性主義ともいえる、上述したこれらの根源的な思想である。
フェミニズムにおいて、それが今日多少なりとも社会的発言力をもっているのは、現実には第一のものによってである。現代日本において女性の就労人口は五〇%を突破したが、その賃金水準や責任能力分担は男性と比べて圧倒的に低劣であり、その現状が<女性>をめぐる主要なエネルギーを支えている。そしてあらゆる存在を抽象的な労働力として自身のシステムに登録し、搾取の対象にしていこうとするのは、それぞれの企業が独立して意志決定するかぎりでの、資本主義の基本運動なので、この反性差別的な闘争は幾多の困難を抱えつつも、いずれの日にかは自身と資本主義の両者を勝利させるはずである。
しかしその主要な問題の所在地とは反対に、今日フェミニズムの名で前面に登場する女性たちは、女性労働者の圧倒的多数を占める低賃金パート労働者ではなく、ある程度クリエイティヴな作業に従事している者たちである。このことが既述した第二点との連携を生じさせる。すなわち官僚や金融などの資本主義のセンター領域は、特に日本においては人材登用に関して封建的なので、有能な女性は××ライター、××エディター、××デザイナーの類の、新種の流動的な領域に進出する。これらの領域は概して労働流動的で、創造活動的な業種であり、その創造的な条件が前述した二つの反対方向を同時に強めつつ、並存させる気分を発生させる。つまり激しい資本主義的競争を勝ち抜いていこうとする禁欲的‐闘争的な調子と、他方での一元化された価値に無関心な、自己目的的で非論理的で、しかし創作的な態度である。
この後者が思想的に表現すれば、非西欧化された思惟といったものへの道を拓く。しかも、この対立する禁欲的/享楽的、闘争的/融和的な態度の混合じたいが、多様な感性の存在を資本主義的商品として相互に競争させてしまおうとする、今日の資本主義の様態を表現している。すなわちフェミニズムという語は、現下の資本主義の最も先端的なイデオロギーともなるのである。
むろん新しい社会運動は、現実の資本主義の生み出す条件に基づかねば可能にならない。しかしフェミニズムの運動においては、現実の政策立案は、雇用の平等といった反性差別的部分に重点がかけられているので、よりラディカルな女性主義的主張は、前者の要求の実現が自らの衰退に結びつきかねないジレンマをもつ。しかもこの女性主義的主張が、反性差別的な攻撃的気分のもとに圧縮される状況は、それこそハイデッガー流の反形而上学が、人間の闘争性や権力形成性に対してもつ警戒心の甘さを、その二重性そのものによって隠蔽し、代補さえする。
ここにおいて注目されるのが、逆にエコロジー的な運動である。今日、以前ほどは陽のあたらない思想となったとはいえ、現実の政治的経験の豊富さ、特に自治体や地域社会での企業進出と環境破壊をめぐる、新たな住民的意志決定システムの模索などを通じて、それはより多くの具体的・政治的な知恵をもつ。エコロジー思想は、その現実的基盤をフェミニズムよりもより絶対的な弱者にもつので、資本主義に対する具体的な批判的視点は、より鋭利なものとなりやすい。それは思想を宗教化させやすい弱点をもつが、科学技術の具体的な理解と、そのあらたな管理方法をめぐる問いかけが、エコロジー思想にさらに開かれた可能性を与える。しかも資本主義経済が存続するかぎり、ニューテクノロジーとコストダウンの要求はあらたな環境破壊を発生させつづけるので、それと具体的に対峙しつづけることで、エコロジー思想は非近代化された社会制度の可能性を、今後も気長に探求していくはずである。
(樫村)


(1) 総じて一方に近代資本主義、すなわちプロテスタンティズム、エディプス・コンプレックス、神経症、ハード・テクノロジー、未来といった系があるとすれば、今日の系列として、分裂症、シングル・セックス、新興宗教、ソフト・テクノロジー、現在といった、ポスト・モダンな系列があり、その大衆的なイデオロギーとしてフェミニズムないしはフェミニンといったことばが定位できる。前者が一元的・定常的な情報システムだとすれば、後者は概略、過流動的で変動しやすいシステムである。それは分散的ではあるが、けっして非中心的、非権力的なのではなく、むしろあらゆる場所が中心であり権力であるようなシステムである。したがって、そこでは一ヵ所の変動が全体の激変に結びつきやすい。結局、これらポスト・モダンな情報様態が、どこまで深く資本主義に根づくかが、今後の資本主義の性格を規定するといえるだろう。
(2) 一定以上の規模の集群をもつ社会においてなぜ女性が劣位におかれることになるかは、長い間の論争の的だったが、今日にいたる人類学的研究によってほぼ肯定されるストーリーによれば、子供に財が相続される、戦闘などで人間が減少する、などにより、子供に稀少価値が生じることが決定的に重要である。子供に発生した稀少価値にもとづいて、女性に稀少価値が発生し、そのことが集団間の性的交通において、男性ではなく女性を交換させることになり、それが共同体内における女性の劣位化を引き起こす。



■消 費


たとえばマルクスの『資本論』を、いまや古典へと葬ってしまったもののひとつとして、広告や流行によって<人為的に>自らを操作する、今日の消費社会があげられる。というのも剰余価値(≒利潤)の産出を基礎づける彼の搾取の理論は、その根拠を労働力の価値と労働(労働力が現実に工場で生み出すもの)の価値の差に求めているが、ここで労働力の価値とは、労働者が自分の生活と生産活動を再生産するのに必要とする、<自然で><標準的な>必要消費物質を意味しているからである。
つまり彼の価値理論は、自らの形状を自立的に再生産する生活と消費のシステムを前提しており、そのことが今日の私たちを戸惑わせる。変動しない自立した構造の生活と消費の存在など、私たちにはすでに遠い国のことのように思われるからである。じっさい私たちの生活—消費は、商品市場を通じてその物在を配置されるのみならず、欲求と必要の程度を含めて、広告産業や文化産業による流行操作、さらにより上位の政策決定によって流動的に操作される。しかもその操作じたいの可能性もまた流動的であり、安定した生活やその意味など、まったく喪失したように見えるのである。
そして広告産業や流行による欲求モードの操作は、単に生活様式の流動化といったことにとどまらず、人間のあり方や自己認識の根幹の変化に関わってくる。たとえばマルクス主義、とりわけ疎外論や物象化論といわれるものが社会的に過去のものとなったのは、多層的に微細化した差異の網の目によって生活のすべてを自覚化して支配する、あらたな仕組の登場が決定的に作用した。共同体的ないしは<本質的>に、一定の形や構造をあらかじめ保持している生活や人間存在の様態が、資本主義によって事後的に簒奪されるという感覚ぬきには、それらは説得力を失うのである。つまり社会やその解放といった観念は、人間の関係の最重要な場所(=構造(1))の存在と、それを自覚化する道ゆきで成り立っているが、あらかじめ多様なことが自覚化されすぎてしまうなら、構造や共同性といったものじたいが失われることになる。
とはいえそこで資本主義が、根本的に別のものへとなってしまったわけではない。たしかに禁欲を旨とし、具体的な物の享受や消費を永遠に棚上げし、ひたすら抽象的な利潤と資本蓄積に励まねばならないとする、古典的なプロテスタント的資本主義は、そこであらかた終了した。だが利潤獲得を軸として人々が相互に競争するという、資本主義の基本ゲームは昔と何ら変わっていない。むしろマルクスに代表される明らさまな階級闘争の時代がいったん終了し、大衆のより多い部分が、資本主義的ゲームや競争のイデオロギーにあらたに編入されることによって、消費社会の自覚的モード操作といった細かいゲームが、基本となる利潤原則の抽象性を食いつぶす形で、人々の意識により前面化したのである。
すなわち今日においても、最上部の資本家階層は、なお禁欲的な仕事の観念を有している。しかしより広範な社会階層は、資本主義社会を通じて強迫的に自らを表現し、自身の存在を証明しつづけようとする運動を、永遠に遅延された消費たる価値増殖に向けた運動としてではなく、その宙吊りの時間をより細分化し、多様な具体的モードへと翻訳した、階層づけられた消費や生活との関係においてそれを表現することになるのである。つまり、かつて人々の資本主義的振舞いは、不在の抽象的価値(利潤獲得)との関係で決定され、強迫づけられていたが、今日の社会では、その価値基準は具体的形状をもったモードとなり、そこに身を重ねることを要求することで人々を支配する。すなわち人はモードを消費することを競争する。しかもその消費の競争じたい、資本主義の利潤競争に基づいて形成された広告という市場対策の結果なのであり、そのことは多様な消費モードそのものをも不断に規定し、そこに依然としてブルジョア的生活の模倣態という、古色蒼然たる影を植えつける。
これは具体的行為のすべてに、それと等身大の評価基準が張りついたような、重苦しい社会といえるかもしれない。しかしそのことは、基準の微細さゆえに、逆に基準を自覚的に操作する感覚をも人々に開発する。これが最も注目されるべきことといえるだろう。そしてここには、社会が自らの形式や様態を再生産するのに要する、宗教的な作用の性質の、決定的変化が賭けられていると思われる。すなわち古典的な資本主義が、禁欲という形で自身の存在の意味を確認しつづけ、自身の形状を再生産し、日常を宗教化する社会だったとするなら、今日の社会は常に現前する享楽との関係で日常を宗教化する社会なのである。それは近代的一神教より、より古代的な宗教との関係で論じた方がふさわしい。多少議論を迂回させてみよう。
まず今日の、消費がそれ自身を目的とするかのごとき事態は、とりわけ近年のテクノロジーの改善にともなう、生産力の増大によって可能になったように思われる。しかし人類学的に今日広く知られているところでは、人類が定住を開始して最初の時代である部族社会の段階から、すでに人間の生産能力はその消費必要量を上まわっていた。しかもそこでは社会のなかに、主要に祭祀的すなわち政治的なメカニズムを通して、何らかの形で生産を一定水準以下に抑え、社会内部に一定以上の財が蓄積し、経済的な不均衡が形成されるのを阻止する作用が、巧妙に組み込まれ作動していた。その一つにポトラッチなどとして知られる剰余の蕩尽作用がある。それは多量の労働力をつぎ込んで日常的期間においてつくり上げた祭祀用物質を、一年のうちの限定された祝祭的期間において、一気に消費しつくすというシステムである。これはジョルジュ・バタイユなどによって注目され、過剰や祝祭という用語によって日常性への侵犯物として定位されたことで有名になったが、しかしそこに働く主要な力は、逆に日常的秩序を形成する作用である。
この蕩尽や陶酔と、日常秩序との関係を、哲学的に最も完成された形で展開したのがニーチェである。彼は古代ギリシャ世界のアポロン的な、一種冷めた安定構造のなかにむけて進入したオリエント的ディオニュソス神の、忘却と恍惚の祝祭的世界に着目した(2)。彼はそれを一種の<超節度>と名づけたが、そこではある種の嗜眠的要素とともに、畏るべき興奮と忘却のなか、日常的な現実世界と過去の記憶の一切は乱舞の彼方へと沈み去っていってしまう。しかしやがてその祝祭の時が消えゆくや、再び日常の現実がたちもどり、しかしその現実はより美しさと悦びを欠いた姿であるがゆえに、人々はそこで吐き気や嫌悪感をおぼえだす。そして彼によれば、この<禁欲的>で意志否定的な気分を、芸術的な形に高めたのが当時のギリシャ的文化であり、そこでは畏るべき忘却は芸術的崇高さとして形象化され、そのことで逆にそのなかへと保存され、この芸術化された諸形式を通じて、臨界的混乱と日常の現実は、ひとつの形式(社会形式)のもとで共存するにいたるのである。
ここで理解できるのは、日常的現実は、その意味を一瞬の蕩尽的恍惚の否定物として有するのであり、すなわち現実の安定した構造は、記憶の彼方にある畏るべき恍惚を、自らの不在の価値として、あるいは<限界として>もち、そのことによって現下の制限された姿を享受する。これは祝祭と日常的秩序の一般的関係として理解される。フロイトは人間主体の欲望の基本構造を理解するにあたって、一次抑圧と二次抑圧という概念を編みだし、すなわち現下の具体的対象物は、過去に強力な満足を与えた対象物との二次的関係によってその価値や意味を決定するといったが、それに近い関係がここには存在する。
しかし両者が決定的に違うのは、ニーチェのいう世界では、現下の演劇的世界は自分の現実をディオニュソス的世界との関係によって、ひとつの仮構や虚偽として自覚的に感じており、また畏るべき恍惚と愚かしい現実がある種一体に演劇的に形象化され、そのことで現下の自身の形状は、逆に自覚的に操作されるべきものとなることである。他方フロイト的な二元的意味作用(3)においては、享楽は現実と完全に切断されて遠い過去に、まったくの不在の形で存在させられ、そこにおいては現実の構造は所与の動かしがたいものとなってしまう。
この点から振り返ると、今日の消費世界とマルクス的価値世界(とその時代の資本主義)は、それぞれニーチェ/フロイト的世界に概略近似し、たがいに同じ仕方で対立していることが見て取れる。というのも今日の消費世界と、あるいはそこでの人間の具体的行為においては、財物の具体的享受(使用価値)と、それを演技化し構造化した差異の体系(たとえば流行やブランド価値、すなわち<価値>)は、不即不離的に結合しているのに対し、マルクスの世界においては、消費や生活の構造そのものはその起源を不問にされることで完全に固定され、逆にそのことが、享楽と使用価値を完全に断念して利潤の抽象的落差のみを競う資本主義の一元的ゲームを、特権づけることになるからである。じっさい今日の流行においては、その差異化された価値体系がそこでの目標であるにせよ、しかし何を支配的価値にするかは、商品の<審美的>様態が決定しえるのであり、しかしいったんその具体的様態=使用価値によって他と格差づけられた物や商品は、今度は自身の形状に関係なく自らを差異化=価値化する記号的力を得る。つまりそこでは、利潤拡大というひとつのルールに基づくゲームに加えて、モード的ルールを開発することじたいがゲームになる。とはいえそのゲーム全体は、やはり資本主義的競争という最初の単一なゲームに従うのである。
この相違は、単に商品世界とそれをめぐる相違にかぎらず、広く人間の様態の差に帰結する。じっさい今日の人間は、それ自身の存在が単に一元的‐抽象的ではない、実に多様な価値体系によって評価づけられているとともに、また自身の現実の姿がそれじたい新しい差異体系の端緒となる可能性をも有している。この事態をさして、とりわけパフォーマンス的という言葉が用いられる。これは不在の(=一定した)意味内容を表現する意味作用に対して、それじたいが新たな意味の表出となる行為をさすのに用いられる言葉である。あるいは今日の悲=喜劇的な感情の同時性といったもの、すなわちその両者が昔ほど明確に分離した感情でなくなってきていることなども、そのひとつの帰結としてあげられる。これは現下の事態が常にすでに、それを意味づける多様な差異体系を目の前に思い起こさせ、眼前の深刻な事態も喜ばしい事態も、それじたいとしてはダイレクトに受け止められずに、いったん<評価=価値=演技>の回路を通じて、直接性を減少されて受け取られてしまうことに起因する。
総じて今日の消費社会が生み出したものは、あらゆる消費、ひいてはあらゆる文化や人間の振舞いを、商品化を通じて差異化されたモード体系に登録し、そのことで、人間から本来的といった感覚を奪ったことへと要約される。それはそのままでは、より完璧な資本主義的差別体系の完成としてしか存在しないが、しかし禁欲的な古典資本主義と異なり、生活上の価値機軸が、不在の彼方(抽象的利潤と神の恩寵)から目の前の様態(消費モード)に変更されることで、消費社会は逆に価値機軸を操作しうる感覚をも人々に与える。このふたつの意味合いは、理論的には不在の価値に支配される水平的な差異体系が前面化するか、それとも享楽的恍惚と現下の日常の垂直的な同時性が前面化するかの相違である。後者の感覚は、資本主義経済のなかで常に限界づけられるにせよ、消費社会が私たちに与えた新しい可能性として、その徹底した無根拠さ(4)の感覚は決定的に重要である。
(樫村)


(1) 構造という語の内容は、単に定常的な差異体系ということでなく、レベルが下の他の要素を、その構造の内容として支配する作用が含まれる。それゆえ支配力・凝集力・表示力といったものが減少すれば、構造は解離する。結局、消費社会論において問題なのは、資本主義的生産様式という抽象的構造が、少なくとも旧来の意味で社会の主審級といいえるほどの支配‐凝集力を、人間主体の欲動システムと今後もとり結び、自らとの抽象的同型性をそこに押しつけていけるかどうかということである。
(2) 『悲劇の誕生』等。消費、ポスト・モダン等、資本主義社会の新しい系にかかわる主要なタームは、主に構造主義以降のフランス哲学を通じて明示化されたが、いずれにせよそこでの決定的な源泉は、何よりもニーチェの思想である。
(3) シニフィアン=意味するもの=現下の対象とシニフィエ=意味されるもの=過去の満足物からなる。
(4) ニヒリズムとも表現できる。



■ポスト・モダニズム


——ポスト・モダン(1)ってこう、なんてのかな、セルロイドでつくったレトロ感覚っぽい小物かなんかで……。で、あってもなくってもいいような感じなんだけどね、それ言うほどでもないって感じで。
——無意味っぽいところが可愛らしい? それでかえって許されちゃう?
——うん。だから使い捨てっていうのとはチョット違うよね。それはモダンだし。かといってもちろん伝統復帰という感じでもないし。
——なんとなく無関心風に許しちゃう雰囲気。
——そうね。でまあ、結局は流行なんだろうけど、頑張って流行してますって感じじゃないし。流行だからバカにしてってこともなくて。うん…で、ま、やっぱり使い捨てではあるわけ。けどこう、捨てたあと新しいの買ったら、また同じのだったりする…
——あ、それはいえてるね。その充満というほどじゃなくて中和というのかな、この感覚は論理実証主義や言語ゲーム論の枠内の話だとうまく強調できないんだよね。
——キンダイっていうとこう、コンクリートの塊がグワッシ、て感じでしょ。そうじゃなくて世界との間にもう一枚何か入ったっていうか。
——リオタール(2)だかがポンピドー・センターで、ポスト・モダン展か何かやったでしょ。そこで確か人工透膜かなんか展示したんだけど、それで包んじゃったような。
——うん、人間が包まれてんだか世界が包まれたのか、わかんないけど。
——言葉が包まれたんでしょ、最初から似たような別の言葉で。…そう言い切っちゃうと性急か。時間が限定づけられたというほうが、もうちょっと正確かもしれない。
——えー……。
——いやなに、すごい細かい時間しか存在しない社会でね。たとえば今でも中南米の『百年の孤独』とかいう世界だと、お互いの世界がこう何かバオバブの木みたいで全然違う形で繁っちゃって。それが出会うとやっぱりグワッシて感じになるんだけど。……戦争や革命もおきるし。そんなインターバルがなくってね、こう細かい砂がサラサラサラサラ流れるように、時間がね。結局商品流通の時間なんだろうけど……、知がすべて商品化されるから。もちろんそれはそれぞれ違っているけど、投資効率からいってあんまり長い時間ため置けないから本当に細かい変動……快楽というのかな、それを起こすことだけ期待されて次々再投入されていく。細かく流れていくのは差異でもありそれぞれの知でもあって……。なんかものすごい細かい起伏の躁鬱循環みたいな感じ。新しい差異、てのは現実には商品のことだけど、それが入ると軽躁状態で。えー、で結局ポスト・モダンというものは……
——うんうん、ポスト・モダンってさ、やっぱし全体としては凄い伝統ぽいと思うよ。つまり人間どうしの関係を、例えば平等とか自由とか、これって感じで抽象的に表現できないくらい、いろんなこまかい要素が平等の資格で編みこまれちゃって。だからマルクスがやったみたいな、資本主義経済の抽象化する力っていうかな、それを使い直して社会改革することができなくなっちゃう。それがポスト・モダンの第一の意味じゃないかな。こういったことは、例えばヴィトゲンシュタインの『哲学探求』(3)で説明するわけにはいかないでしょ。
——それは必ずしも……。説明ってのが似た種類の感情を近づけて交感させるってことなら、ヴィトゲンシュタインでポスト・モダンを説明するのは適切かもしれないよ。
——ぎ?! そんならなんだっていいことになるでしょ。
——ウーン。だけどポスト・モダンってさ、意味の不在とか価値や目的の揮発した……、リオタールの表現だと<解放の神話>が解体した世界か。要するに真理や抽象的な人間的価値の解体ってことならね、たとえばヴィトゲンシュタインなんかより、メチャ文脈の奥深いニーチェとかハイデッガーがいるわけ。けれど彼らがポスト・モダン議論で前面に出にくいってのには、完璧な必然性がある。
——ポスト・モダンてのは最初から英米系の議論よね。で七九年のリオタールの『ポスト・モダンの条件』(4)が、その言語ゲーム論的な文脈に媚びた仕方で議論をしていて、この本がポスト・モダンて言葉の流通に一役買ったわけだけど。
——うん。それ以上に内容上の同族性がある。リオタールに限らず言語ゲーム論周辺のポスト・モダン議論てのは、その骨子はごく単純だよね。まずひとつにはあらゆるゲーム、つまり知とかもっと一般に権力の制度っていってもいいけど、その平等性・ローカル性の確認っていうこと。もうひとつは、それぞれの言語ゲーム、まあ人間同士の関係と同じことだけど、そのなかで打ち出される<手>、…これはチェスのメタファーを使うからそんな言葉になるんだけど、そいつはあらかじめ存在してる全体の規則みたいのに従ってるんじゃなくて、その新しい<手>、つまり発話とか行為が出されるたびに新しい規則が発明されてるんだといわれる。だから対話の目的は何らかの一致を得ることじゃなくて、むしろそこには対立や相違、つまりパラロジーが存在することの方が、ごく自然なことになって……しかもそれ自体がゲームの目的だと。
——具体的には科学的言説に他の言語と比べてなんら特権的な規範能力もないし、えーと、だからそれをモデルにしてすべての対話や交通を規制するメタ言語(5)、つまりメタ物語、メタ権力よね、そんなものを考えることはできないというかな。要は啓蒙主義以来の大きな<近代的>物語、解放や成長の<理念>よさようなら、ということね。つまり大いなる真理の物語、西欧形而上学よさようなら、か。それから対立やパラロジーを宣揚することで、システムへの同一化というテロルがなくなり、むしろ想像力がそこで花開くんだ、とかいわれちゃったりする。
——ナハ…。でさ、フロイト的にいえば、いやヴィトゲンシュタインでもいってることだけど、ひとつの理論、特に社会理論の場合そうだけど、正面切っていわれることはまあたいてい正しいわけで、むしろいわれてないこと、抑えこまれたことに重要性があるわけだよね。でこの場合チェスのゲームのメタファーはやっぱり決定的で。
——それぞれのゲームから降りることだけは禁止されている。正統性の承認という形でひとつのゲームを他の大きなゲームに委託してしまう口実が棄却されたがゆえに。
——うん。もうちょっとこまかくいえば、例えばチェスのコマをいきなり相手に投げつける、とかいう<手>は認められてないんだけど、それは結局、相手が打ってから五〇年考えてね、何かほとんど別な規則をつくって、それを動員しつつ次の手を打つってことは認められない。
——変動の閾がすごい限定されてる。
——うん。結局、一種類の時間しか議論に出しにくい。しかもあくまで議論の上でのみね。それは力そのものの差異といったものをあらかじめ論じにくい状態だということができる。いくら真理の廃棄、単一の意味の終焉といっても、ニーチェであっていけないことの理由がそれでね。つまりゲーム理論てのは、相互の差異は必要とするけど、その差異の種類の量を支配する差みたいな、力の差はあっちゃいけないんだよね。これはさっきいったように、商品循環の時間が一種類だということに限定されてるんだろうけど、いや正確には商品循環をめぐる神話の時間……というべきかな。
——じっさい五〇年考えて次の手を打った人がいるとすると、次に打つ人は、
——すでに支配されている。同じ手でも五〇年考えた方にとってはインプット済みだろうしね、打ち返した方にとっては未知の一手となる。つまり一つの振舞いが分離した意味をもつことになってね、結果として異なるレベルに分解して存在してしまう。
——事実上の真理が存在してしまう。しかもおそらくそれの方が本当の現実の姿で。
——そう。資本の真理。多国籍情報産業の真理というべきかな。真理ってのは自分で自分の声を聞く透明さとか自身との一致っていうんだけどね(6)、なにも本当に透明、つまり情報処理時間ゼロである必要はなくて、無茶苦茶な処理速度をもったシステムがあればさ、それよりずっと能力の低い処理体にとっては真理みたいなもんで。何というのかな、その五〇年の待ち時間、……五〇万人の従業員かな、が逆転した速度の差になって現れてくるんだけど。つまり自己を支配する力の差というか、差異を支配する力の差というか……。それが正統性とか真理の物語というものを必要とせずにね、単なる事後的な事実関係の形でのみ、むき出しの能力の差で出てきてしまって。
——しかも見かけの上では、市場で対等なゲームを打っている、そしてその差はますます開く。特に第三世界なんかとの関係で。
——そう。それは何か隠蔽的イデオロギーとかいうのではなくてね。確かに対等ではあって、しかもそれしか互いにやりようがないという感じで。中国とか見てもわかるように。つまり社会や一定のゲームの正統性とかいうのはさ、能力が似通ってね、しかも起源が若干異なる交通体系が複数ぶつかるときにこそ主題になりえる。市民社会と国家とか個人と体制とか。でも知のすみずみにいたるまで商品情報循環の目に入ってしまうと、もうそんなお題目は馬鹿げてくる。確かに個人は多様で平等な言語ゲームの交点上に存在してるんだけど、それをはずすことだけは絶対にできないという。
——確かに近代が規則、というか規則の存在を予め明言する父‐子関係だとしたら、ヴィトゲンシュタインのいうゲームはその明言を封じた母‐子関係的ゲームだよね(7)。
——うん。母親の行動ってのは、明らさまに規範を主張する父親みたいに登場するんじゃなくてね、子供のそのときどきの動きに応じて、自分を変えながら、しかもそれにうまーくそって、少しずつリードしながら子供をシステム化してっちゃう。
——遂行的支配。
——そう、今日の資本みたいにね。それはけっこう親切っぽい振舞いでね。しかもこっちは絶対そこから抜けられない。まあ力の差というのはそう固定的ではないかもしれないけど。この母‐子的というかファンタスム(幼児幻想)的な環境は相当根深い。
——つまり一方で資本主義の事実関係として力の差は存在すると。しかし情報の商品循環があまりに完成したから、ある程度交通を遮断して——例えば毛沢東の中国みたいに——自らを支配する力のストックを自覚的に形成するようなことは何者もなし得ないと。で結果として途切れることない情報循環で世界はオブラートされて…。
——うん。で、抽象的な価値がないってのは、休む口実もないシンドイ状態でね。新しい力も生まれにくい。あと、力だけじゃなくてゲームの比喩ってのは、<打たなかったけれど存在しえたはずの他のいくつもの手>ってのも論じにくいでしょ。
——ああ、ハイデッガーでもまたないという。
——うーん。ま、簡単にいってしまうと、情報がいっぱいあるわりには、お互い留保したり慎み深さの感覚に欠けるというかな。これは差異をプールできない、つまりそれぞれの社会に歴史がないということと一体だけどね。
——で、全体としては気くばりの勧めっぽい社会で何をするにもお金がかかって、フワフワしてるわりに目の前にあるものがすべてだから、それを?んどくのに結構疲労して、変動力を蓄積しにくいという、反形而上学をたいそう安直に語りえる社会。
——で、金がなくて気くばりも苦手で疲れきった連中が、無茶苦茶な手=暴力や宗教的正統性に走ることもある。いや金のある連中も危ないというべきかな……。
(樫村)


(1) ポスト・モダンについての最大の問題は、結局そのようなものが存在するのかどうかということだろう。これについては「フェミニズム、エコロジー」の項の注(1)、また「消費」の項の注(1)を参照。
(2) ジル・ドゥルーズらと並んで現代フランス哲学の第一人者。後述する『ポスト・モダンの条件』はつまらない作品だが、『欲動装置』といった美学的系列の作品は面白い。
(3) パフォーマティヴ(遂行的)な意味作用、後述するチェスのメタファーによる産出的意味作用などは彼に由来する。
(4) 邦訳あり。星雲社発売。
(5) メタとは「論理的に高次元の」という内容の接頭語。
(6) 要するに真理とは、言語(意味)や社会制度(権力)や主体(欲望)といった人間にかかわりのある情報システムの様態が、その運動の極限に想定している理想的停止状態のようなものである。プラトンの『国家論』で判明に論じられた。
(7) 父親の力が禁止に基づくとすれば、母親の力は段階的容認に基づく。特にメラニー・クラインによって注目されはじめた。



■参考文献


第1『資本主義』

第㈽部 文 化部 文化

総じて資本主義ということばは、マルクスまでの哲学的支配を強く受けてしまう。ここでは<現在の資本主義>がもたらす感情を、ヴィヴィッドに反映しているものを中心に選んだ。
ニーチェ『華やぐ知慧』白水社
ハイデッガー『選集3・ヘルダーリンの詩の解明』理想社
アドルノ『美の理論』河出書房新社
フーコー『言葉と物』新潮社
アルチュセール『甦るマルクス』人文書院
ドゥルーズ、ガタリ『アンチ・オイディプス』河出書房新社
デリダ『尖筆とエクリチュール』朝日出版社
関曠野『プラトンと資本主義』北斗出版


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