挑発座談会 "ポストモダン"を超えて
<物(ブツ)>が全て、この陽気な目茶苦茶
出席者
●京都大学助手 浅田 彰 ●評論家 関 曠野 ●哲学批評家 樫村 晴香  

なんてったってマルクス
マルクス主義は死んだ。マルクスなんて古い。
——そういわれて久しい。
たしかに、連帯圧殺、中越戦争、アフガン、ソルジェニーツィン……連合赤軍。死屍累々だ。
が、私たちが"ポストモダンの日々"を生きているこの資本主義社会のからくりを、
マルクス以上に深く掴みとった思想家はいない。
いま、マルクスが使えないはずがない。なんてったってマルクス、なのである。


浅田 僕自身は「マルクス主義者」ではないけれども、マルクスおよびマルクス主義の思想は現代において依然として乗り越え不能の思想であり続けている、しかも「テクストとしてのマルクス」だけがいいとかいうんじゃなく、レーニンとか毛沢東とかの思想や実践まで含めたマルクス主義全般について、そう思っているわけです。
これはポストモダンというような短期的現象とは関係がない。いやむしろ、ポストモダン状況が飽和しつつある今こそ、マルクスないしマルクス主義と正面から取り組むべきだと思うんですね。
六〇年代というのは右にせよ左にせよ前向きに前進する時代だったとして、七〇年前後からの十数年間は、前進運動が挫折した後のエアポケットめいた空間の中で、右でも左でもない不透明な宙づり状態が続いてきた。テクノロジカルなもののインパクトよりもセミオロジカルな記号の戯れでお茶を濁してきたわけだし、経済や政治よりも社会や文化が時代の前面をおおってきたわけですね。
ただ、それはもはや飽和に近づいており、再びここで、たとえばテクノロジーの問題がストレートな形で出てくるとか、経済や政治の問題が直接的に現れてくる局面にきている。
そういうわけで、コピーライターふうにいうと、いまやテクノと左翼がナウイ。『朝日ジャーナル』の編集部にも、「元気印の女たち」はもう分かったから「元気印の左翼たち」という連載をして宮本顕治から諸セクトの代表まで、週替わりで元気を競うのがいいのではないかと助言しているのに、なぜか採用されない(笑い)。
ところでマルクス主義自身も、この間に一定の反省を経てきた。たとえば「南」や「緑」や「女」といった新しい問題との出合いによって、これまでのバイアスが正されてくる。
また、それだけだと、かつては他者や自然との関係において調和の保たれた社会があったのに、それが近代資本主義によって疎外されてしまったから、再びかつての調和を高次元で回復しなければならないというノスタルジックな疎外論になりがちだけれども、それに対しても、構造主義・関係主義に基づく疎外論批判ということで、新しい理論的展開が行われる。
ただ、その反省の時期に対して、そろそろ一定の総括がなされてもいいんじゃないか。マルクス主義が多様化したのはいいけれども、角を矯めて牛を殺す危険性だってあるわけで、そのへんを見極めながら、もういっぺんマルクスなりマルクス主義を考え直す時点でしょう。
樫村 私は浅田さんと逆で、マルクス主義者だと思うんですよ。だけど左翼に元気がないのは、ある程度必然性がある。
二〇年ぐらい前から、マルクス主義がだめだというのは知的流行になったわけです。マルキシストはカッコ悪いけどマルキシアンならカッコいいとか、マルクス主義的な左翼はだめだから、他の種類の左翼でいこうとか。
だけど、資本主義の恐ろしい部分とか、それを乗り越える可能性について、やっぱりマルクス主義が最大の深度でつかんできた。そのマルクス主義がだめだといわれているのは、実は左翼といわれていた政治的可能性自体が、ある種だめになってきたということだと思うんです。
資本主義が高度に展開する過程で、別の主義なり共同体を取り込むとき、ものすごいエネルギーが発生する。一方に労働者階級とかの伝統的生活様式をもつ金儲けが頭にない連中がいて、そこに向けて資本家的エコノミーという金儲け主義——抽象的な利潤原則——が向かっていくとき、資本主義に破格の利益と成長をもたらすし、同時に激しい抵抗も生じるといった両義的爆発が起こる。その多分に一回性の激動にうまく乗って社会を変えてやろうということが、すでに成り立たなくなってきたんじゃないか。労働者はだめになった——かどうか置いといても、周辺資本主義とか「女」とか、次々に新しいカードをめくってきた。けれども、資本主義だけはめくれないという結果になってきている。
だから私はひとめぐりして、ここらで資本主義をめくることを、もういちど考えたい。

"調和のビジョン"とは無縁だ

関 浅田君の分析にはだいたい賛成なんで、記号と構造からもういちど歴史へという運動があれば、否応なしにマルクスの仕事が浮かび上がってこざるを得ない。そこで僕としては、マルクス主義を考え直すにあたって四つのポイントを押さえておきたい。
一つは、これまでのマルクス主義は、ロシア・マルクス主義も含めて「『共産党宣言』主義」とでもいうべきものだった。しかし『共産党宣言』はマルクスとエンゲルスの若書きのアジビラで、あれとマルクスの思想全体をごっちゃにしちゃ、マルクスだって文句をいうだろう。
もう一つは、マルクスは進歩主義には関係なかったと思うんです。というのは、マルクスはワーテルローの戦いの三年後に生まれている。だからマルクスでもプルードンでも、あの時代のイデオローグはみんなフランス革命とナポレオン戦争の大地震と、その揺り返しの中で青春を送っている。フランス革命が宣言したことと、実際に結果として生じたこととのすごいずれは何を意味しているんだろう、と問うことによって思想を形成している。それがマルクスを典型とする当時のイデオローグの課題であって、文明の進歩を信じるとかいうこととは関係なかったと思う。
第三点が、「ヘーゲルからマルクスへ」というおなじみのテーマがいったい何を意味しているかということ。マルクスの新しい読みは、ヘーゲルからマルクスへというテーマの新しい読みにかかわってくるだろう。
この問題は従来、唯物弁証法という形で捉えられてきたけれども、僕はむしろ進化論の方向で考えたい。マルクスを弁証法的唯物論という形で読むのは間違いだと僕は主張しているわけです。マルクスとエコロジーやフェミニズムとは簡単に合体する問題じゃないんだけれども、進化論が媒介されていれば、もうちょっと実り豊かな提案が可能だろう。それが四点目です。
浅田 フランス大革命が進歩の思想であったとすれば、一八四八年革命は調和の回復の思想でしょう。たしかに、大革命以後の近代化による世界のアトム化に対して、有機的紐帯をいかに取り戻すかということが最大の問題だった。
初期マルクスも例外ではなく、『経哲草稿』などを見る限りでは、新しい有機的調和の回復という方向で解釈し得ることをいっている。エコロジストの喜びそうな話ですね。
ところが、マルクスはドイツを出た瞬間に、そういう体のいい調和のビジョンを捨て去ったのではないか。むしろ、それをヘーゲル観念論的なドイツのイデオロギーとして批判するようになるのではないか。
そこで獲得された唯物論は、有機的調和のビジョンが、ややもすると自閉的なノスタルジーに回収されかねないときに、それを強引に外に開いてしまうとか、否応なしに前進させていくとか、そういう言語道断な力を持ってしまう。それこそがマルクスの力じゃないか。
僕はそこのところで、マルクスの強引なまでの普遍化の力とか、ある意味での進歩主義、しかも産業主義に結びついた進歩主義の力を、あえてポジティブに評価したいんですね。

断片的な思想家だから面白い

樫村 いま話されていることは、マルクスが資本主義を超えるにあたって立てたプログラムが何であったかという話だろうけれども、結局ごった煮のまま突っ走ったというのが真相ではないかと思うんです。
たとえば土台上部構造論といわれているものは、経済的な下部構造がイデオロギー的な形態を規定するという議論ですけれども、そのなかで、生産力が変われば全部を引っくり返すというような議論がある。その生産力という部分に、無際限に進歩する力、いわば唯物的な上昇運動と、逆にそこに一定の秩序や結びつきを与えて力であり続けることを保証してやる——たとえば工場での労働者の共同性といった——倫理的紐帯のような下降する動きがこみになって入っていたと思うんです。
つまり、現実に労働者階級というレフェラントがあったわけで、それを使いながら議論の甘さを補っていたのではないかという印象を拭いきれない。
実際の労働者階級というのは、最終的にコンピューターみたいなものが出てきて、旧来の技術的必然性——労働者の具体的人間関係を通じて維持されていた生産の仕組み——が崩れてしまうと、なくなってしまう。現実がそのように動いてくると、やはり秩序や紐帯を与えていた部分は苦しいのではないか。むしろ私は資本主義の悪魔的な力に対する、マルクスの冷徹な認識を評価したい。
関 樫村君がいったことで賛成なのは、マルクスは本質的に断片的な思想家で、体系的な思想家ではないという点です。『資本論』なんか、労働価値説から脱線したことを平気でいっている。一七世紀の重商主義と国際商業戦の時代には剰余価値は流通から生じたなんてね。そこがまたマルクスの面白さで、はちゃめちゃなところがあるんですよ。
浅田 その断片性をとりつくろうのが労働者階級というレフェラントであって、そのなかには、有機的紐帯のようなものと、むしろそういうものを否応なしに外へ開き前進させていくようなポジティブな力とが、なしくずし的にたたみ込まれていた。樫村さんは、それはもう有効性を失ったと?
樫村 その発想に乗ると新しいシステムを考える力が逆に失われていっちゃうようなところがある。
土台上部構造論が資本主義とは異なる社会関係に行く運動を書いたものだとすると、『資本論』には資本主義とは何かの認識が書いてある。強引な言い方をすれば価値形態論というのは、いかに抽象的な共同性としての貨幣‐資本が他の共同体を潰しながら広がっていくかであり、剰余価値論は、利潤というものがある限り、労働者からなんらかの形でピンハネしているわけで、そのピンハネをしていきたいという運動は資本主義の中心的な動きとしてあるのだ、と。
その動きは、資本主義の形態は変わってきたけれども、相変わらずまったく変わらない形で存在している。それを忘れると、社会的な改善策を考えるときに、結局は足をすくわれることになるだろうと思う。
だから新しいシステムというのは、マルクスの旧来の発想から抜け出て、既存の可能性に乗ることを期待せずに、前進する力そのものを含めて、かなりゼロから政策立案的にプランニングしていかなきゃ難しいだろう。
浅田 僕は、むしろ、土台上部構造論という形をとって現れる唯物論的思考のラジカルさは依然として失われておらず、それは労働者階級といううまいカードが使えなくなったことにかかわらないと思う。
マルクスの決定的な部分は、とにかく唯物論に尽きるだろう。マルクスのなかには、さっきいった四八年革命の思想にも通じる有機的紐帯へのこだわりがあって、それも唯物論のなかにこめられていたと思うけれども、そんなものは捨ててもかまわない。観念の外部にある<物>こそが決定的なのだという、このめちゃくちゃな思想こそ、いまだに驚くべきものだと思いますね。

観念論は唯物論に勝利する?

関 そこのところ、僕も有機的紐帯というふうに考えないんです。プラトン的にいえば人間は物質へと転落するということになっているんだけど、人間はむしろ物質から堕落したといいたいのが唯物論だと思う。モノというのは、たいへん陽気で遊び好きな存在であるわけ。なぜ人間がそういうモノのようになれないのかということが、マルクスにもニーチェにもあるような気がする。
マルクスが固定資本としての機械を非難しながら、一方では機械工業を賛美してみたりするのも、そこにあると思うんだね。これはエコロジストもよく分かっていないんで、エコロジーだって本当は決してラッダイト的なものじゃなくて、むしろ機械や技術をもっと完成させろという要求だと思う。
樫村 ただね、唯物論の可能性を強くいうなら、なぜ資本主義が、貨幣という抽象的なものが勝利したのかに関して、アクシデントみたいな形を想定せざるを得なくなると思うんです。
唯物論や観念論というのは、もちろんモノと観念の対立といったものではなく、それぞれ人間や社会のあり方の基本の型をどこに求めるかという違いなわけです。で、それを欲望の型の違いとして理解すると、その陽気な唯物論というのは、いわばモノから得られる喜びのような、いま現在における最高の様態での喜びを基本に置こうという思想だろう。けれど、それはおそらく社会的な広い場所で観念論と競争したときに、観念論に敗北するのではないかと思うんです。
観念論というのは、お互いにそのモノの喜びなり可能性なりをどんどん先送りしてしまって、そのなかで互いに同じ形——この場合は貨幣——で喜びを棚上げしている一種卑屈な共同体をつくっちゃうわけですよ。つまり他人や貨幣という観念が与えてくれる喜びですね。それはある種の安心を与えるわけです。その安心の力は大変に強いだろう。まあ、お金をいっぱい持ってるとか、天国に行けるとかいうことですけれども。
だから哲学的な議論としては分かるんだけれども、社会的な現象を見る場合、観念論が勝利するのだという動きを、私は『資本論』から強く読みとってるわけです。それに対する唯物論的な可能性ということでマルクスを引っ張ってくるのは、苦しい部分があるのではないか。つまり唯物論に対して観念論は常に勝つのである……。
関 マルクスでは反対に、短期間では負けるけれども、ロングレンジにおいては唯物論が勝つという思想が出てくると思うんです。

みんながゴミになりつつある

浅田 要するに『資本論』でやっていることは、資本制社会において唯物論が必ず観念論に敗北するというメカニズムの分析でしょう。にもかかわらず、唯物論は必ず勝利するであろうという宣言がある。
樫村 あれは宣言ではないかと思うのね。
浅田 しかし、この宣言は有効ではないか。むろんそれはドグマティックな宣言だけれど、そもそも理論の内部では唯物論と観念論は同等なので、理論の外部から措定してやるほかないわけですからね。
関 今の資本主義は科学技術なしには存在し得ないと思います。そうすると、科学技術は固定資本の論理に還元できるかといえば、やっぱり科学技術そのものの論理があって、資本主義とぶつかるところがありますよね。それがチェルノブイリみたいな形になるにせよ、資本主義にとってプラスに働くにせよ、資本主義に固定資本として完全には統合しきれないという問題がある。
エコロジーとかフェミニズムの問題にしても、どうも完全にはコントロールしきれない外部というものが絶対にあるんで、その限りでは唯物論は不滅だといいたい。だから、あえて樫村君の言葉を引っくり返せば、観念論というのは唯物論の隙間に存在しているにすぎないと、僕は達観しているんですよ。
樫村 ちょっと話が飛んじゃうかもしれないけど、この五、六年、浮浪者が増えてて、新宿の地下街を通るとごろごろ寝ているわけですよ。そうすると、そこに寝させないように、新宿駅の駅長なんかが泥をバッとまく。実に醜い光景なんだけど、欲ボケ時代で、日本人はそれを見ても何も感じない。
かつてマルクス主義者というのがいて、それに対してなんらかの怒る装置を持っていたんだろうけど、実はマルクス主義は、あそこに寝ている人たちがなんらかの社会的な力なり可能性を持っている人ならば、そこに向かって可能性を引き出す形でアクセスできるんだけど、彼らはいってみればゴミみたいな人たちなわけです。そのゴミに向かって、ゼロのところから関係をつくる能力は、唯物論なりマルクスは観念論と比べて明らかに弱い。
私はいま、みんながゴミになりつつあるのじゃないかという気がするのね。労働者階級は潰れたけど、サラリーマンも実はいま潰れつつあるわけでしょう。派遣会社みたいなものに一人ずついて、毎日違うところにいって仕事させられて……。『ブレードランナー』の世界って、本当にゴミたちの世界でね、しかも可能性が高い世界だと思うんです。そのときにマルクスは弱いのではないか。
最終的には唯物論は勝利していくかもしれないけど、マルクス主義は同時に、いま、この場所での人間関係にも発言し得る哲学だったわけでね。そこをもう一度、考える必要があるのではないか。
関 日本の現在の状況からいえば樫村君の気持ちは分からないでもないんだけど、唯物論というのはロングレンジで物事を考えるものだと思うんですよ。
樫村 私は、おそらく官僚機構に対する評価が関さんと違うと思う。わりと優秀だろうと理解しているんです。エコロジー的な部分でもいいですけど、それを取り込んで共同体を支配していく程度の力は、今の国家は持ちつつあるのではないか。
関 それはマルクスがはっきりいってない国家論の問題でもあるわけですね。国家論の問題はずっとマルクス主義のアキレス腱になっていて、マルクスをもう一回読む時代が始まるということは、国家の論理を、もちろん共同体の論理も含めて考え直す時代であるということだと思うんです。
国家論がないとフェミニズムやエコロジーの問題もマルクスとリンクしてこないんですよ。たとえばいま、オルタナティブ・テクノロジーといいますよね。水車をつくったりするわけ。ところが水車をつくろうとすると河川法にひっかかる。自家発電やろうと思うと電気事業法にひっかかる。どこでも国家にぶつかっちゃう。フェミニズムもしかり。女性の権利の拡大は文字どおり国家の権利秩序にひっかかってきちゃう。フェミニズム、エコロジー、ある意味では第三世界を含めて——第三世界の問題というのは、ついに近代国家をつくり得ないことだと思うんですが——国家論がマルクス読み直しの焦点になると僕は思っているんです。
浅田 そうですね。そこで樫村さんは国家が強力だというんだけれど……。

ドジたちの長編喜劇『資本論』

樫村 要するに資本主義が強力だということです。
関 だけど国民国家って、かつてのケインズ主義的な時代みたいに経済をコントロールできると思っているんでしょうか。全然コントロールできないんじゃないですか。いま、一日に一千億?の金が飛んでいるといいますね、全世界で。
樫村 確かに、癌のように広がる操作不能な領域はどんどん増えているだろうけど、でも、それは相当ずるずる長くいくのではないかと思うな。
浅田 それはそうでしょう。でも永遠に続くわけじゃない。
樫村 その点、マルクスはあまりロングレンジではないと考えてた。
浅田 まあ、三年とか三〇年とか思ってたわけだから。
樫村 左翼というのは、いま頑張っていれば三〇年もたてばうまくいくという発想ですね。だからこそマルクス主義は強くなった。その三〇年は、私はおそらく三〇〇年ぐらいの可能性があるだろうと思う。
浅田 それは戦術的なマイナスかもしれないけれど、戦略的には平気じゃない? 毛沢東なんて、あれはマルクス主義以前にタオイズムなのかもしれないけれど、すべては必ず変化するのであって、三千年かかろうが三万年かかろうが、一千万死のうが一億死のうが平気だという思想でしょう。
樫村 だから、現実に?小平が勝つわけでしょう。今日明日の戦略的有効性をいわなくていいというのは結局、一夜の余興の唯物論でね、みんなでお話しして楽しいとか、テクストのなかで最大の快楽が飛び交う、そうした唯物論の面白さということになるかもしれないけれど、それは逆に閉じられた方向に行くのではないか。
関 そうじゃなくて、現実のなかに目に見えないエイリアンがいっぱいいて、それを見透かすのが唯物論であり、本来のマルクス的な発想なんじゃないかという気がするんですがね。
樫村 ただ、その目に見えないエイリアンは常に資本主義と両立可能なわけでね。
関 そんなに資本主義って強いの?
樫村 私は強いと思う。
関 そのあたりはセオリーの問題で片づくことではありませんけど。
話は違うんですが、マルクスにはコメディアン性ということがあると思うんです。『資本論』なんていうのも、樫村君は悲観的に捉えるけれども、資本家は怜悧な計算をやってうまくやっていると思っているんだけど、結果は必ずドジでとんまなことになる。しかも、しょせんは資本主義のからくりに操られているにすぎない。労働者は労働者で、一生懸命働いて、働いた分だけ賃金がもらえると思ってるけど、資本家にがっぽり取られている。
そういう意味で『資本論』の資本と労働の世界は、とんまと間抜けの二人三脚みたいになっている。僕の感想では、資本家がバスター・キートンに似てて、労働者がチャプリンに似てる。そういうマルクスの喜劇性から、僕は『資本論』自身が長編喜劇として読めると思う。マルクスの唯物論を擁護したいというのは、そこでもあるんです。やっぱり笑っちゃうという。笑いというのは物質自身の復原力だと思うんです。
マルクスの議論のポイントは、資本主義は資本主義自身を破壊する、自己破壊的であるというところにある。
マルクスのプロレタリア革命という予言ははずれたけれども、資本主義は資本主義を自己破壊する。これは逆にいうと、資本主義とは、われわれ自身が自分の欲望や意識と追いかけっこや隠れんぼしながら、われわれの自己認識をグレードアップしていく、ひとつの学習過程でもあるということに重なると思うんです。僕はそういうふうに捉えてて、ペシミズムでもオプチミズムでもない。樫村君の思想からいうと、資本主義の自己破壊はあり得ない、永久自己増殖していくという……。
樫村 科学の水準が一定以上になると、逆に物質の復原力が人為的にコントロールされてしまって、むしろ物質の社会的力は石器時代化するんじゃないか。で、マルクスとか唯物論とかいっているあいだに、たとえば新興宗教がウワッと増えているわけです。けっこう力を持ちながら。国家のイデオロギー装置も会社とか学校とか、かなり自己培養の状況にある。たとえば、それに対等の資格で介入することを考えない限り、展開は難しいのではないか。
浅田 新興宗教を興すとか、メディア操作をするとか?
樫村 そうですね(笑い)。まあ「『共産党宣言』マルクス主義」といわれるかもしれないけど、レーニンにはそれもあったわけですよ、ボナパルティズム的なところで。唯物論はどっちかというとトロツキーみたいな人でしょう。現在の可能性を重んじ、人間に対する信頼を持つ。レーニンというのは、わりとニヒリストで……。
浅田 僕は、レーニンのほうが唯物論的だと思ってた。正当にも、電気+ソビエトが共産主義だというんだからさ。
樫村 ニヒリズムとテクノロジー信仰は紙一重だな。で、彼はコピーライターの要素があったと思う。
浅田 もちろん、もちろん。だから新興宗教の教祖だけれども、でもやっぱり電気は必要だったんだし、電気をつくったわけですよ。

オジンは赤と緑でなごみたい

樫村 ただ、レーニンは状況に合わせてぼんぼん考えるでしょう。単に電気だけの話ではなくて、民族自治の要求とか、土地所有とか、両立し得ないいろんな約束をするわけですね。それは新興宗教的な力でもあったと思う。それを肯定するわけじゃないけれども、マルクス主義というときに、それはかなり大きい要素にはなっている。
浅田 いや、唯物論的なベースがあるからこそ、次々にメチャクチャやってしまえるわけでしょう? 観念論者は論理的一貫性を気にするけれど、唯物論者はそんなこといってる暇がないから、どんどんやってしまう。でもそれは、上部構造の内部だけで場当たり的にやってるんじゃないんですね。だいたい、現在のシミュレーション状況だって電気によって可能になっているわけで、電気が止まったら、シミュレーション機械も全部止まっちゃうじゃない。
樫村 それはそうなんだけどね。
浅田 要はそのレベルを押さえておくということなんです。
樫村 私もマルクス・レーニン主義者なんだけど、いまや電気は止まらないだろうと。そのときにレーニンの、われこそが人民の代表であるというナポレオン的な能力は逆に見る必要があるということです。
浅田 もちろん。だけど、そういうふうにメチャクチャに動いちゃうということ自体が唯物論によって可能になったわけですよ。唯物論ってのはメチャクチャなんだから。
関 僕は唯物論に関してはレーニンとか毛沢東にいかないんですけど、浅田君も樫村君も僕よりだいぶ若くてオジン左翼からたたかれる存在なんだけれども、僕から見ると意外にボルシェビキなんだよね。
浅田 もちろん僕は疎外論なんかからみればロシア・マルクス主義のほうに近いですよ。関さんのほうがむしろ西欧マルクス主義とでもいうのか……。
関 僕はしょせんはロシア・マルクス主義とは完全に切れているというか、僕なりに相対化する論理を持っている。だから僕は旧左翼のオジン連が浅田君のことをグズグズいうのが理解できないんでね。なんでああいうボルシェビキ青年を憎むのかと……。
たとえば浅田君は、西独の緑の党に関して、ああいう自然発生性は、という言い方をするでしょう。それがオジンに……。
浅田 オジサンたちは、もうレーニン主義に疲れたから「赤」と「緑」でなごみたいということなんでしょう。
関 それは名言。
樫村 私は「緑」というときに、自然科学系の技術者みたいな人間を思うんですよ。政策立案能力があるというのをかなり評価するんです。そういうエコロジー的な部分は評価するけれども、やはり資本主義とことを構えるときには、ある程度ボルシェビキ的な力が必要である。強引な言い方で、粗雑だけど。
関 それは異論があるけど分かります。たしかに完結したエコロジズムはエコファシズムかエコテクノクラシーになっちゃう。エコロジズムで完結は不可能なんであって、どうしても資本主義論の再構築が必要だと僕は思うんです。
浅田 「赤」と「緑」のほかに、もうひとつ、マルクス主義と構造主義・関係主義との結びつきがあるでしょう。そこで僕が不思議に思うのは、レーニンのマッハや新カント派に対する批判とか、トロツキーのフォルマリスム批判とかを、いわゆる左翼がケロっと忘れちゃってるんですね。スターリンの言語論だって唯言論なんかよりはずっといいわけですよ。そういうのを、なぜもっと大事にしないのか。
樫村 それはまったく同感です。
浅田 気がついてみたら、われわれだけがロシア・マルクス主義者だったりして(笑い)。
関 さもありなんだな。
樫村 短期的なことをなしにすると、わりと一致するんじゃないかと思う。

実はみんな資本主義者なのだ

浅田 そうだと思うよ。僕は、最初にいったように、「テクストとしてのマルクス」だけを救うといった小心な小細工には反対であって、マルクス主義の最良の部分は、むしろレーニンなり毛沢東なりによって引き継がれてきた伝統のなかにあると思ってるんですね。そこからすると、マルクス主義が「南」なり「緑」なり「女」なりと接近して多様化していくのは悪いことではないと思うけれども、それがややもすると観念論的な予定調和のビジョンのなかにひきさらわれていこうとするときに、そうした伝統の中にある暴力的な解放性・前進性を、もういっぺん思い出すべきだと思う。あるいは、テクスト左翼と称する人たちが、すべてを差異の戯れの中に回収しようとしているときには、そこにはとにかく外部があり<物>があるではないかと、レーニンのようにいってやるべきだと思う。そういう意味でまっとうなマルクス主義のすごさは絶対にバカにできないと思ってるんです。
関 僕の場合、ボルシェビズムを僕なりに相対化してるし、西欧マルクス主義と浅田君にいわれたけど、ギリシャ以来の西欧のいちばん正統な価値にもう一回戻るということはいえると思う。ただ、西欧マルクス主義というと社民だと思われると困る。
今日の話を僕が勝手に総括させてもらうと、ポスト構造主義なんていっているけど、実はマルクス主義との関係で構造主義の総括もきちんとできてないというのがかなり大きいと思うんです。
もう一つは、これも僕が勝手にいったことですけど、浅田君のいった新しいものとの出合いと国家論とは、やはりクロスするんじゃないかと思う。それは戦略の問題ともかかわってくる。国民国家がますます圧倒的な存在になってくるんだったら、僕などもテロリストに転向したほうがいいんじゃないかと思うんだけども、僕はそう思ってないわけね。
樫村 完成したというより、なしくずし的に続いていくだろうと。なしくずしの技術を身につけてしまったようなところがある。
関 もちろん、いまの資本主義の自己修正能力というのはすごいものですよね。
浅田 まあ、私などもそれに手を貸したりしておりますからね。
樫村 でしょう(笑い)。
浅田 実は資本主義者だったりして。
関 みんな資本主義者なんですよ。資本主義者であることによって、また資本主義を思いがけないものに脱皮させデフォルメしていくという、このプロセス以外にないのであって、いきなり天空から社会主義が舞い降りてくることはあり得ませんからね。


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