「アインシュタインはなぜサイコロが嫌いだったか?」
特集=観測のパラドクス
アインシュタインはなぜサイコロが嫌いだったか?
量子論理はなぜ日常言語と衝突し、精神分析的知とは重なるのか
樫村晴香

 
 コメント――ある対象を認識する際、その認識過程、つまり測定や観測行為によって認識の結果が左右されるような事態は、一般に「観測問題」と表現されます。その代表として量子力学におけるハイゼンベルグの不確定性関係、あるいは波束の収束問題などがあったわけですが、今日「観測問題」は、どのような風に了解され、論じられているのでしょう?……
「観測問題」という表現をする際、それは概ね、量子力学世界の状態記述の特異性が一九三〇年ごろから呼び起こした、物理学的、というよりは哲学的問題をさしており、他の科学的事象を参照することがあるとしても、基本的にはこのとき提起されたのと相同の問題をめぐっています。その問題とは、簡単にいえば、何をもって実在と考えるか、実在と記述とをどう権利分けできるのか、そしてこれは同じことですが、理論の正しさを確認するための実験や観測は、それ自体実在的過程なのかそれとも記述の問題なのか、といったことなどです。古典力学の場合は、観察対象は目の前の三次元空間に定常的に存在し続ける物体であり、観測とはその物体に関わる量を測定することですが、これは時間をも含め、結局、常に何らかの長さを文字どおり物差しで測ることに還元されます。そして理論とは、その測定された物差しの目盛りのいくつかの値を、最も効率よく結合する数式を発見することです。そのとき発見された数式の正しさは、その数式と、現実の実験装置の双方に同じ条件値を投入してやり、両者から同じ数値、つまり物差しの同じ目盛り値が出てくるかどうかという、期待値と実験値の異同によって簡単に逆算されます。
これに対し、衆知のように量子力学では、対象は三次元空間に存在する物でなく、無限次元の複素ユークリッド空間に存在します。これはすでに実在としての科学の対象、という観念を揺るがします。そしてより重要なことは、この複素空間は、物差しで測ることができない、ということです。つまりこの空間についての理論を検証するには、そこに条件値を入力するだけでなく、その入力の結果出力される期待値が、物差しの目盛りに該当する実数値であるために、対象がもつ複素空間としての存在、ないし記述様態を、どう変更し圧縮するか、ということをも入力してやらねばなりません。この圧縮の仕方がただ一種類しかないならば、もともと問題はないのですが、それが任意の選択性をもつゆえに、理論の検証としての観測そのものが、理論から独立できないような悪循環が発生します。この検証の地位の曖昧さが、最初にいった科学的対象のもつ地位の曖昧さ、実在か観念か定かでない状態を、そもそも帰結させたわけです。つまり古典力学的な世界では、実験の観測値が確かさ、ないし真偽の確定のための基準点、というか頂点であり、そこをもとに理論という「観念」の領域が、いわば確からしさを減衰する方向で結合しています。これに対し観測値が真偽の確定基準点としての地位を失うと、確からしさの方向性が反転、ないしゆらぎ始めることになって、それをもとにした実在と観念の区別も危うくなります。
もっとも、古典力学世界、ないし通常の日常的思考が、本当に世界の確かさや真偽確認を、観測と実在の上においているかというと、実際はそうではなく、本当はそのようなものとして自らを信じているだけで、実際の真偽確定は別のメカニズムに従わせていると私は考えます。その内実はこれからお話しします。要するに、量子力学を通じて現れてきた問題は、人間が世界の確かさを措定する仕組み、思考のあり方が、量子力学世界の特異性を通じて、正確にいうと量子力学の記述方法、記述言語の特異性を通じて、それまでのようにはうまく作動しない局面が露となり、人間の側の思考の仕組みが逆に問われることになった、ということに集約されるでしょう。つまり量子力学に不思議なことなど何もなく、人間の日常的思考の方がずっと不可思議だ、というのが、観測問題についての今日の哲学的了解です。ともかくも、ここでは量子世界を前にした時の、人々のかつての混乱を参照しつつ、人間が世界の確かさを確認し、措定するやり方を、精神分析的視角から解析していきたいと思います。
――量子力学的世界の言語の特異性、それがもたらす問題、ということの中身を、少し具体的にいうと……
簡単にいえば、量子力学的記述の特異性がもたらす問題とは、すでに述べたように量子力学的な記述は複素線形空間でなされるにも関わらず、その記述の正しさを現実的に確認、つまり観測をするには、その複素行列に自己共役作用素をかけ合わせてやることで、実数化された物理量を取り出し、記述をいわば古典力学的体系に「圧縮」してやらねばならない、ということに始まります。この時、もとの記述に射影を与える、つまり検証されるべき観測の期待値、ないし期待値の確率を与えるための作用素は、その取り出される物理量が位置や運動量であることに応じて異なるわけですが、ここで初歩的な問題は、それらの作用素が、相互に交換可能とは限らない、ということです。
これは高校の数学を思い出してもらえばいいことですが、ここで物理量を与えるための演算子としての作用素は、行列式なわけですから、二つの作用素の積ABは、BAと等しいとは限りません。この二つが等しい、つまりAB−BA=0なら、事態は古典力学的な、つまり古典論理学的な世界と同じ規則に従います。要するにそこでは人はAに対応した物理量aを測定してから、今度はBに対応した物理量bを観測、測定すればいいわけです。これは逆にやっても同じ結果となり、結局二つの物理量は両立可能なものとなります。例えばある粒子のx軸上の位置とy軸の運動量、あるいはx軸上の位置とy軸上の位置などは、このように交換可能な作用素で表現される、両立可能な数値です。
それに対し、AB−BA≠0の場合は、事態は全くやっかいです。観測値を与える自己共役作用素として、実際にA、Bを使って計算してみるとすぐわかりますが、A、Bが交換可能なら、その両者の積は同様に自己共役作用素となり、状態式から古典物理学的な、つまり現実的観測値を取り出せます。それに対し、A、Bが交換不能の時は、そうはなりません。つまりそのような交換不能な二つの行列式を、もとの状態記述に放り込んでも、共役化はできないわけで、観測の期待値は元の式と同じように複素化され、観測可能な値とならず、わけのわからない式に変換されるだけです。つまり交換不能な二つの物理的属性は、その両者を元の状態式から等しく取り出すことはできません。
ここで話がとんでしまいますが、量子力学的な世界がもつ論理が日常的感覚に対して奇妙な印象を与えるのは、まず第一に、この演算の交換不能性に、深く由来するといってもいいでしょう。実際、地面をほって種をまくことと、種をまいて地面をほることは同じではないし、私たちは現実がもつ、不可換的な時間性を知っています。しかしその現実を記述するための言語、あるいは言語的思考の組成は、本質的に無時間的で共時空間的な性格をもっています。だから記述の基底的組成そのものに不可換性が導入されると、人はとても戸惑うのです。ただ、ここでいっている言語の無時間性とは、文がそれに対応する記憶を分節し結像していく、脳の現実的演算過程そのものではなく、その過程が文の表面構造には痕跡を残さず、また通常文からはその過程が探索できないような、そういった言語的思考の表面構造のことをさしています。言語が無時間的だというと、内包と外延の結合を時制の該当物として行列式で操作しようとしている、人工言語の人たちから非難されそうですが、私がいう時間性とは、文の語結合過程で駆動している演算総体そのもの、つまり無意識と意識の離接的結合に関わる、精神分析的なものです。いずれにせよ、ここでいう人間的思考の無時間性ということの内実は、後でもう少し正確に了解せねばなりません。
さて、AB−BA≠0の場合に戻りますが、これは一般の人々には、最初にでたハイゼンベルグの不確定性関係として、確かによく知られています。例えばA、Bを、それぞれx軸の位置および運動量を元の状態式から析出する作用素だとすると、AB−BA=ihIが成立します。hはプランク定数を2πで割ったもの、Iは対角線だけが1でそれ以外は0の行列です。この時、量子の状態ψをAで観測する際の誤差ΔAをAを使ってうまく定義すると、この式からΔA・ΔB≧1/2・hが導出できます。つまり一つの物理的状態ψをとった時、状態ψについてのAあるいはBといった物理量が、相互に交換可能でない場合、ψに関する物理量Aの観測値の誤差ΔAと、物理量Bについての観測値の誤差ΔBの積は、一定の値より常に大きくなる、という例の定式です。例えば位置と運動量、ないし光の場合は位置と波長、あるいはエネルギーと時間は、ある粒子についての交換不能な物理量ですから、一つの粒子について、位置を正確に測定しようとすれば、運動量は限りなく確定不能となり、逆に運動量ないし波長を固定すれば、位置は不確定となります。これはつまり、一つの粒子ないし量子系が、前者の観測においては粒として、後者においては波動として現れることです。この時、位置を正確に測りつつ、さらに運動量を正確に測る、ということは原理的にできません。ただしこの「原理的」ということの中身は、先程述べたように、両者を実数化できる数学的変換が不可能だ、ということ以外を意味しません。ともかく、ある粒子の位置を測定するなら、その時、その観測対象は波動としての振る舞いを失っていて運動量は測定できず、もし運動量を測定するなら、波動としての振る舞いを保持している最初の状態で測定しなければなりませんが、その時は、今度は位置が測定不能です。つまり両者は交換不能で、無時制的な古典論理学に従わないのです。
――それが「波束の収束問題」というものですね。つまりある量子的系は、それが観測されない時はシュレディンガーの波動方程式に従って複数の状態に遍在し、連続的な変移のもとにあるのに、それが例えば位置測定されることで、潜在的な広がりを失い、不可逆的な変化を受ける。つまり対象の観測結果は、人間の観測行為から自立したものとしては存在しえない……
そのようにいえるのかもしれませんが、シュレディンガーの偏微分方程式と、ハイゼンベルグの行列式では、演算のステップが全く異なるので、いきなり連結されると戸惑います。特に私たち文化系の人間は、両者の全体描像をすぐにはつなげませんし……。実際、哲学や論理学畑の人間が波束の収束問題で、時々奇怪な立論を行いますが、このとき全体の描像が、量子論理の基本像となるべきハイゼンベルグ的な複素空間から知らず知らず断ち切られていることが多いのです。とはいえ、もちろんこの両者は、最終的には相互に無矛盾で類似のものです。そして観測問題という際、確かにそれは波束の収束問題を一般にさしており、この波束の収束問題は、直接には、シュレディンガーの波動方程式の上での、確率解釈の問題として現れます。
ここで再度お断りすると、私は量子力学世界を前にした混乱への、精神分析的読解をしたいだけなので、物理の話に深く関わる気はありません。とはいえ、当の物理の専門家の方も、いざ数式を離れてその現実的意味を日常言語で語りだすと、今でも結構変な表現をしますし、初等の物理を哲学的見地から少々復習するのも、そう悪くないでしょう。
まず、波束の収束ということですが、これは衆知のように、シュレディンガーの波動関数が、ψ=c1ψ1+c2ψ2+c3ψ3……という形で、位置、または運動量など、ある一つの、というか相互に交換不能ではない一ユニットの物理量に関する粒子の状態ψを、いくつかの諸状態ψ1,2…の重なりで示すことに由来します。ここでc1,2…のそれぞれの絶対値の二乗をとると、その総和は1になるようにこの式は規格化可能で、それゆえc1,2…は、それぞれの状態ψ1,2…が生じる確率の平方を示している、と考えることが可能です。例えばψ1、ψ2をそれぞれ粒子が領域mとnにある状態だとすると、|c1|2,|c2|2は、それぞれその事態が存在する確率を示します。ただしこの時、例えばそれぞれの確率値が半々だとすると、これは一つの粒子がどちらかに半分の確率であるだろう、という「予測」、またはいいかえると、全体でk個の粒子があるならその半分が領域mにある、ということを意味していません。あくまでこの式が語るのは、現実に一つの粒子が、二つの領域に半分ずつ存在することです。これは全く疑いえないことで、よく語られる事例としては、例えばmとnを壁にあけた二つの穴だとすると、この穴を通り抜けた光は波として、穴のあいた壁の向こう側のもう一つの壁に、干渉波を作ることが挙げられます。つまり光子は波動として、二つの穴に遍在します。
しかしこれは、純粋状態、つまり粒子ないし光子の場所が測定されない限りでのことで、粒子の位置を観測すると、粒子は必ずどちらかの領域に発見されます。これが波束の収束問題です。観測によって粒子がどちらかに発見されるのも、また同様に疑いえない現実で、ここから、粒子が雲のように遍在する状態から、一点へと収束する状態へ、観測という人間の行為によって一挙にジャンプが生じるかの、奇妙な印象が生じます。
ここで確認しなければいけないのは、確率的に記述された純粋状態の記述式と、観測された粒子の位置記述の、それぞれのステータスです。簡単にいうと、観測を通じて雲から一点に収束したかの印象は、しばしば三次元空間内での状態記述が、もともと複素ユークリッドあるいはヒルベルト空間に存在する粒子の、いわば減衰された情報記述であることを忘れており、観測を通じた状態記述が、最も「確かさ」をもっているかの錯覚を隠しもっています。そしてその錯覚の効果ないし遡及決定により、純粋状態の記述式が、あたかも予測としての確率を示しているかの感触が生じます。シュレディンガーの式では、状態は諸状態の可能性の和として記述されますが、この時、状態は一つの実数物理量を与える自己共益作用素で、予め処理されていることを忘れてはなりません。そこでは線形空間である状態ψの全体について、例えば位置という物理量を与える先述した作用素Aを用い、ψとAψの内積をとることで、位置状態ψが生じる確率cを得るわけです。ですから、もともと粒子の状態ψは複素ユークリッド空間の線形部分空間に属するわけで、それゆえ、ψが線形空間Mの元であるとした時、ψと直交する、つまりψとの内積が0となるψ'=¬ψのみからなる線形空間N=¬M、つまりMの否定領域を考えたとしても、さらにψ''=ψ+ψ'なる状態、つまり直交する二つの線形部分空間MとNのどちらにも属する状態は、いくらでも存立可能です。つまり、粒子が属する二つの相互否定的な領域をとった場合、もとの複素空間で考えれば、何の不自然もなく、粒子は二つの領域に等しく帰属し、これは確率などという概念とは全く無縁な、文字どおり現実の状態です。
もともとシュレディンガーの関数は、実験の都合にあわせて作った実利的なものですから、物理学者でない私たちは、波束の収束問題も、複素行列のハイゼンベルグ的描像で簡単に考えるべきです。そうすれば、相互否定的な二つの三次元空間に対し、実数ベクトルは排他的にしか属さない、つまりどちらかにしか属さないとしても、複素ベクトルは両者に等しく帰属する、という<現実>に疑いは生じません。あるいはもっと簡単な中学生向けの例を挙げれば、例えばxy座標系で、y=x2+1,y=0という二つの軌跡、つまり集合領域があった時、(x=±i,y=0)という点は二領域に等しく帰属しますが、実数座標系だけで事態を考えれば、二つの軌跡は交わらず、そこで一方に属する要素は他方には絶対に帰属しません。これは量子空間では一つの粒子が二領域に同時に属しても、それを古典力学系に書き換える、ないし置き換えると、一方にしか属さなくなってしまうのと同じです。それでもなお、量子空間の二領域の非排他的性格が納得できない人は、結局虚数というものは「本当の数」ではない、ないし実数内演算の一時的待避装置だと考えているからで、そのような人は、最古のギリシャ人は無理数のみならず0も実在しないと考えていた、ということを思い出すといいでしょう。
ですから結局、シュレディンガーの波動関数や波束の収束問題で要求される確率概念とは、相互に直交し交わらない二つの閉線形部分空間に、一つの元が等しく帰属しえる、複素空間上での粒子の存在状態を、実数空間から遡行的に了解する為の、橋渡し的な観念です。いいかえれば複素空間での相互否定的な直交空間が相互に結ぶ、奇妙な非排他的結合関係、つまり結合演子∨の量子論理的振る舞いに関して、粒子が実数空間へと射影・圧縮された後で、その該当物が実数空間つまり人間にとって経験可能な領域で探されると、ちょうど確率的分散という過程が、演算子∨の量子論的、非排他的振る舞いの、論理的等価物としてそこに発見されるわけなのです。
この、射影され圧縮された記述体系における、もとの情報過程の論理的等価物ないし代替物という観点から見れば、実数空間で一つの物理量を確定する行為が、他の観測ないし射影空間を干渉して、例えば運動量での不確定性を限りなく拡大させている時、その干渉あるいは不確定化の論理的等価物が、実数空間での位置確定においては、無限回の試行つまり無限の時間を要請する、という形で回帰し発見されるのだ、と考えることも可能です。実数空間での位置確定に必然的に伴う、確率概念、つまり限りない実験回数ないし時間の必要性は、複素空間上での粒子の状態を射影した後に、もとの情報を取り出す過程でいわば再発見される、実空間固有の離散の位相です。このことは、もともと粒子は不確定性関係の規定のもとにあるので、その不確定性は常に保存され、粒子の状態を三次元位置座標に関して限りなく確定しようとすることは、交換不能な量の不確定性を、限りなく増大させているだけだ、ということを再発見させるでしょう。シュレディンガーの描像では、一つの作用素を選択した時点で、他の交換不能な作用素の選択は表面から消失して、波束の収束は、まさに「一点への瞬間的収束」として感じられますが、これは逆に「運動量の瞬間的離散」とでも理解した方が、余計な錯覚を生みません。
ここまでのことをもう一度確認すると、純粋状態についてのシュレディンガーの確率的表現を伴う状態記述は、厳密に現実そのものであり、他方の一回限りの位置の測定値も、同様に現実の記述であり、両者の違いは、単に前者の情報が、後者にはそのまま保存されてない、ということです。そしてこの情報の変質、つまり観測という量子世界から古典物理学への記述体系の変更も、それ自体現実の物理的過程です。つまり、観測という人間の「主体的精神活動」のせいで、粒子の状態が一瞬に変わったわけでなく、あくまで現実の物理的な状態変更があったのだ、ということは重々頭においてください。そして、どうしてこのような情報の現実的消失をともなう記述の変更がなされねばならないか、といえば、これは複素空間は物差しで一度に測ることができないからだ、というしかありません。ともかくいずれの局相でも、全ては実在の現実的過程であり、かつ記述です。
――量子力学的な不確定性とは、無知の補填物としての通常の確率概念とは異なる、と、よくいわれることですね……
というか、結論はむしろその逆です。シュレディンガーの波動方程式で現れる確率振幅は、確かに無知の補填物としての確率概念、つまり予知的概念としてとらえることはできません。しかし通常の確率が無知の補填物か、というと、実際はそうでなく、むしろその権利において、波動方程式上の確率振幅と全く同等のものだ、ということが、量子力学世界を通じることで逆に了解可能となります。結局、量子力学を通じて現れた認識論的問題は、量子力学という物理の問題ではなく、世界認識に関わる人間の側の仕組みの問題ですから、それは古典的な確率を議論の場にとっても同様に論じられる、というのが、精神分析的な立場です。
まず、ここまで波束の収束問題を一瞥してきたのは、その純粋状態での記述が、実在としての確からしさの権利を疑いもなくもっていること、そしてその記述ないし現実がもつ情報量は、別の記述方法としての一回の観測において減衰される、ということを専ら確認、確信するためです。初歩的な念を押すと、例えば複素空間という直接体験されないものでも、反証されない限りは客観的実在である、という公準を認めなければ、地動説も否定されてしまいます。とはいえ少々脱線すると、精神分析的立場からみてこの例が与える結論は、主体の認識構造は、地動説を本当に認めるためには絶望的な困難を抱えている、という方に傾きます。なぜなら、人はこの公準によってでなく、視覚的な一挙性によってモデルが了解できること、そして皆が信じているから、という二つの公準により地動説を信じるからです。この二つは、人間の認識過程を最も基本で規定している、経済原則に立脚します。この経済性とは、相異なる方程式またはその軌跡を、最小限の時間で最大限分離するという、非線形システムが従ういわば時間のコストパフォーマンスで、その基底には、もともと人間の思考および認識過程は、人工的な知能設計でなく、自然淘汰という遺伝子の生存競争によって獲得・形成された演算装置の上で駆動する、という事情があります。認識にとって必要なのは、もともと正確さではなく、現実的な速さなのです。このことを念頭におくと、確率という概念が要求してくる無限の試行ないし時間の要請が、人間本来の思考方法にどれほどの負担や拒否反応を呼び起こすかが、わかり易くなるでしょう。
さて、無知の補填という観念、つまり主観主義的な確率概念ですが、これはしばしば絶対的ないし客観主義的な実在概念と結びついており、それゆえ逆に確率概念のトリックを見ることで、人間がもつ実在概念のトリックを見ることが容易となります。つまり主観主義的な確率概念は、人間の思考にとって本質的で、最もなじみやすいやり方です。
例えば、ここにサイコロがあります。これからそれを振るとすると、1の目が出る確率は6分の1であり、一方、このサイコロの辺の長さは全て2センチで、重さは8グラムです。人間の生得的思考では、この6分の1という数値と、他方の2ないし8に同じ権利を与えること、つまりどちらも実在物についての厳然たる客観的、現実的な値だと考えることは困難です。そこで確率の主観主義的概念が登場します。例えばラプラスなら、本当はサイコロがだす次の目は確定しており、サイコロをめぐる全ての分子運動のベクトルを測定できればそれは予測可能で、しかしそれが不可能なゆえに、6分の1という無知の補填物としての不完全な値が存在するのだと考えるでしょう。アインシュタインもまたそう考え、量子論理を否定しボーアと対決したわけです。衆知の様に、神はサイコロ遊びはしない、というのが、彼の有名な言葉です。
まず確認すると、6分の1は全く客観的な値で、つまりその数値自体、実在物だといってもかまいません。これは、サイコロの白い色という属性は、それ自体実在するものだといってもいい、というような意味においてです。日常的思考がこの数値を実在物として認められないのは、端的にはこの数値が、波束の収束と同様、一回の実験という観測結果に保存されないからで、さらに、この数値を出現させる無数の試行という膨大な時間が、すでに述べたように、人間の思考と行動の経済原則に合致しないからです。人間的主体は確かさというものを、限定された時間内での対象把握に基礎づけるようにできていて、確率の数値を一回限りの観測との関係であくまで理解しようとするラプラス的な傾向も、この原則の上に立っています。ただ、人間が瞬間的・視覚的な捕捉可能性と、物事の確かさ、つまり実在物としてのステータスを等置する背景には、単に知覚的な認知だけでなく、確かさの一方の支柱をなす言語的思考もまた、無時間的共時性にその明証性の根拠をおいている、という事情があります。
なお、物理学的な側面から念を押すと、長さや重さの2や8という値も、全辺の長さを測定するために物差しを回転させれば、相対性理論によって物差しの時空系は縮みますし、サイコロをはかりに乗せてそれが動けば、同様に時空系は縮むので、ここでも時間の問題を無視して、瞬間的な測定や認識を単純に想定することはできません。何らかの平均操作を用いることは、ここでも現実的に不可避です。結局、量子力学がもつ哲学的意義とは、そういった問題を無視して素朴な瞬間性に依存することへの逃げ道を封じた、ということに要約されます。ただ、ここでシュレディンガーの波動関数に関してつけ加えると、その式ではただ一つの時間系が特権化され、相対論の可能性を強く排除するようにできてますから、こういった哲学的思考実験のために波動方程式を使うべきではないことは、再度確認せねばなりません。
さて、6分の1が客観値だと認めづらい人も、例えばここで、このサイコロには少し歪みがあり、1が出る確率は6.13分の1である、というように与えられると、一般に数値の客観性を少し納得しやすくなります。この印象の普遍的変化は見逃せません。ここで人間的思考は、自分の保有しない数値を他者から一挙に与えられることで、その一挙性の方に注意を奪われ、その数値の検証と析出に要する時間の方はさっさと忘れてしまうのです。数値が6分の1の場合は、それがあまりに既知なので、この贈与の一挙性が駆動しません。つまりここで主体は、確かさの根拠を、視覚的ないし直接経験的な一挙性から、言語の一挙性へとずらしたのです。
ただし、この言語の一挙性とは、端的には他者からそれが受動的に与えられる、ということで、これは人間が言語的世界に参入する時の、親と子の絶対的非対称性、という原初的体験ないし構造を再現しています。言語がもつ瞬間性と、その瞬間性が与える確からしさの感触は、生物にとって母親や同類が与える信号は、それを無条件に受け入れるのが生存にとって有益だということ、つまり何かを自分で直接認知するより同類の信号に従う方が、より多い認識上の利得を得られることに、元来基づきます。いずれにせよ、認識の労力を最大限節約するという、フロイトの用語でいう快感原則が、人間的思考の根幹を規定するのです。ただしその快感原則は、一見すると視覚の一挙性に依存しているようでも、このように実は言語の一挙性、さらに言語が贈与される時の他者との非対称的関係に依存していることが多く、しかもこれらは相互に支えあっているので、そのことは常に念頭におかねばなりません。
言語の面から検討をさらに続けましょう。6分の1の数値の実在性を主体に納得させるには、それを6.13のように分節して、言葉、つまり認識が他者から贈与される瞬間を再現することに加え、文の表現形自体を操作することも、確かさの増大への効果をもちます。つまり「このサイコロを無限回放れば、1の目は客観的に6分の1現れる」という記述、あるいは「6分の1とは、サイコロを無限回放った時に1の目がどのくらい現れるかという比率の客観的値である」では、主体は数値の実在性に抵抗しますが、「6分の1とはサイコロの形状についての客観的値であり、その形状とは無限回放った時に1の目がどのくらい現れるかの比率に関わるものである」だと、だいぶ抵抗を減らします。これは詭弁のようですが、真偽判断、ないし確かさというものを、文がどう配給しているかの、普遍的構造に関わっています。
簡単にいうと、日常言語の文の真偽値とは、主語と動詞の結合、あるいは主語を述語と結合する連辞作用、つまりbe動詞ただ一ヶ所にのみ関わり、それ以外の部分には規定されません。述語を規定する、例えば関係節のような部分があったとしても、それはいわゆる内包として扱われ、その内包は真偽値を規定せず、その内包を外延化する過程、つまり関係節と主語を結合する主文の動詞部分のみが、真偽決定に関わります。サイコロの目の確率値の例だと、あとの方の表現では、無限の試行ということと6分の1という値は直接に関係せず、6分の1の値とサイコロの形状の結合関係のみが、客観性ということ、つまり真偽を規定します。真偽とは、いいかえれば、そのような思考・記述を、主体が確かなものと感じるかどうかということで、それゆえこの文は、真偽決定に無限が関わらない構造なので、確かさの感触を増大させます。
つまりこの文の構造は、「ニーチェは全ての存在が無限回回帰すると考えた」と類似です。私たちは通常、次のような考えを最初から排除していますが、この「ニーチェは……」という文の真偽値は、なぜ、全ての存在が無限回回帰することと、ニーチェがそれを考えたことの、両者の真偽値の結合とならないのでしょう。なぜ前者の真偽値は不問にされるのでしょう。確かに、コンピュータ上での疑似自然言語でも、この文の真偽値は内包、つまりニーチェの考えの内容には全く影響されないようになっています。この方向性を最初に決めたのは、モンタギュー文法のプログラムで、モンタギューはそのやり方が自然であることを疑いませんでした。しかし内包を真偽決定から棚上げするやり方は、べつに論理学的、あるいは先験的な権利をもっているわけではありません。
簡単にいうと、日常的思考の演算が、主文の主述結合にしか規定されないのは、それ以外の関係節的な部分は、他者から与えられた言葉としての確実性、一挙性としての権利をもたされるからです。言語によって思考する時、真偽判断は主述結合の可・不可という一挙的瞬間性に縮約され限定され、それ以外の述語に関わる関係節的な部分は、全てただの言葉であって、その組成を再度疑うこと、再解凍することは許されません。この部分、つまりニーチェの学説の中身や、サイコロの形状と目の出方の比率との関係は、いわば伝聞された内容、同類からの信号のようなもので、その部分の確かさについては、判断をしないのが人間的思考、というか、動物の行動様式です。この規則は、もともと言語とは、完成された形で他者から到来する、という事情、そしてそれを受容し、あるいはその組成に同化することが、認識と生存の利得にかなっている、という、すでに述べた経済原則によっています。
確かに、関係節の真実性や確かさを遡行的に再解凍していけば、演算は複雑になり、人間の頭の貧弱な処理容量は、すぐに窮地に陥るでしょう。しかし、精神医学的な現場では、このような再解凍の無限遡行を目指す行為は、何ら珍しくありません。この手の強迫的症候を抱えた人は、「ニーチェは全ての存在は無限回回帰すると考えた」という文の確かさを、どうしても、「全ての存在が無限回回帰する」という部分の真偽性と無関係に決定することができません。その部分を無視してはいけないような感じが無意識から消えないのです。そしてその人々は、何かを判断し決定するのに常に膨大な時間がかかり、実際日常生活に困難を抱えます。しかも面白いことに、これらの人は、無限という概念や、実際に何かを無数回反復することに奇妙な偏愛を示します。つまりサイコロについてのラプラスやアインシュタインとは、全く逆の思考法、つまり無限の試行に抵抗をもたず、真偽の視覚的一挙的決定に、いっさいこだわらない態度が選択されます。
精神分析的に見ると、この無限への偏愛は、相対立する無意識からの要求や、その対立の解決を引き延ばそうとする無意識的願望など、多様なメカニズムを抱えていて、単純には解析できませんが、しかし常にそこに作用するものとして、他者への本源的な敵意を見ることができます。ただしこれは、意識的、具体的な通常の敵意ではなく、無意識に存在する、他者への原初的絶対的な疎隔感です。おそらくこれらの人々の幼児期には、他者からの信号を受け入れ、他者の世界認知に同化することと、自己の生存利得の間に、通常存在するような同値性がなかったのです。ともかく、文の真偽値決定が主文の一ヶ所に限定されることは、何ら先験的、論理学的根拠をもたず、最終的には生物学的な事情によっています。つまり古典論理学ないし様相論理学の名で通用している演算とは、異なる演算規則を採用する、境界例的ないし精神病的種族の歴史というものが、可能世界的には存在し、しかしそれが現実世界に現れないのは、単に彼らの遺伝子が生存競争で淘汰されたからにすぎません。
このように見ていくと、結局、「6分の1とはサイコロの形状についての客観的値であり、その形状とは無限回放った時に1の目がどのくらい現れるかの比率に関わるものである」という表現が、形状という概念で文を階層化することにより、サイコロの確率値の客観的実在性に対する抵抗を減少させる過程は、6分の1を6.13分の1に変更することで可能になる抵抗の減少と、類似の過程であることがわかります。両者に通底するのは、無限の試行を外延、つまり判断の場から除外することであり、それを最終的に可能にするのは、言語的思考における、他者への本質的受動性です。そしてこの受動性、判断の遡行的解凍の禁止ゆえに、通常の思考は、主文の主述結合というただ一ヶ所の場に判断を限定し、認識と判断の視覚的一挙性という利得を得られるのです。
つまり、このことを十分理解してほしいのですが、サイコロの一辺は2センチである、という記述が実在感を伴うのは、単にそれが物差しで一度に測定できる、つまり視覚的一挙性をもつからだけでなく、人間の思考が、むしろ日常言語がもつ真偽決定の演算規則の組成によってこそ、一挙性を習慣づけられている、ということに規定されているのです。この一挙性は、ここでは「6分の1とはサイコロの形状についての客観値である」という表現形を例として、内包や関係節の真偽値の棚上げを可能づける、他者への本源的受動性として論じましたが、実は、サイコロは白い、というような単純な言明でも、実際述語は潜在的に一つの記述なのですから、そこには真偽判断の表面的一挙性を<演出>する、同様の、しかも複雑なトリックが常に作動しています。それも後ほど見ることとしましょう。 <br />
ともかくここで確認したいのは、古典力学的な思考において、客観性や実在性の根拠として当然視される、観測あるいは認識の一挙的瞬間性とは、単に視覚的認知の習慣に由来するものでなく、日常言語の演算規則の効果を、不断に受けていることです。そしてさらにこの根底には、他者との関係が存在します。明証性とは、しばしば視線の全能性と混同されますが、これは言語の演算組成と他者ないし母への依存の効果の下にあり、この全ての要素の絡み合いは、神経症的な幻想において常に完璧に観察されます。ソフォクレスのオイディプス物語を、ぜひ直接読んでください。あるいは普通の人の場合でも、例えば子供時代の記憶に自分の姿が見えるような感じがし、さらにそれを見るもう一人の自分も感じられる、というような二重性の形で、この幻想は容易に体験されます。ここで記憶は、画像情報としては実際はほとんど解体し断片化しており、それを言語的思考の効果のもとで、再度視覚的イマージュへと再組織化する過程で、この二重化が生じます。つまり、言語的記述や判断が、その一挙的な確かさを自己確信する根底には、他者の言語組織への受動的同一化の過程がもともとあるので、思考の効果のもとで視覚的一挙性が再組織化され造形される時、その視覚像の視線の場は、他者の場所を自然に採用することになり、そこで記憶の中にある自分と、それを見る視線とが、事後的に分離されることになるのです。
このように、古典力学がよってたつ観測の視覚性への要求は、複雑な組成のもとにあり、特に日常言語の効果を受けています。つまり量子力学への感覚的抵抗は、日常言語の演算規則、つまり古典論理学の現実的効果であり、しかもそのさらに下には、他者への幻想的、神経症的な依存関係が存在します。アインシュタインの場合、それはプラトニスムという素朴さで発現し、これはアメリカに共にいたラッセルが、酷評しつつ的確に証言しています。ですから逆に言うと、ハイゼンベルグのマトリクスで駆動する演算規則、つまりオーソモジュラ束や量子論理が、古典論理と異なる仕方で駆動し、それを否定する時、人は自己の幻想が破壊され、同時に忘れていた抑圧物に出会うような驚きを感じるのです。今世紀中葉の、論理学の領野での量子論理への大いなるリアクションは、この精神分析的要因を抜きにして語ることはできません。そしてそれは、言語と意識が思考の全てだと信じて疑わない彼らからは、けっして語られることのない要因です。
――量子論理とは、分配則がない論理学体系だといわれます。そのことが、幻想の破壊とどう関係するのでしょう。……
実は、確率と波束の収束問題の話はまだ終わってなく、それを片づけるために、少なくも熱力学的拡散の問題、そして現実原則について語らなくてはなりません。サイコロを放って一つの目が確定された時、6分の1という数字はどこにいってしまったのか、波束が収束した時、元の状態式はどこにいってしまったのか、という素朴な疑問は消えてないと思いますから。でも、言語の話に入り込んでしまったので、それをさらに分節するには、確かに量子論理ないし複素空間にいったん戻るのがいいでしょう。
ただ、その前に、古典力学世界が従う確実性、客観的実在性についての公準の、本質的な詐術性だけ、再確認し、まとめさせてください。古典力学世界は客観性を、一見すると限定された時間内で実行可能な実験測定値に基礎づけているように感じられます。この時間的限定性、つまり瞬間性、一挙性への要求は、言語的思考から由来したもので、本源的に快感原則に従っていることはすでに見ました。つまり古典力学は、客観性を基礎づける一挙性への要求を、自己の思考の組成に由来するものでなく、認知の瞬間の視覚的自明性に由来するものだと信じることで、自己の公準の由来をあいまいにし、自己の思考の組成を隠蔽する抑圧を行うのです。これが物の一回的測定と明証性を短絡させる公準、つまり物の実在と認識の確かさを等置する公準が配給する、イデオロギー的、ないし神経症的疾病利得です。すでにおわかりと思いますが、サイコロの一辺が2センチ、という記述は、その明証性を、実際は長さの測定という視覚的過程でなく、センチないし長さという、すでに獲得された記述体系への遡及的再解凍の禁止によって得ています。これは「6分の1はサイコロの形状についての客観値だ」という記述と同じであり、つまり「2センチ」という記述は、「形状についての客観値」といういわばあいまいな概念と何ら変わらず、単に述語として、言葉として、記述体系として、その確立した地位を行使するにすぎません。つまり2センチだ、という記述がもつ絶対的権力は、いわば2という測定数値でなく、センチという語で示される、長さという種類の記述体系、つまり原始的四則計算と平行な演算体系がもつわかりやすさ、経済性によって得られています。逆に言えば、量子力学ではこの演算体系の自明性が駆動しないので、人はそこでとまどい、かつ実在が失われたような錯覚を、古典力学が行使していたトリックのせいで、つまり体系の自明性を知覚の自明性で表象代置する詐術の効果として、配給されてしまうのです。
この問題は、結局、認識とは対象の同一性を発見することなのか、それとも差異性を発見することなのか、という伝統的な哲学的問いに結合されます。これにポパーが与えた回答は平明で明晰なもので、彼はアレーテイアとしての真理、つまり差異性に科学的認識を基礎づけました。この差異性は、反証可能性と呼ばれます。すなわち一つの記述・説明体系に包摂できない差異が発見され、体系が反証されること、つまりより厳密な分節性、差異性に向かって進む時間的方向性のみが、科学的認識を定義するのです。しかしその定義は、半分しか正しくありません。なぜならニーチェが嘲弄的にいうように、認識とは同一性を発見すること、つまり異なったものを等置するという側面から、逃れられないからです。哲学の正統的な真理概念、イデアはそれを表明します。そこで真理とは差異と現実を単一の項へと圧縮する、快感原則と幻想の作用であり、それゆえ、例えば「人生にはその喜びにつり合うほどの悲しみもある」というような、間違ってはいなくても、何の差異も情報もない記述も、人間的精神には一つの真理として機能します。これは科学でも同様です。例えば惑星軌道が円周だと想定されている時、その想定からはずれる反証材料が観測されても、その差異性、現実を認識に取り入れるには、楕円軌道という新たな体系が必要であり、楕円方程式がもつ円周のそれに匹敵する平明性、つまり快感原則の作動がないならば、反証性は認識に内化されません。認識とは一つの方程式から外れる点を発見することではなく、あくまで二つの方程式を分離することでなければならないのです。
さらにもう一つ、気体の体積と圧力は反比例する、というボイルの法則を考えてみましょう。この法則は、原点の近くでは美しい双曲線を描きますが、その線を、体積軸にそって無限大の方向に追っていくと、現実には次第に不規則な揺れが出始めます。膨大な空間に僅かな気体分子がある状態は、この式に従わないからです。この時、この揺れは、拡散を記述するような非線形の式に人々が親しんでいない時代なら、認識に容易に内化されず、主体は体積と圧力の関係について、原点から遠ざかることに快感原則から抵抗します。しかしここで、ボイルの実験をするシリンダーの中に、分子の大きさほどの小人が住んでいたとしましょう。彼にとって気体の圧力とは、不規則に落下してくる気体分子のことであり、彼はいわば、双曲線グラフの原点から、限りなく遠くに住んでいる住人です。彼にとって原点に近づくこと、つまり双曲線の全体像を得ることは、私たちがサイコロの目の確率値を知るのと全く同じ過程であり、その値、彼の場合はボイルの式は、客観的実在として素直に認知されることはないはずです。つまり同じグラフを、私たちは原点から遠ざかりたくなく、彼は原点に近づきたくなく、その移動はどちらにとっても、真実と確かさからの、離反のように感じられます。この違いを規定するのは、認識を駆動させる快感原則が、個々の動物の生存のスケールに依存しているという、ただそれだけにすぎません。
それでは、言語の問題をさらに考えるために、ここで量子論理の方に一旦視線を変えましょう。量子論理は、確かに分配則の欠如としてよく知られています。これは量子力学が駆動する無限次元複素ユークリッド、ヒルベルト空間において、その空間の二つの閉線形部分空間A、Bをとり、両者の共通部分をA∧B、両者から生成されさらに閉線形部分空間とされたものをA∨Bで定義した時、∧と∨について成立する演算が、オーソモジュラ束ではあってもモジュラ束にならないこと、要するに分配束を構成しないゆえに、∧と∨についての古典論理学の体系と齟齬することに由来します。ただし、ここで分配規則(A∨B)∧C=(A∧C)∨(B∧C)が成立しないのは、結局結合記号∨の部分の特異性に由来します。つまり∧については、二つの閉線形部分空間の共通部分は、必ず閉線形部分空間となるのですが、∨に関しては、両者から生成された線形部分空間は、必ずしも閉線形部分空間であるとは限りません。これが量子論理の非分配束化を帰結させる証明は省きますが、これは大学初等の線形代数で理解できる、きわめて平明なプロセスです。
このように量子論理の非分配束化は、ヒルベルト空間での純粋に形式的な操作によって導出されますが、当然それは、量子力学の経験に対応できます。例えば、Aを粒子が領域aにあること、Bを領域bにあることとし、Cをこのどちらかの領域にある粒子の運動量がcであることとします。このとき運動量cは、不確定性関係の限定内で最大限厳密化されています。すると(A∨B)∧C=Cが当然成立します。しかしA∧C、つまり粒子の位置がaにあり、運動量がcなのは、不確定性関係に抵触するので、A∧C=0となります。同様にB∧C=0となり、(A∧C)∨(B∧C)=0が帰結して、結局分配則は不成立です。
あるいはより平明な事例として、A、Bを、壁の穴a、bに粒子があること、Cをそのとき壁の向こうに干渉派が生じることとすれば、どちらかの穴に粒子があること、つまり量子論的には両方の穴に粒子が遍在する状態としてのA∨Bは、Cと交わり、他方でそれぞれの穴に粒子の位置が確定した状態は、Cと交わらず、同様の帰結が見られます。つまり分配則の不成立は、波束の収束問題と論理的に等価です。
この論証過程に接して、量子論理とは、数学や物理の特殊な演算体系を単に論理学として表現しなおしただけで、本来の論理学とは関係がない、という印象をもつ人がいるとすれば、それは日常言語の演算構造の深い拘束の帰結です。とはいえ、分配則の不在に対するこの反発は、誰でも無意識裡にはもつはずで、だからこそ量子力学と量子論理の出現は、論理学、あるいは日常的思考に対する、一つの大きな外傷となり、かつ人間の自己発見の契機ともなったのです。実際数学的に見れば、分配則が成立する体系もそうでないものも同様に構成可能で、その違いは相対的なものですから、分配則を当然視する習慣は、専ら日常言語にのみ由来します。具体的にみると、例えばAを、何かが人間である、Bを、何かが神である、Cを、何かがマリーである、とします。すると(A∨B)∧Cは「マリーは、人間か神である」と同値となり、他方の(A∧C)∨(B∧C)は「マリーは人間である、あるいはマリーは神である」と同値となり、ここで両者の間には、いかなる相違もありません。この言語的演算こそが、分配則を人間に当然視させる基本的元凶です。
一方、精神分析的な言語空間に親しんでいる人間には、分配則のこのような成立の方が、率直に言って、逆に奇妙なことなのです。例えばここで、Aを、ピエールを愛している、Bを、ピエールを憎んでいる、とします。すると(A∨B)∧Cは「マリーはピエールを、愛しあるいは憎んでいる」ということです。これは「ピエールを愛しかつ憎んでいる」というような両価的な強い対象備給の状態とは異なるものの、そのような現実的欲望の発現される前の段階、つまりピエールを自らの幻想の中の想像的対象とし、そこに半ば無意識的であいまいな情動の備給を行っている、原始的状態としての想像的未決定性を示します。したがってこの時、A∧Cという演算、つまり「マリーはピエールを愛している」という記述は、この状態に適合せず、あるいはこの状態を破壊します。B∧Cも同様で、したがってどちらも真偽値0を返し、(A∧B)∨(B∧C)=0となって(A∨B)∧C≠(A∧C)∨(B∧C)が帰結します。
確認すると、精神分析的言語の非分配束化は、愛憎のような特殊な状態記述がもつ、述語の未分節性、共時対立の不可能性といった、記述の表面構造とのみ関わっているのではありません。精神分析空間は、本質的に、いわば波束の収束問題と同じ過程を抱えています。例えばある人が、父親に強く愛着し、その理想化を行い、他方で母親への憎悪と軽蔑の感情をもっているとします。このとき両方の系は規定しあい、強固なコンプレックスを構成します。この状態に対し、母親との関係をめぐって分析と言語化を進めると、例えばその憎悪が、完全に抑圧された父親への敵意の転移作用も受けていたこと、そして父の理想化はその敵意の補償の側面もあったことなどが明らかとなり、母親の系の言語化は、父との関係を干渉し、状態を変更させ、結局その系の状態は、元のままでは永久に取り出すことができなくなります。確かに父への現実的愛も存在したはずだとしても、それは元のようには残りません。あるいは父との関係から記述を始めたとしても、また同様のこととなり、結局母と父への対象備給の初期状態を、両方とも厳密に記述することは、いわば不確定性関係のような規制を受けるのです。
――量子力学の空間と人間の頭の中とは、全く異なる仕組みのはずです。それなのにそのような形式的類似性が出てくる、ということには、どのような権利、というか意味があるのでしょう……
量子世界と精神分析空間の両者で分配則が壊れるのは、確かに偶然の、形式的帰結にすぎません。とはいえその同値性は、ただの表面構造だけでなく、それを結晶させる過程の同形性もはらんでいるので、ある程度、構造的同値性ともいえるはずです。精神分析空間が非分配束化するのは、記憶の言語化、つまり記述と観測の結果が、元の脳の状態を保存できないことによっています。実際精神分析で何かを語ることとは、記憶を取り出すというより、想起および解釈という強引な力を記憶に対し不断にかけ、それを変質させ破壊し続けるような過程です。しかもその過程、つまり分析・観測なしには、記憶の存在は認識も記述もできません。一方すでにみたように、量子空間で結合子∨がみせる奇妙な振る舞いは、観測行為、つまり量子体系を古典物理学体系に記述しなおす限りで発現します。つまりどちらも記述という射影、圧縮をめぐって構造的に等価な問題が生じており、だからこそ、量子論理での分配則の不在を前にして、人々は奇妙な感動と嫌悪感の両者をもったのです。つまり人は日常的には隠蔽された言語的思考のトリックを、そこで幾分か開示され感知するのです。
それでは、量子論理を拒絶したアインシュタイン的信念の土台となる、古典論理学的公準、この場合特に分配則は、どのように日常言語で組織化されるのでしょう。まず、精神分析的空間の非分配束化を、よくみてみましょう。再度確認すると、ここで例えば愛すると憎むが、量子論理の∨と同じように奇妙に振る舞うのは、「愛する∨憎む」という状態が、本質的に記述のオーダーと相いれず、記述がなされることによって、元の状態が失われる位相にあるからで、重要なのはあくまで記述による状態変更という、いわば波束の収束問題です。これは愛と憎しみが両義性をはらんでいる、などという、単に概念水準の分節問題ではありません。ですから、精神分析空間の非分配束性をより的確に了解するには、例えばAとBを父への愛と憎悪、Cを母への憎悪とし、(A∨B)∧Cは記述以前の父への関係が母への意識的憎悪と両立している状態、(A∧C)および(B∧C)は、父との関係が述語として記述・意識化され、それが母との憎悪と両立しなくなり、各項が真偽値0を返す状態、そしてその結果として、(A∨B)∧C≠(A∧C)∨(B∧C)が帰結する、という風に考えるのが、より適切です。そして、ここから逆にふりかえると、人間あるいは神、という最初の例において分配則が成立するのは、そこでは全ての事象が記述という射影・圧縮を予め行使され、いわば量子世界から古典物理学世界への記述変更を、すでにすませていたからだ、ということに思い至ります。この視点の一八〇度転換、つまり日常言語と古典論理学的演算によって言語以前のものを考えるのでなく、古典論理学を言語以前のものからの射影の帰結として考える態度は、量子世界の登場による、古典力学と古典論理学世界のローカル化によって可能づけられます。そして逆にこの視点転換が、そのローカル化を完全に遂行する、哲学的地ならしともなるのです。
さて、演算が分配束化する古典的局面は、神と人間という二領域が、いわば予め実数空間に射影され、排他的に分離されること、いわゆるシニフィアンの共時対立系に押し込まれることで準備されます。述語のこの共時対立化は、すでに述べた、真偽判断を主文の連辞ないし動詞一ヶ所に限定する経済原則を保証します。つまり「6分の1とは、サイコロの形状に関わる一つの客観的値である」という言明の確かさが、形状という語に連なる従属節の影響を遮断することで成立し、「ニーチェは永劫回帰節を信じていた」の真偽値が、存在は無限回再帰するか? という判断を排除するのと同様に、神や人間ということの中身が遮断され、この両者が単に排他領域となることが、それと主語との結合に関する、古典的な演算ないし分配則、つまり連辞による一挙的な真偽確定を予め可能づけるのです。そしてこの一挙的な真偽確定は、快感原則という経済原理に従うわけですが、面白いことに、それを可能づける述語の排他領域化・共時的分節も、実は同じ快感原則の効果の下で遂行されます。これについては、フロイトが『快感原則の彼方』で描いたモデルが、今日でも一級の価値をもっています。つまり、そこでは一歳半の子が、糸巻を放り投げては、再度見つけ、それぞれの瞬間にfort/ Daと言い、同時にその行為によって、しばしば自分がおかれる母親の不在化、および再登場という状況を反復します。ここでfort /Da、つまり無いことと在ること、不在と在という対立は、平面的、排他的な共時対立ではなく、不在が在に転化し、在によって否定されることでその内部に統合・保存される過程であり、その統合は、不快を快に転化させる、快感原則によって駆動されます。ここで快感原則は、不快と快という、最も原始的な、身体に記載されたいわば共時対立のプロトタイプを、糸巻の不在と在、あるいはfort-Daという対立に転写、写像する運動として存在します。つまり概念の共時分節が可能なためには、当然否定の作用を通じて、一方の項に他方が内化される、あるいは一方の項から他方に遡行的に到達可能でなければなりませんが、この、連続的推移性が対立関係に保存され、概念的対立を構成する過程それ自体は、当然言語や概念に基づくことはありえないわけで、それは身体的な連続性と対立性、つまり不快から快への原始的転換を、構造的に受け継ぎ自己のモデルとしています。
さらに、ここでfort /Daは、不快から快への現実の転化ではなく、一つの演劇ないし表象代理として、幻想の中で演じられていることに注意しましょう。つまり、不快から快への状態変化を、共時的な対立関係として把握しマッピングする快感原則の運動は、不快から快への移行の現実的経験というよりも、それが定常的に保証され、不快の解消が信じられていることに基礎づけられ、それは他者の保証と他者への依存という、幻想的身体空間で可能になります。つまり概念的思考を保証する基本構造である、ないとある、遠いと近い、寒いと暑い、といった共時的対立は、一方から他方への、身体による能動的な移動操作としての否定作用に基礎づけられつつ、さらにその基底では、その移動を原初的に保証する、母親の身体の潜在的現前に依存します。つまり言語とは、予期された他者の潜在的視線、つまり幻想の場所にある、身体的かつ想像的な装置であり、それが言語的演算を根本的に快感原則に従わせます。すでにみたように、古典物理が確かさを視覚的一挙性に基礎づける時、それは日常言語の一挙的な真偽決定構造、つまり主文の動詞以外の部分を、他者からの伝言の資格をもつ既定項として扱う経済原則によっていました。そして神/人間といった概念の共時対立も、この作用の一種に他ならず、しかもその対立は、さらに原初的な他者への依存へと、このように関係します。ですから確かさと視覚的一挙性の同値化は、その全体が他者と快感原則に幾重にも規定され、逆に言えば視覚的明証性という信仰は、言語と思考が、想像された他者の効果の下に深くあり、幻想の領野で駆動することの証言なのです。
これらの議論は、精神分析の多様な経験に通じてないと、恣意的なものとして感じられるかもしれません。そこで、分配則を可能づける経験の共時分節化が、時間の中での否定作用に規定されていることを、別の角度からみてみましょう。まず、論理演算の非分配束化は、精神分析空間以外の場でも出現します。例えば一
例として、"I didn't have a good time in France or England."、および"In France or England, I didn't have a good time."の二文を比較してください。前者は「フランスでもあるいはイギリスでもよい時を過ごさなかった」の意味を、後者は「フランスあるいはイギリスのどちらかでよい時を過ごさなかった」の意味を強くもちます。つまり前者で、orは結合される二つのものの相違を概ね禁じており、後者は二つのものの重なりを厳密に禁じているので、選言∨の本来の、というか古典論理学的規定を遵守するものとしての「フランスでよい時を過ごさなかった、あるいはイギリスでよい時を過ごさなかった」とは、両者とも異なる意味をもちます。ですから分配束は明らかに壊れています。しかしここで重要なのは、束をめぐる表面構造ではなく、選言∨として一般に画一的に規定・理解されている結合機能が、否定辞と相関しつつ、その内実を微妙に変化させる過程です。つまりこの二文の意味が異なるのは、主文の否定辞のせいであり、主文が"I had a good time"ならば、この相違は顕在化しません。これは単なる結合としての曖昧な選言作用が、排他的選択性、つまり共時分節を獲得するのは、通時的な否定作用という、語結合過程を通じてであることによっています。つまり後者の例をみると、フランスあるいはイギリス、という選択性は、構造的にはI didn't have a good timeの全体にはかかっていません。選択性は、I had a good timeという、文の表面にはない無意識上の前提与件が、どちらの国で否定されたかという形で駆動し、選択性は否定辞のみにかかります。いいかえると、[I had a good time]∨¬[I had a good time](=I didn't have a good time)という構造があってこそ、選言は排他性、共時分節性を獲得します。ですから逆に言うと、前者の例文では否定辞が選言に先行するので、選言作用が働く前に、否定による文の潜在的な二階層性が消滅してしまう、つまり¬[I had a good time]は単に"I had a bad time"と同値となってしまうので、選言は否定と結合できず、排他性を強く獲得することができないのです。
念を押すと、私がここで言いたいのは、選言の共時対立化は、A∨¬Aという排中律的構造によって準備される、などという形式的議論では全くなく、あくまで、一つの事象、とりわけ無意識的な、この場合は願望の対象である「よい時を過ごす」状態が、現実に否定される過程と結合して、選言の排他性が獲得される、ということです。これは、例えば主文が「人々はワインを飲まない」や「私は日記を付けなかった」だとすれば、たとえ否定辞があっても、選言の位置移動による文の意味の相違は、それほど強く現れないことからわかります。結局、ここで論じた文例では、主文が快と不快の対立に関わり、現実には否定された「よい時を過ごす」ことへの願望、つまり幻想が無意識上に居座る結果、幻想的空間で潜在的母により快と不快が推移的に結ばれ、その結果両者が分節される、通常は忘れられた原初的な光景が回帰しやすくなったのです。なお、この文例では、否定の表面構造は不快から快でなく快から不快への転化を示しますが、無意識的には、これは「よい時」の幻想的回復の過程なので、他者あるいは幻想との関係でいうと、先ほどの議論と構造的に同値です。
ここまでの議論をまとめると、分配束は、情動や欲望などの身体状態や外界認知の原初的状態が、言語的位相へと射影され、共時分節化されることで可能となり、その分節は不快と快の相互転化と、それを保証する他者の幻想的現前からなる、快感原則の運動に依存していました。そしてこの分配束の成立が、真偽判断と確かさが視覚的明証性と短絡的に結合されることの、基盤となります。ここからふりかえると、精神分析的空間が非分配束化するのは、そこに登場する神経症や境界例の患者たちが、幻想の効果、つまり不快から快への移行の恒常的保証をもたないことに由来するのがわかります。一般に境界例的症候は、通常の思考以上に、共時的対立の厳密な排他性に固執し、同時に思考の一挙的明証性にこだわります。これは不快が快に潜在的に転化する幻想的連続性によってこそ可能となる、概念の共時分節化の過程が彼らには欠けているので、彼らはその過程を飛び越して、すでに社会化され言語体系化された対立のみに基づき、強引に思考せねばならないからです。その根底には、暑いと寒いの連続性と対立性を、うまく両立させ分節する、非線形の熱力学的な脳の記憶分節装置自体の作動不全と、寒さから暖かさへの移行を保証する、幻想的な他者の現前、ないしその基盤としての母子の現実的身体関係の不全が存在します。つまり彼らにおいて、暑いと寒い、愛と憎しみは、言語的思考では厳密に対立しつつも、それは形式的なものなので、その補償物として、その両者が結合したままの未分節性が無意識に居座り、思考の分配束化を阻害します。それゆえ彼らは意識上では、逆に明証性に強く固執し、しかしこの阻害が一定以上強くなると、今度は無限と決定不能への偏愛へと、症候は一八〇度反転します。既に挙げた、真偽値を内包から分離できない例はこの場合です。あるいは、明証性の視覚的モデルへの、アインシュタインの極端な固執の例も、そこに濃厚な神経症的症候を感じさせます。これは彼が量子論理に反対してボーアに提示した論証が、考えられないほどの幼稚な、いわば合理的推論以前のミスをもっていたことに一瞥され、つまり彼にとって量子論理は、抑圧物に抵触する不吉さをもったのであり、これはしばしば証言される彼の神経症的奇癖と明らかに繋がります。
一般に概念の共時的対立は、よく観察すれば水平的な対立でなく、一方が他方の否定によって得られています。例えば神/人間も、「人間」が幻想的に超越・否定される、快感原則の時間的作動の上で得られたはずです。しかしその獲得を補償した、まさに幻想と他者の力によって、主体はその共時的対立を信仰し、その下に否定の操作があること、つまりその対立の幻想性を忘れ去り、まさに絵に描いた天上と地上の分離のごとく、対立の一挙性を信じます。しかもその忘却には、幻想が解体することへの神経症的防衛も往々作用するので、概念の共時分節と、それに基づく視覚的明証性の神話は、きわめて複雑な組成を有します。認知的にみれば、A/Bの共時分節は、以後Bとなる何ものかが、「……はAでない」として記述される通時的な主述結合を経て、可能になったのは明らかなはずですが、思考はこのように幻想的力動の効果を不断に受けるので、人は予想以上に、分節と明証性の視覚的瞬間性にこだわるのです。
――そういえば、有名なシュレディンガーの猫の話にでてくる生きた猫と死んだ猫の対立も、平面的なものではありません。……
シュレディンガーが提示した猫の話は、科学的観点からは馬鹿げたものですが、それが今日でも語り継がれるのは、確かにこの、猫の生/死という対立がもつ、微妙な論理的、精神分析的構造によるのでしょう。シュレディンガーの猫とは、波動関数ψ=c1ψ1+c2ψ2において、ψ1とψ2が放射線元素の核の存続および崩壊状態を示し、一定時間後の確率c1、c2が半々であり、核崩壊をガイガー管が感知すると青酸ガスが発生して、箱の中の猫が殺される装置です。この時観測行為、つまり人間が箱の中を見ることがなければ、波動関数の定義上、猫は半分だけ死んでいる筈だ、というのが彼の主張です。もちろん本当は、観測による波束の収束は、ガイガー管が粒子の位置確定をする物理的相互作用として発生し、人間が箱の中を見るか否かなど無関係ですから、それ以後の過程は古典物理学体系の中にあり、生死半々の猫など存在しません。
しかしここで面白いのは、彼が無意識的に選択した、猫の生死という隠喩です。もし、対立する状態の非現実的混合、という例をいうだけなら、箱の中に赤と白の二つの玉があり、初期状態では白、核が崩壊したら赤い玉を機械が拾い、しかし人が箱を開けない限りピンクの玉が存在している、でもよかったはずです。しかし猫の生死は、赤白のような対等の対立ではありません。なぜなら、生きた猫から死んだ猫は作れるが、その逆はできないからです。ラプラスなら、死んだ猫の全分子状態がわかれば、生きた猫が作れるというでしょう。しかし量子論理は、まさにそのことを否定し、時間的不可逆性を持ちこみます。つまり猫の生死とは、それぞれ量子世界と古典力学世界、あるいは量子論理と古典論理に対応し、両者の間の不可逆的移行関係、つまり波束の収束を隠喩するのです。しかもここで、古典論理、つまり無時制的な分配束は死という不吉さを背負わされます。これは共時対立に基づく言語的思考の一挙的明証性が、脳の演算総体の、いわば固化された射影でしかないこと、しかもその明証性への希求の陰には、共時分節を可能づける幻想の中の他者への疑念と、憎悪があるのだ、という不吉さを示します。つまりこの猫の例には、視覚的な一挙的明証性と他者への抑圧された疑義のつながりを、死という隠喩で表象する、ギリシャ神話以来の西欧の哲学的知が息づいているのです。
なお、この猫の例についてつけ加えると、この話の観測概念、つまり観測を人間の行為に短絡させる議論は奇妙ですが、しかしそれに反対する、「観測とは対象を不可避的に擾乱する不可逆過程だ」という主張も、よく見られますが、同様に奇妙です。不可逆的擾乱とは熱力学的擾乱を含意しますが、サイコロを何度も放ってそこに付随する条件の違いを均し、目の出方の比率を抽出する過程は熱力学的でも、一回の放り投げで一つの目が決まることは、熱力学的とはいえないように、波束の収束も、元の情報が変質する現実的過程であるにせよ、それを熱力学的拡散と等置するのは早計です。ある状態についての情報が、観測という圧縮された座標系では一度に取り出せないことを、直ちに熱力学的拡散と等置するのは、既に述べた、真偽の視覚的一挙性モデルの効果を受けています。但しこの問題を論じるには、拡散過程と時間についての哲学的議論が必要であり、今回は残念ながら紙数上、その議論はお預けです。しかしここまでの議論から、実験的確証に忍び込む一挙的明証性への要求が、言語的演算と幻想から配給されていることは、十分理解されたと思います。つまりその実在性概念は、相互否定的な二領域の、古典力学的かつ古典論理学的な排他化に由来しており、それゆえこの単純な排他性が駆動しない、量子世界と主体の言語以前的思考の双方において、選言演算子∨の特異性に由来する分配束の解離という、同形の帰結が、奇しくも現れるわけなのです。

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