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◆◇◆ メールマガジン【いなむらL7通信】 第7号
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2001/9/20 vol.07
編集部より
あんな悲劇が起きて、
世界情勢が慌ただしく変化している今日このごろ、
「のんびり○○○してていいのかしら?」
さて、あなたなら○○○に何が入りますか?
さしずめ編集部なら「メールマガジンの発行なんか」が入るわけですが、
やっぱり、これはこれでいいのだと結論する次第です。
でも「のんびり」には抵抗ありますんで、少なくともちゃんと考え、
意見くらいは持つように努力しましょう、みなさんも。
また、質問、感想、お待ちしてます。
(keito@k-hosaka.com)
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■■■ 芥川賞作家・保坂和志公式ホームページ ■■■
■■■ 【湘南世田谷秘宝館】 ■■■
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■■■ 未発表小説『ヒサの旋律の鳴りわたる』をメール出版中! ■■■
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★☆★----------もくじ--------------------------------------------★☆★
■今月の特集【訪問】 宮いつき(画家)
■連載【小説論番外篇】vol.07「大事件と小説」 保坂和志
■ゲスト劇場・第四回 「きぬごしギャラリー発」(くま)
■今月の【わたしのオススメ本】(オススメ人)
◆「だじゃれすいぞくかん」文・中川ひろたか 絵・高畠純/絵本館(よ)
◆「ロッティーとハービー なにもかもタオルのおかげ」作:ペトラ・マザ
ーズ 訳:今江祥智&遠藤育枝 BL出版(おくい)
◆『ナイン・ストーリーズ』 J.D.サリンジャー 新潮文庫(いそけん)
■今月の【わたしのオススメ音楽】(オススメ人)
◆羅針盤『ソングライン』(ワーナー WPC6-10089)(そのは)
■今月の【私のオススメ】(オススメ人)
◆馬3!(えぞももんが)
◆店「どんぐり舎(喫茶店・西荻窪)」(ごい)
■連載【稲村月記】vol.06 『テロビ番組』高瀬がぶん
■連載【興味津々浦々】vol.07「ジャパニーズ・ガウンの巻(6)」春野景都
■編集後記
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★次週特集予告★2001/10/20 配信予定
<陶芸家 竹内公明、ろくろをまわして三十数年>
常滑で出会った公明先生の大皿は、見てるうちに触りたくなり、
その皿に何をのせようかなどと、考えるようになると、
好ましく料理を盛り付けた姿が頭の中に浮んできてしまって、、
つい、自分のものにしたくなるのね。魅力的なのは作品だけじゃない、
沢山の人を惹き付ける、そのお人柄を探ってみます。
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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆今月の特集◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
■【訪問】宮いつき(画家)
絵画における人物像の表現性について、、たしかこんなようなものだったと思う
のだが、、わたしが書いた大学の卒論の題名で、今考えるとよくもまあ専門的に
美術を勉強してたわけでもないくせにこういう題材を選んだものかと自分でも驚
いてしまう。
これは「左右性に関する考察」という副題もついていて、画家の生い立ちやら性
格、画風などから絵に映し出された表現性を、その頃流行りはじめた脳と身体の
左右性にからめて考察するというとんでもなくひとりよがりな展開で書きすすめ
た、ほんとに今考えてもおそろしいほど恥ずかしい論文だったと思う。でも、そ
のころから、たぶん絵そのものの世界というより、絵が映し出すもっと画家に近
寄った世界に興味があったのかもしれない。いったいこの画家はどうしてこうい
う絵を書くようになったのだろうか、モジリアニが首の長い女性の絵を好んで描
くのは、自身が気管支をわずらっていたことからくる憧憬の表れでとか、モジリ
アニが聞いたらほっといてくれと言いいそうだが、それでも、気になる絵という
のはそんな読みをしたくなるような様々な誘惑がある。
・・・・・・つづきはWEBページで・・・・・・
◆◇◆この続きは参照写真付きの、以下のWEBページでお楽しみ下さい◆◇◆
http://www.k-hosaka.com/inamura7/miya/miya.html
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■連載【小説論番外篇】vol.07「大事件と小説」 保坂和志
9月14日の『小説修業』の発売を前にして、日本時間の11日の夜10時ち
かくに世界貿易センタービルにジェット機が突っ込んでしまい、それから24時
間以上たったときに「あーあ、発売のタイミングが悪いよなぁ」と思った。売り
上げうんぬんのことではなくて、「こんなときに小説のことなんかばかり考えて
……」という気持ちが、小説のことしか考えていないと広言してはばからない私
自身にもやっぱりどうしてもあるからだ。
それを乗り越える消極的な理由付けならすぐにいくつか考えつく。(1)大事
件に自分の気持ちを連動させてしまったら、大政翼賛会や文学報国会のようなも
のになってしまう。(2)私が一番時間をかけて考えつづけてきたことは小説で
あって、政治ではない。何か事が起こったからといって、突然それについて考え
ても、ろくなことが考えられず、結局そのときどきの時流に同調するだけだ。
……
しかしこれらは「それをしない理由」であって、「小説をする」理由にはなっ
ていない。理由とか動機というのは、比較を越えて無条件に何かをすることだ。
私がよく使う例をまた使えば、恋人とは他との比較によって選ぶものではなく、
「この人」といきなり思うものだ。大事件が起きると、「この人」といきなり思
うことと同じはずだった私にとっての小説が揺らぐ。そして小説というのが、個
人の内面を描くとても閉じたものに感じられてくる。――――しかし、私は小説
を「個人の内面を描く閉じたもの」とは思っていなかったはずじゃなかったの
か。
ということは、今回のようなある限度を越えた大事件があると、自分がそれま
で積み重ねてきた「小説」に対する定義が揺らぐ、ということらしい。
混乱といってもいい。たとえば書店で山と並んだ本を見て「こんなときに場違
いだな」と思うそのとき、私はそこにない自分の本まで「場違い」の仲間に入れ
ている。しかし本当はほとんどすべての本はいつだって「場違い」で「呑気」な
のだ(国際情勢について書かれているほとんどの本だって、「場違い」で「呑
気」なのではないか)。それまで私が自分の本を「場違い」で「呑気」だと思っ
ていなかったのは、私には小説について考えつづけた積み重ねがあると自負して
いたからだ。実際、私の根拠といったらいつもそれしかないのだが、今度のよう
なことがあると、本の意味を測定する自分自身の視点が、事の大小で測る人達の
視点(「保坂和志の小説は事件が何も起こらない。つまり平和ボケの最たるもの
だ」という視点と言ってもいい)と同化してしまうらしいのだ。
混乱はそれだけではない。私は事の大小で測る人達を読者と想定して書いてな
んかいなかったのに、上のようなことを思うとき、私はそのような人達を読者と
して想定しているかのような混乱を起こしているのだ。だいたい私は書いている
ときに特定の読者なんか想定していなかったはずだ。小説は読まれるものだけれ
ど、小説を書くという作業の最中では、小説は「読まれるもの」以前の段階にあ
って、ただひたすらこれから姿をあらわしてくるものなのだ。小説にはそれぞれ
に個別の原理や運動があり、それを見つけ出し、ただそれに忠実であろうとする
ことが小説を書くということで、そこには読者を想定している余裕なんてない。
――つまり、私は三重にも四重にも私と社会一般を混乱させてしまっている。
話が3段落前に戻るが、「自分がそれまで積み重ねてきたもの」「考えつづけ
てきた」と自負していたものを、大事件を前にして私は忘れてしまうのだ。
「大事件を前にして忘れる(揺らぐ、失う)程度の積み重ねなら、所詮たいし
たことはない」というのは、全然間違っている。
自負、自身……それらはいつでも揺らいでいるもので、絶対にびくともしない
ということはありえない。あの、反省というフィードバック機構をいっさい持た
ないかのように見える、自信に満ちて揺らぐことがまったくないかのように見え
る石原慎太郎だって、ちょっと困ったことがあると、チックが強く出て瞬きが頻
繁になるではないか(だから彼は意外にも繊細で、社会に対してああいう振る舞
いをして見せているだけで、本当はやっぱり文学者なのかもしれない)。たまに
女優とか女性作家に、本当に驚くほど周囲に無関心で、何が起きてもびくともし
ない人がいるけれど、そういう人はいわば「軽度の恒常的狐憑き」みたいなもの
で、思考とは別のところで生きている。あれを「自信」とか「自負」とは言わな
い。――などと、こんな与太話に逃げている場合ではない。
自負とは自分とそれを取り囲むものとの不断のフィードバックによって維持さ
れるものなので、唯我独尊のような自負はありえない。だから大事件を前にした
ら、自負は絶対に揺らぐ。
ということは、結局私が小説をする理由は、消極的な理由付けとかぎりなく近
い理由しかなくて、「それだからこそいいんじゃないか」としか言えないのかも
しれない。数学の公理のように、すべてがそれを使って解くことができるような
確固としたものは、誰にもない。あることの方がおかしい。「考える」とは、つ
ねにそれについて考える自分を巻き込む構造を持っていて、自分が巻き込まれた
ときだけリアリティを持つ。
この結論(?)だけ見たら、何が起こってもマイペースで小説だけを書きつづ
けている人と変わらないかもしれない。そう思う人を説得する根拠を私は持たな
いし、まあ、そういう人を説得しようとは思わない。じつは今回の文章はテロ直
後に「折々の保板」(当HPの2つの掲示板の一方のこと)に書き込まれた、
「ああいうことが起きると自分の無力さを実感し、どうすればいいのかわからな
くなる」という主旨の、サムソンさんの戸惑いに対する私なりの答えのつもりも
半分くらいあって書きはじめたのでしたが、どうもサムソンさんの戸惑いとは的
を外してしまったようです……、いまのところ。
ところで、ダイアナ妃が死んだとき、私は何も感じなかった。私はそれほどダ
イアナ妃に対して無関心だったわけだけれど、最近、急にかつて世界の多くの人
がダイアナ妃に過剰とも思える思い入れをしていた理由がわかってきた。
エイズ、饑餓、地雷……など、ダイアナ妃は自分と無関係に見えることに過剰
とも思える思い入れをすることのできるタイプの人間のまさに典型だったのだ。
しかもその人は、形だけのお悔やみを言っていればいいことになっていた王室の
一員だった。
阪神大震災のときも今回も、何か大事件や災害があると、大々的な救出活動を
してたった数人の人を助けることしかできない。たった数人の人しか助けられな
いことがわかっているのに、大々的な救助活動をアリバイ工作のようにして見せ
る。メディアは「1人助かった」「2人助かった」ということに、全体の状況を
忘れているかのように時間とスペースを費やす。経済全体が危機なんだから、た
った数人のためにあれだけのヒト・モノ・カネを投入するよりも、もっと有効な
使い道があるんじゃないか。しかし「効率が悪い」という理由で、まだ生きてい
るかもしれない人を助けようとしなかったら、国際的な非難がくるだろう。政府
はただそれを恐れているだけなのではないか。
極端なことを言ってしまえば、救出活動一般を私はそれぐらいのことに感じて
いた。
しかし宗教のエピソードには必ず、「あまりに効率の悪い救出」が出てくるこ
とに思い当たった。たとえば、あるお寺に仏像を作るためにみんなが寄進した金
で買った銅があった。そこに貧しい家族がやってきて「わたしたちはもう三日も
何も食べていないのです」と言うと、寺の禅師が仏像を作るためにそこにあった
銅を「これを金に換えなさい」と言ってやってしまう。弟子たちが「仏像を作る
ことは、たかが一家族を救うのとわけが違う」と言って、禅師の真意を質すのだ
が、禅師は「私はこの罪によって地獄に落ちたとしても、人を救わねばならな
い」と答える、というような話。
もちろん現代はヒューマニズムの時代だから、ヒューマニズムに沿ったエピソ
ードが語られ、ヒューマニズムに反したものは隠蔽されているのかもしれない。
宗教の本質はやっぱり1個人の救済なんかではないのかもしれない。原理主義は
イスラム教もキリスト教も1個人の救済なんか考えない。しかし「あまりに効率
の悪い救出」はヒューマニズムということではなくて、不合理であるがゆえに記
憶に残る。「あまりに効率の悪い救出」に関する宗教のエピソードは、ヒューマ
ニズム以前の時代のエピソードだ。(本筋と違うけれど、マホメットが昼寝から
覚めて立ち上がろうとしたら着物の裾で猫が昼寝をしていて、猫の邪魔をしない
ように裾をハサミで切って、立ち上がったというエピソードもある。)
莫大なヒト・モノ・カネを投入してたった1人の命を助けようとするのは、現
代の国家(という宗教)の根幹に関わることなのだ――というのが、政治的な観
点からの合理的な解釈かもしれない。しかし人は目の前にいるたった1人を救う
ことしかできない。人1人が1人の人を救えるだけでも凄いことなのだ。これが
まさにダイアナ妃が実践しつづけたことだったのではないか。
ちょうど「折々の保板」におくい君が『生きる歓び』の14ページから15ペ
ージの、「人間というのは、自分が立ち合って、現実に目で見たことを基盤にし
て思考するように出来ている……人間の思考はもともと『世界』というような抽
象でなくて目の前にある事態に対処するように発達したからで……」というとこ
ろを引用してくれていたけれど、私はそういうことがよくわからない人間であっ
たことを、はからずもこの箇所で証明してしまっている。はじめからこういうこ
とがよくわかっていた人間だったら、わざわざこんなことを書くだろうか(い
や、書くかもしれないけど)。
目の前で起こっていることに懸命になるということは、たんなるヒューマニズ
ムを越えたことなのではないかと思う。『世界を肯定する哲学』でたしか繰り返
し書いたと思うが、思考することとは身体に書き込むことだ。人間は抽象概念を
操作するだけではきちんと考えることができないようになっていて、いったん自
分の肉体の次元に落とし込まなければ何も考えられない。
王室という最も形だけの哀悼を表明する伝統の中から、それを壊して、自分の
肉体のレベルで、戸惑い、ひとつひとつの行動をはじめてしまったのがダイアナ
妃で、ダイアナ妃は目の前にいる1人を救うことだけを考えるようなタイプの人
間だった。ということは、彼女はこの世界にある悲惨を前にして、人間という存
在の無力ぶりを実践した人間だったということだ。行動を起こすのは自分の無力
さを知っているからで、英雄を夢見る人間は行動を起こせない。行動とはつまる
ところ、たった1人を救うことなのだから。
だからやっぱり私は政治についてはいままでと変わらず考えず、小説のことを
考えるだろう。行動は小説と無縁のところでやるしかないんじゃないか。たとえ
ば死にそうな子猫を拾ったり、車椅子を押したり、募金をしたり。親が痴呆にな
ったらその世話をしたり。それが「個人の小さな幸せを守ろうとするせこい根
性」だと言われたら、私はそのつど、「英雄的な成果を夢見ることは、あなたの
『自分は何者かである』という想像界を守ることでしかなく、それこそがせこい
根性なのだ」と証明するだけだ。
で、これが大事件と小説との関係のいかなる解答になっているか?
解答というよりも私の態度表明みたいなものだけれど、ここに書かれているこ
とは、1本の思考の流れでなく、羅列とみなして、最もふさわしい形に配列しな
おしたら、まあ、それなりのものになるかもしれない。が、全体に感じられるこ
のテンションの高さは怪しい。高揚したとき、そんなにまともことを考える人が
いるだろうか。高揚は瞬間的にはすごいことを生み出す可能性もあるけれど、全
体としてはやっぱりねえ……。でも、それでもなんでも、やっぱり大事件が起き
たらそのつど動揺して考えようと思う。自分の動揺の特徴をある程度把握してお
いた方が、もっと大きな大々事件が起きたときに、その動揺に翻弄される度合い
を小さく抑えることができるはずだから。
しかしそれでも、と思う。大事件を前にして本当のところ人は何に動揺してい
るのだろうか。大事件を前にして、人は人1人の存在の大きさをあらためて発見
しているのかもしれないとも思う。人間1人が持っている情報の大きさというの
は本当にすごいものだ。そのことは次回書こうと思います。
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■ゲスト劇場
●「きぬごしギャラリー発」ピノコとミーは舟でゆく BY/くま
13枚のスナップ写真があるフォトエッセイです。
http://www.k-hosaka.com/inamura7/kuma/kuma.html
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まぐまぐ版「いなむらL7通信」配信登録・削除ページのご案内
http://www.k-hosaka.com/inamura7/inatu.html
上記URLで登録・削除ともできますが、創刊号0号より申し込んだ記憶がない
にもかかわらず配信され、尚且つ、そんなもの読みたくない!、という方が
おりましたら、ごめんどうでも以下メルアドまで「よせ!」とメール下さい。
また、こちらの手違いで二重配信されている方がおりましたら、これまた誠に
申しわけございませんが、「やめろ!」と、メールにてお知らせ下さい。
gabun@k-hosaka.com 高瀬がぶん
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今月の【わたしのオススメ本】
■「だじゃれすいぞくかん」文・中川ひろたか 絵・高畠純/絵本館
タイトルどおり、水の中の生き物たちに関する駄じゃれを並べた、ただそれだけ
の絵本。ほんと、くだらない。どれくらいくだらないかというと、「フトンがふ
っとんだー」とか、「内容がないよぅ」とか、それくらいのレベルでくだらない
。ちっともかわいくない水の中の動物たちの絵といっしょにそんな駄じゃれが並
んでいるこの絵本は、ゆっくり読んでもたぶん10分は掛からないで読めてしま
うのだけれど、この絵本の中のきれいにキマッテいる駄じゃれも、ちょっと無理
のある苦しい駄じゃれも、全部ひっくるめて、「ほんとバカだよなー」と笑う「
バカ」の加減はけっして「バカにしている」の「バカ」ではなくて、フンッと鼻
で笑いながらも心が楽しくなってくるのがホント不思議で、でもとても気持ちが
いい。おすすめ。姉妹品に「だじゃれどうぶつえん」もある。(よ)
■「ロッティーとハービー なにもかもタオルのおかげ」
(作:ペトラ・マザーズ 訳:今江祥智&遠藤育枝 BL出版)
ロッティーがレモンをしぼっていますと――小包がとどきました、と始まるこの
作品は、にわとりのロッティーとその彼氏(彼鳥?)のハービーが体験した出来
事を描く「ロッティーとハービー」シリーズのうちの1冊で、とても洗練された
上品でかわいらしい絵本。
その小包の中身はマッティーおばさんから届いた1枚のタオル(赤い地に白の水
玉模様)で、ロッティーは海でのデートにタオルを持ってでかけ、そこであれや
これや、想像もしなかったことにまでタオルが役に立った、という素朴で楽しい
話が語られてて、しかも絵がまたよくて、なんていえばいいのか、あみものをし
たりレモンをしぼったりしてるロッティーの仕草が、さりげなくリアルになじん
だ風に描かれてるというのが、いい。アクリル絵の具と水彩絵の具でおそらく描
かれてるその絵の質感がまた独特で、かわいらしい仕草や細部の効果がひきたっ
てるし、涼しさも感じるほどに洗練されてる。
1ページに2コマという構成もあって、ちょっとした短編アニメをみるような感
じ。読むとタオルが好きになる!?(おくい)
■『ナイン・ストーリーズ』 J.D.サリンジャー 新潮文庫
いまどきこういうことを言うとどう思われるのか判らないけれど、それでもやっ
ぱり僕はサリンジャーが好きだ。思春期に三島由紀夫を読まずに、ポップを聴き
、サリンジャーを読んだというのは決定的な選択だったんだと、いまにして思う
。猫を撃ち殺すような人間を徹底的に憎む(「エズミに捧ぐ」)、ある種の強度
を必要とする生き方を選択したのだ。
「ナイン・ストーリーズ」に収録されている短編には見事な構成の作品が多いが
、明らかな失敗作もある。「ナイン・ストーリーズ」を読みながら、いま僕(た
ち)が生きているのはサリンジャーが沈黙してしまった後の時代であり、沈黙せ
ずに生きるためにはどうすればよいのかを考えるべきなんだと思う。むしろ昔読
んだことのある人にこそ再読を勧めたい。 (いそけん)
今月の【わたしのオススメ音楽】
■羅針盤『ソングライン』(ワーナー WPC6-10089)
今年のフジロックでも好評だったらしい羅針盤の最新作にして個人的には最高作
だと思う3rdアルバム。2000年に最も多く聴いた盤のひとつ。いまだによく聴い
てる。
ほかの何ものにも代えがたい羅針盤の魅力ということになると、それは山本精一
氏の歌(声)ということにつきる。緩急、ズレ、間、リフレインを活かした浮遊
感のある楽器の重層的な響きに支えられた歌は少し怖いくらいに穏やか。丁寧だ
が、決してうまくはない。
しかし、エモーションとでも言えばいいのか、内奥に込められた熱量を感じる。
歌っぽくないフラットな発音・発声による歌唱には、即効性はないけど、繰り返
し繰り返し聴いていると低温火傷のように深く深く深いところまでやられます。
歌で何かを伝えたいとか表現したいとかではなく、歌そのものに向けて歌われる
歌。簡単な言葉による詞は視点がごく近くにあるようでもとても遠くにあるよう
でもあり。じんわりと沁みてくるサイケデリア。(そのは)
今月の【私のオススメ】(オススメ人)
■馬3!(えぞももんが)
日刊スポーツの競馬面で長年掲載されている、日刊コンピという表がある。
この表について簡単に説明すると・・・
レースごと、それぞれの馬に40から90までの点数がつけられている。
数字が意味するものは、この馬は、このレースで、どのくらいの能力で走ること
ができるか?というものだ。
無論、「1番点数のいい馬が」必ず1着になるということはなくて、2着さえこな
い確率は約半分くらいある。
飯田さんは、例えば、「1番点数のいい馬が73、2番目が69で、8番目に52がある
レースは、4番目と5番目から、6番目から10番目の馬を買うとよく当たる。」と
いうことを見つけ出して馬券を買っている。
普通に競馬をやってる人がほとんど買う「1番点数がいい馬」は買わないことで
、高配当を的中している。
競馬をやっているのに、競馬の話しをしても通じない人。なのに、とんでもない
馬券ばかり当てる人なのだ。おしまい?
今月の【私のオススメ店】(オススメ人)
■どんぐり舎(喫茶店・西荻窪)
駅から北にまっすぐ歩いて2、3分。住宅街の四つ角にある小さなお店はたくさ
んの植木に取り囲まれていて看板が目に付きにくい。店内はクラシックというよ
りは古ぼけた感じで、それがいい味を醸し出しているのは家族で20年以上も続
けているからだろうか。カウンターの中ではおばあちゃんがコーヒーを点ててい
て、それを足の悪いおじいちゃんが運んできてくれる。ガタガタという音ととも
にちょっとぐらいはソーサーにこぼれてたりするが気にしない。スポーツ新聞に
目を通しながら自家焙煎のうまい「ほろ苦ブレンド」をすすっていると、奥から
晩ごはんの献立を相談する声が聞こえてきたりして笑ってしまう。ザラザラとい
うノイズをたてて流れているジャズも気取りがない。もともと嫌いではないが、
とりたてて好きでもないコーヒー。だから喫茶店に足を運ぶことなどめったにな
いのだけど、散歩がてらに古本屋をハシゴしているとついつい寄ってしまう店な
のだ。
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読者投稿【わたしのオススメ】コーナーのお知らせ
みなさんのお気に入りの本、映画、音楽、芝居、飲み屋、雑貨、漫画など、
なんでもありのオススメ文を募集します。
字数は本文のみ(題名、名前、出版社などは別)400字以内
オススメの理由や感想など書き方は自由ですが、自分らしいものをお願いしま
す。一応その月の〆きりは毎月10日、構成その他の都合上、必ず載るとは限り
ませんが keito@k-hosaka.com まで、待ってます。
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■連載【稲村月記】vol.06(フォトコラム) 高瀬がぶん
◆『テロビ番組』
一機目の旅客機が世界貿易センターに突っ込んだ直後から24時間以上、チャンネ
ルをあっちに回しこっちに回し、ずーっとテレビ画面を見続けていた。おそらく
こんなことは、1972年に起こった連合赤軍の「浅間山荘事件」の報道以来、
29年ぶりのことだ。
※この続きは、写真付きWEBページでお楽しみ下さい。
http://www.k-hosaka.com/gekki/gekki06/gekki06.html
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今までの「ジャパニーズ・ガウンの巻」を読んでいない方はこちらから。
その1 http://www.k-hosaka.com/inamura7/ina01.html#silk
その2 http://www.k-hosaka.com/inamura7/ina02.html#silk
その3 http://www.k-hosaka.com/inamura7/ina03.html#silk
その4 http://www.k-hosaka.com/inamura7/ina04.html#silk
その5 http://www.k-hosaka.com/inamura7/ina05.html#silk
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■連載【興味津々浦々】vol.07
「ジャパニーズ・ガウンの巻(その6)」春野景都
蚕といっても、あの白い幼虫の他に様々な様相の蚕がいることを、わたしは清水
さんの研究室で初めて知った。もともと蚕は野山に生息していたクワコを、人間
が効率よく絹糸をとるために品種改良をかさねたもので、4500年程前の中国の遺
跡から絹織物が出土していることを考えると、ほんとうに長い時を経て、今の蚕
ができあがったことになる。クワコは今でも野山に生息しているが、蚕は人間の
世話なしには、もはや、生きていくこともできない昆虫なのだ。もちろん飛ぶこ
ともできない。また、雑木林でくぬぎやカシの葉を食べて生きているヤママユガ
の幼虫は天蚕(てんさん)と呼ばれ、清水さんの部屋のいたるところで優雅に葉
っぱを食べていたが、まるで翡翠のようなつややかな緑色でむちむちと気持よく
太っていた。試験場の外でも囲いをして飼っているのだが、その太った幼虫を食
べに猿が山から降りてくるそうで、さなぎになる直前が一番おいしいらしく、不
思議なことに猿もその時期をちゃんと心得ているという。天蚕の繭もまた、優し
い色合いの薄い緑なのだが、それから採れる絹糸は金色に輝く神々しい色に変貌
していた。
自然の中で育つものを野蚕と呼ぶが、インドは有名な野蚕王国である。何十種類
にも及ぶと言われるインドの野蚕で代表的なのがタサールサン、ムガサン、エリ
サン。清水さんのところにあったタサールサンの繭は、腐りかけて乾いたグロテ
スクな巨大グミの実に見えたのだが、それから採れる糸は金茶色、織られた布の
色は木肌のように落ち着いていて、自然の力強さを感じさせる風合いで、これこ
そイメージ的にインドのシルクという感じ。もちろん、このタッサーシルクは有
名なんだけれど。また、ムガサンから採れる糸はゴールデンシルクと呼ばれ、優
雅な質感が美しく、エリサンはかなり家畜化(蚕に対してこういう言い方をする
というのも初耳)が進んでいて、中国やベトナムでも飼われているそうだ。
また、意外なことにアフリカでも繭が織物に利用されていて、マダガスカルのト
ゲカレハの繭で織った布を出してきた清水さんが「これ、何に使われると思いま
す?」と聞くので、なでたり、ひっくりかえしたりして、じろじろながめていた
ら、「死んだ人を包むんですよ」というのでびっくり。思わず、布を机の上に投
げ出してしまった。その繭も見せていただいたんだけれど、これまた奇妙、棘だ
らけなのだ。幼虫が繭を作る時に背中にはえている棘を繭の表面に埋め込みなが
ら作るんだとか。ちなみにこのさなぎは現地では食用として、市場で売られてい
る。日本もそうだが、繭に関してはそれぞれの国できびしい規制のもとに管理さ
れてきた。中国で始まった養蚕が東ローマ帝国に伝わったのが6世紀、シルクロ
ードによってヨーロッパに養蚕技術が伝わるまでは蚕そのものも国外へ持ち出す
ことは厳重に禁止されていた。日本だって、つい最近まで、1998年に「蚕糸
業法」が廃止されるまでは、卵から蚕を孵化させることも自由にできなかったん
だから驚きだ。
「今は中国の安い繭が輸入されるようになり、一時は何十万トンもあった日本の
繭の生産量が、今年は千トン以下になりそうです。むかしは日本のものは品質が
いいと言ってましたが、それももう、ほとんど格差がなくなってきましたからね
」と嘆く清水さん。
前回、群馬県は蚕、生糸生産量ともに日本一であると書いたところ、清水さんか
ら、「昭和30年代まで信州が繭生産、生糸生産量とも日本一です」とのメール
をいただいた(加えて「野麦峠」の舞台が群馬ではなく信州、岡谷地方だという
ことも)。いずれにしても、ひところは見渡す限りの桑畑がひろがり、養蚕農家
が一年間まじめに養蚕に精を出せば、家が一見建つほど儲けがあったというのだ
から、蚕糸業が群馬県にもたらした経済的な貢献はかなりのものだったのだろ
う。もちろん、それは群馬だけではなく、鎖国が解かれた明治時代、横浜開港に
ともなって日本の貿易の中心となったのは製糸・絹織物業なのだ。それが今で
は、蚕糸業に関わる工場も会社ももちろん、人材もどんどん減る一方で、「「日
本の絹が一番」と言われていた頃がうそのようにさみしい状況になってしまって
いる。京都西陣の着物さえも、大半が中国産の繭を使っているとも言われている
のだ。
色付きの繭というのも、少しでも、蚕や絹の存在を残していくためのなにかのき
っかけになればという思いから、染料入りでしかも害のない人工飼料の開発へと
すすんできた。実際見せてもらった色付きの繭は全部で11色、淡いパステルカラ
ー。手にとりながら「小学校の子ども達に見せたら喜ぶだろうなあ」なんてつぶ
やくと、「ポケットに入れてもってかえっても、ちょっとぐらいなら誰も気付き
ませんよ」と言う清水さん。お言葉に甘えて、ポケットがパンパンになるほどつ
めこんじゃった。
どうして色付きの繭ができるんだろうか、素朴な質問に清水さんは、フィブロン
とセリシンという蚕のからだのなかにある絹糸腺のタンパク質についての説明を
してくれた。むずかしかったので、ちょっとわたしには理解できなかったけれ
ど。あとで読んだ蚕の絵本から、蚕のタンパク質が衣服の材料の繊維としてだけ
ではなく、医薬品などバイオテクノロジーの有用物質としても可能性を秘めてい
ることなど、さまざまな研究がなされていることが書かれてあった。蚕の存在を
多岐に広げることは、家畜化させてきた蚕に対する人間の責任じゃないのだろう
か、と感じながら、たしかに、小学生が蚕を育てることによって、命を育てるこ
とはもちろん、賛否両論あるもののさまざまな実験を通して、子ども達の興味を
広げてくれる存在になっていることもたしかなのだ。
清水さんからいただいたのは、色付きの繭だけではなく、色付き繭をつくる蚕ま
で数百匹。報告がてら、その蚕を次女の小学校の先生にもっていくと、大喜び
でみんなで育ててくれることになった。
と、なんだか、椎野正兵衛、ジャパニーズガウンのことは忘れちゃったの?って
感じなのだが、いーえ、そんなにチョウ子さんは甘くはない。わたしが野蚕学会
に入ってみようかななんて考えながら、次女に割り当てられた数匹の蚕に人工飼
料を上げているそんな折、
「ねー、リヨンの絹織物博物館に別のジャパニーズガウンさがしにいかない?」
と言ってきた。
「えー、リヨンってどこの?」
「決まってんじゃない、フランスよ」 (つづく)
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■編集後記
前回ここで、家の庭になったオリーブの実を、熟したらサワー漬けにでもしてみ
ようかなって書いたら、小豆島出身のちいねさんからメールをいだだいた。小豆
島は、100年程前、日本ではじめてヨーロッパから持ち込まれたオリーブの栽培
に成功した土地柄なんだそう。オリーブの島の常識では熟したものは漬け込まず
に、まず油を絞るんですって。以下、そのまま転載。---昔、朝日新聞か何かの
記事に、「島の人たちはオリーブの塩漬けを毎日(!)一升も食べる」ってのが
あって、笑いました。日常的にはあまり食さないんですよ、島人は。それより、
オリーブ油で「お天ぷら」を作ると「おいしいんよ」といってますね。この「お
天ぷら」という言い方は、揚げ物が贅沢料理だった時代を思わせますが、信州・
諏訪地方でも、法事などのとき、おばあさんたちは「お天ぷら」といってまし
た。---ちいねさんありがとう。でも、あのひと粒のオリーブの実、22年ぶりに
鎌倉にやってきた台風のせいでどっかにいってしまったの。残念!でもそれより
も、なにもかも根こそぎ持ってっちゃうような台風よりも怖いやつが、どうぞ、
やってきませんように!
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2000/09/20 vol.07 メールマガジン【いなむらL7通信】7号
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