特集=キルケゴール
性的不能
現代思想16巻5号 1988年5月 


ヨハネは光についての証しをするためにきた。
そのことはヨハネの福音の最初の章が、ヨハネは光について証しをするためにきたと明記している(1)。
光は何か。もし光があるなら或る一なるものだろう。自ら自身であり、円環を描いて還ってゆく。
だがヨハネは、光について証しをするためにきたという。

プラトンは光について証すのではない。それは真実である。見る者と見られるもの、知る者と知られるものは、どちらも第三の種族である光の現れがたち現す。光の源泉である太陽のもとには眼の働きが賄われ、働きは太陽から注ぎ込まれたものとして太陽に所有されている(2)。
欲望は第三の種族の光となり、眼と太陽が等しいことを欲する。太陽を直視する眼差しは焼かれ、視野は一挙に暗転しよう。太陽となった眼差しの熱が天空を焼きつくすからだ。見る者と見られるものの隔たりは、光焔と暗黒の交錯による、絶対的な距離の不在に転調される。それは眼差しに天空を溶かし込むものであって、その逆ではない。
光は始まりとなり、不在の距離となる。闇であり、すべてであり、私となる。

ヨハネが光について証しをするためにきたのは、光が闇と等しくなかったからだ。福音書にはそのことが記してある。光は闇のなかに輝いている。闇はこれに勝たなかった、と(3)。
光は唯一でなく、ある一つの光であったので、闘いがあった。光は暴力のきわめてそばにあった。これは書かれていることで、もっとも重要なひとつである。

プラトンは幻想が現実と結びつくとき、何が苦痛を捧げるかに至る。眼差しは主体がそこに掛けられている、最初の幻想だった。私は私に映るこの世界の、裏側に張りついている。私に映る私の視界は、欲望の対象を差し出し、対象となり、間歇的に現れては高まる欲動を解決する。視界は私の欲望の解釈にしたがい、幻想であり、現実でない(4)。
高まりゆく欲動の前の、乳房の、肉体の、自然の、すべて幻想としてのこの手のなかの温かい震えは、解決された欲動の引き潮のなかで熱を失って現実へと回帰し、厚みのない無機質の壁となり、消える。
幻想は欲望の解釈にしたがい、それゆえ出現と消失をくり返し、全能である私も、また消える。出現と消失は瞳の開閉にしたがう。閉じられた瞳とともに消える世界とともに、私は消える。視界は、脆さによって私の気まぐれに連なり、私となり、脆さが視界と私を結びつけ、脆さのなかの私の全能を生んだ。暗黒は、眼差しが天空を焼きつくしたものとなろう。
だが他方で、消え失せた世界の後にも、私は残る。私は世界の外に締め出され、世界はそこで自らを失っている。

絶えることのない欲動の、ゆきては返す全能の波の山と谷で、私が生じ私が消え、世界が生じ世界が消え、その出現の苦しみは連なりゆく消失に常に守られつづけることで、私への世界の融解を生むのがプラトンの光であった。出現する世界は母であり、私を欲し、私より多い知恵を有し、その知恵で自らを御することで自らを私の欲望にしたがわせ、私を支配し、私の幻想となる。それは消失と、ソクラテスの死と、オイディプスの盲目しか可能にせず、私が存在しつづけることを欲するなら、太陽の光のもとで、近すぎる距離がすべての波を揮発させる。
そして波のゆき返しがうち続き、無数の異文とさまざまな隠喩が生み出され、私の現存在と歴史が現実に生じた時、太陽と眼差しの光の外、消失の谷間、自らの外で、なお世界は存在しつづけていた。この記憶の外、意識の外、欲望の解釈でなくそれ自身の快楽にしたがう物質は、プラトンにおいては、ディオティマという、対話の場には直接に登場しない、常に媒介的な一人の女性の名を通じてのみ示されている(5)。欲望の対象でなく、強すぎることのない暗い光であり、享楽でなく快楽であり、愛であるにしても同時に暴力であり、放心し、知恵であり、自らを投げ出している。

逆説的にも聖マリアこそ、母であり、さらに暗い淵で母から最も女になった者だった。人間、すなわち男の子供は、自らの消失に至る幻想である、世界の消失のみを愛しているが、この幻想は、母が男よりも多くの知恵をもち、太陽と瞳の近すぎる近接のなかで、幻想の成就、私の幻想と彼女の現実の共振を導くことでのみ可能だった。彼が愛する彼の幻想の成就、つまり自らの無意識は、そもそも母の知恵であり、構造であり、彼が自らを愛せば愛すほど、彼は、彼の幻想の成就に自らの死と享楽を捧げる母の構造を深く愛する。あるいはその父の法を。
だが幼な子がもし神であったなら。
そのとき母は何のために自らの消失を捧げることができるだろう。すでに構造は全うされており、女の前で閉じており、いかに深く愛すれど返ってくることのない深すぎる愛を、彼女は自らの消失を与えられることなく、無限に開かれた歓びにみちた欲望の悲しみとして、自らとすべてに向け、そのもの自身の快楽のように身にまとう。それは肉に近い場所であり、構造であるにしても、それ自身に向けられているので物質となり、形式によってはかられず、一つの物であり、声、人々の声であり、女と女の間の声。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『聖アンナと聖母子』で、子羊をいじめるイエスの上で交わされる、女たちの、あの流動しつづける暴力のような快楽。

この声が、唯一ではないある一つの光、本当の光を放っている。それは精霊である。
母が構造の享楽という、私の前での、私の幻想に向けた自らの消失を享受し、私の幻想が母の現実と結ばれ、しかしなお世界と私があり、世界が人々の声をもち、母が消失の彼方でハデスの闇を生きつづけたのは、この快楽の光が、形式のなかで発せられた消失する声に、倍音のように常にまとわりついていたからだ。
声は言葉だ。言葉は構造に発する。しかし声は構造に興味がないので乱れ飛び、叫びとなり、物となろう。それは小さなひとつの光であり、それ自身であり、戦いを惹起する。
ヨハネの福音書にはこう書いてある。
言葉ははじめに神とともにあった、と。
そして言葉が、はじめの後も常にまったき神の近くにありつづけたなら、人はいかにして言葉に近づきえるか。
言葉は光となり、人に近づく。だがまた、疎遠で形式からはなれ、暴力であり、証されることを人に求める。

光は言葉であり、イエスであった。
ヨハネの福音は以下のように記している。
ラザロが死に至ったときイエスは語った。ラザロは死にたり、だがこの病は死に至らず、と。私は、私がそこに居あわせなかったことをあなたたちのために喜ぶ、それはあなたたちが信ずるためである、とも(6)。
ラザロの姉妹、ベタニヤのマリアや村のユダヤ人たちが墓のまわりで泣いているのを見、イエスは激しく感動して涙を流したともいう。その涙は無償のものだった。ラザロよ出でよ、とイエスが語らずとも、イエスがそこに立つならラザロは死に至りはしないのだから。ラザロは神の栄光のために復活した。イエスは涙を流す。
マリアがとりわけ強く、小さく、それ自身である光であり、快楽であり、切り離されているのに対し、イエスはあまりにすべてであるので、時にどこにも存在しなくなり、存在して栄光を示すとき、彼はマタイの福音が記すように、峻厳で、いくぶんか不機嫌だ。マリアを排して精霊の光を考えるとき、人々は少なからず失う。
しかしなお、イエスは小さい光であり、弱く、感動し、涙を流す。

ラザロは死なず、とイエスが語るなら、ラザロは永遠である。だが、復活にして生命であるイエスが墓に近づくなら、彼がそう語らずともラザロは永遠である。
ラザロは死に至らない。彼は真実の結びつきのなかにあり、他者の力のもとにある。ラザロとイエス、マルタとイエス、ラザロとマルタ、ラザロとマリアと人々の結びつき。
キェルケゴールは人々が真実の結びつきのなかにあることを求める。思惟と言表の内容としての構造の抽象的な同型性でなく、自我という幻想の自足性でもなく(7)。
だが、どこにも不在する厳格な父のキリスト像に引きずられ、プラトンの近すぎる距離の完全な反対をいくことで、彼はある一なる、物の、快楽の、真なる光の、精霊の暴力を失う。構造と形式論理でのみ厳密に思考し、別の場所である肉と物質を知ることがなかったからだ。
彼は性的な快楽から離れている。言葉はリズムと運動と音を欠き、言表内容は他者への出会いを宣明しつつ、真実は自己しか聞いていない。
人々の声と歴史の不在。波の欠落、倍音の不在。光と過去と緑を欠いた新興小国の形而上学。すなわち完全に厳密な形式の重力という、資本主義生産様式の上部構造。

人間は精神であり、精神は自己であり、自己とは自己自身にかかわるひとつの関係である。この関係は他者によって置かれており、その力に自己は自己自身の根拠を見いだす(8)。
キェルケゴールの定式は厳密である。自己は主体が自己の幻想を求める欲望の関係であり、その関係は主体の意識と無意識の間にあり、しかしこの象徴世界の時間のなかでは、私が求める私の無意識は知と愛のある他者の答えの彼方にしか触知できない。しかも無意識は、他者へと他者からのこの愛のなかで、他者から捧げられつづけたのだ。
プラトンにおいて、他者は、私の幻想を彼女の現実に引き受けてやるために、私の幻想に近づきすぎ、私のなかへ融解して自らを失う。幻想も世界も存続を失う。
キェルケゴールは、無数の幻想と純粋に単一な構造を連接しつづける、興隆する資本主義の力を前に、自己の幻想の完全な任意性を知る。それぞれに任意なものが真実につながるには、自らを与える単一の他者が、自らの前で、自らと異なっていなくてはならない。
彼は記す。神のそばにあるには、神と無限に遠ざからねばならない。神と人間の間に無限の質的差異があるという点に、除きがたい躓きの可能性がある、と(9)。
極度の近接の反対を彼が進むとき、ただ一人の母なる他者が、無数の自己の幻想を、一つの現実へといかにつなげよう。

彼の推論は転倒する。自己は偶有的である。信じぬこと、躓きも可能である。信じることも可能であろう。汝なすべし、汝信ずべし。低音をなす唯一の声(10)。
形式の任意なること。形式と構造のなかで考える者は、それのみを恐れ、同時に飛躍の賭け金とする。イエスの側にはより多い知と、おそらく愛が予定されよう。しかし切り札は私の透明な実存的跳躍であり、その実存を与える他者と言葉の、幾重もの叫びに織りなされた不透明な力は抑止される。
プラトンと反対に、他者は何ものも失わないことで光を失い、不動になる。汝なすべし、と語るとき、神は本当はどれほどの傷を負っているか。
汝なすべし。その声がイエスの基音をなす。それは不動の場から禁止を告知する、峻厳な父の言葉ではない。
語らずともラザロは復活するのに、ラザロは死なずとイエスは語った。声は無意味なものとなり、揺れ、響き、物としての刻印をおびて地にまかれ、地中でいくつもの光となった。
汝信ずべし。それも同じ傷を負う。
言葉であるとともに声であり、光としての言葉。

自己の幻想と、他者の知。すなわち自己とそれ以外の自己の幻想が相互に出会い、なかば異なる相手の声に自身を読み、それぞれの形象がそれぞれの形象であるままに、相互に肯定しえるとき。
そのとき言葉は一つでなく、構造に発しながらいくつもの声であり、倍音であり、それ自身である快楽を耐えしのぶ。ぶつかり合い反響し、地のなかと語り合い、過去であり、敵意をもっている。
隠喩の冗長のみがその快楽に共振しえよう。形而上学と形式は手前で止まる。集合論もメビウスの輪も、想像的なものの解明も自己言及も、物質と歴史とは別の場所であり、ただ資本主義に連れ戻される。
キェルケゴールは政治的な論客だった。第四階級と共産主義の敵である。彼が資本主義と情報産業に敵対して得ようとした、形式の無根拠的専制のみに発する物質なき重力は、彼のいた社会の抽象である。彼は現実には反動的な国家権力の擁護者となったが、それは一貫した観念的道すじだった。マキャベリならおそらく吹き出すだろう。

地中海を見ることのなかった思想がもつ、等しい貧しさがある。哲学史家は、キェルケゴールは自己の無根拠を知って神への一挙的飛躍をなし、他方ニーチェも自らの無根拠の上で、それを同一なるものの自己肯定に転じたという。一方はただ神の前に立ち、言葉と命法のみがある。そのとき他方の前には風景があり、イタリアの岸辺にゆき返す、波と光と波。
何が同じだというのか。
こういったすべては完全に明らかであり、馬鹿馬鹿しい。
声もなく、光もない。
 


(1) 『新約聖書』「ヨハネによる福音書」§1。
(2) プラトン『国家』p.508ff(原)中央公論社ほか。
(3) (1)と同。
(4) ウィニコット等による。Jacques Lacan, Le Seminaire XI p.75ffも参照のこと。
(5) プラトン『饗宴』p.201ff(原)中央公論社ほか。
(6) 「ヨハネによる福音書」§11。キェルケゴール『死にいたる病』緒論、白水社。
(7) 同著p.150ffで要約されている。
(8) 同著第一部一Aおよび第二部B‐c。
(9) 同著p.182他。
(10) 同著p.165他。

* ダ・ヴィンチの作品を通じて述べたことは、Intervention N°1(仏・英語版、近刊)の拙論を参照されたい。


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