汎資本主義と<イマジナリー/近しさ>の不在
マルクスのレクチュールではなく、マルクス主義をまもるために
(クリティーク1号 1985年10月)

ここで述べている議論は、とっても古いことばで言うと人間の共同性の問題である。ただ、今日、すでに<共同性>とか、そして愛、暴力、主―客、等々といった哲学的用語は、着実に科学的記述に、つまりシニフィアン、情報のオーダーでの記述にかわられつつある。それは、私たちの<幼年期の記憶>なのである。私は、(アルチュセールを経て)ラカンに親しみがあるので、ここではイマジナリーということばを多用した(ただしそれはラカンだけのことばではない)。そのことばを使って言いたかったことは、資本主義を批判するのには(「批判」という雑誌の目ざすのは、資本主義の批判だろうから)、人間学をまるごとかかえこむより、より下位の問題群の、症例的ないし政策的レベルで語られるべきだ、ということであり、言いかえれば、あまり、人間が今の状態とちがう風になる、などと考えると、かえって政治的解決の阻害要因になる、ということである。
他方で、今日の汎資本主義的状況の困難を、若干その用語で記述した。
ウィニコットについて多少言葉をさいたのは、イマジナリーを数式的に表現しすぎると、それが、意識と無意識の、複雑なプロセス、とりわけ、ひとつの信号系に対して、若干ずらされた信号系が重なることによって、そのズレ自体に価値が生じ、もとの信号を圧縮する、というプロセスを、イマジナリーの用語が含意することを表現できなくなる、からである。したがって忙しい人は<イマジナリーとは?>から読んでください。
さらに、ウィニコットを狂言まわしとしつつ、神学的なものの正当性(必然性)と、その不在の苦しみとしての、ファシズム等々が、我々の問題であることを強調した。そこに新しい議論は完全に不在だが、何度も確認する必要があるだろう。
今日、真に必要なのは、マルクスが「ブリュメール18日」等で行った、現実の政治体制でのおびただしいつみ重ねに関する、実証的な接近だろう。それをするのはたいへんな労働なので、とりあえずここでは、精神分析的用語と政治問題とを、内容をうすめつつ交換して時間をかせいだ。ただ、それは何を語るべきではないか、は明らかにしてくれる。

精神分析学による形而上学の侵食

プラトン以来、本質といわれイデアといわれた、先行する現前しないすべてのもの。ヘーゲルによって転倒的に無から構成された全体的なもの。それらは哲学者(形而上学者)がひまにまかせて、あるいは自分の権力欲から考えついたものではなく、おそらく一次的ナルシシズムのただ中ですでに主体に与えられ、正確には主体という演算過程の(フロイトのいう)<生物学的>種別性をあらわすものの、種々の政治・歴史的諸条件に規定されたうえでの定式化だった。それらは主体の現実の経験、時間のなかを進み、その場その場のやりとりを局所化・部分化しながらも、同時に微妙にずれて与えかえされる、それ自体全く部分的な新しいことばやしぐさそのものによって、不在の審級を予感しプールするプロセスを、自らの特権的知として回収していた。とりわけ弁証法といわれるもの。いわゆる論理学は時間を考えることができない。それは、無限に複数のレベルを絶えまなく上下することによって、常にのがれ去っていく、あらゆる場に不在するゆえに偏在する全体(のようなもの)を参照する主体の流れを、語れない。それに対して、形而上学はそれらを固有の理論的対象とすることによって、科学の一角を補足していた。
フロイトが心的現実・ファンタスムについて語り、原抑圧と死の欲動を発見することで、欲望とことばの不可分性を見、等レベルのシニフィアンの相互的分節からなることば=(構成的)認識主観の世界に対し、位階を異にするシニフィアンとシニフィエの間に欲望の主体を書きこんだときから、形而上学の特権はくずれだす。主体にとってなくてはならないもの、ことばと認識の総和以上のもの、<現前するもの以外のもの>を、かなたの真理、全体としてではなく、事後的に加工され続ける記憶に見い出されるものとして、それぞれの瞬間のできごとの<間隙のいわば積分値>として、しかし同時にそれぞれのできごとをヒストリーとして織りなし、主体にとって空しくなくする(かかわりのあることにする)、論理的に先行するイマジナリーな<母の/への愛>として示すことにより、精神分析は<現前しないもの>の権利を確定/制限した。
これら一群の問題群は、フロイトにおいて欲動とその拘束を両極とする、力動的な欲望の用語で語られていたが、ラカンがそれをシニフィアンのレベルで記述する道を開き、ベイトソンが階型理論と接合したことは良く知られている。そして今日それは、階型理論そのものの解体にまで進み、(ギュンターのいう)<非アリストテレス的な論理学>を、ますますのぼりつめるだろう。それは哲学にとって、その固有の理論的価値を限りなくけずられる歩みなのだ。
だが、それはマルクス(主義)にとっては、より深刻なことである。というのも、形而上学は、それなりに正しかったことが精神分析にはじまる科学的学説で証明されたが、マルクス主義の方は、それら形而上学をほとんど絵空事だと笑っていたのだから。しかも人間そのものの理解に関して、おそらくマルクスほどのんきな人はいなかった、ということは、誰もが知っていることであり、そこには、最悪の形而上学があるのである。
だからといって、マルクスを笑っていればいい、ということにもならない。なにしろ資本主義のありさまは、一向に良くなるどころかその逆であり、それを解決することは、それ自体において必要なことだからだ。そして人間=主体の構造に関する科学的理解の深まりと、他方でのマルクス主義の人間学的前提の粗雑さが、ますます、政治的解決への多数の意欲の喪失をまねいているとしたら、それはロクでもないことである。資本主義をこえるための<政治的な>議論が、低次の形而上学と心中させられるのを抑止することは、それ自体哲学に必要な作業である。

遊戯は母親を必要とする

資本主義に反対する者は、資本主義そのものから受ける利益のすべてを知らねばならない。彼はまず、それに反対している、ということ自体によって、反対する、という利益を受けている。労働する奴隷は、主人のおかげで死の恐怖に直面せずにすむだろう。資本主義が、西欧に発生した、まったく特殊なエコノミーであることはさまざまに立証できるし、その作業は学者に職を与え、左翼に安らぎを与えつづけるだろうが、人間という種が特殊であることを立証してもそこから容易に出られないように、特殊なプログラムたる私たちにとって、特殊であることと必然的であることは反しない。
資本主義に反対するマルクスは、愛すべき不良少年だ。「あの貧相な父親がいなければ、私たちはどれほど豊かで自由で<直接的>だろうか?」貧相な父親がくり広げる禁欲的なゲームは、それについて語ることによって、あるいはそれと<階級闘争する>ことによってその効力を分け与える。人々はいずれにせよ、同じ場所を分かち合うことを保証されるのだ。真理は存在しない、と叫ぶ呑気な人人が、真理は存在しない、という真理を語りあうことによって、真理の幸福にあずかるように。
不良少年の能天気さは、いよいよやってくる共産主義に遊戯のイメージを重ねるだろう。労働が遊びと等しくなる?遊びのような労働において、端的に欠落しているのは他者である。他者を批判し徹底的にやりこめることに快楽を見つけ、それを遊びとし、というのもその行為がどこかで他者の幸福に結びつくだろうと思っていたから、それができた者にとって、他者から得ているものの諸要素を知ることは難しい。
遊びが可能であり、それがめくるめく欲動の激しさのなかで硬直し、暴力化し、解体してしまわないためには、常に横にいる母親が必要である、とはD・W・ウィニコットが発見し、強調したことだった。この発見は、心的現実と外的現実の重なりはじめる、移行・潜在空間についての、一見平易だが理論史上重要な見解に含まれる。
純然たる遊びは目的を持たず意味を持たず、そして時間を持たない。ベイトソンなら<それは遊びである>というメタレベルを持つと表現するだろう。それは逆に、遊びそのもののなかには、私たちが生きる現実を可能にしている無数のレベルといったものが、存在していない、ということを意味している。
ウィニコットが語る、一次的ナルシシズムから外側の客観的世界への脱出期(メラニー・クラインの抑うつ態勢期?)に発する遊びにおいて、遊戯が意味や目的から解放されるのは、母親がそれを一方的に引きうけてくれるからだ。目的も過程もない世界を、微笑の寛容によって再生し肯定し、反復することにより、母親は全能感の中での目的と過程の一致を与え、多形性をそのまま物語とし、攻撃性を回避させるだろう。しかしじっさいには、母親の肯定は無際限な、ニーチェ的肯定ではない。常に用心深い、慎重に配慮された近接(とハイデガーなら言うだろう)、逆にいえばいくばくかの拒否をともない、それによってこそ、母親は散逸するものに世界を与え、自らの側に意味と現実を形づくる力の苦痛を引きうけ、かつそれを教育する。微笑の優しさは、容認と共に常に教育であり、それは社会的権力が自らの存続のために配置する、基本要素となる。
遊びと、それに平行した確固たる現実形成のプロセスは、価値形態論に端的に凝縮されたマルクスの性急なヘーゲル批判の意図と、その挫折、全体性――イマジナリーなものの形成を説明する彼の論理の難点を照らす。ウィニコットの表現をふみこえつつ、より細かく見てみよう。

ズレの調整と現実形成

いわゆる充足した(といわれる)一次的ナルシシズムの解体が出発点となる。母親や乳房の不在において、その再生、再出現を幼児はファンタスム・幻想において行なう。そこでは心的現実と外的現実の差はなく、かつ不在と存在は同一水準で、ばらばらな出来事である。この、幻想における再生において、それと同時に現実の母親が乳房をさし出す時、幼児はその外的現実を自らの心的創造物として経験する。これが移行現象と名づけられたウィニコットの発見であり、幼児はここで全能感を得、この中間的領域が遊びの領域となる。フロイトの場合は、過去の客観的存在(充足)を、幻想的に再生する、幻想における願望充足が語られるが、幻想における再生と、母親による現実的再生の連接もしくは差異は明示的主題とならない。フロイトにおいて問題となるのは、単に同一物の再生であり、それは知覚同一性という、快感原則の基本を構成するが、その論理は、プラトン以来エロスといわれ、ナルシス神話を構成し、さまざまなユートピア思想(ルソー? そしてマルクス?)を形づくる、かつて存在したものの離脱と再現、という考えをそのもとに統合し、かつそれを決して上回らない。こうして快感原則をそれ自体で囲いこんでしまうと、その領域は<エデンの園>になり、その解体ないし迂回の説明は、概して<禁止>といわれる、外的暴力的で粗雑なものになりやすい。
さて、ウィニコットの理論において、真に重要なのは次の点である。幼児が幻想において不在の乳房を創造するとき、母親が乳房をさし出すことによって、幻想と外部が判別しがたい中間領域が形成されるのだが、そのとき、幼児による乳房の心的創造(ウィニコットによれば第一次的創造性)と、母親による現実的創造との間には、常に調整された微妙なズレがなくてはならない。そのズレの注意深い調整と反復、もっぱらそれにのみその後の展開、すなわち幼児による現実世界の学習、つまり外的現実という情報処理の一類型の定着がかかっている。
このズレによって形成されるストーリーは、単純にいうとこうである。

0、不在 1、(心的な)再現
     ‖
     2、(現実的な)不在/と再現

(ここで、心的と現実的の差異は、それ自体独立しては問題にならない)
幻想における不在と再現は、それ自体でストーリーを形成し、進行する時間のなかで関係づけられはしない。<不在><現前>に加えて<不在と現前>がなくてはならず、これが外的現実世界という情報過程、そして象徴体系の基本となる。そして母親によってさし出される乳房は、そのリズムがうまく調整されるとき、それ自体<現前>であると全く同時に<不在と現前>になる。
ここで常識ある性急な読者が、クラス――メンバー理論に一挙に飛び上がることによって、<科学者の哲学>の中で眠ってしまわないことを期待する。分裂病を想起するなら、彼らがメッセージを規定するメタレベル、コンテキストを設定できないことではなく、音楽を演奏させると、その多くがリズム、すなわち音の間の近さと遠さを設定するのに、非常に困難を覚える、ということをまず想起した方がいい(それらは結局同じことになるのだが)。あるいは、ドゥルーズの言う<ET(&)>、創造的どもりについて考えるのもいいだろう。あらゆる全体化への対極に想定され、横断――水平的、リゾーム的な増殖性を担わされた<どもり>は、しかしまた、常にいくぶんかは、前の言葉の同じ<くり返し>なのである。そしてさらに正確には、それはここで問題となっているズレを含まない、全く同じくり返しだというべきだろう。というのもドゥルーズのどもりは、彼の他の議論と同じく、エノンシアシオン(言表行為)の消失のさなかで立ちかえる、痙攣的なひびきを疑いもなく保っている。それは<乳首、硬い糞塊、ファルス、尿の流動……>といった一連のリストとともに、ラカンが与える主体の裏地、鏡像的なもの――イマジナリーなものすなわち他者性をもたないものの一覧表につけ加えられる。これはここでの議論に近づければ、移行空間の始点、おそらく<神話的>な始点へと位置づけられる、いわゆる筋肉性愛的な空間に近接する。それはズレの不在な世界だが、この問題は<ファシズムと母による神の駆逐>のところで再度見ることにしよう。
幻想における出現――現前に、わずかにずれて繰り出される母親からの現前。この、完全に対等なレベルにある二つの現前は、この間の距離が母親によって、つまり主体にとって統御不能な未知によって適格に調整されることによってのみ、二番目のものが最初のものとは別のものでありながら、それに連なることができ、そのとき、最初のものを<意味する>。そして同時に、最初の現前においてともなっていた欲動――興奮が、この未知からの現前の瞬間に消失する――というのも、もちろん二番目のものは現実であるから――その、もうひとつの増大――消失の回路のリズムと重なることにより、最初の現前と同時に不在をも<意味する>。このとき心的現実と外的現実は、それ自体で差別され、階層化されることはない。このふたつの知覚の連なりは、その背景をなす欲動のリズムに照らされ、それを参照することによってのみ、ある特権的な仕方で折れ重なり、母親による再現は、それ自体現前であると共に、<不在と現前>になる。
この裏側のリズムと母親によるズレの調整との、共振の成功にもとづいて<ディスクールに欲動が記載>される。Fort―Daは母親の存在と不在を単にいいかえたものではない。それは<不在>と<存在>の二つであったものを<不在し存在する>ものにと統一する。こうして欲望という凝集的な作用が始まり、そして閉じる。そのとき、ヘーゲルは勝利するだろう(ただし彼はいきなり最後にやって来るのだ)。そしてまた、このズレの適正な共鳴は、時間の非対称性を学習させ、主――客の<トポロジカルな反転>を抑止することのはじまりとなる。というのも、それは繰り返されねばならない。
母親によって繰り返される、この<良い乳房>と<悪い乳房>の交錯と、そのいわば積分は、一定の状態への期待=特権化、その状態の出現の予知不能性、といった問題群に成長する。それは文字どおり、エントロピー増大法則という、主体の考え方、処理過程であり、その特権的状態の予知不能性=漸進的無秩序化によって、反転不能な時間がはじまる。
この時間の非対称性は、ここで関与している単純な議論の内側では、主――客、私とあなた(たち)の反転不能性に等しい。移行のはじまりにおいてうえつけられた<世界に期待すること>、それは以後しばしばかなえられ、しかし常に未知の中から気まぐれにやってくることによって、私と他者からなる場所を形成する。このとき<私は他者である>ことがないためには、私と他者(たち)のあいだに(差異における)力関係の不均等がなくてはならない。必要な近しさの中にありながら、決して手の内のすべてを見せないこと。<ヴェールごし>のようであること、それは必ずや私より<多くを知っている>であろうこと。
これらを調整するのが、法といわれる(象徴の)体系である。それによって私と彼らの必要な<近しさ>、形式という完全に任意なもののうちのひとつを共有することが可能になる。他方で、その法は<決してその名を直接にいわれない>ことによって、つまり複数の主体に分散し、密度を低減させながら、その<無意識へと構造化>されることによって、私に対する他者の強さ=未知を保証する。

汎資本主義と他者の消失

ところでこの未知性こそ、今日の、いわゆる汎資本主義といわれる状況の中で、苦痛の声をあげているものなのだ。一方に多言語的で極端に無秩序な壊乱と散逸、文化的遠心化、いわばリヴァイアサンを生じつつ、その裏返しに一種の飽和状態、私の無意識が外側に反転し、それが同型的にあなたとあなたの無意識であること、法と世界の臨界が目と鼻の先に近づき、そこにへばりついた他者には、もはや裏側がないような、ヴィトゲンシュタイン的な他者不在の世界。
(これと相補的なのが、レヴィナス、――ブランショ流の唐突な他者だ。すなわち、<私の語らないこと><私の語ること><あなたの語ること><あなたの語らないこと>を結節点とする、生成的な構造を、真ん中から左側か、右側に完全におり重ねること、――ちなみに、この四つの点を含む図は、クリステヴァがナルシシズムの構造として与える横8字型のものを、もう一度右側でねじれば良い。彼女が与えるのは<対象以前の母><ナルシス的主体><想像的父>である。ところで、もう一度ねじることによってこの図が与えるのは、<自己組織化>的な図だが、それは$、a、a´、Aによってラカンが与えるZ型のものである。そしてヴィトゲンシュタインでもレヴィナスでもa――a´の変換的なイマジナリーな関係が、それぞれ<病気>にかかっているのだけれど、それ自体がひどく今日的だといえよう。すなわち一方では千日手を(一人で?)くり返すチェスのゲームプレーヤーが。他方ではゲーム停止命令のなかで宙づりの、こわばった<共産主義>が。あるいは、マルグリット・デュラスも……)。
要するにあなたの手の内が、すべて明かされ、充溢する既知性の中を、誤認の完全な不在を、あらかじめ年老いた子供たちが逆向の時間を生きる……。
じっさいのところこれらはいわばひとつの<気分>でしかないのだが、それなりの臨場感をもって、主体そのものにとって主体が臨場感を失いつつあるときに、一種特権的なひびきをもちながら、恐怖すべきものとして、そしてまた、それなりに心地よい主体の経済の到達点として語りかける。それは対応選択的に言語経済をパワーオフした宗教家――解脱者か、最初からいささか聴力の足りない左翼とエコロジスト以外には、等しく語りかけてくる。だがこういった社会的経済を見るまえに、もう少しだけ主体の経済を追っていこう。

ファシズムと母による神の駆逐

主体のファンタスムにおける現前に、わずかなずれをもって現実をさし出し、それを先取り――要約――禁止しつづける母親を、ウィニコットはほぼ良い母親といっている。それが最善な母親だが、完全によい母親、といったものも存在する。すなわちこのずれの不在、幼児を<自らの欲望のファルスとする>ような母親であり、強迫神経症の患者が自らの過去に想像している、多すぎる愛情を注ぐ母親である。そして(古典的な)男性の同性愛者、また先鋭なファシストも、その引力圏にとらわれている。
彼らは実現されすぎた全能感に落下しつつ、同時に、もはやこれ以上実現されるもののない世界、現前しないすべてのものの不在、天上のものの落下、神の不在、急進的なニヒリズムに苦しむことになる。<ほぼ良い母親>の作用は、じっさい、すでに主体の中で進行――配置されている演算プロセスを、ワンポイントとびこすことによって、新しい照応関係を開発し、単純にいうと階層化し、しかも、自らの運動を法――象徴体系によって分節――記述することによって、幻想――無意識の主体の内部プロセスを言語的に書きかえながら、外側の未知なる世界――ことばの集積との単線的な参照過程へと主体を開き、法――社会への従属へとおとしいれることだった。そして、この外側の世界は、すべてが見通せないことが、主体との演算進行の条件であるから、常に<神学的なかげり>を持っているわけだが、すでに全能性の中での完結を、自己の単独性においてなしとげた者にとっては、この神学的な思わせぶりと、同時に常に部分的でしかないプロセスは、全く馬鹿げた、信ずるに足りぬ、そして叩きつぶされるべきものでしかない。
真性のファシストは、法に対する敵意、神への憎悪に彩られている。彼らは、ことばにおけるたどたどしい進行、ことばの弁証法を拒否し、物質的弁証法、肉体的律動、筋肉的エロティシズム、そして<絶対速度>へと身を開く。他方ですぐれた同性愛者の世界は死の臭いに満ちている。彼らはすでに終わった生をあとにして、自らの死を罪深いものとして生きている。そこでもまた神は不在である。そこで繁殖する過剰な装飾、現在と天上の神をたたえることのない美しさは、すでに不在の生と、目の前の死を記念するものとして、自分自身のみを目的として水平的に増殖する。

フェティシズム

それは一方では記号から強度(アンタンシテ)への逆算――退行(父から太陽へ)、他方は記号からのシニフィエの昇華という、<ポスト構造主義>の商品目録の過半といった具合なのだが(フェミニズムについては後述する)、いずれにせよフェティシズムの色合いを濃くする。フェティシズムとは、ウィニコットの議論にそえば、移行空間における特権的対象、つまりとりわけ幻想と現実の両方にまたがるものとして存在した移行対象が、その後の展開でも当初の地位を保ってしまったものである(つまり完全に良い母親がさし出すもの)。特にその後の展開に失敗したものには、ひもとかムチのたぐいが多いのだが(ウィニコットは、母との<きずな>であるという)、マゾヒズムにまで深入りすることは、ここではやめておこう。
――ただ以上のことからも、価値形態論における金――貨幣をフェティシズムの用語で語ることは、前者が法――神学的構造化を経たものゆえに、その点では不適切なことが確認できる(その意味では物象化という、<構造化>と同じ広がりをもつ語の方が、完全に無内容であるゆえにまちがいではない)。しかしまた、主体と世界、主体と構造は、壁に画用紙をはりつけるいくつかの画鋲のような、個々人それぞれの特異なフェティッシュによるピン止め作用なしには、剥離してしまうのも事実なのである。つまり、それは言語ゲームの線状的進行において、他の演算規則から全く孤立して、――というのも主体のプロセスにおいては、原則としてすべての演算は、その<周囲の>演算に規定され合う――常に固定した規則をもって、いきなり主体をすごろくのあがりへと持っていってしまうようなものである。したがってそれは、当然、ことばであること以外に、音とか手ざわりとかの物質的作用を必要とするものであり、その点では、やはり金=フェティッシュという表現は正しい(ところで、フェティシズムは、構造自体にとっては、一種の<ノイズ>となる)。そしてこのフェティシズムという、構造からの特別サービスの作用について、宗教と今日の資本主義は、じっさいよく知っている。さらにつけ加えれば、この<あがり=孤立>作用が、特異点をとおりこして、多数のことばへと構造内部に面状に反転し、演算規則の壊乱=<みんな仲よく(無関係に)あがり>になり出すのが、後述するようにフェミニズムである。――

あまりに人間的な?!

さて、ファシストや同性愛者にもどるが、彼らの<現前しないものの不在>の世界は、今日の私たちすべてにとって、ほとんど最も親しいものである。だが実のところ、彼らは人間であることに関心がありすぎるのだ。彼らは主体の経済、つまり近しさと快の享受に興味を持ちすぎる、結局のところ資本主義と法(の経済)の最上の体現者であり、また同時に、ニーチェやハイデガーがそうであるように、あまりに哲学的なのだ。
(最上の同性愛者であると共に、また法の思想家でもあったソクラテスが、法――象徴の演算プロセスの無限遠の収束点にイデアを措定し、そのイデアが実際、人が人生のかなたではなく手前に仮定する、例の同性愛的=肉体的な生々しさをけっこう持っているのを我々が知るとき、逆にそのことによって、本質の仮定とは無限の演算をやりきる力(権力への意思)のないものの脱落にすぎないと非難し、あるいはそれぞれの場所でおり重ねられる、近しいことばの輝きのなかでのゆずりわたしの忘却だと非難する、そういった声ともども、いずれにせよ、人間のさまざまな性格のちがいを反映しながら、人間について解説する。要するにどれも同じ声だと私たちは知るのだ)。
今日、すでに神のみでなく哲学と人間も、人間自身にとって、もはやそろそろ古くさくなりつつあるのだ。しかもファシストに関しては、彼らが神学的なものに敵意を持つのは、実際の多くの場合は、あまりに低能であるがゆえにそれを知ることができないからだ、ということを確認する必要がある。それは共産主義者が、だいたいにおいて神学的なのと対照的だ。そして現実のファシズム体制は、全く卑俗でいかなる<不安>もない、利権あさりの臨時的な野合だということは、実証的研究の明らかにするところである(それは資本主義にくり返しもどってくるだろう)。

法とゆらぎ

つぎに、完全によい母親をあとにして、完全に悪い母親に少しふれよう。それは幼児の運動を完全に無視する、ダニエル・パウル・シュレーバー議長の母親である。ズレの範囲をはるかにこえる母親の一方的な現実化は、主体を構造へと織りなさない。分裂病者の家庭において、父親が圧倒的な権威をもち、母親がそれに全く疑問を持っていないところが多いのは、家族精神医学の諸報告が明らかにするところである。そしてもし、真に<法の一元的支配>なるものがあるとすれば、それはこの完全に悪い親のようなものであり、それは構造化を不可能にし、支配を実際にはなしえないだろう。このことは、現実の法の、ゆらぎをもった動きを照らし出す(ヴィトゲンシュタインに学んだオースティンの批判的継承者たる)ハートの古典的な研究をはじめとして、法がその支配力をもつには、<ボーダーラインケース>での微妙な選択――決定のつみ重ねが重要な役割をもつこと、さらにそこでの作動を通じて、事後的・遡行的に、法は自らの正統性を後ろ向きに加工しつづけていくことが知られている。
以上、幻想と現実、そしてわたしのことばと他者のことばの間に設置される、ずれの種別性を軸として話を進めてきたが、いずれにせよそのずれを知らずに前に進んでいることが主体の構造化の条件である。というのも、そのずれは、主体が前に進むときに他者によって助けられる、すべての共同的な可能性の場所であり、それを知りつくすとき、人は自分にとって、他人になってしまうのだから。
先鋭な哲学者が、そのずれについてあまりに知りはじめるとき、彼は自覚的に<分裂病>となる。そういったわけで、これまでの議論の枠組を、フロイトよりずっと正確な<意欲>についてのニーチェのことばで要約しよう。
意欲のなかにはある感情の多様性がある。それは
1、そこから去っていく状態の感情と、そこへ向ってゆく状態の感情であり、さらに
2、この「去って」と「向って」じたいについての感情である。そしてさらに
3、もう一つ付随的な筋肉感情があり、それは一種習慣的に動かねばならない……等々。(『善悪の彼岸』19)
さて、マルクスの批判と、同時に純粋に政治的路線としてのマルクス主義を防衛することに帰るためにも、イマジナリーという語の内容を確定せねばならない。

イマジナリーとは?

これまで母親とずれの作用を記述してきたが、その作用はとりあえずこう要約される。
1、主体という演算過程に、全体化を教えること
2、全体化の過程を、転換してひきうけてやることによって、その労働を<節約>し、<待機>させてやること
この二つは、むろん同一のものであり、また、上述の節約は、エコノミーと表現されるべきものである。そして全体化(全体性)は、主体が鏡の中に見る自分の像として、ラカンによって鏡像段階において特権的に注目されたものであり、彼はそれをイマジナリーなもの、と名づけた。
すでに述べたように、母親の出現以前に、主体ははやくもファンタスムという労働を行なっており、その知覚は、完全に自己循環的ともいえる演算を進めている。母親がさし出す知覚は、それを一歩とびこして、要約――先どりする。それは(ヘーゲル弁証法に敬意をはらって)同時に全体化とも言えるが、全体が、あらゆるものの総和でない以上、そこで行なわれるのは、アクセントをつける配置がえである。そして母親が、象徴のもとにあることから、この先取り(=母親の像)を通じて、幼児もFort―Daの象徴体系にはいり、このプロセスは、総体的に言語化されるが、それ以降も、そこで生じることは同じである。もちろん、言語的交通によって生じる事態を、単純に表現できるわけなどなく、あなたのことばは、私のことばをしめくくり、意味をずらし、そして私の無意識の中のことばと照応し、私の語ったことと語らなかったことのつらなりをも変動させ、そのプロセスは無限につづき、等々、それを論じるには、おそらくハイデガーが哲学者として最初で最後に行なったような、そのゆらめきにつり合うだけの語り口をもって、そこに反照し合うしかない(それにしても、解釈学的循環などという鈍感なことばで要約するのは、あまりにおぞましい)。
ここでは最低限のことを確認する。ウィニコットにおいては、母親の出現はすでにずれをはらみつつあり、彼はそこでの事態を、正確にはイリュージョンと名づけているのだが、ラカンはフロイトと同じ、ナルシシズム的対象備給のモデルを用いているから、鏡像的(=イマジナリー)な母親は、完結的全体であるゆえに、常に不可能なるものとなる。したがって、イマジナリーなものの作用は、象徴的なプロセスから、逆算的に理解されねばならない(しかし、鏡像的モデルは、イマジナリーなものが、愛情をもって提示されつつ、暴力=攻撃性を誘発し、その問題圏を統括するものであることを一見してわからせる)。
主体をおりなす象徴交通的な演算プロセスにおいて、もし、その意味作用が完結するようなシニフィアンがあるとすれば、それはファルス(φ)となる。しかし、象徴過程において、絶対的なメタレベルは存在しないから、それは少くとも一ヵ所にとどまることはできない。それは常にのがれていく(φ=空集合)ことになるが、しかし、のがれていく限りで、私の語ることばの、常にとなりに待ちかまえている。ところで、ファルスはイマジナリーな母をシニフィエしているが、一九六〇年の弁証法についての会議などでラカンが論じるように、<ファルスはシニフィアンの総体に対して(−1)の内属をし、ファルスの意味作用はそれ自身のシニフィエに等しいので −1/シニフィエ=シニフィエ より シニフィエ=√−1 となり>ファルスのシンフィエは √−1=i で表示される。iとはもちろんイマジナリー(ナンバー)のことだが、それは、その解を導出した式 x2+1=0 に対し<決してその後の自立性を求めないことによって正当化される>。
虚数の導入は、スペンサー・ブラウンをもちだすまでもなく、単なるその場かぎりの比喩以上のものである。さて、論理的出発点において、主体の演算過程は、他者(母親)が不在のかぎりで、実数軸上でのみ解決される x2+1=0 である。すなわち完全にセルフ・リフェランシャルに変形された式 x=−1/x は、x=1 を代入すれば、1=−1、 −1を代入すると −1=1 と、x=1,−1,1,−1……と無限にくり返す(<クレタ人は言う、すべてのクレタ人は嘘つきである>と等しい)が、主体の経済において、それはそれで問題ないのである。まずファンタスムにおいて、時間の不在と個々の局在化をともなって、そしてまた、完全に言語的なプロセスにおいてもしばしば日常の散漫な過程、またある種特権的な<女性的問題>をはらんだ経験と、それは一致するであろう。つまり必ずしも強迫的に、x=1,−1,1,−1……を<永劫回帰>する必要はない。
このプロセスに、ほぼよい母親が、そしてあるいは他者のことばが与え返されることによって、x2+1=0 はイマジナリーな=虚数の軸で解決される。その解決は鏡像が子供に与える、こおどりするような喜びとひとしく、主体に大きな快楽を与え、そして同時に、最初のイリュージョンにおける主体と母親の共鳴を保証していた、筋肉的な律動のリズムをよびさましつつ、その快楽に向けたはげしい暴力をも喚起する。それは全体化というにふさわしいものだが、同時にそれは、主体の演算プロセスを節約してやり、中断させるものでもあり、逆に全体化の吸収―中止過程でもある。
そして<iはそれ自体自立させられない>ことによって、あるいは、ファルスは意味作用を完結させるがゆえに、常に不在であるのだから、結局主体をおりなす交通は、ガウス平面上を九〇度ずつ回転するようにして進行しつづけることになる。
こうして<複素数は相互の項を想像化する>ように、全体性という普遍的統合を目ざしつつ、相互に平行しない平面にそれを投影しながら、お互いにその完結を回避し合ってプロセスは続行する。全体化への道から、相手を救い出してやることにより、共同体という全体性は存立し続ける。
ここで+1とiはファンタスムと母親が対等であったように、交わりはしないが、論理的に等しい権利を持つことを確認しておこう。そしてまた、ベイトソンを経由してスペンサー・ブラウンを論ずると、iは、ダブルバインドからのがれる代替性として、全体性の対極にあるようになんとなく感じるが、その逃走が全体的構造をささえるものであること、そして分裂病者は、その全体化への道を、他者に助けてもらう=節約し、待機させてもらえないのだ、ということを確認しよう。その意味で、座標軸の相互転換は局所化であるとも表現できる(中井久夫が表現するように、分裂病者は、あらゆる出来事を局所化できないので、ほんのわずかな変動も、全体をゆるがせるように重大な影響を与えてしまう世界に住んでいる)。

情報処理の節約と権力

こうして、イマジナリーな作用とは、総体としての全体を要求しつつ、その全体化を回避し合う過程である。ところで全体へと引きずりこみながら、その全体化――全部を認識すること、を節約――代行してやることは、権力という情報装置の基本的パターンである。民主的代議制は明らかすぎる例だが、哲学者がよく問題にする<人を評価すること>は、きわめて健全な喜びを人に与える。そして、例えばなぜノーベル賞に権威があるかといえば、逆にすべての人が、その賞を取った人の理論活動を等しく正確な密度をもって理解できるなら、その権威は解体する、ということを想起すればよい。そしてあくまで認識を節約してやりながら、そこにarbitraryな要素を入れこみつつ、権力は自らを配置する。
しかし、完全にarbitraryな母親はシュレーバー議長を育てるように、そして法(機関)はボーダーラインケースでarbitraryであることによってのみ、案件をarbitrateできるように、権力は、常にいくぶんか<親切>なものである。そしてマルクスの価値形態論も同じ事態を論じるが、彼がおちつくのは、結局イマジナリーなものはイマジナリーでしかない、という幸福なものだ。そしてこの過激な(=全体化すれば必ず失敗する)方針で社会的権力を解除しようとするものには、つぎの三つがある。
1、分裂病的戦略。全員がツァラトゥストラのようになること。すべてを認識すること。しかしこれは<いつかツァラトゥストラのようになること>という神経症にかかるということとして実現され、資本主義経済――権力をより加速するだろう。
2、エコロジスト的戦略。認識ではなく、情報の総量を調節――低減しようとする。しかし全員が白痴にならない限り、強力なメタレベルを設定するしかないから、文革化もしくはポルポト化する。だいたいの共産主義の道。
3、フェミニスト的戦略。上述のふたつとちがい、全体化そのものを解除することで、イマジナリーなものを不在化しようとする。神秘的領域に近づくものだが、これを論ずるには、主体のエコノミーにもう一度帰ってみなければならない。少し見てみよう(つけ加えるが、この三つを<言ってみる>こと。また時・空的に限定して実現することは可能であり、また意味もあるだろう。それは総体としてのイマジナリーな統合に組みこまれる)。

神学――イデオロギー的統合

神学的統合は、上述した想像的な(非)全体化に含まれる。すなわち主体の演算プロセスすでにこの場合は完全に言語的なものだが、それを神のことばによって引きうけてやることにより、実数軸上でのみならば、時間の進行のなかで普遍的解答を求めようとすると反復強迫化してしまう算式――フロイトが死の欲動といった、象徴体系の形式の総体としての姿――、それを想像的な(虚数的な)軸にひきうけてやることで、主体を死の恐怖から解放する。そして、神のことばが特権的な統合力をもつのは、主体の無意識の深度との、接続の強さによる。じっさい、人の語ることばは、それぞれ重いものも軽いものもあり、それはその言葉によって動員されている、無意識内のことばの種別性による。そして最も重いことばは、主体の享楽、原初的で最終的な定続性、演算の心地よい死、すなわち母とか人生の意味とか共産主義とかいったものへと回付されることになる。
神学的なことばの力能は、そこで語られる父や母、愛、そして救い、死といった一連の特権的な、性的満足にかかわるタームからなるストーリーによっているが、それは多くの場合、母との最初の出会いによる、鏡像的=イマジナリーなよろこびにつらなっている。しかしそこでの母と、母による満足は、言語的な分節の支配に実際は服しているから、結局のところ、ここで論じていることは、あらかじめ神によってまかれたことばが、神自身によって刈りとられる、という奇妙な事態である。
ところで、これは真にイデオロギー的な統合がすべて目ざすパターンである。したがってそれは今日の日本においても、企業の社長や学校の校長、国家の首相の訓話を通じて同じように目ざされているが、それが一定以上の知能に対して失笑しか呼びおこさないのは、その、世界宗教の言説と比してのことばとしての密度の低さとともに、われわれの世界が、言語的共同性を大きく消失していることにもよる。もっとも、それはわれわれ知識階級が考えるほどではないのだけれど。――そしてその後者こそ、カトリック世界を解体させ、新教―資本主義という新しいタイプの世界(非)宗教をはじめさせた必然性だった。それは後述するように、あらかじめの想像的満足に失敗したものが、完全なる満足を求める、神経症――ヒステリー的プロセスに極似し、そこでは<完全に死んだ父>が求められることになる。
さらに、この最初の想像的よろこびは、フロイトが事後性の用語で理論化したように、実際は後ろから、言語的に加工され続けているものであり、それはイデオロギー的統合において不断に作用している。今日の私たちの取る道は、総体としては、この加工の流動性を限りなく高めながら、ある程度それを共有できるようにするしかない。今の、およそ一九六〇年以後生まれの世代で多少はやっている、限りなく軽い言語で回顧趣味を語る、というようなやり方は、どちらかというとこの方向を目ざすもので、必然的――肯定されるべきだが、ことばそのものに一定水準以上の密度がないと、そこでの満足の度合が少ないから、結局(死んだ父を求める)資本主義の神経症的プロセスに対抗できないだろう。この作業こそ、私たち哲学サービス業者がすべきことで、生産されつづける科学的言説を二次加工して、無意識へと構造化された体験と照応できるようにし、それは換言すると社会的編成を主題とし、または関与する物語に書きかえてやる、ということになるが、その作業を、かなりの統合力をもって進めつつ、ある種の古典――科学的聖書へと織りなしていくしかない(ある程度核がないと、あまりに労働量がふえるから)。ちなみに、科学的言説と他の言説(とりわけイデオロギー的言説)の相違は、前者が、主体の無意識に関与物をもたない、ということで、それが科学の一義性を保証するが、逆にそれは、それ自身の内部で、想像的に変換されることによって<守られて>いる。いずれにせよ、単一の経験や単一の哲学用語を祭りあげて、それをありがたがることによって存続する、科学ぎらいの左翼的集合は完全におしまいだが、それにしても、経験の複数化が、共同体的――イデオロギー的な統合、つまり単一の(親族的な)主体の関数への言及を困難にする以上に、フロイトの最初の充足、という考え自体にもある、主体の時間の求心的構造そのものが、ある程度生活の貧しさ――満足のとぼしさに依存しているのだ(ろう)。つまり、父や母、愛や死といった用語自体が、かなり<貧乏人>向けのものなのだ。共同性は複数性によって侵食されると共に、生産力の上昇それ自体によって、共同性の比率そのものを減少させる。生産力は生産関係の種別性ではなく、生産関係の一定程度の不在を、つまり主体にしめる言語経済の統合性の減少、イデオロギーの舞台そのものの解離をも決定できる。しかしそれは、時として激しい不安をぶり返させるし、そういった状態での社会的統合は、ますます暴力化――資本主義化する可能性がある。

フェミニズムと奪われた主体

神学的統合の話にもどろう。それは神によって与えられたものが、神によって回収される特権的な場所である。イエス・キリストという奇妙な位置は、この構図に深く関与し、神と子と精霊(精液とことば)の三位一体は、その要素をはらんだ、非常に密度の高い理論的生産物である。さて、神のことばを前にした主体は、まず、その豊かなことばによって意味を先どりされることにより、従順で安らぎのなかにある子どもになる。そしてまた、神の視線と、神に祈る自らの視線を倒錯的に同一化するなかで、ファルス的関数の強まりのもと、瞬間の超主体化による男根的快楽=世界の完結をそれは得る。さらに他方、神によって蒔かれたものを、神によって刈り取られる主体は女である。そこでのことば(=精液)の道すじは、女の体を通りすぎ、そのことによって主体は主体であることから解放され、主体(認識の主体)であることをうばわれる。それは想像的変換とは、たしかに別の種類の経済であり、ファルスにおける享楽とは、別の種類のエクスタシーのようである。しかしそこで生じていることは、強度の統合へと回収されるべく、神に向けて外側に反転された主体の無意識が(ところでこの反転は、日常の経済でも常に生じている)、その神の回収能力を超えて散在しつつ、その光のなかで、自分自身を享受すべく輝いている状態である。これは、ラカンの用語を用いれば、それぞれのシニフィアンが、主体のトポロジーの壁をつきぬけて、それ自体でファルスになるような事態であり、ファルスのシニフィエはイマジナリーなものであるから、あるいは、それ自身において想像的変換をうけて、それぞれのことばが真理、ただし別々の真理となっている状態といえる。そして、このそれぞれの真理とは、この神学的なストーリーを除けば、またニーチェが<私の真理>とよぶものでもあり、ここには<決定不能性>の哲学のすべてと、その左翼主義的利用物としてのフェミニズムのエコノミーの、すべて以上がある。この事態こそ、真に神秘的といわれるものにふさわしい。
神秘的事態。例えばわれわれがコンピューターと対話するとき、ある種の神秘性とは、彼らが与えられた問題を、すみやかに――想像的に解決することではなく、その動きをブロックしてしまうことである。そのとき、私たちは停止した画面に、私自身のあるいは彼らの無意識の、あらわな宙づりを見る。そしてまた、x2+1=0 を入れるなら、彼らはそれを想像化することなく、1=−1、−1=1、……とうち出さねばならない。
1=−1 は<私の真理>である(つまりそれは、解決不能のなかでのこわばった反復とか、フロイトが死の欲動という、離心的なシニフィアンの連鎖ではない)。それは<私の>真理であるがゆえに、<さまざまな彩りの、矛盾したものである>(というのがポスト構造主義的、反ファルス―ロゴス的見解である)。しかしまた私の<真理>であるゆえに、そこには欲動の還流があり、他のことばへの意味作用を通じての回付なしに、それ自体で、身体的な享楽と結びつき、<想像的である>(というのがフロイト主義的立場である)。
さて、ファルス(φ)といわれるシニフィアンは、それ自身によってすべての意味作用を完結させるシニフィアンであるから、一定の時間において出現できない。x2+1=0 は、ファルスのシニフィエたるiの導入によって解決できるが、その解は自立する権利をもたず、つぎつぎに変換されつづけるのが条件である。他方 x2+1=0 のもうひとつの解 1=−1 は、デリダによってファルマコンと呼ばれるものだが(-φとしよう)、それは差異の留保としての両義性、ヴェールの向こうとこちらの同時性であり、空間的に決定できない。もちろん、両者は不確定性関係をメタファーとして相互変換できるものだが、そこで含意される人間学的立場は等しくない。
どう等しくないかは、上述のとおりだが、-φの戦略は、真理の特権的搾取者としての、形而上学的ディスクールから、算式的に逆算されたものであり(まるで近代経済学のように正確かつ実体的根拠なしに)、もちろんその範囲内では、明解な内実を持っているが、それをフェミニズムの名で再び主体の現実に返そうとしても、その道筋は断たれているので、それは左翼好みのスローガンとして乱発されるしか使用されるすべはない。
他方φの立場にとっては、真理とは、あくまで主体の経済におけるなんらかの演算中止点の問題であるから、もしφが現実に存在するとすれば、それは主体とことばとの関係として、現実に記述されねばならない。
そしてラカンによれば、神秘的な空間において、そしてまた、一種の女性的発話(ここでの女性はメタファーではなく、現実の女性の意味あいをもっている)において、シニフィアン=φは存在する、という。彼によれば女性の方が、去勢を通過する際に、その影響を強く受けず、つまり男性ほど去勢の否定に固執しないので、意味作用の完結に向けた欲求は少なく、そのことによって、それぞれのことばが、まるでもののように分立し、正確には露わになった無意識のような形で浮遊しつつ、それ自身において想像的に閉じることがある、という。いわばうっとりとした、ひとつひとつのことばの口ずさみ、といったものだが、それはまた、ことばにおける充足感を低減し、一種の空虚へとさまよいこむ道である。
この問題に関しては、種々議論も続いており、これ以上深入りしないが、ここで必要な確認としては、あくまで言語的なコミュニケーションを中心とする社会理論の水準では、真のフェミニズムは問題となりえないこと、そして、資本主義的な一元性を問題にするなら、それは、真理とか全体性、または想像性の問題ではなく、固有に神経症的統合の問題として立てねばならない、ということである。

展望

というところで、偉大な神経症患者、マックス・ウェーバーの真にポジティブな言葉を用いつつ、資本主義固有の問題に帰ろうと思ったが、時間調整不良のため、今回は不可能になった。別の機会にのばしつつ、基本的出発点として想定していたことを列記する。
*まず、価値形態論は、いずれにせよ有害であり、すでにベイトソンの階型理論さえ乗りこえられてしまった今、その理論的使命は終わった。それによって資本主義を論ずれば、人はいつの間にか真理一般を論ずることになり、他方で、価値形態論の出発点たる、鏡像的関係は、その解決を純粋に外部にしかもたないから、限りなく、それ自身における充足という(フェミニスト的?)神話を再生産するだろう。その意味では、ルソーの方が、社会契約論での社会(的疎外)と個人的出発点の<自己言及的>論理に見られるごとく、より冷徹であったといえる(アルチュセールによる)。私たちの進む道は、社会契約的=民主主義的思想を、明晰だが無責任な(=自分がメタレベルのつもりの)人々のいうように<メタレベルの設定である>と笑うのではなく、その道を、いわば死の審級にかかわる民主的決定として進むしかない。
*これもまたアルチュセールによるが、マルクスは、価値形態論を<完全に>スッとばして、搾取についての実践的・政治的闘争として学ばねばならない。というのも、いわゆる、今日流行の資本主義という一元的ゲームと、資本主義的搾取とは起源を異にし、最初から部分的に存在していた後者は、前者の出現のために利用されたのである。それは、(目の前の)神の死にもとづく切実な要求であった。マルクスの議論は一義的ではないが、独立した諸資本家によるゲームのはじまりが、労働力の商品化のシステムを通じて搾取を生み出したかのようにとれるのも事実である。
ところで神経症的戦略は、死んだ父と、強迫神経症者が想う完全な母を再生産するためには、史上、最も暴力的なやり方で全員を<むしり合い>のゲームにたたきおとさねばならない。そしてまた、主体の神経症的エコノミーは、搾取を通じて再生産されつづける。介入すべき点はまずそこであり、<ゲームである>ことの方から近づくと、またしても人は<真理>を問題にしはじめる。それに関するここでの立場は、<真理は永遠の誘惑であり、人間と同義である>。
*さて、汎資本主義における、想像的な機能の危機は、ニーチェ的に分裂病的なものではなく、神経症の強まりのはてに、鏡像的なおとり関係へと、近接の強まりの果てに落ちこんでしまったものである。
選択されるべき道は、結局のところ、健全なものがふさわしい(じっさい、たかだか人間の問題なのだから……)。おたがいの近さを、おたがいを聞きあうことを、神の不在のまえで、それを恐れることなく遂行せよ、かなたの本質を回収せよ、というハイデガーは、主体の経済の反動性につり合う以上に反動的ではない。それは同時に、哲学的に教育せよ、ということでもあるが、今日の事態は、それにそって進みつつある。もちろん、いなかでキャベツを作っていれば、それで幸福、という人もいるだろうし、単一の道、単一の種類の主体を考えたがるのは、哲学者の悪癖である。だがまた、<キャベツはいやだ、都会に行きたい>という要求を、エコロジストは抑えられないだろう。そこで求められるのは、その直接的形態がいかなるものであれ、それは断片的な、しかしより高い水準での近しさなのだ(資本主義は、それを次々と浅く商品化するだろう)。われわれはそれを許容しつつ、より遅い、かつ密度のあるものの生産を、公共的にある程度可能にする、意思決定のシステムを作るしかない。他方でまた、汎資本主義の強まりの中で開発された、遠さの感覚も、それなりに新しくおもしろい。それは純粋に自閉症的なものだが、本来<労働>といわれるものはこれである。それは社会関係、時間のアクセント、結果、等々を排除する。しかしこれが可能であるには、非神経症化はもちろんのこと、非言語的、いわゆる自然といわれる情報環境が保全されねばむずかしいだろう。それは純然たる政策的問題である。
以上、法、資本主義、そして神学等、社会関係固有の問題には多く言及できなかった。近刊の入門書『法・セックス・汎資本主義――Basic 33(仮題)』(亜紀書房)を参照されたい。また、ここで展開された、精神分析関係の話は、ひどく単純化したものなので、固有の科学的記述は『アンドロイドのための人間入門書』(準備中)を見られたい。

(かしむら・はるか)
クリティーク 特集●マルクス主義の現在


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