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訪問・竹内公明(陶芸家)



 
「公明先生の個展がホテルニューオオタニの寛土里(かんどり)で、あるんだって」という電話を友人からもらった。竹内公明先生に初めてお会いしたのは、以前、愛知県常滑(とこなめ)市に旅行し、駅近くにある共栄窯(きょうえいがま)の陶芸教室に参加した時だった。公明先生はよれよれのジーンズにジャージ姿、気さくで親しみやすい素朴な笑顔が印象的だったけれど、いざ作りはじめると、初心者の私に対してもけっこう厳しく、「しっかり、練らなきゃだめだ」と最初に土をこねる「菊練り」の段階で、こねてもこねても「まだまだ」という先生の言葉にちょっと音をあげそうになったほど。その後、共栄窯主催の飲み会に参加し、公明先生が「ブルーハワイアンボーイズ」のリードボーカルで歌うのをながめ、イベントで来ていた沖縄のバンドの人達と一緒にエイサーを踊り、夜が更けるまで飲んで騒いだだけで、実際、公明先生がどんな作品を作るのか、失礼なことに全く知らずに帰ってきてしまった。
ところで、愛知県常滑市は、瀬戸、備前、越前、丹波、信楽と並び、日本六古窯(にほんろっこよう)のひとつで1000年近い歴史をもつ焼き物の産地。常滑焼と言えば、一般的には急須が有名なのだが、個人作家としては、戦後の陶芸界にキラ星のように現れて一世を風靡した江崎一生(えざきいっせい)という巨匠がいる。瀬戸の加藤唐九郎、備前の金重陶陽と同様に、古陶の研究や技法の再現を通して独自の作風を確立した陶芸家である。こんな書き方をすると、まるで陶芸通のようだが、無論教えてもらった話である。なかなか連絡がつかない公明先生とのパイプ役になってくれた共栄窯のカズさんという頼れるお姉さんによると、公明先生は、10年前に亡くなられた江崎一生氏に直接師事し、その作風を受け継ぐ数少ない陶芸作家のひとりなのだと言う。

寛土里での公明先生は、第一印象とはまるっきり違い、ネクタイにスーツ姿というきりっとしたいでたちで立っていた。ガラス越しに並んだ先生の作品までも、よそ行きの風情で並んでいるので、ちょっと緊張。思いきって、中に入って声をかけると、優しい笑顔のあの時の公明先生だった。陶芸ギャラリーとしてその筋では名の通った寛土里で個展を開くのは十一回目、二年に一度の割合なので、もう、二十二年も続けていることになる。常滑生まれの公明先生が陶芸をはじめたのは中学時代。やきものの街らしく、学校でさえ30台くらいの轆轤(ろくろ)を持っていたというのだから、中学生が焼き物をはじめるのは、そんなにめずらしい事ではなかったと言う。中学を卒業後、常滑市立陶芸研究所に入所。そこで、出会った江崎氏に、みっちり、轆轤ひきから教わったそうだ。常滑焼には、平安末期から鎌倉、室町にかけて焼かれた壷や鉢を総称して古常滑(ことこなめ)と呼ばれる物がある。土から窯の形、焼き方まで、現代の常滑焼とは違うのだが、書物が残っているわけでもなく、研究している人すらいない状況で、江崎氏は、残された陶器のかけらと古い窯跡を頼りに古常滑の再現に取り組み、その中で古常滑の特徴を生かしつつ現代にマッチさせた「江崎スタイル」を作りあげた。
師匠としての江崎氏は公明先生にとってはどうでした?と訊ねてみた。
「もう、轆轤引きがいやになるほど口うるさい存在でしたね。作品に対してはいつも厳しくて、かといって、細かく教えてくれるわけではなかったんですけれどね。ただ、74歳で亡くなられた時には、10年という長い闘病生活だったので覚悟はしていたのですが、やはり、悲しかったですよ」とおっしゃる公明先生、言いがたく寂し気な様子が、江崎氏の存在が公明先生にとって、いかにおおきな存在だったかを窺わせる。
「特に大皿のラインについては厳しかったなあ。曲線の最後のところに直線を出して、のびていく余韻を空間に感じさせるように、とよくおっしゃってたんだよね」
皿を指差しながら説明する公明先生の作品にはまちがいなく江崎一生氏の意志が生きているんだと思うと、不思議な感慨が胸に湧いてくる。もちろん、江崎氏と公明先生の作品が違うのは言うまでもないのだけれど。
公明先生は、現在、共栄窯のセラミックアートスクールの校長を務めながら、作品は自宅の窯で作る。得意なのは釉薬に灰を使う「灰釉(はいゆう)」と釉薬をかけずに焼く「焼き締め」。寛土里に並べられた公明先生の作品を見てみると、ダイナミックな大皿や自然になめらかな曲線の壷の姿のなかに、繊細でどこかモダンな表情が浮かび上がる。そして、うまく言い表せられないのだが、長い年月をかけないと出てこない作り手の息吹きみたいなものに圧倒されるような気がした。
常滑には焼きものに適した土がいろいろあるそうなのだが、公明先生が使うのは山を歩きながら捜しまわって見つけた古常滑の山土。土を指で掻き、爪がひっかかって筋が走ると、昔使われていた土だとわかるのだそうだ。
「今、うちには一生かかっても使いきれない程のいい土があるんですよ」とうれしそうに言う公明先生。
訳を聞いてみると、アパートを建てるために土地を造成していた業者さんから、古いかめが出てきたと連絡があり行ってみると、かめが埋まっていた土そのものが古くて素晴らしい土だったそうだ。頼んで安くわけてもらったその量は、なんと30トン。家の側でひっそりと公明先生の手にかかる時を待っている。
11月には家の田んぼで野焼きをすると言う。野焼きとは、窯を使わず地面に直にわらを積んで、そのなかに、形成した作品を並べ焼く方法。毎年、共栄窯の仲間を中心に30人ぐらい集まって、飲んだり食べたりしながら、焼きあがりを待つのだそうだ。個展の前に、山に行ってつるをチェックし、めだたないように印をつけてきたという何十年ものの「じねんじょ」も食べられる。是非いらっしゃいとのお言葉に甘えて、行ってみようかな。灰釉の茶碗でお茶を飲みながら、公明先生のまわりに集まる楽し気な常滑の空気を思い出している。


 

 

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