近代が終了し、人々の前にあらわれだすのは、今ここの時間である。
かつて未来という、あまりに強すぎて定かでない、享楽への想いが人々をとらえていた頃、眼前にくり広げられる、様々なことばと物は、 そのたえざる生起の折り返しが人間という事件のすべてなのに、それは常に彼方の真実の仮象としてしか、人々に存在しなかった。つまり人間にとって、人間は 仮のものだったのである。それはただ一人の死んだ神、みずからの名のもとにすべての諸要素とその連結からなる快楽を凝集させる、ユダヤ的最高神の時代であ る。 第一は神あるいは主体である。世界は神の世界、あるいは私の世界となるだろう。生起し流動するすべては、最高者によって見渡される、 ただひとつの場を許され、そこで自身のすべてを明らかにする。神の知らぬところ、私に見えぬところ、そこに世界は存在しない。そこでは一瞬の今にすべてを 開示し、限定する意志が力をもち、とはいえそのことによって存在するものが凝固し枯れ果ててしまわないのは、それらが彼方の本質の仮の姿だからである。 ドッペルゲンガー(替え玉・コピー)は死ぬことはない、あるいはいくらでも死ぬだろう。真に死にうる神か私の視線によって、世界は常にすでに生き返るの だ。そして生命を与える特権的な機能ゆえに、神と私は唯一死に、形と内容をもたぬ常に去りゆく抽象的な場所となる。<私、この私とは、なんととらえがたく 空白の場所なのだろう……>。与えられた生命とは、すべてが緩やかな連関に棲まい、自身の存在へ沸き起こる疑念を相互に引き受け留保しあう様のことだが、 しかしその留保を専一的に引き受けるものは、具体的な世界から消えねばならない。つまり自身で自身の根拠を与えるものは空白以外であってはならず、具体的 な形はふさわしくない。いかなる形状も、その形の偶然であることを必ず明かしてしまうからだ。<あれが神だって? ただのよぼよぼの老人じゃない か!>……。こうしてことばや宗教、社会や個々人の体験を織りなす、さまざまな形は、すべてを根拠づける空白の視点に生命のもとをゆだねることで、みずか ら仮のものとなったのである。 第二は貨幣、さらに資本である。ひとつの物を生産するのに費やされた、過去のすべての人間の営みは、価格という抽象的で一元的な、交 換の比率を定める共時構造に圧縮される。生産がなされる多様な時間は、自身のすべてをその構造によって、一瞬の今に、再度客観的に受け取りなおす。そのこ とによって労働は商品として認知され、基礎づけられ、と同時に感情を空にされ、世界のなかで新たに自身を肯定し、他者の視線を新しく組織づける、根源的な 苦痛から免除される。売られゆくみずからへの、<ああ、私も捨てたものではない……>という歓び。空白に浸る幸福感。その転換を支配するのが、資本という 場所であり、それは唯一の社会的力(暴力)となる。 こうして資本は、神や主体が潜在的な支配者にとどまるのに比し、たとえ交換(=価値)というもっとも貧しい形にせよ、諸物の連関を現 実のなかで配置してみせ、生命を与える力能を、みずからの運動速度という形で現実の社会に展開する。それは社会における最大の快楽の場所となり、他のこと ばや物や自然が与える、すべての快楽を凌駕する。そして快楽原則の彼方、死の欲望に最も経済的に奉仕する仕組みこそ、社会全体の支配的組成原理となる…… という歴史発展のマルクス的原則からして、資本は永久につき崩されぬものとなるだろう。ただしそれ自身が生み出す、快楽の過剰と飽和以外の何ものによって も、という留保つきで。 第三は科学とテクノロジーである。あるいは金属機械。科学が哲学、あるいは芸術から分かたれるのは、哲学と芸術においては過去の形式 が無限に再起するのに対し、科学は唯一許された現下の記述形式に向け、その過去をすべて圧縮することによる。科学はみずからの過去をもたず、その固有の対 象をもつ。だが、その対象領域の固有性こそ、科学がみずからに免除された過去の諸形式にほかならない。相対性原理へと<止揚>されたニュートン式絶対空間 は、現在の理論において完全に消滅する。しかし他方、アインシュタインの相対性理論といった、そもそも任意のものでしかない科学の記述形式が、なぜ事実上 唯一のものとして許されるかといえば、それは主要に、その記述関数の諸要素が、以前の科学的、社会的生産を通じて、歴史的に決定されていることによる。す なわち神や資本が、世界を形作った過去の無数の運動を、みずからの抽象的な力能として回収し、生かすのに比し、科学は明確な存在をもつ具体的形象に向け て、過去の時間を圧縮する。精神分析の用語で表現すれば、科学とテクノロジーは、存在に対するイマジナリーな(鏡像的な、ナルシシズム的な)関係を克服す る。 その力能を可能にするのが、不断にみずからを新しいものに書きかえてゆく、科学とテクノロジーの基本的な特性だ。テクノロジーの中性 的な硬質さは、その現在の姿にまったく固執しないことによっている。あるいは科学とは、その内部でみずからへの疑念が発せられることを許容しない、特別な ディスクールである。というのも、疑念が発せられるとき、それは処理されるべき新しい変数として登録され、その瞬間、疑念が差し向けられた以前の関数形式 は、すでに消滅するからである。(それはまるで、不気味に変態するエイリアンの姿のようだ。) さまざまな感情を踏みしだきつつ、夕暮れのなかを単調なリズムとともに突き進む、鋼製の重戦車は美しい。それはテクノロジーが私たち に与えた最も美しい光景だが、その美しさが根ざすのは、みずからとその形象への、無関心が生む力である。それはエピクロスとスピノザの快楽主義、すなわち 空白への意思として地上の時間に存続しだした、均質さの生む東洋的な感情状態としての空在であり、私たちはそれを、ユダヤ的神の最後の姿、(自らの存在の 無底の深遠が与えた恐怖に)開き直ってしまったオイディプス、すなわち(主体も目的もない)構造という名で呼ぶことができるだろう。 第四は革命であり、もっとも重要で両義的である。やがて来ることが約束された革命と、現実のなかに生起する真の革命はまったく異な る。再臨が約束された革命は反動的で、人々に未来に向かう力と奴隷的貧寒さを鍛錬する。それは具体的でさまざまな快楽の様態を、自身で演じあげようとする 高貴な精神を放棄するための、単なる口実となるだろう。そして現実に革命が再臨するや、人々は死んだ神の現前に驚き、未来に棚上げされていた絶対的空白を 現在において形成すべく、サディズム的攻撃に奔走する。それ自身に再帰する攻撃性が、頭が何も考えず、何もかもが空白のままであるように、単調に自然と身 体を自己破壊する。 革命における陰惨なサディズムは、約束された神学的革命と、光輝ある現在的革命の中間物だ。そこでは今ここを恐れる空白への神学的渇 望が、自身の空白を現実において物理的に再演し、それを通じて、具体的な形象として空白を目指す、再帰する現在的力に変調する。すなわち貧寒な革命的暴力 はみずからを引き受けそこに再帰する力をもつ、意思と感情をもった、空白的な形象となる。それは、(1)みずからは引き受けるが、潜在性にとどまる主体と 神、(2)現実社会には存在するが、肯定すべき自身の形象をもたぬ、抽象的な資本の力、そして(3)形象はもつがそれをみずから引き受けはしない、空白的 感情としての科学と比べて、より高度な貧しさである。 共産主義という問題が単なる弱者救済思想と異なるのは、持続する現実的革命という、現前する時間の観念をそれが孕んでいるからだ。し かしそれは、現在を空白としてしか肯定しえない、サディズム的無感動に類する力ではないだろう。あるいはまた、余すところなく現前したあらゆる文化的形象 の諸要素が、一瞬のうちに結合して無邪気な幼児性快楽とともに枯れ果ててしまう、自己を肯定する力のない、超資本主義的で希薄な形象の華でもないだろう。 おそらくそれは、形象がそれ自身を肯定し、それ自身に回帰しうることにおいて力となり、しかもその回帰する仕方の多形性たる、複数の感情が、相互に共立可 能となる所としてのみ考えられる。そして複数の感情が相互に共振しうるには、感情という、諸要素の結合の様態が、不在の新旧の設定の仕方に奉仕することか ら解放され、その結果、さまざまな形象がみずからへの根拠づけを期待せず、それゆえ相互の絶対的自由さにおいて、それぞれの形象が互いを明晰かつ無際限な 寛容さで求めだす、あらかじめ引き受けられた<死>とよばれる事態が不可欠な契機となるはずである。とはいえそれは、主体の基礎構造と、テクノロジーと政 治の現実の発展段階に立ち戻って考えねばならない。 人が何か語ることによって伝えるのは、半分はメッセージであり、もう半分は<私>である。より正確には、自分のことばへの他者の答え を通じて、<私>を十分に与え返してもらおうとする、愛の要求の表明である。<私>の内部には、リニアーなことばの明確な分節によっては再演できない、母 親の身体が与える至福と恐怖にも比べられる、無数の欲動の部分対象が、途絶えることなく再帰している。<わかってもらえるでしょうか……。それこそが本当 の、本当の事実にちがいないのです。>という表明。そこに最大限可能な回答は、こうである。<真実は不可能である。おまえはみずから知ることを欲してい る、すべての内奥の快楽を知ることはない。かわりに私は、私に固有の方法で、わかることの不可能を表明しよう。たがいに表明されたそれぞれの不可能の落差 を通じて、その形象の違いの狭間に、おまえは私の裏側の真実を感知する。おまえはそこに、みずからの真実を読み取り、みずから安らごうとするだろう。おま えは私を使用する。そのナルシシズムと暴力を、私は私の愛によって許す。人間性という仮の姿の契約のもとに。> 言語を(あるいは宗教を、セックスを、芸術を、そして政治を)通じてなされる、感主観的な交通において、真にかけられているものは、 時間のなかを転回することばの意識などでなく、限りない密度をもったことばや物の細片が、いくつも同時に立ち上がっては消えてゆく、無数の現在におけるこ とばとイマージュの流れである。それは過去になされたリニアーな交通の、ひとつひとつの意味作用を通じて堆積された、ことばとイマージュの湖沼だが、しか しそこでは、ことばがまるでさざ波をたてる水のように、そしてまた手ですくい取られる水のように、今という時間のなかに、物質的広がりをもって存在してい る。 語られることばと、ことばからなる意識は、時間というただ一筋のシニフィアンの流れに閉じられるので、この面状の広がりをもつイマー ジュとことばのさざ波を、汲みつくすことはない。しかし人が、風にそよぐ樹々の葉を、苦渋に満ちた自らの経験を、そして抽象的な観念を語るとき、過去の意 識が堆積させた、このことばのさざ波のそれぞれの感触は、語られることばのひとつひとつに結合して、意味というものを可能にする。意味は過去の物質状のこ とばと現在のことばとの、垂直的結合によって生み出される。そこでは共時的分節にもとづくシニフィアンの示差的体系(構造、関係性)は、あくまで二次的な 手段である。 こうして時間をながれることばにおいて、人は無数の声からなる現在を、一元的なことばと意識の流れによって限定し、支配し、逆にその ことで主体という真実の多くをすり落とす。啓蒙主義はこの局面に存在する。無数のことば、無数の声、無数のイマージュは物自体であり、時間のなかのことば と意識は主観性となる。かつて両者の結合は、恩寵の作用、神の光、あるいは精霊につかさどられ、それゆえ逆に、カントは前者を世界から排除しつづけ、ヘー ゲルは前者(=美しい魂)を後者(=絶対知)に回収せねばならなかった。この切断ないし回収が、啓蒙的倫理の作動域である。 ただしヘーゲルは弁証法を用いる。主体はみずからのことばによって、無時間的快楽を支配しつつすり落とすが、みずからのことばへの他 者の答えを通じて、再度それを得ようとする。的確な他者の答えは時間のなかの交通の成功の向こう側で、私と他者の各々からなる、無時間的なことばと光の伏 流の、鏡像的な共応作用を触知させる。情報の減衰した意識的交通で、真に重要なのは、減衰以前の水と光のゆき交わしであり、人は他者のその無意識に、自身 の真実を予感しつつ写し取る。 だがそのプロセスは、途方もない細心さと厚意による、細密な交通を求めるので、現実の社会の脆弱な他者は、微笑によって思わせぶりに 真実をちらつかせる偽計をはかる。そして他方では、<おまえは人間である>と居丈高に名指しつつ、細心な答えを与えるかわりに、細心な答えをもらえる資格 と可能性、すなわち<自我>と呼ばれる硬質な場所を分配しだす。微笑は宙づりにされた無数のことばの流れであり、自我は誠意ある答えを値切られて、かわり に与えられる地位である。母と父の、微笑と命令のそれぞれの力は、常に手をたずさえてやってくる。そして自我という、真実を受け取る権利問題が設定された その瞬間、具体的な意識とことばのゆき返しは、永久に無数のことばの真実から切断される。水と光の奔流は、時間のなかで慎重にことばをゆき交わす、気遣い の力では察知することができなくなり、硬質で単線的なことばの交通の、極限に予想された不在の場所、自我の場所を支配する大いなる他者、最高の能力という 抽象的な場所に簒奪される。 真実という快楽は、現実の単線的時間のなかに回収され、それゆえ逆に快楽は、時間のなかの交通のたどたどしさが最高速度の能力におい て抽象性へと沸騰する、不在の場所、存在の真実へと封印される。それは未来とよばれる所でもあり、その場所は最高の能力と最高の速度を表象する。そしてそ の封印の結果、自我、ないしは社会的・イデオロギー的主体の場には、真実を受け取る権利が専一的に賭けられることになり、その権利の場をめぐる戦いは、無 際限な闘争に発展する。それゆえヘーゲルにおいては、闘争のモチーフが前面化し、さらに私たちが政治とよぶ、イデオロギーの圏域も、今日なおこの権利関係 をめぐっている。(物象化論も同じである。)そして政治の場が、真実、ないし国家や人生の理想といった、時間的情報処理の最高速度の<表象>をめぐるなら ば、資本は速度そのものとなり、現前した未来を抽象的に体現する。 これらはすべてヘーゲルの場所であり、意識的な言語の作動域で、最大の快楽を配置する。それは光を閉ざしつつ、光に向けて上昇する、 恩寵を欠いた貧しい快楽の神学である。だが、この光を目指す(=啓蒙を目指す)壮大な神的自我哲学を、ヘーゲルが構想していた同じ時、目も眩むほどの譫妄 的光のなかから、この地上へ回帰していた者が、他方にあった。すなわち、かのヘルダーリンである。 そこではそれぞれの形象の感情は、相互の裏側に期待するものは何もなく、というのもすべてはすでに明らかだからで、しかし形象の明確 さが失われるなら、強すぎる光の湧出による、同一なるものという死の深淵、ディオニュソス/ハデスの光と闇がすべてを飲み込む。すなわち人は、みずからの 完全に自由な形態において、現在の存立を守りつづけ、しかしその絶対的に独自な感情のそれぞれは、みずからを肯定する同じ力の運動として、相互の形そのも のを、自身を支え、教えうるものとして、それぞれ直接に要請する。 厳密な意味で今ここの時間が重んじられる、非啓蒙的な世界とは、このようなものだ。そこでは意識の内部に貫入した、同一なるものが循 環し、その真実によって、現在の時間、それぞれの感情が肯定される。とはいえその現在の時間は、同一なるものと裏合わせの時間なので、リニアーな交通の終 局に真実を予想する、通常の時間の意味からすれば、完全に解離した時間である。それはいいかえれば、それぞれの形象が眩しすぎる光のなか、常にすでに沈み つつあることを意味している。時間の回復は時間の解離を要求し、形象は滲みだす光のなかでこそ、自身の尊厳を守りうる。その明確な理解が、ハイデッガーの ケーレとよばれるものにほかならない。 それは第一に、無意識的演算をやがて模倣するに至るだろう、情報化したテクノロジーであり、第二には、無目的で出口のない、反革命的 /革命的(権)力の蔓延が醸造する、社会的秩序と尊厳の究極的な解体である。 この両者はどちらも時間を解体させる能力をもつことで、光に類する振舞いをなし、あるいは光を現在において教育する力をもつ。テクノ ロジーについてみれば、かつては未来からやってきた、硬質な機械力の時代は、今日完全に終了した。未来からやってくるものとは、いいかえれば遅い速度をも つものだ。科学的な力と構造の明解さは、その実、演算速度の低さが生む、組織された形象の単純さにほかならない。今日、より高速化されたテクノロジーは、 人間に向けて、過去の側からやってくる。それは多層的情報回路の制御によって、無時間的享楽を現出させつつ、人間から、未来と真実と神という、言語内的幻 想のすべてを奪い去る。これらの幻想は、時間の外の無意識的享楽にもとづいており、それゆえ意識の内部で無意識を演じてみせる、テクノロジーには対抗しえ ない。 力と暴力に関していえば、階級闘争がほぼ完全に敗北した今日の時代、革命は未来からやってくることを終了した。そして徹底された理念 の不在は、サド的な暴力に、スピノザ的均質さや、カント的単調さという臨界をも突破させ、散乱しすぎた力のなかで、無神論という宗教をも完了させる。それ は全面的な真理の不在を、今ここで、常にすでに現出させ、完全な闇に近い光として、音もなく知られることなく、人々のもとにおとずれるだろう。 この両者は、資本と利潤原則そのものによって生み出される。そしてこれらは、真実を速度によって現出させつつことばの内部に快楽を囲 う、資本という神学的エコノミーを、解体させる力ももつだろう。むろんテクノロジーは、禁欲的な一元性になりかわる享楽的な一元性として、光に向かうこと ばのように、資本によって差異づけられて販売され、暴力は国家装置のさらなる完成をよびさます。しかしそれらは、歴史のより深い部分で、人々の時間と快楽 の構造を変調させ、現在に張りついた同一なるものの意識として、現前する二重性の感覚を準備する。すなわちそれぞれの時間が、それ自身において肯定する真 実をはらむ、循環的快楽の様態である。 その可能性が現実になるには、神学的快楽を完全に終了させる、あらたな儀式的宗教がなくてはならない。解離した時間と主体に向け、最 も強いことばが、それ自身を肯定すべく発されるとき、テクノロジーは、ことばのように振舞うこと、すなわち細断的快楽を分配することを終了し、時間の壊乱 と同一性の現出に奉仕しだす。つまり、言語にもとづく真実という構造は、根源的には消去不能で、それゆえ現下の卑小な真実の破壊には、より強度なことばの 啓示が、不可欠な契機となる。そしてかつての革命的暴力が、神という不在を、空白へと再帰する力に変えたように、この新しい宗教は、儀式を神に捧げること から、それ自身に捧げることに変えるだろう。その時、この儀式の絶対的自由さを保証するのが、テクノロジーと社会的壊乱が反響させる、すべての物の完全に 終了せる感情である。そこにおいて革命は遂に現前し、人間は、それ自身として肯定される。 すなわち宗教的な生産力は、テクノロジーを循環する真実の感情として暴力的に囲い込み、それによって、儀式的ことばを、それ自身に向 かう形象として、水平的交通に奉仕させずに、直接に肯定する。それ自身に向かう力の作用、権力への意思とは、真理を目指すヘーゲル的な水平交通を、あらか じめ乗り越えることは不可能であり、だとすれば、同一なる真実の再帰なしにはその力は存在できない。そして力への意思が、一般的な力の形成を語るのでな く、複数の力を語る以上、同一なるものと力とは、スピノザのように同じものとなるのでなく、同一なるものは力に重ねられつつ、そこから離れ、なかば待機す る必要があるだろう。そしてその待機が、意識と、それと同じことばによる無意識が形作るメビウス的なトートロジー、解釈学的・共同体的に決定された主体と いう、農民的・小都市的主体の人間学的一般事実に閉じられるべきでないならば、同一なるものは、現出する過去の手触りとして、欲望を常にすでに脱臼させる 激しすぎる光として、テクノロジカルな力を経て、造形的に待機させてやらねばならない。その人工空間においてこそ、意識と形象は自身へと再帰しだし、宗教 的儀式は完遂される。 こうして新しい宗教を通じることで、テクノロジーのあらたな段階、主体と神と革命的展望の解体は、革新された世界構造に結びつく。ひ とつの体制を解体させるのは、それと同水準で拮抗する、別な種類の道徳や構造や(共同)主観などでなく、その体制とは異なる快楽を可能にする、より高度な 力の段階である。生産関係は生産力によってのみ粉砕される。そして新しい生産力とは、テクノロジーと結びついた、このあらたな儀式的宗教にほかならない。 ざわめきたつテクノロジーの水と光の流れのなかで、すべて明かされた真実を前に、何ものをも与えることないことばと形の交易を、私た ちはいつの日か、燦然ととりおこなう。そこでは一瞬一瞬の画然たる感情が、重質な孤独のなかで、いかなる外部も期待せず、みずからを繁茂させ、たがいを賞 賛し、求めあう。あらゆる闘争と神学において、人は必ず敗北する。しかしやがてくるこの神話のとき、そこにおいてはすべてのものが、果てしない弱さと強さ の混淆する光のなか、完全に勝利するにちがいない。 (かしむら・はるか) |