エコノミーの終了

エコノミーと時間*

経済(エコノミー)とは何だろうか。
まずひと目でわかるのは、人間にとって何らかの意味で必要な財物を生産し、それをさまざまな形で交換し、最終的に社会成員の各々に分配して消費する、ひとつの閉じられた循環だ。ここで生産される財物とは、生産に必要な生産財や直接消費される消費財、またその消費財は、いわゆる必要物資から純然たる表徴や記号の類に及んでいる。また交換と分配は、それぞれの社会において著しく異なったパターンをとるだろう。特にどのような社会も、支配階級と被支配階級から形成され、前者により多くの財を分配するので、その仕組みをひとつの秩序として安定させる過程で、交換と分配は、法やイデオロギーや儀式などの、象徴体系の想像的(イメージ的、イマジナリーな)媒介物を経ることになる。例えば資本主義においては、利潤や利息や株式配当といった観念を通じて、生産物の大部が資本家層へと搾取され、封建制においては、土地の支配者に財物が収奪されるといったように。
こういった、財の<現実的運動>とその<表象>からなる、搾取と収奪をはらんだ経済のワンセットは、一般に生産様式として記述されるが、いずれにせよここでの経済理解において前提となるのは、生産と消費は最終的には一致し、両者は完全に閉じた輪を作ることだ。そしてエコノミーという語が、たとえ最終的には、人間的情報世界の基礎運動を含意するものだとしても、記号(正確にはシニフィアン)の生産と消費が形作る閉じた輪と、そこでの<現実>や<再現/表象>といった複数からなる成層は、エコノミーについての議論全体の、出発点となるはずである。
むろんここで、人は、前資本制社会における宗教的儀式と結合した財の蕩尽(いけにえ、供物)や、資本制社会における恐慌を、ただちに思い出すかもしれない。この両者においては、通常の消費活動に含まれる消費に対し、生産は過剰となり、両者にはズレが生じる。この二つの不一致は、ヘーゲルとハイデッガーを両極とする近代哲学において、一般に<死>(フランス哲学においては時に外部)と総称される、異なった二つの運動を代表しており、それは<現実=le reel>(1)が人間の情報処理プロセスに<非合法>に貫入する、様態を異にする二つの場合に対応している。ここで問題を先取りしておけば、前者は人間世界を形づくる記号体系(正確にはシニフィアン)の総体的構造が、明確な意味作用の解離する妄想的=<パラノイア的>空間を利用して、その全体の姿(ないしは絶対的差異)を、一挙に演劇的に告知する事態であり、後者は通常の時間的意識から、あらかじめ排除されたシニフィアンの構造が、人間の明確な意識の内部に、その鮮明な全体を、<スキゾフレニックに>露現させる事態である。しかしなぜこういったことが生じるか、それを知るには、エコノミーの基本にかかわる、次のステップに進まねばならない。
さて、すでにみたように、生産と消費は閉じられた輪を作っているが、しかし実際には、誰も事態をこのように、ひと目で見ているわけではない。いかなる社会や時代、あるいは生産様式においても、エコノミーという閉じられたシステムは、内部に<時間>とよばれる動きをはらんでいる。これはまず単純には、生産と消費は同時に生じるものではなく、相互に遅延しあい、しかもそのさまざまな生産や消費は、それぞれが相互に不透明な他者としてしか見通せない、異なった主体によって遂行されることを意味している。つまり<時間>ということばは、経済というものがひとつの閉じられた全体でありながら、何者もその全体を、外側から一挙にみることはできない、という事態を隠喩している。たしかマルクスは、生産と消費が同じ平面上で透明に一致している、ロビンソン・クルーソーの生活は、経済とよぶには値しないといっていたが、この時間ということばこそ、エコノミーを規定する基本である。
さらに進むとしよう。時間ということばは、エコノミーという全体が、なにか透明で一望可能なものではなく、不透明に流れていく事態を示しているらしい。しかしこれでは、何もわかったことにはならない。そもそも時間という観念(プロブレマティック)は、運動し流れゆく全体を、そのように流れゆくものとして無関心に把握する限り、絶対に登場することはない。時間とは、時間のなかを進行する事態への、受動的な受容ではなく、その流れを、ある限定された瞬間に一挙に捕捉し、認識し、支配する、時間を切断する能動的行為と結びついてのみ問題となる。ここであらかじめ問題を要約しておけば、時間とは、時間の全体的、ないしは局所的な、切断を示すことばである。

信用――時間の局所的切断、あるいは現実の多層化*

この事態は、時間の局所的な切断である<信用>という運動、つまり全体の運動連関(権利‐負債の流れで示される)に対する自覚的な閉域形成作用において、とりわけ明確に理解できる。つまり信用とは、信用を与える債権者が、信用を受け取る債務者を、通常の時間の流れから、切り離す行為である。そして、信用を与える者と、受け取る者は、その行為を遂行する<瞬間>に、みずからが属する経済全体の運動を、ひとつの時間の流れとして、そこではじめて意識的に<情報化>し、その全体の時間の流れに対する独自の態度を決定して、そこに参入することになる。しかもその参入ないし同一化は、債権―債務者のカップリングが、経済全体の運動とは隔てられた、もうひとつの時間の流れを形成し、全体の債務連関を、そこで隔離‐二重化する行為と一体になってのみ、実行される。経済とは、いかなる生産様式においても、必ず、この様な多層化の契機をはらんでおり、その多層性が形成されるときにのみ、経済が<時間の流れ>であるということが問題化される。そしてこの多層性、ないし時間が存在しなければ、経済という運動は存立できない。
ただ、この多層性は、資本制と前資本制ではまったく異なった容貌をとる。それは前者においては、全体の時間の流れの切断が、<信用>という形態を中心として、常に局所的に遂行され、後者においてはその切断は、宗教的な儀式を通じて、全面的、一挙的な形で実行されることによる。このことは、前者は内部にメタレベルを保有せず、みずからの表象=現実を多層化し、他方、後者は、表象/現実の形で、内部にメタレベルをもつことへとつながってくる。そしてその相違は、最終的には、資本制はみずからにその外部をもたず、完結した全体となりながら、不断に分裂病的全体へと収縮して、外の<現実>を完全に排除してしまうこと、逆に前資本制は、あらかじめ儀式を通じて、(リジットな象徴的現実性を解除した)パラノイア的全体となることで、外の<現実>を、妄想の形で内部に導入しえるという、反転した帰結をよぶことになる。この、資本制エコノミーの、臨界的な自閉性を見物するのがこの小論の目的だが、ここではまず、エコノミーという運動の基礎を理解するために、信用の構造について、もっとみていくとしたい。
信用という多層化の行為(これは<弁証法的止揚>、あるいはメタレベルの設定といわれるものと、同じ行為をさしているが、その様に表現すると、記述の対象から理論的に脱落する要素が出てきてしまう。そこで何が脱落するかを触知するのも、この小論の目的のひとつである)は、その規模と、債務―債権者の能力の差によって、まったく異なった様相を呈してくる。すなわち、田舎の信用金庫が地元の自営業者に融資する場合、あなたが、丸井の赤いクレジットカードを使う場合、そして日本銀行券という形で、人々が国家権力に信用を与え、全員一致で債権者となる場合。
ルソーやカントやヘーゲルや、そしてとりわけマルクスの『資本論』のように、最後の場合から始めてはならない。そうすると、いきなり神や神の子キリストや、主―奴の逆転やらダブルバインドやらが登場して、<形式論理>という名のパラノイア言語によって、眼眩ませされつつ、資本制の外に出てしまうからだ。最初の例から、ゆっくりと進んでいくのが好ましい。
さて、あなたが田舎の信用金庫に、何らかの事業計画を携えて現れたとしよう。そうすると、まだ三〇歳代ないし四〇歳代とおぼしき、頭の遅そうな、しかしこの会社ではエリートらしい貸付担当が登場して、慇懃無礼にあなたの事業計画を聞くことになる。むろんすぐ本題には入らず、世間話などを多少するのだが、すでにあなたは、自身が実直で健全な一般市民であり、あるいは逆に、特殊な経済基盤を有する、ある種の周縁的出自者であることなどをさりげなく誇示し、そこではすでに相手との<闘争>が、開始されはじめている。
もちろん、あなたは喧嘩をしにきたのではないから、この闘争は、両者の共犯関係という、ある一定の<同一化identification>を目ざしている。その同一化によってあなたが被る最終的恩恵は、すでに繰り返し述べたように、あなたを通常の経済的時間から隔離し、生産してから消費する普通の時間の流れのなかに、あらかじめ消費してから生産する、特殊な時間を設定することである。これはいいかえれば、全体の流れを<部分的>に切断して、あたらしい時間の<起源>を、そこで設定する行為ともいえよう。
しかしこれは、あくまで<同一化>を経た最終的結果であって、同一化そのものではない。同一化とは、当然、あなたが貸付係に提示した事業計画、より具体的には、あなたと、経済総体の今後の展開の見通しに対する、一定の<認識‐決断>をめぐって遂行される。例えば、エイズ騒動は当面の一過性のものなので、風俗産業は不滅であり、ぜひ再融資をお願いしたい、といったような。こういったことをあなたが提示すると、同一化が成立する場合には、貸付担当は貸付担当なりの思惑をもって、その計画を合理的なものとして、それに同意を与え返す。
だが、ここであなたはふと思い出してしまうのだが、実はあなたの事業計画は、綿密に考え抜いたわけではなく、単なるその場のでまかせもはなはだしいものだったのだ。それに対して、貸付担当は、なぜか同意を与えてしまった。彼はよっぽど認識能力に欠けた人間だったのだろうか。それともよほど、愛情深い人だったのか(両者は、理論的には同値である)。だが、ここで重要なことは、いずれにせよ、あなたは経済の全動向を捕捉することなどできないし、何らかの時点で認識を中止し、決断せねばならないのである。そして貸付係も、そのことを前提している。つまり、ここで成立する同一化は、最初の世間話の水準で成立したものと、<情報化>という作業の限定的、瞬間的特性からして、基本的には大差ない。

同一化の運動*

しかし、これがただの世間話や床屋談義と異なるのは、あなたが現実の経済総体に対して描いた、ひとつのイメージ(想像)は、この貸付担当の同意を通じて、現実の水準へとレベルアップしたことだ。これが<同一化>という運動の、基本をなす。そしてこのレベルアップは、観念から現実への弁証法的<止揚>が行われた、またはあなたの想像的世界が、外化し、<受肉>した、あるいは現実が二層化し、<メタレベル>へとジャンプした、と表現してもかまわない。さらにはあなたの空想的世界(ファンタスム)が<禁止され>、<去勢され>、止揚そのものを機能とするシニフィアン(例えば精神分析における<ファルス>、『資本論』における<金‐貨幣>、そしてここでは<信用>)の導入によって、そこであらたな象徴的システムが編成された、と語ることも、同様に可能だろう。しかしこういった表現は、発生した事態のすべてを、あとから一望して見渡すように、遡行的<事後的>に、<言表内容化>したものにすぎない。つまり、この同一化においては、複数の場所、複数のレベルでの作業が、実際は同時に並行しており、しかし、それを事後的な言語で単一空間に配置するならば、その配置風景は、(シニフィアンとシニフィエの)多層性、ないしは時間の複数性をみずから圧縮することで、結果的にはパラノイア言語を、単に模倣するものになってしまう。
この同一化と、それによる現実の多層化においては、実際は次のようなことが生じている。まず、あなたは、現実の経済状況への漠然たる認識、ないしは<気分>として、事業計画を構成した。それはひとつの表象、ないしはことばである(はじめにことばありき!)。しかしそれが単にあなたのことばでありながら、しかもそのままの形で現実でもあろうとするなら、それは文字どおり完全な形で、現実の経済運動とその展開を、ラプラスの魔のごとく包摂し、その<表象=現実>の力能によって、(神のことばのように)人々の考えや行動(ここには無意識的なものも含まれる)を、一挙的かつ全面的に、あらかじめ(=即時的に)同一化してしまわねばならない。
しかし当然それは不可能なことで、それゆえあなたはその不完全な表象を、不完全なまま、現実のシステムに参入させるべく、それに対する<限定された>同意を得ることになる。つまりここでは貸付係の同意である。そして貸付担当は、それに同意を与える瞬間、あなたの<表象>が、ただそれのみで現実であろうとするなら、現実の経済システムへの無限の参照に陥るだろう。そのプロセスを、一気に断ち切り、<切断>し、みずからが背後に有している、信用金庫への預金者からの一時的な債権執行の停止という、もう一方の切断に向け、その認識‐参照プロセスを<転換し>、引き受け、あなたの側のその時間進行を、みずからの側へと<留保>してくれるのだ。しかもそれを通じて、あなたの企業的冒険は、全体の時間に<留保>の形で、逆に結びつけられることになるだろう。
ただ、ここで信用金庫が、はたして預金者の合意形成なるものを経ているかどうかなど、定かではないし、どうでもよい。重要なのは、あなたのプランが現実となるには、それは目下の<現実/表象>に対する関係(そこへの完璧な認識という<表象=現実>であれ、あるいはそこから由来する債務連関という<表象=現実>であれ)を、そこで一旦切断せねばならないし、そして信用金庫は、信用という形で、その切断をみずからの側に引き受け、留保する、ということである。しかも、信用金庫がみずからの側に有している、その切断(これは現実には、預金高だが)は、どこからきたのか定かでないし、例えば一定の迂回路を経て、第三世界からまったく無根拠かつ暴力的に巻き上げてきた(=そこにみずからの<意志‐形象‐構造>を押しつけてきた)のかもしれないが、ともかく信用金庫は、既存のシステムと時間展開への参照の切断を、信用という形でみずからに引き受けることができ、その引き受ける能力、留保の作用、すなわち時間の起源の部分的な更新能力こそ、信用金庫がもつ、ひとつの<力>に他ならない。
だが、ここで信用金庫は、ニセ札まで作ることは許されない。そこでは全体の経済連関への参照(レフェランス)が、一時的にストップされ、留保されているだけだから、そこで開始されたあらたな時間は、その留保された時間に向けて、具体的には債務の履行という形で、いつか再び帰属することが求められる。ただしこれは、表象というメタレベルが、現実というレベルの裏付けを必要とする、といったことではない。あなた、もしくは信用金庫が、信用を得て開始したあらたな時間は、それ自体<表象=現実>なのだから、例えばあなたが金を持ち逃げしてしまったなら、それはそれで、永久に独立した、完全に新しい時間となる。そしていつか、あなたが事業家として大成した暁には、社会的地位という経路を通じて、再びその時間は、全体の時間に復帰するだろう。そこでは通常の信用より、やや大きな<忘却>と<切断>が機能したと考えられる。そしてこれは重要なことだが、事態が資本制エコノミーというシステム内部で生じる限り、人は必ず、全体へと復帰する。これは基本的には、信用という同一化の運動が、後述するように通常の言語的交通と、完全に相同な形を有することに由来する。

X2+1=0と弁証法的止揚*

ここで事態を、一旦抽象的に圧縮してみよう。資本制エコノミー、すなわち信用という行為によって、全体の時間からの一時的退避線を形成しつつ、そこに新しい要素(例えばヴェンチャー・ビジネスといったものを想起されたい)を登録(または排除)し、最終的には全体に回収し、みずからを止揚していく運動は、方程式X2+1=0で示される、ひとつの演算過程のようなものだと比喩しえる(これはひとつの隠喩的表現だが、言語とは、すべてひとつのメタファーである)。
この演算を進行させる過程において、その解を鏡像的自己撞着から救い出すには、ジャック・ラカンが述べたように、それ自身をみずからのシニフィエとなし、弁証法的止揚そのものをみずからの機能とするシニフィアン、ファルス(=−1)の導入によって、<二次的時間>を形成する必要がある。
このシニフィアン、ファルス=−1のシニフィエiは、以下のようにして与えられる。
−1/シニフィエ=シニフィエ より シニフィエ=√−1=i(maginary)
すなわち、演算プロセスX2+1=0は、実数軸上でのみ展開するなら、自己言及的な形式X=−1/Xとなり、1を代入すると、1=−1その逆に−1を代入するなら−1=1と、X=1,−1,1,−1……と、無限に進行しはじめる。
この無限進行は、じっさいいかなる問題もない、十全たる解なのだが、人が永久にこの場にいることを希望せず、すなわちより高次な式を解く過程において、この進行から一時退避しようとするなら、iという虚数軸を設定してやらねばならない。これはひとつの<弁証法的止揚>だが、この止揚された時間軸は、X2の登場によって、最初の地平に回収されることをみずからの条件とする。つまり演算過程X2+1=0は、その内部にメタレベルを保有せず、単に複数の共役的時間を保有する。

現実的<全体化>と神学的全体化*

問題を、X2+1=0おける複数の時間として隠喩するか、あるいは弁証法的止揚、階型論的自己言及として隠喩するか、という相違は、資本主義を信用という運動から理解するか、それともマルクスのいうように、金という、神学的二重性(神の子キリスト)によって理解するか、という相違につながってくる。そしてこれは、資本制というエコノミーが、その臨界において、どの様な形で全体の姿を露呈するか、という見通しの相違につながってくる。
前者によれば、資本制はその全体的演算時間からの退避線を食いつぶして、緊密な情報体としての硬化した姿へ、現実そのものにおいて至るだろう。後者によれば資本制は、その全体の隠された神話的秘密を、ひとつの知として、みずからさらすことになるだろう。
具体的にいうなら、前者においては、資本制エコノミーの危機は、信用行為における(自己経済総体への)情報参照能力の肥大化による、分裂症的無時間化として与えられる。そこにおいては、資本制は限りなく完全な全体となっていくのだが、しかし通常の、時間内的情報世界から次第に解離し、人間にとって不断に<無意味>なものと化していく。しかもそこでは、その完全な全体は、みずからの情報処理があらかじめ排除した外側と、ますます完全に遮断され、その外部は完全なアクシデントの形でしか、内部に回帰できなくなる。他方、後者の考えによるところだと、資本制の危機は、その隠された神話的‐一挙的始源を記述しえる、革命的‐科学的認識に、あらたな力として再回収されることになるだろう。
この両者の考えは、一方での恐慌論、他方での価値形態論と、同じマルクス内部にも並存している。そしてこの両者は、最終的に、以下のような戦略相違に帰結する。すなわち前者においては、人はある種の<自己肯定力>(科学的、政治的、あるいは芸術的な)によって、資本主義やエコノミーの<現実=表象>の外側の、他の<現実=表象>へ単純に脱出するだろう。逆に後者においては、人はエコノミーそのものの、(人間の認識をも含めた)真正な<現実=表象>プロセスの、自己復元力からくる、あらたな展開に期待することになるだろう。
つまりここで問題となっているのは、エコノミー、とりわけここでは資本制エコノミーを、人間的言語という、情報の基礎構造のひとつの類型として考えるか、それとも逆に、人間的世界の神話的再表象化によって考えるか、ということの選択である。だが、信用において一部詳述したように、エコノミーは人間的情報である限り、実は言語的交通と、相同な形を有している。しかもとりわけ資本制は、宗教的な形での交通の切断局面をもたないゆえに、それだけ通常の言語プロセスと、より相似化し、そのため逆に、みずからのシステムから排除した外部情報と、ますます完全に切れてしまう。このことは、言語交通の諸要素を明確に整理し、その臨界的硬直化である、パラノイア的(=神学的)全体化とスキゾフレニックな(超資本主義的)全体化の、二つを分類することで理解される。ただ、そこに至る前に、信用の作用の情報産業への包摂という形で、まず後者の姿の歴史的現実を、さらにマルクスのテキストを通じて、前者の神学的全体化の様態を、ここで一旦概観することにしてみたい。

信用の極限と硬化*

さて、信用金庫はニセ札を発行することができなかった。では、もし日本銀行だったなら、ニセ札を発行することができるのだろうか。ここにおいて、人は理論的にクリティカルな問題に突き当たる。むろん、用語の使い方でどうにも表現できるし、例えば、すべての現実は幻想であるといったような、あらかじめ理論的生産性を断念した類の言説をもて遊ぶなら、日本銀行はニセ札だけを発行しているともいえるだろう。しかし、ここで問題になっているのが、すでに存在する、全体の運動と時間への、参照(レフェランス)とその切断の作用である限り、日銀といえども、絶対にニセ札を発行することはない。それどころか、日銀の発券は、例えそれが通貨インフレを惹起する仕方のものであれ、その発券運動は経済全体の真正性を、不断に強化するものなのだ。
つまりは、事態が資本制エコノミー内部で生じている限り、何者もその時間の流れを、全面的に更新して、メタレベルに脱出することはなく、その総体的エコノミーの閉じられた輪のなかで、負債連関の限定的遮断を行うことしかなしえない。たしかに日本銀行は、国民全体に対する明示的債務連関から、ほとんど切断されているといえるだろう。ここには政治という、たとえ代議制であるにせよ、シニフィエの総体への明示的レフェランスから遮断された、妄想的シニフィアンからなる、儀式的・宗教的空間の介在という問題が存在する。しかし日銀はみずからの債務者(銀行あるいは経済総体)に対する関係においては、信用の原則である、厳正な情報収集‐処理から、逸脱することはない。
ここで前述の、信用金庫における貸出局面を振返ってみることにしよう。これは実際には、信用の牧歌的形態であった。というのも、例えば企業間株式保有という信用付与の代表例、あるいはあなたが、住宅ローンを組もうとすればたちどころにわかるように、信用の貸与においては、今日ますます膨大な情報が、債務者と、債務者の行動環境たる経済総体に対して収集され、その結果、その情報=認識そのものが、自動的に信用付与の可否を決定してしまうからである。
つまりここでは、もはや情報ないし表象は、現実に対する不完全なものではなく、それゆえ信用貸与―借用者間での、共犯的同一化構造を経由して、別の次元の時間‐現実に、退避したりする必要はない。そこであらかじめ十全たる<表象>が、それ自体で<現実>総体と変じつつ、運動と外部の完全な排除を遂行して、そのまま閉じられた全体となってしまう。これはいわば、分裂病患者における、時間の欠損のようなものである。すなわち彼らは、他者との共犯(愛)によって、無意識総体から限定されたシニフィアンを断続的に抽出し、その一時的な意味作用を、自身の現在として楽しむことが、もはやできず、シニフィアン総体の無限参照への自己背進に苦しめられつつ、全体の崩壊に、ただひたすらおびえるのだ。
むろんここには、小資本ほどリスクを負担せねばならない、利潤と収奪の、厳密なヒエラルキー構造がある。確かにみずからの信用付与能力を膨大な情報力と接続して、限りなく全体と一体化し、自動的な利潤創出=収奪機械と化しているのは、じっさいは上部の大資本だけだろう。(それゆえそこでは、財の収奪はますます合理化=暴力化し、あたらしく内化される別の時間の流れ――あらたな企業的営為――という、エコノミー自身の基礎運動は、そこからどんどん遠ざかっていってしまう)。そして日本銀行は、この頂点に立つ。ただしここで確認せねばならないのは、そういった巨大資本は、みずから(の独自性)を限りなく棄却することによって、エコノミー総体へと一体化し、そのことで支配力を得るのであって、その上位に脱出することによって、あたらしい構造創成や、全面的な時間や起源の更新をなすわけではない、ということだ。
じっさい、ニセ札を可とすると考えは、既存の運動の一挙的外部に立たなくては出てこない。これは資本家の発想ではなく、例えばニーチェ主義のそれである(どこで述べていたか忘れたが、ニーチェは偽札を作ってよいと語っている。……とチェーホフが『桜の園』でいっている)。つまり資本制エコノミーは、みずからの全体に向かって限りなく一体化する、人間的情動の最も卑小な運動であり、そこには広大な外部が存在しつつも、そのエコノミー自体は、けっして外部をもつことはありえない。

はじめにマルクスのことばありき……*

したがって、例えばマルクスの資本論も、貨幣はニセ札ではないと述べているが、その含意はここで述べていることとはまったく違う。そもそも貨幣価値とは、信用の一般化したものである。例えば小麦1ポンドを売って1ドル受け取る生産者は、みずからの取り引きにかかわりのある範囲内に、信用を与えて、債権の執行を一時留保し、そのことであたらしい時間の流れを、そこで部分的に形成する。しかも例えば、今度は1ドルでリンネル半枚といったように、彼は複数の生産物相互の交換(比率)を、そこで不完全な形であれ、みずから<表象‐情報化>し、それを瞬間瞬間のあらたな決断によって<現実化>する。
これに対し、マルクスにおいては、小麦、リンネル、金……といったように、あらかじめ全体の交換(比率)は、リジッドな構造を組み上げており、それゆえ貨幣が登場しても、それは全体にいかなる変更も加えない。むろん、これはマルクスが金という(内部で時間を全面的に切断し、更新する)前資本制的エコノミーの、そこでの宗教的行為に出自する、いわば妄想的シニフィアンを導入してしまったこと。しかも現実の資本主義における、信用を媒介した交換作用を記述する際、その金がもっていた全面的な始源設定能力を、彼がそこで利用してしまったことに由来する。
つまり『資本論』の価値形態論の場所においては、実際は何ごとも始まらない。だから貨幣は、神の子キリスト、すなわちすでに存在する全体を、再び完全にそこで始める、構造=要素なる自己言及的存在となる。しかし逆にいえば、そこではまた、すべてが始まる。というのも、時間の内部を進行するエコノミーは、そこで一挙的開始として、空間的に一望化されて、その始源を付与されるからだ。
すなわち正確にいえば、マルクスその人においてすべてが始まる。あるいはマルクスが語る時、そのことばとともにすべてが始まる。つまり語るマルクスは、みずからの発話(言表)内容の意味作用の部分性を、(通常の言語的エコノミーにおけるように)他者との同一化=共犯化を通じて、一瞬一瞬選択し、時間内部を進んで行くようなことはしない。彼はその言表内容の内側に、言表行為にともなう他者との同一化(=他者の力による時間の切断と留保化)の利益をすべて組み入れ、そこに時間そのものを一覧してしまうのだ。
そしてこれには、哲学的快楽、あるいは哲学的権力欲といったものの、ステレオタイプなのである。すなわち哲学的権力は、他人と交通する過程で形成されるエコノミーの諸要素を、すべて自身の言説内部に封印し、みずからの所有物となしてしまう。これは最終的には、有名なユダヤ小咄、<君はなぜ嘘をつくのだ。君は実際はクラコーに向かうのに、私にレンベルグに向かっていると思わせるべく、自分はクラコーに向かっていると、なぜ嘘をつくのだ>に代表される、言語交通がはらんでいる不在的現前の構造を、言表内部に引きずりだす事態へと、必ず普遍的に到達する。(哲学史的にいえば、それは決定不能性というプロブレマティックに向けて、タタキにされてしまった、<アレーテイア‐慎み深さ‐ポエジー>のようなものだ)。
しかも、ここで重要なことは、信用を中心とする資本制エコノミーは、他のエコノミーと異なって、通常の言語的エコノミーと完全に相同な構造を有しているので、それを哲学的(自己言及的)に論じることは、信用というエコノミーについての記述内容そのものを、前資本制的な神学空間についての記述と、不断に同一化させることになってしまう。しかもそのことは、資本制を、神学的(パラノイア的)起源をもつ統一体として理解させることになり、そこにおいて、人は、その真実(=通常的意識の外部)を、真正なる(=スキゾフレニックな)再記述(再度の神学)によって、奪還しようとしだすだろう。しかし実際は、資本制はどこにも起源を有さない、つまり表象/現実の対立局面をもたない、複数の表象=現実からなる、外部をもたない完全な統一体なので、それゆえ人は、そこから外に脱出することはできはしない。しかし人は、ごく単純に、その外に立つことはできるだろう。というのも、それはたいそうな神学的構造などではなく、金儲けだけが目的の、劣った人間の自閉的共犯にすぎないからだ。
ここで資本制と言語交通の相同性について、より細かく見てみるなら、例えば前述した信用金庫での貸出の場面において、借用者であるあなたと信用金庫が取り結ぶ、同一化の関係、そしてそのことによる、総体的債務連関からの退避の作用は、発話者と返答者の同一化が、無意識的シニフィアン総体から退避する運動と、完全にパラレルなものであった。それゆえ信用の作用を概括し、さらに資本制エコノミーの臨界が、神話的自己開示ではなく、スキゾフレニックな硬化であることを知るためにも、ここで言語交通における同一化の運動を、簡単に要約しておこう。この言語的交通は、じっさい人間、ないしは人間的エコノミーの、完全な原基となるのである。

人間的情報世界のエレメント*

人間という存在、つまり言語的情報過程で賭けられているのは、記号と記号内容(またはレフェラント)の一致、すなわちソクラテス以後の形而上学が語ってきた、二つのものの合一による<真実>ではなく、メッセージを発した者とその受信者の、一瞬一瞬の<同一化>である(これについてはハイデッガー以後、しばしば語られつづけてきた)。そこでは、
(1)まず、発せられたメッセージは、その意味内容を発話する者の無意識に有しており(しかもこの無意識と、発せられた意識的メッセージは、同じシニフィアンの母集合から形成され、メビウス的トートロジーを形成している)、
(2)加えてメッセージを発する者は、語りかけるその瞬間ごとに触知される、無意識的シニフィアンのゆれ動きを、みずからの欲望の対象として、正確には過去における欲望の成就の再現的イマージュとして、語ることの本当の価値として求めている。
(3)しかしその無時間的情報は、けっして発信者と受信者の間で、ダイレクトには接続できず、受け渡されるのは、広大な<隠された>場所を背後にもつ、線状的時間のなかでのあくまで限定されたメッセージの流れである。
したがって、情報発信者にとって、受信する者の全体は、ヴェールごしのような不確かな存在となり、語る者は、その語られる貧しいことばとそこへの限られた返答を通じて、
(4)みずからが同じ人間(同じ無意識的シニフィアン、つまり同じ過去と快楽を有する、等しい歴史=共同体に属する者)であることを、否定されるのを恐れながら、相手の全存在を自分と同じ<人間>として、暴力的に措定しつつ、自身と他者を<同一化>する。この同一化の暴力においては、同一化の失敗の可能性を通じて、常にシステム全体がもつ恣意的性格が部分的に発現し、その瞬間垣間みられる<不気味さ>は、例えば神と人間の闘争において全面化して生じるたぐいの、神話的事態と、基本的には変わらない。
ヘーゲルは『精神現象学』の、かの有名な主人と奴隷の承認の弁証法において、<死>を賭した闘いとその調停を描いたが、この<不気味さ>を背にした時間的交通は、その闘いの理論的基礎を与えてくれる。しかしヘーゲルが述べたように、この闘争は、最終的同一化によって解消されることのみがふさわしい、単に不完全で、<不幸な>プロセスなのではない。またはいいかえれば、この限定された時間的情報過程は、より完全な無時間的(=多並行演算的)情報プロセス(すなわち発話における内部無意識への参照作用)を、単に貧しい形でコピーするだけではない。
じっさい、この時間化された交通が、メッセージ発信者からその内的世界を奪う運動は、その発信者にとっては、きわめて幸福なものでもある。というのも、
(5)ひとつの閉じられた輪である情報の全体(=エコノミー)の内部で、あるメッセージの十全たる意味内容、すなわち真実を得ようとするなら、その参照行為は無限背進とともに悪循環に陥り、最終的には、すべて終了した全体という、手のつけられない真理の不動の宇宙のなかで、時間と運動は、石化するに至ってしまう。これは情報の抑うつ状態といってよく、そこではいわば<忘却>の不在によって、時間の不在、正確には時間の総体的流れの<切断>の不在が発生する。
それゆえ主体は、その不動の宇宙を求めつつも、同時にそこから逃げねばならない。このとき、他者の返答が作用する。すなわち、
(6)情報発信者は、みずからの発話に対して微妙にずれて返される、他者の返信作用によって、みずからの内的宇宙を、他者の向こう側へと、転換してそこに仮想し、自身のシニフィアン総体を触知しつつも、その重力から脱出する。つまりはじめのメッセージの平面に対して、メッセージ相互の<ズレ>の作用が、あらたな次元として積算され、そこで情報は<立体化>する。ここにおいて、演算の<切断‐留保>が成立し、これは一般に、<愛>の作用と称される。
したがって、この<愛の作用>に障害があるならば、通常は絶対に発現することのない、<真理>または<現実>といわれる、エコノミーの総体が、時間の停止とともに露現する。
例えばベイトソンは、ダブルバインドによる分裂病形成の例として、明らかに子供に対する嫌悪の表情を示しつつ、<私はおまえを愛しているよ>という母親の例を挙げているが、しかしそこで生じているのは、メタレベル(表情)によるレベル(メッセージ)の否定というよりも、単一の水準(メッセージのレベル)で同定しようとすれば、必ず無限背進に陥る意味作用の解答を、そこで断続的にプールしてやる、<留保>の作用、すなわち一般に微笑で示されるものの不在である。(ベイトソンは、階型理論の問題が時間の問題であることを、例えばエンジンバルブの調整装置を例として述べている。しかしそこでは、全体の時間進行が、一挙に<外側から>一望される。彼において徹底して欠けているのは、外側に出られない、エコノミーという閉じられた輪のなかで、外部を断続的に措定していく、<間主観性>という発想である)。

パラノイア的全体化とスキゾフレニックな全体化*

だが、この留保の不在は、発話者のメッセージを、常にすでに返答者のメッセージのシニフィエとして、一元的に押え込む、<パラノイア的な>様態と、逆に発話者のメッセージを引き受けることを完全に拒絶して、発話者を閉じられた世界のなか、意味作用の無限循環に囲い込む、<スキゾフレニックな>様態に大別される。つまりこの例でいえば、母親が息子のメッセージに向け、自分独自の意味を常に強引に押し付けるか、あるいは逆にメッセージの水準での子供の表現を、すべて素通りしてしまうかの相違である(無論、これらは強引に要約したものだ)。
すなわち、一口に愛の障害といっても、それは愛の過剰と、愛の不在で、異なったものとなる。そしてこの前者、つまりパラノイア的全体化が、前資本制の儀式的局面で発動されるものであり、他方、後者のスキゾフレニックな全体化こそ、資本制の臨界点に位置するものに他ならない。
この二つの全体化は、一般に政治的な全体化と、経済的な全体化、あるいは表象における全体化と、現実における全体化として、それぞれイメージすることが可能だろう。または、前者は偽りの全体化であり、後者は本当の全体化だと、とりあえず強引にいってもよい。
まず前者からみてみると、上述した(4)の局面が、そこでは延々と展開する。というのも、意味作用は過去やシニフィアンの総体から完全に切断され、その場だけで完結しようとしているからで、それゆえそこでは、意味作用の明解すぎる短絡とともに、その現実的死が生じ、<強度>とも表現される儀式的空間の譫妄のなかで、世界の一挙的開示が遂行される。
すなわち、時間の全面的な<切断>という、前資本制特有の、構造転形の実行である。そこでは共同体と特権的離接関係を結んでいる、半神や異人や半動物(キリスト、オイディプス、スフィンクス)の声を通じて、世界の真理が告知され、現実に対する一挙的表象が与えられる。つまり人間どうしの間ではなく、神と人間の<同一化>だ。
だが実際には、これは構造総体の全面的露現といったものではなく、単なる表象作用の麻痺という、特権的な<表象=現実>空間が、通常の<表象=現実>プロセスの、ひとつの代理となったにすぎない。つまりこの空間は、そこにおける意味作用と時間の停止ゆえに、(エコノミー)全体の表象の資格をもつのである。
そしてこの一挙性へのノスタルジーこそ、ルソーであれヘーゲルであれマルクスであれ、あるいはニーチェであれ、政治学批判、経済学批判としての、哲学を牽引してきたものに他ならない。つまり人は、現実に対する既存の表象を批判すると称しつつ、あらたな真実の(儀式的)空間を、知らず知らずに求めている。つまり構造の全面的開示という名の、意識と表象の停止である。
だが、哲学、あるいは経済学批判は、構造の開示を科学的に遂行せねばならないので、その言説はパラノイアではなく、スキゾフレニックなものとなるだろう。つまり、十全たる意味作用の総体が、全体としての無意味な姿を露現させ、上述した(5)の空間が、そこでは延々と展開する。すべての社会科学が有する、あの陰うつな言説の体系を、ここにおいて想起されたい。
これは明確、かつ一点の曇りもない意味連関だが、同時に完全に貧しいトートロジーである。しかもここで皮肉なことに、実際はパラノイア的(神学的‐革命的)蒙昧を求めながら、社会科学が逆にスキゾフレニー化してしまった時、資本制エコノミーそのものは、それを上回る形で、ひとつの明晰なトートロジー的情報総体となっているのだ。
つまり、ここに今日における、経済学的情熱の完全な衰退が発生する。具体的にいえば、すべて人は『資本論』を笑うのだが、しかし『資本論』なくして、人は敢えて、経済学者などになりはしない。いわば人は、マルクスが批判されつくしたその極点において、みずからが<経済学>に求めてきたもの、あるいはもっと普遍的に、<全体>についての科学的認識において希求してきたものを、自身の責任において、検証させられることになるのである。
すでに繰り返し述べてきたが、『資本論』はエコノミー総体、すなわち<真理>、あるいは<現実>の開示について、いいかえれば情報世界の<全体化>の行使において、人間的情報世界が実行しえるこの二態を、みずから完全に実践している。
ひとつは価値形態論という宗教的儀式であって、ここではすでに存在する経済的構造連関の総体が、金という、通常の<表象‐現実>運動の外側から出来する、いわば宗教的<表象空間>を利用して、再度の開始、すなわち、時間の全面的切断による自己言及的空間として与えられる。そこで生じていることを、厳密にいうならば、まずマルクスのテキストの内容それ自体は、通常の言語交通的な時間進行を、正確な形で空間的に圧縮することで、いわば三位一体論にも比すべき、スキゾフレニックな自己循環を展開する。しかし他方、そのテキストが運搬しようとする快楽は、金という、構造(=共同体)外出自者のもとでの、表象(意味)作用の(鏡像的)短絡化=死滅であり、つまり全体の開示という名の、パラノイア的蒙昧に他ならない。(例えば人は、イエス・キリストを、アウグスティヌス/ヘーゲルの――神と子と精霊の――三位一体論だけによってでなく、キリストのギリシャ的な祖型である、アイスキュロスのプロメテウス、すなわち人間に同情したゆえに、ゼウスによって無限回繰り返される、永遠の受難とその恍惚、あるいは自発的蒙昧の物語によっても、同じく理解せねばならない)。
そしてもうひとつは、恐慌論に代表される、科学的認識力の十全たる展開である、構造連関のスキゾフレニックな明示的全体化と、しかしそこに同時に秘められた、そういった全体が現実の時間への、劇的な形で回帰することへの希求である。ここにおいて、エコノミーという時間的な交通運動は、科学的記述において全体化して開覧されるが、しかしその開覧の作業が期待する快楽は、情報世界の全体の姿たる、<真実>あるいは<現実>が、認識の場所ではなく、資本制の実際の運動の場所において、いわば分裂病の発生のように、象徴世界内部に再来してくる事態である。
つまり価値形態論は、スキゾフレニックな言説の実践において、パラノイア的譫妄の再来を求めていたが、恐慌論においては、スキゾフレニックな全体化が、現実におけるエコノミー総体の露出の形で、象徴的な時間と世界を破壊してしまうことが求められる。いずれにせよ、認識の全体化の作業において、真に求められていたものは、常に認識の麻痺化だったのだ。
しかし人は、今日後者において、より現実的困難に突き当たる。というのもマルクスの時代においては、資本制エコノミーという私的で部分的な運動は、その全体の姿の現実を、自身の通常の、時間内的表象過程に組み込んでいなかったが、現代においてその表象=現実プロセスは、すでに記述したように、みずからの全体的現実と、限りなく一体化するからだ。つまり科学的認識という名の、情報世界のスキゾフレニックな全体化、いわば自己撞着的トートロジーは、現実の運動において実践されてしまうことにより、それは表象=現実の緊密な全体化の実現となって、みずからの運動そのものにおいて、外部が出現することを、先取り封印してしまう。いいかえれば、時間内部の運動が、あらかじめその総体を参照するなら、エコノミーそのものはもはや外部をそこにもたず、外部がやって来るとすれば、それはエコノミーというひとつの情報総体の、完全な外側に、超然と出現することになる。

……☆☆☆☆☆

マルクスの時代において、エコノミーの総体とは、ある日突如恐慌を通じて、劇的に出現するものだった。しかし今日におけるその全体とは、例えばやがて現実化するだろう、LIC型クレジットカードの使用において、スーパーマーケットのレジの端末情報装置と、金融機関でやり取りされる、詳細な個人信用情報に他ならない。そこでは銀行強盗さえもはやしえない、ロクでもない社会が現れるが、しかしそれはカフカやオーウェルが描いたような、途方もないメビウス的全体ではなく、カリカチュアー化したスピノザ的全体‐機械とも称すべき、ごくつまらない、あくまで現実の一領域たる全体的表象=現実=エコノミーなのである。そこでは外部は、かつての経済恐慌におけるように、エコノミー総体の開示という形ではなく、核エネルギーを、移民を、精神疾患を、無気力を、新興宗教を、あるいは唐突なすべての肯定的力を通じて、ばらばらな場所から、すべて無関係に唐突に登場しはじめる。
つまりマルクスが、あるいはすべての哲学が考えていたように、エコノミーというものを、パラノイア的、あるいは急性分裂病的な亀裂の再臨と抱き合わせに発想すると、資本制は外部のないエコノミーだという、ロクでもないイデオロギーに逆に陥ることになってしまう。しかしいかなるエコノミーであれ、それが情報である限りは、けっして自分自身しか認識しえず、したがって常に閉じられたものとなって、絶対に外部を保有する。しかもそれが完全なものであればあるほど、限りなく自身と一体化しだし、外側の問題に無感覚になっていく。
じっさい人が、エコノミーという問題を立てたとき、そこで求めていたのは、常にある種の<予言>であった。例えばマルクスが、恐慌論で希求していた現象は、旧約聖書の『ダニエル書』、第五章にその祖型を観察できる。最後にその話を、ここで引用してみるとしよう。
――バビロンの王ベルシャザルは、その大臣一千人を集めて、盛んな酒宴の席を設けたが、宴もたけなわになったころ、突然人の手の指が弧空に現れ、対面する王の宮殿の塗り壁に、意味不明な文字を書くのを目撃した。王はそれに狼狽し、その文字を解読する者を国中に求めたが、知者たちは誰も謎を明かせず、ただユダヤの虜囚ダニエルのみが、ひとりその文字を解読した。彼は語った。<そのしるされた文字はこう読みます。メネ・メネ・テケル・ウパルシン。メネは、神があなたの治世を数えて、それを終らしめになったこと、テケルはあなたがはかりで量られ、その量に足りなかったことを意味しています。そしてウパルシンは、あなたの国が分かたれて、やがてメデアとペルシャの人々に与えられると告げるのです>。王はその話を聞いて、ダニエルに紫の衣と金の鎖を分け与え、彼を国の、第三のつかさと告げ定めた。するとその夜のうちに王は殺され、国は他の者に与えられることになったという……――。
ここには、人がエコノミーというものの果てに求める、普遍的ドラマがある。それはひとつは、パラノイア的あるいは迫害妄想的な意味作用の解離からくる、現実感覚の強度の麻痺と、そこから逆に帰結する、(象徴システムの内外の境界の弱化を通じた)情報世界の外側への触知感覚の鋭敏化であり、もうひとつは(ラカンが『セミネール』U、p. 177〜でいうような)無意識的‐無時間的構造総体の、意識‐時間内へのドラスティックな再帰である。
しかし今日、後者は現実のエコノミーにおいてカリカチュアーとして実践化され、それゆえ人は、前者を求めて価値形態論を偏愛しだすが、しかしこれはこれで、現実のなかにおける多様な新興宗教などを通じて、やはり同じく、カリカチュアー化されるに至るだろう。
つまり人は、エコノミーという問題において求めていたすべてのものを、今や達成し、失った。そして失われたものは、もはや(エコノミーという)情報の原基形態についての問いではなく、純然たる、政治と、暴力と、宗教の、個別的場所を通じて、新たに再現されはじめる。すなわちエコノミーの完成するまさにその時、それは人間にとって無価値なものへと転落し、しかも人は、そこで完全に新しい、別な自由を、再度手にするといえるのだ。


(1) 特にジャック・ラカンの用語を念頭においている。<現実>と<排除>については、J. Lacan, Ecrits p. 387 ff.(邦訳:U、p. 93 ff.弘文堂)。さらにLe seminaire III pp. 163 ff.等。なお、この小論で<……>の語は、すべて一般哲学用語だが、ここではとりわけラカンを想定している。ただし最後の『ダニエル書』の例等、必ずしも彼の論旨に忠実なわけではない。

なお、この小論が依拠した文献は、特に以下の四つである。
ジャック・ラカン「論理的時間と予期される確実性の断言」、『エクリ』T、弘文堂。
スペンサー=ブラウン『形式の法則』、朝日出版社。
ヘーゲル『精神現象学』E‐C<啓示宗教>、河出書房新社ほか。
マルクス「ミル評注」『マル=エン全集』第四〇巻、大月書店。
(かしむら はるか・経済学)

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