ドゥルーズの理論は、基本的に一元論的、スピノザ主義的なものであり、起源そのものに差異を措定することで、(自己同一的な本質‐起源とその写しからなる)プラトン的な伝統的二元論と対立している。この起源的‐本源的な差異とは、いわば即自的な差異であり、その内部では、常に自己自身からの離脱と移動、自己廃棄と自己産出がくり返される。この即自的差異は、潜在的、ないし質量的なものだが、そこでの絶えざる移動と置き換えにより、実在的‐象徴的な、現実世界内部での諸差異が構成され、つまりこの起源的な差異とは、単に産出する基体である以上に、それ自体、産出されるものと重なり合う、一つの分節的な場でもある。このカオス=コスモスとしての、一元論的な自己産出的力能は、七〇年代には器官なき身体という概念系に収斂され、それをもとにした、社会‐歴史についての一つの統括的理論を可能にした。
この一元論は、その本質的発想を、ベルグソンとスピノザに多く依っているが、それが最も精力的に練り上げられ、やがて器官なき身体へと組織化されていく六〇年代の過程に目を向けるなら、ニーチェと精神分析との関係を抜きにしては語れない。したがって、ここでは『差異と反復』と『意味の論理学』を頂点とし、『ニーチェと哲学』から『アンチ・オイディプス』『カフカ』に至る、ドゥルーズ(以下Dz)の極めて一貫した発展過程を、ニーチェと精神分析との対比を基軸にして、批判的に考察する。 まず§1では、ニーチェの永劫回帰の体験にしばし目を向け、それが比喩‐教説ではなく、実体としての細部をもつ思想的体験‐病であったこと、そして「強度」とは、無数のものの回帰というまさに現実的過程であることを強調する。これは、Dzが「差異の潜在的‐表層的な層における不断の置き換え‐偽装」という理論を構築する上で、極めて多くを依っているニーチェの偽装の観念が、実際は「悪」や「他者」と切り離せない、精緻な症候的概念であり、Dzのように一般理論化する過程で、現実的‐実体的な内容が失われることを示唆するためである。§1は、精神分析的な見方を導入するための、いわば「ならし」の部分なので知識のある方はとばしていただいて結構である。 §2では、§1でのニーチェとの対比を受け継ぎつつ、Dzがニーチェの体験を一般化し、強度を強度の隠喩として扱うことで、結果的に、ハイデッガー的差異とニーチェ的強度を短絡させたことを批判する。これは、差異‐分節の現実的過程を、強度‐反復という原初的‐身体的なオーダーと、一元論的に結節することが、基本的に困難であることを示唆するためである。§3では、§2で批判した強度と差異の連結が、理論的には特に二重のセリーの議論で準備され、そこでは、ラカンのファルス‐盗まれた手紙の理論がもつのと相同な詐術性が、彼の論理内部に引き継がれていること、そして特にそこで問題となる、倒錯的戦略に対するDzの無関心さ‐無防備が、精神分析内部での神話依存的な否定的側面を、彼のなかで小説読解的な素朴な態度として変換し増幅することを指摘する。しかし§4では、Dzの言説の積極的固有性は、神経症‐分裂病的圏域とは、むしろ別の場に見いだされるべきことを若干提起し、本稿全体を総括する。 このように、本稿はDzの思想に対し、全体として批判的立場に立っている。これは基本的に、Dzが差異の称揚と神経症の否定を語りつつも、精神分析その他の科学的材料を、単一のパースペクティブへと強引に同化‐縮減し、結局、伝統的な哲学と同じ、世界観(=幻想)贈与的な振る舞いをなしていると判断するからである。つまり本稿は、あらゆる幻想とそれをめぐる力動(政治的情熱であれ文学的熱情であれ)を神経症的産物とみる、科学主義的、エピクロス‐スピノザ主義的態度から構成されている。 §1 体験された思想的実体としてのニーチェの永劫回帰 Dzはニーチェの「誤謬をもって真理となす」という反プラトン的なテーマを継承する。Dzによれば、差異は、再現‐表象的なプラトン的図式に従う限り、それ自身において思考されることはない。実際、伝統的思考内部では、a/bという対立‐差異は、両項の類似と同形性‐同族性によって可能になり、その類似は結局両項を統括する第三の審級によって保証され、そこでは第三の審級の自己同一性と、そこをもとにした表象‐コピーの関係が最終的に支配するからである。それゆえDzが、そこに対置し提示するのは、より直截な即自的差異であり、その差異は、aとbを<一挙に>関係させる力、a‐bという見かけ上の諸項の同族性の背後で働く、異化する力能、aがbへと、bがaへと転じていくような力であり、それはニーチェのいう「偽装する」力、誤謬を真理となす力である。かくして、真理の転倒や、偽装に関わるニーチェの観念は、極めて素直にDzに引き継がれているように思われる。しかし、その「要約された理論的内容」においては同等の両者の姿も、言説そのものの場に立ち会うと、全く違う様相を露にする。ニーチェの偽装する力、差異と強度の現場には、あらゆる不幸と興奮が渦巻いているのに、Dzの即自的差異には、抽象化された整合的理論にふさわしい、穏便な幸福の気配こそが支配的だからである。実際、Dzが彼のいう即自的差異について、「純然たる相異なる‐齟齬するものたちが、私たちの再現‐表象的な思考には近づくことのできないある心的な知性の天上の彼岸を、あるいは非類似の大海の、私たちには測深できない手前にある冥府を形成しているのだ」(1)etc.と語るとき、その表現は、美しくも、平穏かつ幻想的であり、それは差異‐強度の場の軋みではなく、差異‐強度という一つの観念‐隠喩への、賛歌をこそ響きわたらせる。つまりそこには「差異という幻想」に駆動されたかの、「真理」の普遍的振る舞いがある(つまり一つの言説が真理であるとは、その意味内容が真理や同一性を肯定/否定するにかかわらず、意味表現‐シニフィアンが隠喩的に作動することである)。 このようにDzの言説は、ニーチェのそれと深く組成を異にしている。それはおそらく、ニーチェが(そしてハイデッガー、クロソフスキーが)自らの幻想と幻覚に魅惑されているのに対し、Dzはニーチェの(または諸作家の)幻想に魅惑されているからだと思われる。いいかえると、ニーチェには真理=譫妄=病の発生現場があるのに対し、Dzには病の収集活動がある。それゆえ、ニーチェの諸観念の発生現場の力動に回帰すべく、ここで彼の思想の核心をなす永劫回帰を、しばしの間追ってみよう。 永劫回帰の総体は、彼に悪魔の囁きという、思念的‐聴覚的な、ひとつの現実的「体験」として訪れた。ある晩、悪魔が彼の孤独に忍び寄り、これまで生きたこの人生を、さらにまた無限回、何一つ新しいものなくくり返さねばならないことを語りかける。この瞬間の眼前の蜘蛛も、梢を洩れる月光も、悪魔の声も、あらゆるものが細大漏らさず回帰するだろう。この同じことを、何千回となくくり返し欲し続けるためにのみ、人は自らの存在と人生を、さらに愛さねばならないというのだろうか?……。もし人がニーチェの言葉に直接耳を傾けるなら(つまりハイデッガーのそれも含めて、解説書を通じて何かを「理解」しようとしないなら)、この体験が「真実」であり、そこには表現の一語一句が代置不能な価値をもつ、緊密な「物理的実在」が存在し、その実在的力によって、啓示‐伝播の最大限の魅惑‐暴力が駆動することが、了解されるだろう。体験が「悪魔」の「声」を通じて到来したこと、すべてが「無数」に到来し、それが「苦痛」をもたらすこと、そして眼前に「蜘蛛」と「月の光」が「見える」こと。これらすべてが固有の理論的‐実体的(症候的)価値をもち、しかもそれらは狭い意味での発症過程の症候的要素というのではなく、そこに至る彼の、ディオニュソス、偽装、真理の転倒、善悪の彼岸、力‐意志、といった「明晰な思考としての症候総体」の一過程としての、(表現‐表象ではなく)内実そのものとして立ち現れる。 つまりこれらの文言の細部は、一つの観念‐世界観を表象するための比喩ではなく、それ自体が伝達されるべき実体であり、それゆえ(例えばカフカの小説と同じように)要約不能である。比喩でなく実体であるとは、体験が意味作用(言語的演算)内部のみで駆動せず、認知から言語に至る、起源の異なる諸演算領域の微妙な接合(の破綻)の地勢図‐マップがそこに正確に描かれることであり、とりわけここでは、言語‐思考という最も分節的な領域が、より下位の認知(見ること)や対象関係(愛‐欲すること)に破壊的な仕方で接合することである。一つだけ着目しよう。彼はDz(ガタリ‐Dz)のように諸差異の肯定‐欲望を称揚するのでなく、「再び欲望する」ことがいかに「困難」かを述べている。なぜなら(クロソフスキーもまた別の仕方‐病でそれを体験したように)永劫回帰において、実際に人は「無数のもの」を完全には忘れていないからであり、それは(彼が最後の明晰さの中で「歴史上すべての名は、私であった」と語ったように)人格的同一性の解体に帰結するが、しかし愛すること、欲することは、自己、他者、および両者の関係の想像的恒存性=幻想に由来し、その幻想的誤認は、無数の諸差異の忘却を基礎づけ、かつ忘却に依存するからである。無数のものとは、実際は全く同じ体験の再帰ではなく、今日の月、昨日の月、一昨日の月という無数のもの、さらには一瞬ではないこの今に、刻々と参入するこれら無数の月である。人が知覚の場におとなしくいる限り、事実けっして同じではない無数の月(の入力)は、一つの月として出力される。実際犬でさえ、無数の肉片を同じ肉として認識‐記憶し、それができなければ淘汰される。ニーチェがくり返しいうように、同一性‐認識‐目的は、「微細な美的感覚をもつ貴族でなく鈍感な下層階級を繁殖させる」ダーウィン的‐遺伝子的原理によって、最終審級で支えられる。 そしてまさに犬ではないニーチェにおいて、「無数のもの」の回帰という異変が発生する。それは明確に病的な現場であり、シュレーバーが神との「無数の」神経接続を語り、少年リチャードがエーテルの匂いをかいで、「ここには無数の赤ん坊がいる」と叫び、あるいは静かに揺れる一本の麦穂が、分裂病者の目にはささくれ立ち金属のように鋭く輝き無数に分解しだすときと、別ではない。しかしニーチェの体験は、同時に思考の帰結、思考総体の一部であり、その体験は、一つの「見える」ことさえも、対象関係の作動(ハイデッガーなら日々出会うものの親しさとよび、ラカンならaとよぶ)に支えられ、その関係はさらに狭い言語の領野、目的‐自我の領域と連接しあい、それゆえ思考における過大な細心さは、まさに意味作用は他者への欲望‐信頼‐欺瞞(言葉を要求の合図としてのみ了解する性急さ=融通性)の上にかろうじて成立し、つまり言葉は言葉である以前に他者への(からの)動物的「叫び」であることを明かしつつ、明かすことによってその両者を断ち切り、意味も欲望‐愛をも困難にし、無数のものの散乱=強度へと落下していく。だからこそ彼は、愛することさえも「再び学ばねば」ならないといい、同時に自己の(その相関物としての世界の)同一性‐真理の再設立を、偽装において遂行するが、とはいえ偽装とは、まさにそれを見る視線‐他者(への欲望)の再設立の行為でもあり、そういったすべての位相の厳密な連関が、彼の「私は最悪の孤独の中にいる」という一つの実体‐病として発現する。 より分析的な視角から、もう少しニーチェの体験を考察しよう。そもそも科学的にみれば、同一性(異なる入力を一つの記憶内容として出力すること)とは、並列分散的な神経網の産物ゆえに、原理的には確率的‐熱力学的にしか作動せず、局所的な作動域では、常にソジー錯覚的な疑似記憶(同じ入力に異なる諸出力が応じ、逆に異質な諸入力に単一出力が応じること)が生じるはずである。程度の差こそあれ、太陽がいつもと違って異様に見え、ときには複数個に増殖し、あるいは逆に、死んだはずの男が道の通行人として現れるような、シュレーバーの体験は、ローカルな記憶回路ではおそらく常に生じており、それを補正‐圧縮するのは、より広域的なアルゴリズムで、それは世界への想像的な信頼‐幻想、他者への依存的な対象関係に帰属する(ないしそれと同値である)と思われる。しかし対象関係は、他方で象徴的‐イデオロギー的な価値‐目的(自我理想)に規定され、とはいえ象徴的なものを構成する言語という脳の後発的演算系は、想像的な曖昧さとは異質の分節的なものなので、その結果象徴的領域は、想像的(≒間主観的)作用・幻想に対し、「現実界と同じ側にある」(=幻想に対し仮借ないものである)というねじれが生じる。これは一般に分裂病者が、(本質的に想像的なもの‐幻想の欠損に由来する)認識‐行動上の困難を、「理性的」推論で補おうとして、ますます混乱に陥る(世界と身体の自明性が崩れる)ことに対応するが、いずれにせよ思考における過度の明晰さは、幻想と矛盾し世界を「よそよそしい」ものとし、日常的には抑圧されている世界の中の僅かな「ずれ‐亀裂」を露にし、基底的な同一律をも解体しだし、通常とは逆向きの破壊的な支持関係を発動させる。 ただ、ここで重要なのは、この分裂病的な「悪循環」は、固有に性的なものの作動と切り離せず、単純な過程ではないことである。一般に性的な活動は抑圧されることによって、より蒼古的な反復運動(反復強迫)として、対象関係から(てんかんのように)分離‐孤立して発現するが、反復とは原初的な模倣(擬態/偽装)活動であるゆえに、まさに反復される自己の(直前の)運動は、模倣される原初的他者=対象の相同物の感触と価値をもつ。性的なもの(享楽/強度)によって、他者が想像‐幻想から切り離され、切り刻まれた物質的基体(=反復)として言語に持ちこまれることによってこそ、その形成の根幹において他者との現実的対話‐想像的なものに規定され、意味の確定を不断に曖昧な「他者の(への)要求」として処理‐留保することで(かろうじて)成立している意味作用は、想像的=幻想的なものと同一性に対し、真に破壊的なものへと反転する。強度‐反復のなかで、切り刻まれた他者の存在と対になり、向かい合い、それに支えられることで、思考は現実の他者から分離した、抽象的な「叫び」の次元を獲得する(とはいえ叫びは誰か(=刻まれた他者)に向けられているわけである)。分裂病的な発話が、けっして機械的、無限増殖的ではなく、常に絶対他者‐真理への関心をはらんでいること(精神病者は常に「存在論的」である)、悪循環の開始には、常に性的なもの(の抑圧)が関与するのはそのためである(ニーチェのいう「春」の情動)。 しかもさらに重要なことだが、ここで性的なものの再帰は意識以前の反復強迫のオーダーに属するゆえに、常に「意に反した」ものとして意識‐象徴世界の外から侵入し、そのため常に言語‐象徴に従属している幻想にとって、それは必ず悪しきものである。幻想‐快感原則に反する悪しきものでなければ、原理上性的なものでなく、その作動において、主体は意識の場から失墜し、結局それ自身において切り刻まれる。それゆえ至高の真理(永劫回帰)とは、常に悪魔の真理であって、忌まわしい。精神病的存在論において、真理とは直接にセックスのことだが、その真理は同時に疑われ、憎まれる。実際、性的なものの発動としての反復強迫は、単純な反復でなく、常に何かを打ち消す意味的なものをもはらんでおり、これは破瓜型分裂病者の機械的所作でさえ垣間みられる。それゆえこの悪魔の真理(主体の惨めさ)を受け入れるには、主体は再度、それを原初的な幻想(原光景)と重ね合わせ、悪魔を母に書きかえて、それをすでに経験し知りつくした劇(主体の原初的無力性という、より無害な惨めさ)として再編しなおす、マゾヒズム型の倒錯的防衛を経ねばならない。その防衛‐光景内部では、すべてはあらかじめ知られた劇‐視像として展開しなおされるので、主体は無力さと引き替えにその場の暴力から外在化し、切り刻まれることを免れる。それは(疑似)精神病者のヒステリー的戦略であり、悪魔は幼い主体を前にした安全な母親に縮減される。つまりここで主体は、絶対的な力をもつ外部である母親に従属することで、意識(と無意識)の主体であることを失わされて、受動的な視線となるが、とはいえこの劇はあらかじめ未知の部分(無意識)を排除しているので、受動的な観客であることと能動的な意識‐欲望の主体であることに内実的差異はない。無意識=記憶をもたない意識とは、その場限りの視線と同じだからである。この主体の外在化によって、外部から来る主体の性的拍動としての悪は、主体の外側の劇として無害化され、意識/無意識、能動/受動の差異の抹消と並行して、悪と善の境界は消失し、悪は悪のシミュラクルとなり、真の「善悪の彼岸」が訪れる(とはいえそこまで行き着くのは、ニーチェの後からきたクロソフスキーである)。この善悪の交錯は、抑圧物の打ち消しとしての強迫神経症が、疑似精神病化‐疑似愚鈍化という倒錯的戦略に達するとき常に現れる(例えば鼠男、あるいは「きれいは穢(きた)ない」——とはいえマクベスは欲望の主体であることに神経症的に固執しているので、この劇から外在化されず、その中で殺される。この悲劇は彼にとって性的なものが、まさに女(妻)からの転移‐ヒステリー的支配を通じた現実のものだったことに起因するが、その限りにおいて、これは母・妹・サロメによってニーチェにも生じた悲劇である)。 これらの一連の過程の絡み合いは、実際は遙かに複雑なものだが、ニーチェの文言は厳密にそれを明かしており、真理の設立としての偽装の問題は、悪(善悪の彼岸)と密接に連関され、その否定性(防衛性)を隠されることはない(これはカメレオン的擬態というラカンの観念が、形態変化である以上に、光に対する防衛として述べられていることと平行する)。偽装とは、後期のDzがいうように、「強度の連続体の生産」によって何かに「なること‐生成変化」といった、断片化した無機的‐中性(無性)的なものではないし、シミュラクルとは、クロソフスキーの小説でそうであるように常に悪のシミュラクル(あるいは「恐るべき」神のシミュラクルとしての悪魔等)であり、Dzのいうようにプラトン的再現図式にとって代わり、即自的差異を基礎づけるべき図式として、「一般化」することは不能である。ここで述べてきたことは、理論的見地からは、分裂病(強度)と神経症(抑圧)が単純に分離されるべきではないことに帰属する。この両者の不即不離性は、ニーチェの明晰な思考内部ではっきり記述されており、それゆえニーチェの文面に対し誠実な解説書である『ニーチェと哲学』が、それを排除していることなどない。偽装やシミュラクルが、悪から切り離され、見かけの華々しさとともに超越的な(=分離し「機械化」した)スローガンに転じていくのは、精神分析理論(とDzが考えるもの)に対する、実質としては弁証法に対する「政治的な」闘争のなかでであり、そこでは分裂病‐強度を神経症理論から解放するというスローガンのもと、強度は悪から分離し、器官なき身体をめぐる先験的、もしくは原初的‐現実的な観念として確立する(それが先験的なものなのか、原初的現実の指示概念なのか、結局検証されることはないので、その両面的曖昧さが近代哲学においてもつ普遍的性格からして、それは「世界観の賭け金」つまり幻想なのだと人は判断するしかない)。政治的な闘争とは、原理的に弁証法的で下層階級‐神経症者のものであり、それ自体何を(例えば神経症の否定と差異の称揚を)語ろうが、結局差異の産出(理論の生産、体験の分化)にではなく、幻想(スローガン)の強化に与するものだ、と主張するのは可能だが、それだけではただ当たり前で、Dzの理論的内実を素通りしてしまう(それにある種のスローガン主義的傾向は、とりわけガタリに発するように思われる)。むしろ人は、例の器官なき身体という観念が、『アンチ・オイディプス』においてでなく、『差異と反復』以来の二重のセリーという理論装置の確立過程で、クラインの理論を参照しつつ、その「よい対象」という概念の、批判というよりはある種の継承的強化を通じ、『意味の論理学』で獲得されたことを想起せねばならない。彼の哲学システム総体に固有性を見いだす際、器官なき身体という概念は重要であり、その概念によって、彼はニーチェ‐クロソフスキーから完全に「離陸」するが、そのとき精神分析理論のむしろ否定的側面が、その離陸を加速している。彼が全体としてニーチェのよき傾向の推進者であったのに対し、精神分析に対しては、その逆の振る舞いをなし、それがニーチェに対する関係にも逆効果を与えるのである。 §2 ニーチェ的強度とハイデッガー的差異の連接‐連結 だが、ここでDzとクラインやラカンの関係を見る前に、いったん、ニーチェとの対質で明瞭な問題点のみを、確認・確定していこう。人がニーチェの体験の深部に立つ限り、そこには既述のごとく、恐るべき思考総体としての病という実体が存在し、そこからすれば、むしろ人々が一つの月を見、一つの月しか知らないこと、類似と同一性の原理が可能なことの方が、驚嘆すべき神秘に思われる。これは彼の体験を、一つの病としてみる科学的視点と、対立しないどころか同値であり、ただし科学とは定義上、無限の分節をめざし、一つの終着‐観念に行き着くことなく、体験‐現実へと近接し一体化していく(理論が最大限に分節されるなら、それは現実と同じになる)。これに対しDzにおいて、永劫回帰は解析されるべき実体‐病ではなく、人を魅惑し続ける思念上の「極点」であり、ニーチェの体験は、そこにおいて忘却の困難が生じた一つの事件‐現実でなく、逆に差異の肯定、つまり肯定の肯定という境位が「告知」される場所となる(ただしこれは『ニーチェと哲学』のみでなく、『差異と反復』以降の彼の永劫回帰論全体を鑑みた上でのことである)。要するに永劫回帰とは、偶然としての生成という差異‐肯定を、必然としての存在へと肯定しなおす‐回帰させる操作となり、結局永劫回帰の「意味」とは、「特定可能な起源の不在、もしくは差異としての起源の特定でしかない」(2)、ということになる。——それは最終的に時間と熱力学的過程、あらゆる弁証法的なものを凌駕する万能の普遍的操作となるだろう。例えば人がトランプの札を赤と黒の二グループに分け、それをいったん混ぜてもう一度二つのグループに分けると、当然赤と黒は混ざり、グループ間の境界は低下する(=熱力学の第二法則)。ただしこの時点で、グループを構成するカードのランダムな数列を産出する式26Σk=1f(k)を、色の違いに代わる新たな有意的分別原理として、再度肯定しなおす=回帰させる(つまり最初からこの数列をこそ待っていた、と思いなおす)なら、欲望と弁証法に帰属するものとしての熱力学的過程も「克服される」ことになる(!)。Dzが賭け‐運命という「否定的なもの」に対立する、抽象化された原理としての「神的な賭け」=あらかじめ規則のないコーカスレースとして永劫回帰を定義するとき、永劫回帰の実体はすでにこういったものとなっている。——こういった傾向は、結局Dzがニーチェを向きつつ、実はハイデッガー、そして基本的にヘーゲルと対決し、ニーチェの言説を疎通不能なものとさせる悪しき傾向(差異の産出の問題を否定による統合という神経症的理論構成に回収する傾向)と対峙することをめざしていた、という政治的‐啓蒙的事情に由来する、というべきだろうか? だがヘーゲルには近代(国家)のヒステリー的戦略の細部を明かす固有の理論的内実が存在し、人がヘーゲルとニーチェと「どちらが正しいか」という類の思考をとれば、それは「デュラスとカフカとどちらが正しいか」と問うのと同じで、異質なもの相互のわずかな共通部分に限定された、貧しい差異しか残らなくなる。とはいえ現実にニーチェを直接読解しない者がおり、社会のほとんどの者が神経症者であるとすれば、哲学教師風の解説書はやはり必要なのだろうか? しかし事態はそのように単純でなく、Dzのある種の啓蒙的スタイル(確かにそのせいで彼の本はクロソフスキーの数倍読まれたが)は、彼が幻想(永劫回帰)に対してもつ、ニーチェとは異なる固有の位置関係に由来する(そしてこの問題の責は、結局ベルグソンに帰せられるべきように思われる)。 既述のごとく、ニーチェは、彼の思索の帰結でありながら、彼の意識‐統御可能性の外から襲来する永劫回帰‐強度に対し、絶対的受動性という形で魅惑‐拘束され、それゆえその体験によって喚起された彼の能動性は、まさに反復強迫として、最終的に意味を剥奪された攻撃としてしか可能ではない。彼がドイツ王、諸王に対してなした「宣戦布告」は、たわごとではなく、彼の体験‐思想の一環である。そもそも彼がプラトン、パスカル、スピノザを罵倒していたとき、それはいかなる意味でも批判ではなく、意味作用の外にある身体的強度の現前が、彼の主体‐自我としての地位をすでに失墜させ、つまり意識/無意識からなる意味作用内部での能動性を剥奪‐嘲弄しはじめていたゆえに、もはや彼にとってヒステリー的なすべての戦略、つまり意味(=意識)の内部に性的なもの‐強度の該当物を「知」(=快楽の贈与者)として想定することで象徴世界(意識)の外部を囲い込み、自己‐自我の尊厳を維持するような戦略は、全く「問題外」となっていた。彼にとってプラトン的善やスピノザ的自己統御は、すでに憐憫の対象であり、批判の対象などではなく、他方彼が何かを攻撃するとすれば、それは対象の意味内容を越え‐無視していく、ただならぬものとなっている。つまり批判とは意味に意味が対立する=出会うものだが、彼においては強度‐反復が、意味を通りすぎていく。 これに対して、Dzでは批判という言説の作動が十分(以上に)生きている。ニーチェの「批判哲学」が対象への憐憫と郷愁そして無関心、他方での尋常でない狂暴さという不均衡を露にするのに対し、Dzの言説が全く穏便であり、しかしその展開において、常に想定された批判対象への備給を続ける執拗さをもっていることは、歴然たる違いである。これは結局、ニーチェが自己の体験‐実体に魅惑、というより蹂躙されていたのに対し、Dzがニーチェの体験‐言説に魅惑されていることの違いに回付される。人が「言説」に魅惑される限りで、思考の主体としての能動性(つまり批判的思惟)は放棄されず、魅惑の対象に対する受動性は、受動=能動という一体として可能となる。つまり魅惑されること(=幻想)という受動性が、思考‐批判という(魅惑するものの否定的対立物に向かう)能動性と、同じ領野に属し、相互に結合可能となる。この(Dzが好む)受動=能動という同一平面上での相補性は、強度‐反復(受動)が意味作用(能動)とは別の場にあるニーチェには、当然無縁のものである。逆に言えば、この結果Dzでは、強度と分節性(意味作用)が媒介可能だという帰結が生じるだろう。これは知らず知らずに、重大な理論的帰結へとつながっていく。すなわちこの媒介可能性は、やがて強度を差異化の場と等置し、その差異化を文字どおり意味作用上の、シニフィアンのセリー内部での差異化として規定する手品へと成長する。つまりaをbへ異化する/関係させる即自としての差異の境位=永劫回帰という考えであり、ここでニーチェ的強度は、ハイデッガー的な差異化、つまり存在者=意味作用を「直接に」生起させつつ、それ自身は自らを隠していく存在論的差異と、結果として全く同じになる。つまり「ハイデッガーのいうように、差異はそれ自身において連接‐連結でなければならず、異なるものを異なるものへ関係させなければならない」(3)というわけである。 これは実際、驚くべきことに思われる。Dzにおいて、偽装‐強度は異なるものを異なるものへ関係させる境位となるが、そこで異なるものと異なるものは、どちらも等しく分節性‐意味作用の次元に属しており、しかしニーチェ/クロソフスキーにおいて、強度とはまさに「全く無意味」(4)で、異なるものと異なるものが絶対に関係できない場所であり、それは強度と意味作用が、非共役的であるゆえに当然である。実際「強度に従う」ものとしての分裂病者の発話(いわゆる言葉のサラダ)での、無数の反復と羅列は、言葉の一つ一つがそれ固有のイマージュ‐身体‐強度に直接に帰属=従属することから成り立っており、そこにはいかなる分節も、言葉(シニフィアン)相互の関係も、意味作用‐意味内容も存在しない(意味内容は身体そのものである)。——例えば分裂病者が「正月とは全身の毛を剃ることです」というとき、それは比喩‐隠喩ではなく、本当に正月の意味内容とは「全身の毛を剃る」身体作用なのだと理解せねばならない。——確かにクロソフスキーにおいては、(異なる強度と強度が出会う‐関係することは絶対にないものの)強度が強度に回帰し、痕跡となることで、相互に出会う(つまり意味作用の次元に移行する)ことは可能である。しかしそれは特定のペルソナにかかわるシミュラクルとしての回帰‐痕跡‐意味作用であり、つまりその意味作用‐意識は、意味内容‐無意識の揮発化の上でのみ駆動するような(再帰した)悪夢としての無‐意味作用であり、要するにここでは、既述した倒錯的な「善悪の彼岸」の戦略内部で、意味作用は実質的な反復(反復強迫)におとしめられ凝結され、そこで意味作用‐象徴的なものは特定の想像的圏域‐ペルソナに関わる限りで許される。その結果、主体の存在‐思考は悪夢への受動的視線へと切り詰められるが、それと引き替えに強度は身体の部分的なカタレプシー、つまり操作可能な、少なくとも分離可能なフェティッシュとして囲いこまれる。 だが、Dzにおいて、反復‐強度(どもり‐歯ぎしり)は記述上の曖昧さを常にはらみつつも、少なくとも『差異と反復』から『意味の論理学』に至る彼の「理論的」書物の内部では、明瞭に意味作用を産出可能なものであり、この、強度が意味と(反復がシニフィアンの結合と)連接され、普遍的な産出能力を付与されていく過程は(これは前述した、偽装とシミュラクルの「一般化」と同値である)、かくしてその内実においてはクロソフスキーではなく、ハイデッガーの存在に準じている。そして例の二重(多重)のセリーという、彼の哲学的理論の固有性を形作る中核部分が、ここにその土台をおくのであり、それは器官なき身体という、さらなる一般理論を構成するステップとなっていく。彼自身、ニーチェ/クロソフスキーとハイデッガーの連接と連結を、『差異と反復』では躊躇なく認めているが(前述)、ニーチェとハイデッガーの言説は、その基本的組成において異なる圏域に属しており、それゆえ理論的にも両者は絶対に結合できず、結合すればどちらかの理論の能力は不当に拡張され、理論(つまり現実的体験に基づき、そこで検証されるもの)はスローガン‐幻想に落下する。 ここでニーチェとハイデッガーの位相の相違を端的に確認すると、まずニーチェの言説は、厳密な意味で隠喩とよぶべきものと無縁である。一見した水準でも、既述のごとく、彼の作品は一つの体験という要約不能な実体であり、そこでは眼前の蜘蛛や水道栓のたてる音、プラトンが与える憂鬱さ等は、すでに獲得された観念を比喩する表象ではなく、そういった観念、表象のオーダーそのものから「その彼方へと遠ざかっていく物理的な感覚」の直接的提示として機能する。ここで隠喩という機能の内実を確認しておこう。まず隠喩とは、基本的にすでに獲得された意味内容‐抑圧物を表象し回帰させる作用である。しかも厳密な意味での隠喩とは、いったん獲得‐抑圧された意味内容‐抑圧物‐外傷を示唆することで、不快な抑圧物を再帰させて主体を原初的な反復‐攻撃の体勢に退行させ、その上でさらにそれを隠蔽‐回収してやることで、主体を原初的‐想像的な「よき他者」の前に再帰させ、幻想を補強するような言葉である。例えばリルケが「薔薇の花、純粋な矛盾、おびただしい瞼の下で誰の眠りでもないその悦楽」と語るとき、薔薇という隠喩項は、死という抑圧物、すなわちそこでは眠りが帰属する主体が不在であるという冷酷な現実を再帰させ、しかし次の瞬間、その眠りを再び多くの者の瞳へと回収させ、そこに「悦楽」‐幻想を残していく。この開示/隠蔽という対立(「純粋な矛盾」)が「悦楽」を生産していく過程は、いうまでもなくハイデッガーのアレーテイアの開示/隠蔽が、同様に帰属するオーダーであり、そこで矛盾‐運動‐振動とは、抑圧物の再帰とともに駆動する不安と、それを押し止める他者‐力との間の、基本的に幻想的‐想像的な対立として駆動する。これに対し、ニーチェを襲う強度‐反復としての運動‐拍動は、幻想の保護の向こう側で、主体が全くの異物としての現実‐悪しきものに直面し、それを反復=模倣=攻撃しつつ、主体としては解体していくようなオーダーに帰属する。それゆえ、ニーチェ的永劫回帰では、感覚と気分の結合‐再帰‐意味は最終的に不能であり、それゆえ矛盾=対立もまた、異なるものの結合‐同平面化を前提とするゆえに存在しない。それに対しアレーテイアのオーダーでは、抑圧物(死)の回帰は、常にすでに幻想‐他者の力(隠喩の力)によって過ぎ去ったものとして幻想の内部で生じるので、そこでは疎通不能性‐無数性ではなく、幻想的な力に帰属するものとしての、一つの対立こそが問題となる。つまり対立‐振動あるいは平衡する緊張は、多様な場に発見されつつも、常に同じ一つの不安と、不安への同じ一つの闘いである。あらゆる存在者の下には、それを可能にしている力の均衡、「聖なる神殿が岩石から引き出す、無に押し込められて支えるということの暗さ、さらには自らをよぎる嵐の暴力」が発見されるが、それは結局、隠喩‐幻想(聖なる神殿)によって開示‐遂行‐終了される、抑圧物(重力、嵐)をめぐる同じ一つの拮抗である。 ここで批判という問題を考えると、批判とは基本的にこの拮抗の組成の内部にあり、それはニーチェの核心には存在しない。つまり人が(Dzが)ニーチェを批判哲学として了解しうるとすれば、それは基本的に、ニーチェの体験‐永劫回帰が、永劫回帰の隠喩として読解されることによってである。例えば強度‐永劫回帰においては、「プラトンの憂鬱さ」が批判の対象として問題となることはなく、問題となるものがあるとすれば、それは「プラトンの憂鬱さ」という、ある一つの気分‐強度の配置それ自体である。しかし永劫回帰が、体験としてでなく、一つの隠喩‐言葉として読解されるなら、それは存在者のオーダーにあって、ある普遍的な力能(抑圧物‐反復)を喚起し、かつ「過ぎ去らせうる」ものとなり、それはその開示/隠蔽の能力の固有性において、それを有さない、他の言葉、他の思想、他の配置と、拮抗関係にはいるだろう。そしてこの拮抗=批判の関係は、開示/隠蔽の力能の相違という、幻想の再確立の可能性が賭けられた過程であり、結局ここで批判の行為を駆動させるものは、幻想(を贈与する他者)を求める普遍的な欲望である。つまり人がニーチェをプラトンに対置し、闘わせるなら、最終的にはニーチェもしくは永劫回帰の「観念」は、「傷ついた、聖なる力の体現者」に堕落し、そこで人は彼の闘いと「悲劇」に、実際は不安と外的異物に対する幻想の防衛‐闘争と、その闘争を担う原初的他者の聖性を見ることになる。これは全く神経症的な過程である。 ここでDzに視線を戻すと、彼自身が極めてヒステリーから遠く、ある意味では遠すぎたことは疑いえない。あらゆるものの包摂性からなる彼の文体は、例えばラカンやデリダが本質的にイロニーの圏域の文体にあって、言外の対象(=抑圧物)に向けた攻撃活動(=抑圧物の回帰)によって意味作用外部から発話としての力動‐伝播力(自己を幻想に高める力)を獲得するのとは、対象的である。しかしDzが一つの概念(例えば永劫回帰)にあらゆるもの(ここではハイデッガー的差異という異質なもの)を包摂していくとき、その概念はいわば抑圧の過程をはらまない幻想‐隠喩となって、言説の神経症的組成の相同的反転物を産出する。それは基本的に、Dzが「読む」人であり、すでに組織された言説から出発し、そのとき意味作用外部に属する永劫回帰の疎通不能性が、すでに「終わった」体験となることで、体験は隠喩の相同物=世界観に変質し、その「向こう側の」強度‐反復を制御する力能‐幻想として、他の世界観と拮抗関係に入ること(批判哲学化)に由来する。とはいえ真の事情は入り組んでおり、事態は「読む人、収集・批判する人」というDzの文体‐態度に由来するというより、彼の理論的組成のあまりに明白な過‐拡張性、異なるものの細部の相違を無視しすぎる理論上の過‐融通性が、彼を「読む人」として出現させるとも記述しうる。そもそもニーチェの記述が「体験」であるといいうるのも、それが現実の病‐実体の記述に匹敵する分節水準(細部の差異、細部の理論的現実的価値)を有する限りのことである。しかしその上でなお、Dzの固有の問題は、彼が「読む人」であり、とりわけ小説を(あるいは理論を小説のように)読む人であることに由来する、といいうるのだが、それは彼の理論の組成自体から説明せねば、ただの難癖におわってしまう。 それゆえ明示的な理論の領域に再度復帰しよう。すでに見たように、Dzにおいて即自的差異が意味論的‐システム的‐構造的差異に連接される過程は、ハイデッガーとニーチェの連結に基づき、それはニーチェの永劫回帰が、永劫回帰の隠喩に転じることと結びついていた。だが、ここでよく注意すると、ハイデッガーにおいては確かに「この世界内部での」(意識と存在内部での)、相互に共存し対立することが可能な振動‐運動が問題となり、それは世界‐意味作用の彼方にある(そういう意味では確かに「存在忘却」の場にいる)ニーチェとは異なっていたのだが、しかしそこでは結局ただ一つの緊張、幻想的‐想像的な拮抗しか存在せず、意識と意味作用(の産出)それ自体が、何ら問題にされているわけではない。つまりハイデッガー的差異とは、実際は象徴的な圏域については無力な概念である。これに対し、既述のように言語は極限的には想像的なものと対立し、「現実界の側に来る」ゆえに、逆にニーチェ‐強度の問題圏においてこそ、言語‐シニフィアンの固有性は登記しうるともいえるが、とはいえそこで登場するのは、ディスクールとしての伝播力を欠き、主体を排除してしまうような、まさに現実的(=物理的、科学的)なものとしての意味作用である。そしてDzは、即自的差異(Dzのいう「非類似の大海、冥府」——これは全くハイデッガー的な表現である)が諸差異を生み出す理論の配置において、ハイデッガーと同じ論理構成で、伝播‐再帰可能なものとしての特質を差異(言葉)に与えており、しかしその差異‐言葉(内実としては隠喩、すなわち常に同じ抑圧物を回帰させるだけで、意味作用として固有の=深化可能な分節能力をもたないもの)に、同時にニーチェにおける強度‐現実にこそ対応する、厳密な意味での分節性‐差異性(つまり現実性)をも与えてしまう。つまり幻想‐記憶共同体内部における、隠喩が保持する限りでの「想像的」意味作用、つまり本当は意味作用と思考の中断でしかないものが、十全たる分節的‐象徴的な意味作用として論じられる。 だが、こういった理論構成の問題は、ひとりDzだけの問題ではない。幻想と抑圧に規定された想像的なもの‐隠喩的なものを、あたかも象徴的なもの‐シニフィアンについての一般理論として描いてみせ、大いに人々を幻惑した人物が、Dz以前にいたからである。人はその人物の『盗まれた手紙』(それをDzは多数の文章で引用している)を読むことで、そこで抑圧物の回帰に規定された想像的‐幻想的な一つの劇が、確かにあまりに華麗な仕方で「シニフィアンについての」一般理論として提示されているのを、発見するはずである。 §3 二重のセリーの理論が「盗まれた手紙」から受け継いだ詐術性 さて、ラカンとの対質に進むために、まず最初に、Dzの二つのセリーの間の共鳴という理論装置の概要を、かいつまんで確認しよう。それは端的には、プルーストの体験においてマドレーヌの味をめぐって到来する、二つの異なる時間の共鳴である。しかしこの共鳴は、経験的な次元で二つのものが類似し、同一である、といった次元に帰属するわけではない。それはマドレーヌの味という、経験的‐現在的時間や知覚には属さない、特殊な圏域に帰属する力能の効果として到来する。すなわちマドレーヌの味は、現在あるいは過去という実在的時間でなく、純粋過去、(ベルグソン的)純粋記憶の層に属し、それ自身において常にそれ自身とは異なり、自己に対して置き換えられていく潜在的対象=xである。その潜在的対象は同一性の次元に属さず、即自的‐起源的な差異、反復しつつ異化していく(偽装していく)次元に属するゆえに、実在的な時間内部での二つの異なるセリーに、等しく現れ、循環し、そこでセリー相互の共鳴と同一化を生み出していく。つまり二重のセリーとは、本質的に二重の層(実在的/潜在的)の理論でもある。即自的な差異でもあり、同時に充溢した全体でもあるような対象=xの作動‐力能は、当初は潜在的なものとして、そして『意味の論理学』では、深層ではなく、表層に属するものとして「増幅されて」展開される。対象=xの差異化し振動する「充溢性」としての特性が強調されることで、それは主体の始源的光景におけるよい対象‐「高い所にあるもの」‐器官なき身体の系に接合され、それは「声」としての充溢‐全体性に結びつき、言語の形成をも説明する理論装置に成長する(5)。 この対象=xがラカンのファルス(というより正確には「盗まれた手紙」)に大きく由来することは確かである。Dzが、ある象徴的‐実在的な次元の同一性‐差異性を可能にするものとして、その下の潜在的なものの運動‐本源的差異性を発見する過程は、ハイデッガーに類似しているとしても、その潜在的運動が、諸セリーを循環し、共鳴化‐同一化していくという議論、つまりある質量的なもの(ラカンによれば物質的なもの)が実在的な場において、象徴的な分節を行使するという議論は、『盗まれた手紙』以外にモデルをもたない。つまり既述した、幻想的‐想像的‐間主観的なものが、強度‐現実的なものに対応するレベルでの分節性を産出していく、という文字どおり幻想的な融通性は、彼がラカンを極めて実直に「読む人」であったことに由来する。ここにはラカンとDzの、極めて異質な種類の欲望の合体の成果がある。 ラカンの『盗まれた手紙』の問題点を明かすには、それを構成する複数の論理系すべてに言及する必要があるが、ここではDzへの批判から必要な限りの、最小限(以下)の議論で満足しよう。まず、Dzによれば手紙(対象=x)は、常に自己に対して置き換わる=偽装する性質をもっているゆえに、諸セリーを循環‐反復する過程で、各セリー内の諸項の相互関係を配置しなおし、セリーの分節を組織しなおす。ここで重要なのは、手紙がもつ潜在的対象性とは、ある究極性、根源的同一性として理解されるべきでなく、それが配置する共鳴‐置き換え‐偽装という、まさに象徴的なものそれ自体を胚胎するものとして、つまり象徴的な場と一体のものとして捉えねばならないことである。つまりDzによれば反復(手紙の循環)とは、本質的に象徴的なものである(この反復‐強度と象徴的なものの連結が、後の器官なき身体等の理論装置を保証する)。この議論は、偽装という概念のコノテーションをとりあえず留保すれば、『盗まれた手紙』でのラカンの議論‐文面を何ら歪めていない。Dz‐ラカンで重要なことを再確認すると、○手紙がまず循環‐反復すること、○その結果セリーが分節されるが、その分節はそれ自体手紙の「象徴的」(偽装的)力能に由来する、ということである。 確かに、この二つの事項の同時性によって、『盗まれた手紙』はたいそう魅惑的な話となっているわけだが、しかしここには、明らかにラカンによって準備された詐術、現実には生起しえない二つの症候の作話的一体化がある。端的に問題点を指摘すると、まず、何か(手紙)が反復するとすれば、それは象徴的であることはない。他方、手紙‐部分対象が、それ自体の特殊な内的権能によって象徴的な分節‐置き換え‐偽装を配置するとすれば、それは一つの場から他の場に移動することはない。なぜなら、剥奪(離脱)を求めるヒステリー的症候が反復するとき、それは分節を生み出すことはないし、象徴的な場に起因する意味づけを一身に体現しているものがあるとすれば、それはフェティシュであり、別の場に移動する必要はないからである。『盗まれた手紙』は純粋にヒステリーに基づく、ヒステリーについての話であり、その真の源泉が『症例ドラ』であることは明らかだが、それをラカンは、ポーの探偵作品として展開し、倒錯的な絵の具を上塗りする。とはいえこのヒステリーを倒錯として提示する手口は、基本的に謎‐問いをめぐって展開するものとしての、小説‐物語が常にもつ組成であり、それはDzを魅惑してやまないものである。 まず当然のことから確認しよう。そもそも手紙(潜在的対象=x)が「自分で‐その力能において」循環することなどありえない。<王、王妃、大臣>の第一のセリーから、<警察、大臣、デュパン>の第二のセリーに向けて、手紙が移動したのは、王妃が「もともと」ヒステリーであり、その王妃のヒステリー的欲望‐戦略を、大臣が倒錯的に利用したからである。ラカンによれば、この話は「何ものにも所有されえず、常にその場所に欠けているものとしての手紙が循環することで、手紙はそれを手にするものを去勢‐女性化しつつ、手紙はもとの場所に回帰していき」「その手紙をめぐって常に同じ<法、去勢、主体の確信>という三つの場が配置される」話であり(6)、Dzの理論もこの前提の上に立っている。しかしこの話を「つきはなして」見れば、まず、王と警察は手紙を発見できなかったことによって、盲目としての法の場所を割り振られるのではなく、彼らは「もともと」抑圧された欲望と、そこに起因する神経症的敵意をもっていなかったゆえに、この(陰謀にまつわる)手紙を発見する必要を持ちえなかった。そしてこの、象徴的‐イデオロギー的に規定された(欲望の)主体としての地位に自足している彼らを、愚鈍さとして現出させるのは、王妃と大臣が「もともと」もっている、抑圧された欲望と、その回帰‐症候としての敵意の発動によってである。すなわち王妃は、ヒステリーであるゆえに、何者かに現実に欲望されることを恐れており、自ら欲望の対象になることなく、欲望の対象であることを偽装‐贈与することで、男性(例えば王)の欲望を支配し、自己は純粋に超越的かつ受動的な、知‐視線の場に同化しようとする。しかし(ラカンはそうはいわないが)倒錯者ではなくヒステリー者である王妃は、その無意識において欲望されることを望んでいるので、それは反復強迫、意図せざる剥奪への願望として現出する。それゆえ手紙は(王妃の無意識の願望により)奪われるが、このとき手紙は奪われる以外に意味をもたず、奪われた瞬間灰になるべきものである。 しかしここで大臣は、倒錯的‐サド的な全く異なる位相から、手紙を必要としている。つまり、手紙は王の秩序を揺るがす、いいかえると主体の位置を配分し規定する象徴的・社会的な場総体に匹敵‐拮抗する力能をもっているゆえに、大臣にとってフェティッシュとして作動する。つまり手紙は、大臣が「もともと」もっていた象徴的なものへの敵意、象徴世界(現実世界)内部で欲望の主体であること(=去勢)が要求する絶対的‐原初的充足の断念への敵意、現実的には王への敵意を、回帰させつつ、まさにそれ(手紙)が象徴世界を完全に愚弄し失墜させ不要にさせるゆえに、(手紙は)それをもつ大臣に、想像的‐幻想的な世界への退行を保証し、回帰した敵意を幻想の強化へと転ずることを可能にさせる。したがって大臣の位相においては、手紙は(象徴的なものを愚弄する力をもつ)象徴的なものだが、そこには再度奪われる‐移動する契機はない。倒錯においては、欲望は満たされ、欲動‐無意識は完全に押さえ込まれるからである。そこにおいて、この手紙が再び動く、つまり第二のセリーが形成されるなら、それは今度はデュパンが「もともと」ヒステリーだったからである。他人の欲望の裏をかくことを常に欲望する「探偵」である彼が、ヒステリーでないわけがない。ヒステリー者は常に欲望(他者のであれ自分のであれ)を憎み、しかし同時に、自己を欲望させたいと思っている。それゆえ自足する者、とりわけ倒錯的対象を前に、現実的他者(女)を欲望することなく欲望の充足を得ている者ほど、彼(彼女)にとって憎いものはない。したがって手紙は奪われ、元に戻る。 このように、この二つのセリーの同一‐類似性は、手紙という対象=x、潜在的‐即自的差異の循環によって配給されるのではなく、もともと存在したものである。手紙の移動によって、唯一構成されるように見えるのは、第一から第二のセリーに向けて、大臣が王妃の場に移動するように見えることだが、これは大臣が手紙を奪われることにより、その倒錯的場所を挫折させられる以上のことではない。手紙を奪われることで、大臣が去勢されることはないだろうし、王妃と同じ、無意識に対して受動的なヒステリー的場に回帰することもないだろう。ただし、ここで「手紙による二つのセリーの共鳴」という外観の構成に大きく与するのは、むしろデュパンの曖昧な地位である。彼は手紙の効果として、大臣の場に移動したのか? 実際には、デュパンは本質的にヒステリーでありつつも、その症候を「職業」にすることで自らの欲望を支配し、無意識からの支配(抑圧物の回帰、欲望‐剥奪されることを望んでしまうこと)を免れ、その限りで倒錯者と同じ場にある。それゆえ彼は大臣と同じ場に来るが、それを可能にした彼の倒錯的傾向そのものにより、今度は手紙は、二度と循環‐移動することはなくなるだろう。 かくして、この話を魅力づけるレトリックの根幹は、無意識から来る拍動としての反復強迫が、それを可能にするヒステリー的場を離れて、一つの象徴的な価値をもった倒錯的対象物として循環することにある。手紙あるいは潜在的対象=x(例えばマドレーヌの味)は、確かにDzのいうように、現在的時間に帰属せず、それ自体の力能において駆動‐移動する、「純粋過去」のものである。それは象徴的なオーダーの規定を受けていない、主体の原始的な反復‐模倣(偽装)、他者への=他者からの働きかけの現れだからであり、その点では、それは強度‐即自的なものと同じである。とはいえ、強度が結局主体を破壊していくような、分断‐細分化に向かう分裂病的な動きなのに対し、反復強迫は欲望の抑圧に起因し、その結果象徴的なものを迂回して現出する限りの、意識から分離された主体の原初的運動である。それゆえ反復は、基本的に他者に向かう(例えば剥奪といった)限定された想像的パターンを刻印される。つまり、強度はその無際限さゆえに、差異と等置しえ、現実界と象徴界にまたがるものともいえるが、反復は神経症的抑圧に起因した、固定した幻想的内容に拘束され、それは現実界と幻想(想像界)の間にある。とはいえその限定性‐拘束性ゆえに、神経症的反復は、主体を破壊する(主体にとって本質的に無縁な)強度と異なり、主体と幻想を通じて結合し、主体の欲望を表出し、主体にとって意味がある(要するに端的に「意味がある」——なぜなら意味とは主体に対して存在する限りのものだから)ものとなる。しかしこの反復が、ヒステリー的(または強迫神経症的)な貧弱さを越えて象徴的な内実をもつには、意識の支配を越える(つまり純粋過去に属する)特質を捨て去り、倒錯的な対象に変質して、絶対他者や侵犯といった観念の規定を受けなくてはならない。しかしこのとき、倒錯的対象(大臣の手紙)は、すでに即自的なもの‐強度の境位から離脱し、Dzのいう意味での、「置き換わる‐偽装する」力能を失っている。それは倒錯的反復(例えばジュスティーヌがくり返し鞭打たれる)といった形態が保持されようと、全く同じことである。つまり倒錯的対象は、象徴的‐イデオロギー的世界と連携した、特殊な幻想的対象であり、いわば象徴界と想像界の間にあるが、倒錯においてはすべてが意識の内部に押さえ込まれるので、真に原初的な拍動‐反復が貫流する現実界とは離れ、潜在的対象=xとしての力動を喪失するからである。 したがって、『盗まれた手紙』において、ラカンは神経症的な反復(想像的なもの)に倒錯的な象徴性を与える、という利益を得、二重のセリーの理論において、Dzは強度‐反復という現実的‐分裂病的なもの(意識と意味の外側のもの)に、幻想(想像的なもの)という主体との結合‐迂回路を与え、散乱する差異でしかないものを意味と意味生産の領野に結節する(つまりニーチェをハイデッガーに連結する)利益を得る。これはすでに、クロソフスキーがスピノザ的静観とサド的単調さを結合し、神のものでしかない強度と、人のものである(=意味の領野にある)倒錯的反復を等しく論じたときに開かれていた道ともいえる。とはいえクロソフスキーのテキストは、(Dzから離れて)厳密に読めば、サドの領野で完璧に組織されていることがすぐわかる。さらに、ラカンがおそらく多分に承知で、こういった偽計を好んだ理由も理解できる。自ら神経症の圏域にありながら、それを職業として倒錯化していき、『盗まれた手紙』の理論構造そのものを産出していくデュパンという人物が、分析家そのものだと言うのは、それ自体神経症的悪意に基づく冗談だとしても、少なくともそれがラカンの「趣味」であったことは確かであり、しかもその趣味により、彼は「世界の外から来る」ものとしての不吉な反復を、あらかじめ意味づけられた「謎」として提示し、そのことで小説作家と同等の幻想の配給者の地位を得る。しかし彼は本質的に作家ではなく理論家‐科学者なのだから、その幻想は彼に向けた転移の動員に、大いに与することになるだろう。ただしここでいう趣味とは、彼がパラノイアという、いわば「隠喩の力をもつ特殊な言葉のサラダ」から出発し、あるいは(おそらく)クラインを経て、(境界例に近接する)強迫神経症という、半ば倒錯としての振る舞いをもつ症候に強く関わっていたこと、等々の理論的経緯を含めた上での趣味である。 そしてそのラカンの文面を前にDzがみせる、純朴なまでの理論的受容性は、彼が常に小説作品に対してもつ、純朴なまでの受容性‐幻想である。すなわちエクリチュールがそれ自身において自らを産出し、セリーがセリーを、根茎が根茎を、謎が謎を産出し、増殖‐変態していく小説的情景は、まさにその産出過程それ自身の権能における固有の快楽(と苦痛)をもつように思われるので、その増殖‐意味作用をそれ自身の作動密度において称揚し、それに還元不能な(例えば反復を抑圧‐原光景に還元しない)「出来事」としての地位を与えるのが、彼の哲学的事業である。確かに、意味作用はそれ自体において産出、分化可能なものであり、人間よりはるかに単純な「機械」においても、作品は産出‐増殖可能だろう。だが機械はそれを読み、そこから「何かを」受け取ることも、受け取る必要もない。もちろんDzにとってもそれは自明で、彼はその「何か」、つまり(彼にとって価値のある)作品が伝播させる、ある一つの同じ傾向の快楽‐苦痛、あるいは快楽‐苦痛としての、作品の同じ一つの作動様態のことを知っている。すなわち死の欲動、反復、さらに強度の圏域であり、より正確にいえば、彼のいう流体的、尿道的なもの、「高い所」にあり、あるいは「上へと立ち上がる」感じ、非領域的で音楽的なもの、そして充溢するよい対象‐「器官なき身体」である。これらの精神分析的で、主体の普遍的な組成に関わるものが、エクリチュールにおいて作動しているとすれば、そしてエクリチュールの反復‐増殖過程が、何かに還元され、切り詰められることなく、それ自体において肯定されねばならないとすれば、この精神分析的な基底的、潜在的対象=x、すなわち即自的差異としての強度‐反復が、それ自体において象徴的であり、擬態と置き換えの作動を胚胎せねばならない。そのことのみが、作品とエクリチュールを「哲学的に」救うだろう。 したがってDzがフロイト‐精神分析と対立する上で重要なのは、反復を抑圧に起因させる(正確には、反復運動の内実を、最初の外傷的光景のコピーとしてみる)考えに反対する以上に、反復を無機的で単調な運動とみる考えに反対することであり、反復それ自体に象徴的場としての権能を与えることである。『アンチ・オイディプス』等を見ると、前者が一見目につくがしかし、そもそもフロイト自身が死の欲動=反復という観念を創出したことからも、容易に想像がつくように、前者の議論はフロイトの理論を(というより読者の想定レベルを!)「縮減」した上での、政治的な批判である——後者こそ、Dzがエネルギーをさいて準備した理論的核心であり、その作業の上に、「自分が自分を自動生産し」、かつ「常に自分自身の廃棄と関連し」、「産出する働きと産出されるものとの一体化として生み出される」器官なき身体が準備される。そしてこの存在論的差異をもつ強度としての、器官なき身体という観念があってこそ、その上に、すべての(生産する)機械‐生産様式が「折り重なれつつ‐付着し」、総合の網が「はりめぐらされて」いくという、単一のパースペクティブが組織され、すべての生産力と社会構成体についての、まるで『精神現象学』を彷彿させるかの統一理論が可能になる。その一貫的統合性(「世界観」‐幻想を与える力)において、本質的に哲学書というべき『アンチ・オイディプス』が、それ自体としては既存の人類学的、経済史的、精神分析的な科学的材料を、充溢する、あるいは器官なき身体という装置の上に連結していく操作によって、自身に固有性を与えるなら、この存在論的差異をもつ強度という理論装置を準備する先行過程が、実に重要であったことが理解できる。 偽装し差異化する力をもつ潜在的な原形質、という一元論的・超スピノザ主義的発想は、かなりの程度ベルグソンに源を発し、同時にDzが内在的に抱えていたイマージュによっている。後者に由来する彼自身の感覚が前面化する際には、特筆すべき固有点を彼のテキストは描き出すが(後述)、ニーチェやフロイトといった、主体の情動/思考の全過程を動員する分裂病的‐神経症的な「ハードな現実」を、批判主義的執拗さをもって哲学的=統一的に処理する際には、前者の欠点が前面化する。すなわち、対象関係(原初的対他者関係)からこそ発生する、攻撃的‐暴力的、つまり「弁証法的」な要素への無関心と、それ以上に、人間の身体‐情動の回路と、言語‐思考‐意味作用の回路が、系統‐個体発生的に起源を異にし、本質的亀裂をはらんでいることへの無関心である。既述のように、弁証法の排斥は、他者と抑圧(抑圧物の回帰)の問題系の忌避となり、その結果、絶対他者や悪・侵犯を経由する倒錯的戦略を軽視して、現実には倒錯を通じてこそ結合している強度‐身体と差異‐偽装を、腹話術的に短絡させてしまうことになる。そして身体と言語のオーダーの連結は、言語‐思考から離脱したゆえに出現するものとしての、反復(強度)という原初的な「世界‐意識の外からの」運動を、その運動を再解釈し、謎として構成しなおす、事後的‐神話的な思考内部で処理させることになる。 この神話依存的傾向は、フロイトやクライン等、精神分析内部にもともと存在する。実際、クラインの分裂‐抑鬱体勢理論——よい対象を自己が取り入れ‐破壊することで、それは自己を攻撃する悪い対象となる、等々の一連の議論は、神話的‐演劇的外観をもち、現実の過程かその神話的解釈なのかわかりづらい。しかし彼女の全著作を、文学的ではなく科学的関心をもって読めばわかるように、それらの神話は、あらゆる分析概念がそうであるように、当然操作上の有意義性をめざして配置され、主体の現実の発生過程について直接言及するものではない(つまり概念が神話的でも、それを患者が「内的現実」として了解でき、治療が進行すればよい)。さらに、彼女の理論は、多く強迫神経症的圏域(症例リチャード等)の現場に根ざしており、そこでは抑圧は不完全で、常に豊かな(疑似)倒錯的造形を通じて抑圧物が回帰してくる。したがって体内化と破壊に先だって先行する、完全なよい対象は、他者‐力との不幸な出会いに起動された強迫神経症的な反復と、そこに由来する悪の観念をすでに経た造作物であり、Dzのように普遍的‐先行的な現実的対象として捉えるべきでない。つまりDzが、本質的には彼自身の感覚やアルトーに由来する、器官なき身体の内実を、クラインに従って理論化するとき、その中身は拡張され、個別の症候の構造に規定されたそれぞれの微妙に相違する実体は、差異化可能な強度が歩む、一つの自己産出的な普遍的物語に成長し、逆に症候形成の構造的(科学的)全体は見捨てられる。つまりくり返し既述した、現実‐強度を、強度についての言述‐隠喩の水準で処理する、小説読解的な手法である。 これは症状と神話を混同する傾向として、フロイト自身にも如実にあるが、とはいえ彼がオイディプスコンプレックスの概念を形成するとき、それは本質的には神経症の与件に立脚し、オイディプス神話には依っていない。これに対し、Dzがオイディプスの物語を、「スフィンクスの問い‐謎という、それ自体象徴的である潜在的対象=x・ファルスによって差分化された」問題系として(つまり自己産出的な謎として)定義するとき、そこでは小説読解的手法が、科学的な探索を抑圧する。というのも、この話は、作品の「情景外」で、イヨカステが意に反し、オイディプスの足にピンを刺して捨てたという抑圧物が、作品「内部」において、スフィンクスが発する「<一度に>二本、三本、四本足であるものとは何か?」という「主体についての普遍的‐無時間的な問い」として、加工されて回帰する恐怖によって成立しており、そこで問いは、抑圧物を再度加工‐抑圧する、二度目の抑圧としての小説的造形にのみ関わっているからである。つまり抑圧物の永続的‐無時間的な現実の回帰は、問いの「文面の」無時間性として、「表層で」再度加工され隠蔽される。要するに、いうなれば真の潜在的対象=xは足に刺されたピンであり、それが発する神経症的力動があってこそ、人はこの作品を作りえるが、しかし自己産出的な謎‐エクリチュールに問題を限定すれば、こういった考察は、ただの悪しき還元主義だということになってしまう。つまり作品という運動は、足のピンを表層の問いへと変換し分離する、疑似倒錯的過程にこそ、その神秘の核をおくのである(§4参照)。そして抑圧物の還元不能な力について語るなら、この変換が不能な分裂病者でこそ、逆にそれは顕著に現れ、例えばシュレーバーを直接読めば歴然とするように、分裂病者は神経症者をはるかに越えて、何を語ろうと常に父‐母や愛人との問題に圧倒的に従属して、これは幻想‐言語の解離をもたらすほどの圧力は、原初的な対象関係でこそ発するゆえに当然である。フロイトがもっていたような、(Dzの拒否する)抑圧についての敏感さのみが、彼らの語る崩壊寸前の言説から、読解可能な固有の事情を浮き上がらせる。そもそも、真の差異化と分節の生産ということについていえば、それは分裂病者より神経症者、またはいかなる病気でもない者によってこそ、身体‐強度とは何の関わりもない、純粋に言語の領野で遂行され、それが理論と生産力を構成する。歴史はレーニンやムッソリーニや毛沢東といった、<病人>の身体‐欲望を通じた強度と症候の歴史ではなく、科学的理論の些細な蓄積からなる不可逆的な過程として、(今後ますます)いかなる幻想も領域横断的強迫も、「世界に向けたオイディプス(=神経症)の非領域化」も求めずに、音も言葉も発することなく進んでいくだろう。 §4 ドゥルーズの微分概念の固有性/まとめ とはいえ、ここでさらに冷静にDzの言説を振り返ると、彼自身は盛んに神経症‐分裂病的事象に言及し、そこにおいて(精神分析批判を通じ)理論構築を行ったが、実際には彼の持ち味は、やや別の場にあったように思われる。例えば、器官なき身体の概念も、その構成途上での、流体的‐尿道的なものといった、固有の局相をもつ部分こそが本当は印象的で、これは、キャロルやカフカ等々において、常に「流動的」な、身体の「部分的‐瞬間的伸縮運動」について語られる時、同時に喚起される。そしてベーコンの絵に端的に見られるような、カタレプシー的ではなく、逆に分離的な身体運動、——つまり言語‐意識総体の圧力(抑圧)を背景に、意識の完全な外部から原初的な運動が回帰‐突出し、あるいはそれが症候として利用される、神経症‐分裂病的、あるいは倒錯的な過程ではなく、身体制御回路それ自体のある種オーバーフィードバック的な事件によって、言語回路を経ずに生ずる、いわばローカルな身体表層の異変についてこそ、彼の記述は光っている。おそらく、彼自身が内在的に抱えていた「偽装」のイマージュとは、ニーチェのように分裂病的な、全存在‐思考に起動され主体を巻き込んでいくハードなものではなく、言語を完全には介在せずに、身体制御上の一領域で起動されるものだったに違いない。そのとき、その身体運動は、領域限定‐領域切断されて生じるゆえに、組織された身体と意識にとっては、「自動的‐非領域的」な、怪異な<超潜在的>表層として出現する。 この身体運動の分離性は、意識が部分的に残存しつつ、主体が自己の身体に対して統御を失い受動的になる、半覚醒的‐ナルコレプシー的なものであり、それは、言説の読解‐記述におけるDzの位相性をも、同様に支配している。例えばニーチェの永劫回帰は、Dzの「理論構造」から判断する限り、永劫回帰の隠喩として受容‐処理されているが、現実には、Dzはすべての言説を、隠喩ではなくそれこそ「音楽を聴くように」、または小説のエクリチュールを読むように、「半覚醒的に」受信していたのだろう。そしてその感覚があればこそ、意味作用を完全に確定することなく宙吊りにし、理論的分節を半ば未確定に開いたまま次々進み、個々の論点相互の差異へは鷹揚なまま、すべてを取り入れ絶え間なく移動していく、増殖するエクリチュール‐小説のごとき彼の記述スタイルが可能になる。この半覚醒性において、意味作用は言葉が記憶=意味内容に十全に回付=変換される過程にではなく、言葉に次の言葉が重なり、ずれ合い、その相互の差異が直接に生み出す共鳴に、帰属する。子供が泣き、豚が叫び(キャロル)、Kの分身の学生が走り、廷丁が走る(カフカ)。意味はそれぞれの言葉がもつ記憶にではなく、言葉(セリー)相互の間の表層にあり、それは反復される音楽のテーマ間の差異‐変奏、揺れる木の枝の一瞬ごとの差異‐移動と同じである。それは差異というより「微分」であり、その概念にこそDzの内発的感覚がある。 だが、分裂病者が虫へんの字を数千作字し、その「意味作用から解き放たれた無際限の増殖」が、表層の運動‐差異によって見る者を半ばの眠りに誘うとき、実際はその運動は、言語野の回路切断のせいで言葉が(書字という)運動野に短絡し、思考が反復運動に解体することで発生しており、彼自身はそこにおいて「切り刻まれる」(§1参照)。あるいは強迫神経症者のリチャードが、分析過程で父との葛藤に出会うたびに、父以上に憎むヒットラーへと無意識的‐受動的に変態し真似するとき、父になること/ヒットラーになることという変態運動の分離と移動は、結局、抑圧によって敵意という意味内容への意識の回付が遮断され、思考の空白部分で身体が反復=模倣運動に回帰することで生じている。そこで「機械状の」運動は完全に意味と世界の外にあり、「家族の三角形が非領域化し世界へと逃走の線が引かれる」ことはない。そしてもしヒットラーへの生成変化が、一つの線として獲得‐肯定されだすなら、そのとき彼の反復=苦痛は、すでに分析者という視線に捧げられ、そこで人はまたしても倒錯の問題に突き当たる。この苦痛の捧げ先は、作家における読者であり、そしてたとえ作家が、その作品とともに読者の視線を燃すことを命じていても、彼はそのとき書くこと=手だけを自らの分身として反復‐苦痛‐他者に捧げ、作品の内部から逃れて、自らが(半覚醒的)視線になる道を開いている。虫へんの字を増殖させる分裂病者は自分自身が虫になるが、カフカが虫になることはない。そして自らは虫にならないことを担保に、作品世界は、逆に幻想‐他者‐快感原則から解放されて強度に従い、とはいえこの強度は、解放された言語の自律性‐分節性それ自体の出現である。いうなればオイディプスの足のピンから解放されて、ここでスフィンクス=問いは初めて縦横に動き出す。倒錯とは常に神前のダンスのように、絶対他者の観念を通じて身体を視線に捧げつつ、それを担保に言語野を逆に解放‐拡張して、身体を言語‐思考に完全に従わせる(したがって倒錯と象徴的なものの関係は、侵犯等の絶対他者をめぐる次元「以上」のものであり、§3の記述の不十分さを再度知っていただきたい)。 この過程は常に入り組み不確定で、確かに精神分析にとって苦手な場所で、Dzがそれに苛立っていたのはよくわかる。フロイトは患者の苦痛と、「捧げられた苦痛」を混同することがよくあったし、それ以上に、捧げられた苦痛固有の組成には迂遠だった。したがってその組成の機微を、Dzはニーチェ(苦痛)とハイデッガー(捧げられた苦痛)を結ぶことで、描き出してみたともいえるが、しかしそのとき、理論は小説世界の再演から最終的に出ることはない。しかもそのブリコラージュは、神経症そのものとしての現実的社会や権力を、作品世界での自律化=機械化=分裂病化した欲望の運動と同等に論じるという、幻想的事大主義さえ産出する。結局Dzの苛立ちに内在し、「欲望(‐苦痛)の曖昧な部分」についての精神分析自体の曖昧さ(つまりラカンもまた、その「趣味」において作家的場所の完璧すぎる再演から多くは出なかったという限界)を脱するには、その一挙的‐哲学的「批判」でなく、一歩ずつ歩を進めること、特に身体‐運動野(他者への叫び)と言語野(意味)の離接関係を、さらに科学的に分節する以外にない。したがって、そのありうべき最も冷静な道を示唆し、その提示の予告として本論を規定し終えることで、この「批判」への「批判」という本稿の不毛さを、多少なりとも回収しておくこととしよう。 註 (1) 差異と反復/p. 164-訳196 (2) 同p.337-訳391 (3) 同p.154-訳184 (4) Klossowski / Nietzsche et le cercle vicieux / p.98 (5) 意味の論理学27serie〜 (6) セミネール?/10Jan'62etc |