『夜戦と永遠』佐々木中氏インタビュー
「図書新聞」2009年1月31日号

「永遠の夜戦」の地平とは何か 聞き手・白石嘉治 松本潤一郎



重厚長大な『夜戦と永遠――フーコー・ラカン・ルジャンドル』(以文社)という書物が出版された。不可思議で魅惑的な表題であり、内容・文体はそれ以上に 魅力的である。著者の佐々木中氏にインタビューした。聞き手は、白石嘉治氏と松本潤一郎氏にお願いした。なお今回、以文社の前瀬宗祐氏に全面的にご協力い ただいた。記して感謝申し上げます。(収録日・12月10日、神田神保町にて。〔須藤巧・本誌編集〕)

「現在」をめぐって

白石 このたび『夜戦と永遠――フーコー・ラカン・ルジャンドル』(以文社)という六〇〇頁を超える大著が出版されました。この書物を無視して、おそらく 現代思想を語ることはできない。ここから静かなる鳴動がはじまるのだろうと思います。今日は私と松本潤一郎さんから、本書の著者である佐々木中さんにいく つかお話を伺っていければと思います。
松本 では、まず私から質問させていただきます。現在の言説状況に特徴的なのは、特に社会学や心理学の言説に顕著ですが、「社会」なるものを全体として与 件化し、俯瞰的視点から見下ろしたうえで処方箋を出すような態度です。無論、実は安心しているのは「答え」を出した当人であり、自身の問いの立て方がそも そも間違っているかもしれないとは考えない。「ない」ものを「ある」としたうえでその上前をはねる仕組みです。これは佐々木さんが論じておられるラカンの 言葉で言えば、剰余価値‐剰余享楽を獲得しようとする手順そのものであるわけですね。そしてフーコーも、こうした知の権力構造に生涯うんざりし続けた人 だったと思います。こうした「現在」をめぐる状況に、『夜戦と永遠』と題されたこの本は明確に対峙しようとしている、そう見受けられますが、このあたりの お話から聞かせていただけますか。
佐々木 仰る通り、この「社会」が、「現在」が、そしてその「現在の社会」を生きている「自分」が「分からない」という漠然とした不安が存在する。その不 安を利用して「知と情報」を所有していると思い込んでいる側が、所有していないと思い込んでいる人々を搾取している状況が確かにあります――「搾取してい る」とはっきり言いましょう。それに社会学をはじめとした社会科学が大きく関与しているのは否定しえない事実でしょう。ラカンの言葉で言えば、そこで知は 剰余享楽の対象aであり、「知っている自分」はファルス的享楽に参与するものにすぎない。それは過激に見えて、実は何も動かさない。だから僕はこの本でそ れを超過していく「女性の享楽」というものについて論じたわけです。
 ここでジャン・ジュネの素晴らしい言葉を引用しましょう。「大丈夫だ。まだ君は君のことを一番よく知っている人間じゃないか」。いま、多くの人は恐怖 し、怯え、苦しんでいます。「自分」と「現在」が分からないという、「無知」に怯えている。自分が何者なのか、現在はどうなっているのかを知らなければな らない、情報を得なくてはならない、それを知らなければ取り残される――そんな脅迫が遍在している。実は「自分探し」と「現在探し」は同じことです。そこ に「それを教え、説明してやろう」という人々がやって来る。搾取する側にいると思い込んでいる「彼ら」は世界をパッケージングされた全体とみなし、それを 認識する、つまり「見下し」ます。しかし、そのような「全体化された社会」を超越論的な自我として認識する「自分」を保とうとする努力は、それ自体が恐怖 に動機づけられている。実は彼らも、自分自身何も分かっていないのかもしれないという不安と恐怖に取り憑かれており、「自分」を、そして「現在」を説明し なければならないという強迫観念にまみれているわけです。だから彼らの多くは常に狂ったように「自分語り」をする羽目になる。
 「自分」と「現在」を説明しなければならない、そのためには知を、情報を得なくてはならない。この強迫観念には実は何の根拠もありません。ジル・ドゥ ルーズは「堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落だ」と言いました。ドゥルーズだけでなくハイデガーも、「情報」とは「命令」という意味だと 言っている。つまり、命令を聞き逃していないかという恐怖にまみれて人は動いているのです。命令に従ってさえいれば、自分が正しいと思い込めるわけですか らね。しかし、ここで卒然として「命令など知らない」と言えるはずです。何かを知らなければならない? そんなことは「知ったことではない!」とね。私の 現在は私のものだし、私は私のものです。自分も現在もここにあるのです。どこに探しに行く必要があるのですか? 何を知る必要があるのですか? 情報を、 つまり命令を聞かなくてはならないだなんて、誰が決めたのですか?
 フーコーも皮肉げに言っています。「哲学者の役割が、いつのまにか現在とは何かという質問に答えることになってしまった」と。繰り返します。われわれに 必要なのは「そんなのは知ったことか」と言う勇気です。「社会批評家」たちは、「すべてについてすべてを知っている」という幻想に縋る。だから彼らはいつ 何に対しても気の利いたコメントが言えなくてはならないという焦慮に苦しまなくてはならなくなる。そして「専門家」たちは、「ひとつについてすべてを知っ ている」という幻想に縋る。結局はどちらも幻想に過ぎないのです。こうした幻想に、こうした焦慮に、こうした脅迫に、具体的に抵抗しなければならない。こ うしたものは、知らない、わからないという苦しみと悲しみと恐れを、そして諦めを生むだけです。ラカンは、「すべてについてすべてを」そして「ひとつにつ いてすべてを」という欲望は、結局は無難で安全で何も変えない「ファルス的享楽」に帰着するにすぎないと言ったではないですか。
 知らなくていいではないか。知ってどうするのですか。わかってどうするのですか。こうした知と情報をめぐる搾取と恐怖の構図に具体的に抵抗しなくてはな らない。たとえ無知を誹られようが、必要ならば自覚的に無知を選び取らなければならないのです。それは政治的な抵抗そのもの「でも」あるはずです。

「書く」ということ

松本 『夜戦と永遠』で目を惹くのは、まずその物体としての分厚さ、そして一見冗長とも思われる異様なまでに緊迫した文体です。そこでは畳み掛けるように 「何も終わらない、何も」という語句が繰り返され議論がすすむ。ここではウィキペディックな時代の趨勢を粉砕する、「書く」行為が実践されているように思 えます。またそれこそが佐々木さんの「賭け」でもあったと思うのですが、いかがでしょう。
佐々木 「すべてについてすべてを」語ろうとする「社会批評家」の書き方、そして「ひとつについてすべてを」語ろうとする、限られたマス目を塗りつぶそう とするような専門家の書き方は、結局どちらも、あえて言えば「全体主義的」な、「ファルス的」な欲望に根ざしているにすぎない。われわれには、このような 貧しい二者択一しか許されていないのか? この現在という時代にあっては? 断じて否である。そう言いましょう。
 つい最近までラカンもフーコーもドゥルーズも生きて書いていたのですよ。ベケットは僕が十五歳の時まで生きていました。ルジャンドルはまだ矍鑠としてい ます。日本語圏で言えば、中井久夫も大江健三郎も古井由吉も生きて書いている。何ひとつ不可能になったものなどないのです。まさに「何も終わらない」。彼 らのように、貧しい二者択一を拒否する力強く活気に満ちた「別の」書き方ができるはずでしょう。現にそれらはわれわれの目前に存在するのですから。
 こんな挿話があります。記者から「『アンチ・オイディプス』は難解で専門家でも理解できないと言われていますが」と問われて、ドゥルーズは「分からない のは専門家だけです」と平然と答えた。実際に彼は、看護師や港湾労働者が読んでくれて、彼女ら彼らから熱心なファンレターをもらって感激したと言っていま す。ドゥルーズはそれを「遭遇」と言います。確かに入門書も読まず学歴もなく正規の教育課程も踏まない人々に、あのような二〇世紀屈指の難解さを誇る本が 読まれるというのは「遭遇」どころか「奇跡」に近いことでしょう。しかし、それくらいの奇跡はこの世界で簡単に起こるのです。遠く及ばずながら、

『夜戦と永遠』もその点では幸運でした。専門家でも何でもない人たちが楽々と読み切って面白がってくれている。二十歳前後の若い友人たちから早速楽しく読 んだと連絡をもらったりね。
一方で、ある大学の教師から「質量ともに、この本は読者の能力を無限に高く見積もった本だ。そんな本を一般の人は読めるのか」と聞かれたこともありまし た。読めます。ラカンやフーコーをまったく知らなくても読める。そもそも読者の能力を低く見積もって、「わからないだろうからやさしく書いてやろう」とい うのはファルス的な態度です。読者を見下して馬鹿にしている。そんな書き方がいつも許されるわけがない。たとえば大江健三郎の『ピンチランナー調書』を読 むのに何か入門書が必要ですか? 古井由吉の『眉雨』を読むのに? 無造作に掴みかかるように読めばいい。それだけの話です。
 フーコーやラカンがなぜこんなに誤解されているのか。知を金銭のように考えているからです。知を蓄積し、知の元手を作り、利回りを考えて投資し、損失が 最小限度になるように「情報のポートフィリオ」をつくってバランスよく知を増やしていく――そして老後は安心というわけです。インフレと恐慌に怯えながら の安心、自分が「所有」している知の価格の暴落に怯えながらの安心ですが。しかし、ラカンやフーコーはこうした考えとは全くかけ離れたところでものを書い ている。「俺は知識の金持ちだ、その俺を見ろ」。うんざりするほどこれは剰余享楽とファルス的享楽の枠内にあることであり、その程度の享楽にできることは 何もないのです。そうした享楽に溺れている人々には窺い知ることのできない「何か」に憑かれてこそ、「書く」ということははじめて可能になる。しかしそう した「何か」に憑かれて「書く」者など本当にいるのでしょうか? 居る。簡単ですよ。いままで挙げた著者の本を読めばすぐわかります。そこに圧倒的な事実 があるのですから。

「革命」と「テクスト」

白石 西谷修さんの精力的な紹介にもかかわらず、ルジャンドルが日本できちんと受けとめられてきたとはかならずしもいえない。それはわれわれが何か決定的 な問題を避けてきたあらわれであるように思われます。いずれにせよ、ルジャンドルのいう「中世解釈者革命」の重要性はあきらかでしょう。その「革命」で最 初にテクストが情報化される。われわれはその効果の圏域にいまだにとどまっている。テクストの情報化によって、教会権力からの「世俗化」も可能となり、国 家は法という言語の体系とみなされる。それはルジャンドルが警鐘を鳴らす昨今の「マネージメント原理主義」にもつながっています。いわゆる「表現の自由」 の問題も、同じ「世俗化」の圏内にありますが、佐々木さんはフェティ・ベンスラマの『物騒なフィクション』(西谷修訳、筑摩書房)を踏まえつつ、文学と宗 教的な原理主義についての議論を展開なさっている。
 ベンスラマによれば、文学とは人間がテクストをつくることです。それはテクストが人間をつくる宗教を逆転させたものです。文学はこの逆転によって、テク ストの起源の権力を万人に分有させる。そのかぎりで、文学は固有の懊悩をはらむと同時に真にデモクラティックなものであり、テクストが支配する原理主義を くつがえす力をもっている。文学がフィクションであるのは、すでに書き込まれた現実にたいする関係の変更をせまるからです。佐々木さんはこの文学=フィク ションの力を、ルジャンドルの「原理主義からの疎隔」という言葉に読み込んでいます。そしてこの文学ないしフィクションの「疎隔」の力能なしには、「革 命」もありえないのだ、と。
 じっさい、近代フランス史のなかでも、革命はテクストの情報化にたいする蜂起としてとらえることができます。一九四八年の二月革命、パリコミューン、人 民戦線の「喜びのストライキ」。そこにはつねに詩人たちの蜂起がともなっている。ボードレールは街頭でビラを撒き、ランボーはパリに駆けつけ、プレヴェー ルが工場で演劇をやる。そこにあるのはテクストの原理主義にたいする闘いです。もちろん、こうした蜂起は、普通選挙や有給休暇制度といった法的な表象、つ まりテクストに回収されます。でも、だからこそ革命ないし蜂起は文学とともに不可避的であるともいえるわけですね。
佐々木 なぜラカンとフーコーにルジャンドルを並べなくてはならないのか。それは仰る通り彼が中世解釈者革命について書いているからです。一二世紀中世解 釈者革命において、多種多様な可能性を秘めていた「テクスト」は「情報の器」にすぎないものに切り詰められました。客観的な情報だけが規範にかかわるもの とされるようになりました。現在の「情報理論」「情報化社会」「データベース」と呼ばれるものの出発点がここにあります。逆に言えば、もう八〇〇年以上も われわれは「情報革命」を生き、「すべては情報である」などと言い続けていることになるのですよ! それを新しいと思い込んでいる人ばかり蔓延(はび こ)っているのは、さすがに滑稽ではないでしょうか。
 『夜戦と永遠』を読んだある方がこう言いました。「新しいテクストを作り、意味を作り、歌を創り、新しい社会を創り出す――これは当たり前のことではな いですか」と。もちろん僕は「当たり前です」と答えました。逆に、いまなぜこうしたことが当たり前のことではないように言われているのかが分からないので す。一言で言えば、革命は可能だということです。しかし、坂口安吾が言うように「次の一回の革命ですべて終わるなどと思ってはならない」。やはり、ここで も「ひとつ」と「すべて」の欲望が問われているわけです。次の「唯一の」革命で「すべて」が終わるなどということはない。それにしても驚いてしまうのです が、革命は可能だなどという当然のことを、なぜ今更大声で言わなければならないのか。ドゥルーズ=ガタリが言うように「なぜ別の革命が今や可能になったと 考えないのか」。
 念を押しておきます。暴力革命は革命の数あるヴァージョンの一つにすぎません。書き歌い踊り描く、本来は紛うことなく政治的であり芸術的でもあるさまざ まな技芸の果実――これを総称してルジャンドルは「テクスト」と呼ぶわけですが――によって、太古から人は自らを統治してきたのです。ところが、解釈者革 命以来、この「テクスト」の意味合いが縮減されていき、「情報」とその運搬機としての「書類」や「データベース」だけが規範や政治にかかわるのだという、 実は歴史的地理的に限定されたものにすぎない観念が出現します。その観念は植民地主義によって世界に輸出された。それから規範や政治は「情報化」されてし まった。だからこそ、逆にそれへの抵抗もさまざまな可能性を縮減されて、単なる「暴力」の噴出でしかなくなったわけです。こうして情報と暴力の二項対立に われわれは閉じ込められることになった。革命といえば暴力革命しか意味しなくなったのは、こうした「統治の情報化」の作用にすぎません。むろん、統治にお ける「テクスト」の政治的革命に、まったく力の発露がないとは言えませんよ。時には暴力的な何かがそこに含まれることは明らかでしょう。しかし、暴力革命 が「すべて」だというのは、歴史的に見ても完全に視野狭窄です。暴力こそがラディカル? それは「すべては情報だ」と言うことが新しくラディカルだと思い 込むくらいに、うんざりするほど退屈なことなのです。

文学とは何か

松本 かつてサルトルは「文学とは何か」と問いました。「特異的普遍」と共に思考せよ、がその答えです。ある作品をその作家の出自や育った環境、社会状況 などに還元する作業は或る程度可能であり、また作品理解のためには必須と言える局面もありますが、しかしそれでは作品の特異性を捉えられない。尤も全ての 作品が普遍的であるはずはなく、そこが文学の残酷さでもあるわけですが、ともあれ、社会状況に作品を還元する作業の逆説は、それだったらその作品でなくて もよく、その作家でなくてもよいだろう、と突っ込まれたとき何も言えないということにあります。ではそのうえでなお残るものは何か。僕はそれを「文体」と 読んでみたいのです。
 小説のことを僕はずっと考えています。小説に固有の論理、小説にのみ可能な思考がある、と。だから小説も批評も原理的には終われないのです。そこで、佐 々木さんにとって文学とは何か、それと他の諸言説との関係、とりわけ宗教の言説(本書でも説かれている通り「宗教」一般なるものはないとしても)との関係 において文学あるいは僕が言う意味での文体とはどのようなものであるのか、うかがってみたいのですが。
佐々木 そもそも「文学」とは「聖典を読み、かつ書く技術」のことです。いまリテラシーという言葉が流布していて、それは一般的に読みかつ書く技術のこと を意味すると言われている。しかしもともと「文学」こそがそういう意味だったのです。だから完全に重複している。どころか、リテラシーという用語からは 「聖典を読み書く技術」という意味に含まれる絶対的な政治性・規範性がぬぐい去られてしまっています。初期キリスト教の旧約聖書や新約聖書の文献学的な取 扱いやそのテクストたちは何と呼ばれているか? キリスト教「文学」と呼ばれています。まさに聖典を、絶対的に政治的で、詩的で、芸術的な作法のもとに読 み、かつ書く技術。これを称して「文学」というわけです。
 ある時代まで、「文学」はある一部の階級の人々に占有されていました。それをすべての人々に解放しようとしたのが「近代文学」というデモクラティックな 企てです。恐るべき企てです。この本で論じた通り、書くことはつねに狂気の企てなのですから。書くことは書き換えることであり、書くことを正しいと信じて いなければ書き換えることはできませんが、書き換えることができるということは信じていないということなのです。書くことの狂気とは、この「信」でもなく 「不信」でもない永遠の空間に投げだされることです。何かを信じているか信じていないか、それはどうでもよろしい。それは安易な原理主義か安手のアイロ ニーしか生みません。結局どちらもニヒリズムです。信じているのでも信じていないのでもない、というのが真の苦難の道です。その苦難に万人を突き落とすと いう驚くべき企て、これが近代文学なのです。しかし、近代文学はある種の「テクストの囲い込み」の効果を被ってしまっています。つまり「テクスト」や「エ クリチュール」の情報論的な文書への還元という中世解釈者革命以降の動向の効果を。また、芸術の「無関心性」への囲い込みの効果を。しかしそれならば逆 に、その囲い込みの枠を撤去した上で、あらためて「書く」ということの可能性を開くということは常に可能であるはずです。すなわち、政治的で規範的で、ゆ えに真に芸術的なものである文学の可能性をね。念を押しておきますが、政治と芸術の結びつきを、賛成する者も反対する者もなぜか「反動的」なものだと思っ ている人が多い。逆です。「テクスト」の営みを情報論的なデータベースや客観的な文書として考え、それを矮小化するほうが今や反動的なのです。一二世紀以 来の伝統に縋ろうというのですから、これは相当な反動ではないでしょうか。
 そこで改めて文学とは何かというと、情報に還元できず全体性も構成しえないものである、ということになる。言葉は情報ではありませんからね。ルジャンド ルが言う通り、情報化も数値化もされえないテクストの操作やそれをめぐる所作のあり方は、ダンスや料理や絵画など膨大なヴァージョンがありえます。われわ れがまだ知らぬ形式も含めて。しかし言語においては、それは常に「文学」であり、そうとしてしか可能ではありません。文学が抵抗するのではなく、文学それ 自体が抵抗なのです。絶対的に情報に還元できない、全体化できない、形式化できないものがあります。これは、形式化を通して言語のなかに言語化できない 「穴」が、「現実界」が見いだされる、というような幼稚な話ではありません。言語化できないものと言語が截然と分割できるというのは言語を全体化して上か ら眺めている悪しき構造論的・社会学的視点にすぎない。だから言語を形式化されたものとして考える言語学は間違っています。中心に対する侵犯を行う周縁な り外部なりとしての文学というような詰まらないことを言っているのではないですよ。そういう中心と周縁の構図自体を設定する「外」の純粋な脈動が文学なの だと言っているのです。だからこういうことになります――文学は死ねません。どんなに苦しくても、文学には未来永劫もがき苦しんでもらうしかない。楽しく もがき続ければいいのではないですか。そうするしかないのですから。文学は終わらない、絶対に終われない。終われればどんなに楽でしょうね。文学の可能性 はなくなった? 新しい文学も文体もありえない? 結構。しかし残念ですが、どれだけ泣き叫んでも文学が終わることはありません。近代文学が終わった?  終わってもらっても特に何も困りません。そんなことを言っても何も変わりません。どのみち文学は終われないのですから。しかし、近代文学の驚くべき企て を、なかったことにはできませんよ。あったことをなかったことにしようというのは、常に幼稚な考えなのです。

「政治的霊性」をめぐって

白石 この本では、イラン革命のフーコーが焦点化されています。彼はイラン革命には「政治的霊性」がみなぎっていたという。単なる真の認識ではない。真な るものへの実践としての「霊性」です。これは危険な言葉です。しかし、フーコー自身の蹉跌を通じてこの「政治的霊性」を問い直してみたい。それは「生存の 美学」へと収斂されがちな晩年の後記フーコー像の転換をせまるものではないでしょうか。
佐々木 フーコー自身が語る通り、生存の美学や自己への配慮は「胸糞が悪くなるもの」であり、それ自体は革命や抵抗を保証しません。「生存の美学」は「政 治性」をぬぐい去られた、「霊性」の一ヴァージョンでしかない。むろん、政治的霊性は危険な言葉です。「政治的な真理を、真なる政治を求める実践」が危険 でないわけがありません。ここで重要なのは、スタイルを選び取れると思うのは間違いだということです。政治的真理の実践は「生の文体」「スタイル」を必要 とします。しかしその文体とは何か。「自分にはこうするしかできない」ということです。選ぶ余地はない。たとえばベケットのような人は、ああしか書くこと ができないのです。忘れがたく美しい一節で彼は言っています、「確かに道を間違ってはいない。他に道はないからだ。もう他の道を通り過ぎてしまったのでな ければ、気づかないうちに、次々と他の道を通り過ぎたのでなければ」とね。自分ではどうしようもない、測り難く度し難い、「こうしか生きることができな い」ということ、それこそが文体であり、霊性というものです。イラン革命においてイランの人民が蜂起以外に何ができたでしょうか。蜂起しなければ死に至る まで搾取され続けるわけですから。十字架のヨハネやアビラの聖テレジアがあのように書く以外に選択肢があったでしょうか。ない。だから闘った。それだけで す。
松本 ラカン、ルジャンドル、フーコーをそれぞれに論じた三部からなる本書全体を通して、宗教、具体的にはキリスト教そしてイスラームの問題が執拗に繰り 返されていますね。まずラカンに関して言えば、剰余享楽という既存の枠組内で「ない」ものを「ある」として掠め取る機制を壊乱させるアンスクリプシオンと しての女性の享楽または「恋の手紙」ともよばれる或る種の神秘体験、次にルジャンドルに即して言えば、社会体を措定するテクストの書き換えによって発生す る或る種の神話、そしてフーコーについて言えば、フーコーがイラン革命に幻視した、統治性に抗する汚辱に塗(まみ)れた身体における「戦いの轟き」として の政治的霊性。これら三つの概念は、共通点を持つと考えてよいのでしょうか? まったくあるいは微妙に、しかし決定的に異なるものなのでしょうか?
佐々木 ラカンの「女性の享楽」、ルジャンドルの「テクストの革命」、そしてフーコーの「イラン革命」には共通点や同一性はありません。それは相互が相互 を「反復」しています。最初に来るものが次に来る一連のものの反復であり、それに続くものが最初のものの反復であるように、「何か」を反復しているので す。

言語と意味

白石 ミシェル・ド・セルトーも想い起こしておきたい。『夜戦と永遠』では鶴岡賀雄さんの議論(『十字架のヨハネ研究』創文社、二〇〇〇)を参照しつつ、 セルトーへの注目すべき引証がみられます。とりわけ「言説の空しさは言葉の現前である」というセルトーの引用は決定的です。社会学的な言論が蔓延し、われ われの呟きが見失われている。しかし、この「言説の空しさ」のなかでこそ、新しい言葉が立ち現れる。そのとき呟きは真なるものへの実践としての「霊性」を 帯びるのではないでしょうか。
佐々木 現実を言語の外部として実体化してしまう考え方はいまだに跋扈していますが、実に退屈です。言語の外部がありそれは絶対的に語れないというよう な、もしくは言語の外すらもすべて語りうる、というような考え方もね。実は言語と言語の外を分けた時点で同じ穴の狢です。言語はつねに言語の外を含むし、 言語の外においてこそ言語として生成する。僕はこの本で「言語は、滲んで溶ける水溶性の染みでできた、斑の身体を持つのだ」と書きました。言語と言語の外 を截然と分ける思考からはもう何も生まれません。
 一例をあげれば、マリアが孕んだもの、あれは何でしょうか。イエス・キリストですね。イエス・キリストを神学文献では通常「Verbe」と言います。 Verbeとは「御言葉」です。大文字の御言葉とはキリストのことです。ではイエス・キリストは言語なのか、それとも言語ではないのか。イエス・キリスト の身体はキリスト教社会において世界そのものでした。それを創出する享楽を、ラカンは「女性の享楽」と呼んでいます。言語と言語の外という退屈な二元論に 依拠している限り、この「社会を創出する享楽」は捉えられない。
 ドゥルーズ=ガタリですら表象と表象の外という二元論に依拠しています。特にガタリは「表象ではない現実の生産の過程を、欲望する機械の生産を見ろ」と 言う。しかし表象を生産することは現実における現実の生産ではないのですか? 新たな表象や言語をつくることも立派な欲望の、欲望における生産です。彼ら の言う「機械」の中には言語も含まれる。彼ら自身も言う通り、だからこそカフカとその作品は偉大なる「文学機械」なのです。
白石 最初のラカンの部で、ドゥルーズの『意味の論理学』を引きつつ、意味や隠喩が生じるのは、象徴界と想像界が重なり合うところであると明快に説かれて います。そこでは「同時に語であり物であり、名であり対象であり、意味であり示されたものであり、表現でもあり指示でもある」と。さらに想像界と現実界が 重なる場所には「意味」が発生し、それは逆説的にも「女性の享楽」ないし「大他者の享楽」と関連を持つ。そこから社会を織り上げ、紡ぎ直すことが出現する のだとされます。こうしたラカンの読解は、本書の最後で論じられているドゥルーズのフーコー論とも正確に響き合っています。意味や社会が生じる混成状態が ある。われわれはそこで、踊り、語り、表現する。だから、新しいダイアグラム、別のモンタージュはありえる、と。
佐々木 いつの日からか、ひとは意味を恐れるようになりました。意味ではなく強度だ、云々と。しかしそんなことは誰が言い出したことなのでしょう。ドゥ ルーズすら言っていないのではないですか。念のために言いますが、強度の対義語は「外延」ですよ。
 意味に抵抗すること、あるいは「意味がない」ことが、そんなに面白いことでしょうか。むろん、既成の意味に縋ることはつねに奴隷的なことです。しかし、 新しい意味を作り出すことはつねに可能であり、なくてはならないことです。それは新しい社会、新しい世界を作りだそうとすることなのですから。いま挙げら れた三人がこうしたことを否定していると考える根拠は実は何もありません。

「物語批判」の再定義

白石 リオタールは『ポストモダンの条件』で「大きな物語は終わった」と語ったといわれていますが、実はあの本で彼が主張しているのは、科学は自らの正当 化ができないということです。その正当化ができるのは人文学だけです。佐々木さんの言い方を借りるならば、人文学だけが「根拠律」をつくれる。こうした観 点から、リオタールは七〇年代後半の北米における知の変動を批判したわけですね。すくなくとも彼には、「なぜ」を問う人文学にたいする信頼がある。たとえ 「物語」は終っても、ひとびとが「なぜ」と問うかぎり新しいモンタージュやダイアグラムが編み出されるという信頼です。
佐々木 「大きな物語は終わった」と喧伝する人間はあとを絶ちません。しかし仰る通り、当のリオタールですらいま多くの社会学者が言うような「大きな物語 が終わったから、小さな物語でやっていくしかない」などということは言っていない。あの本が科学の「正当化」の問題を扱っているということすら、忘れられ ている。大きな物語は終わった、と。ネオリベラリズムは大きな物語ではないのですか? 成立当初からネオリベラリズムの第一原理だった「競争」原理は大き な物語ではないのですか? あるいは、イラクにおける作戦行動を「イラクの自由作戦」と呼ぶことが物語でなければいったい何なのでしょう? 大きな物語が 終わったと言われてから、ナショナリズムや原理主義やグローバリズムの巨大な物語の浮沈のなかで多くの人々が死んでいった。こんなことは誰でも知っている ことではないでしょうか。なぜ物語を批判しなくてはならないか。それはある種の物語が人を殺すからに決まっている。どこからどこまでが小さな物語で、どこ からどこまでが大きな物語なのですか? 計測でもできるのですか。要するに、「大きな物語は終わった」というのは、「われわれは物語に抵抗しなくてもい い」と他人と自分を洗脳して、闘争から自分だけはまんまと逃げ出したいと思っている連中の言い訳にすぎません。大きな物語――まさに物語ですよ――に対す る批判はまずは「小説的なもの」として現れるでしょう。「物語批判」としての小説です。また、「物語批判」は政治的な批判そのものであり、なおかつ科学を 正当化する言説の産出やその根本的な問い直しを行う「科学以外の学」の存在理由そのものである。物語批判を妙に審美的な文化論のなかに自閉させてはいけな い。

大学をめぐって

白石 私はいま個人的に大学論のようなものを準備しています。そこで思うのは、いま決定的に欠けているのは大学の「霊性」です。大学は学校とはちがいま す。学校は情報を伝達する場所です。そこではテクストは情報化され、原理主義(「教科書にこう書いてある」!)もはびこるのかもしれません。それにたいし て、大学とは、真なるものへの実践の場です。そのためにひとびとは群れる。その群れの混成から意味や社会そのものが紡ぎだされてくる。じっさい、大学は学 校とは別の原理で組織されたサンディカが起源ですし、そこから文学による俗語革命もはじまる。フランソワ・ヴィヨンの『遺言集』の劈頭は「われは学生な り」でした。大学が近代国家の装置だというのは、近視眼的な見方ですね。むしろ俗語にもとづくネーションは大学から派生したものです。いずれにせよ、大学 の「霊性」への問いで賭けられているのは、意味や社会の産出そのものだと考えているのですが、いかがでしょうか。
佐々木 大学とは「無限に受胎を待つ場所」だと定義したいと思います。大学は、「次の社会」を産み出す享楽、すなわちマリア的な享楽に貫かれているので す。当然マリア的な享楽の反復は常に政治的霊性を含みます。どうしても文脈上キリスト教的な比喩に頼らざるを得ないのですが、むろんこれはキリスト教に 限った話ではありません。逆に、だからこそ大学は驚くべき力を振るいうる「危険」なものでもある。次の社会を産み出すことができるということは、それを破 壊することもできるということなのですから。大学の書斎で生み出された平穏な一観念が文明を破壊することもあるのだ、思想の力を侮るなかれ、という詩人ハ イネの有名な警句があります。そしてそのハイネの警句を引いて政治学者アイザイア・バーリンが、だからその破壊を止めることができるのも大学人だけだ、と 断言しています。こういうことが忘れられている。
白石 私の編集した『ネオリベ現代生活批判』(新評論、増補二〇〇八)では、大学の無償化とベーシック・インカムを論じましたが、ベーシック・インカムに 関してはどうお考えでしょうか。
佐々木 『夜戦と永遠』では、ルジャンドルが言っている「系譜原理」について書きました。「系譜原理」とは、子どもを産み育てることの制度的な保障を行う 原理です。ルジャンドルは子どもを産み育てることを保障できない国家の形式は存在を許されない、とはっきり言っている。ごく簡略に言えば、これは二重の再 分配の原理です。つまり再生産=繁殖のための物理的資本の再分配と象徴的資本の再分配です。貨幣も「信用」に基づくものなのですから、この二つは切り離す ことができません。ベーシック・インカムで全住民が月額八万円を与えられるという計算がありますが、それなら三人家族であれば二四万円になります。これ は、実は「君たちは生きていていいのだ」という言語的なメッセージを与えることにもなるわけですね。人民に対してこのようなメッセージを与えられない制度 的形式は、国家に限らずやはり解消されなくてはならない。
 ご存じの通り、「高等教育の漸進的無償化」を批准していない国は、日本とマダガスカルとルワンダの三ヶ国だけです。象徴的資本の再分配をする気がない、 つまり系譜原理を機能させる気がないわけですね。また、女性の働きやすさの指数も国連の機関から発表されていますが、日本は先進国で最低です。女性が大学 を出て専門職に就いていたとしても、子どもを産み育てるために一時でも辞めると元の給料は保障されず、再就職しても生涯年収は激減する。言い方は悪いです が「パートのおばさん」になってしまう。大した「先進国」ですね。ドイツで、たとえば働く女性に育児休暇五年の後にも同額の収入を保障することにしたら、 それでも他のEU諸国に批判されたと聞きました。休んでいる五年間分の昇給も保障しろ、とね。こうしたことと「少子化問題」が別のことだと考えられている わけです。立場の左右を問わず、子どもを産み育てることができない国家の存立は危ういというのは当然のことだと思うのですが。

神秘主義と内在

松本 性に関して質問があります。佐々木さんは、とりわけラカンに即して、性と権力装置の密接な関係を論じておられますが、この立論構成には「性は二つし かない」という前提があるように思われます。その場合、ここでの議論全体がヘーゲルの『精神の現象学』における人倫の共同体をめぐる議論、あるいは吉本隆 明の『共同幻想論』における幻想としての権力機構をめぐる議論に酷似してしまうような気がします。要するに性(ひいては家族)が社会体の権力なり共同性を 基礎づけている、と。この論点は、「もう性なんてうんざりなんだ!」と口にしたというフーコーにどう接続されるのでしょう。一言付け加えるなら、性に関し て云々するとき、僕の念頭にあるのは大江健三郎の『性的人間』です。
佐々木 大江さんの名前を出していただいたので出し抜けに断言しますが、大江健三郎は貶されすぎです。逆に中上健次は褒められすぎです。
 さておき、性は二つしかないのではなく、性は一つしかないのです。一見、性は四つ存在するように見えます。つまり、異性愛者でファルスを持つとされる 男、異性愛者でファルスを持たないとされる女、同性愛者でファルスを持つとされる男、同性愛者でファルスを持たないとされる女。しかし、実はこれは一つな のです。「一つのファルス」のオン・オフをめぐるものですから。また、ラカンやルジャンドルの立論はヘーゲルや吉本隆明の議論に似ているというのは当たっ ていません。特にルジャンドルにおいては、家族や「出産する二人」は国家や共同体を基礎づけるのでは「ない」からです。逆です。彼は国家を「準拠の束の間 の一形式」でしかないものと言っています。つまり、子の再生産=繁殖を基礎づけることができない「準拠」の形式はドグマとして成立していないのであるか ら、解消されるべきだと言っている。また、フーコーが「性はうんざりだ」と言ったのは、古代ギリシャにおける「性の」美学がきわめてファルス的な、なおか つ女性差別的なものであったということに対する率直な幻滅の表現であって、それ以上でもそれ以下でもないでしょう。
松本 僕はこれまでドゥルーズのいう「内在性」に強く惹かれて哲学を考えてきたので、超越性を呼び寄せる思考にはやはり違和感を抱きます。だから神の問題 をうまく捉えられない、という状態がずっと続いているのですが……。
佐々木 面白いことに、そのドゥルーズ当人が、芸術の可能性と真の無神論は神の臨在においてしか存在しないと言っています。内在性とは、二重のニヒリズム の否定です。「ひとつ」の価値を「すべて」だと思い込み、他の「すべて」の価値を否定せんとするニヒリズムと、「すべて」の価値は「ひとしなみ」に無価値 だとするニヒリズム。「ひとつ」も「すべて」もありはしない、ひとつにもならず、すべてにもならないものだけが社会を創出し、創出し続ける。これを「内在 性」と呼びうるとすれば、きわめて逆説的にもそれをキリスト教神秘主義において見出しうると言ったのがラカンなのです。このような逆説について、ドゥルー ズはとても敏感だったと思いますよ。
 ニヒリズム批判の話ですから、ニーチェを引きましょう。彼はこういう意味のことを言っています。いつかこの世に変革を起こす人間が現れるだろう。その者 にも迷いの夜があろう。迷い苦しみつつ、ふと手にとって開く本があるかもしれない。そのたった一行から、ほんの僅かな助けで変革は可能になるかもしれな い。その一夜の、その一冊の、その一行を編纂するために我々文献学者は存在しているのだ。その極小の可能性、しかし絶対にゼロにはならない可能性に賭ける こと、これが我ら文献学者の誇りであり、闘いである、と。
 こうしてニヒリズムに抗することは、現在においても可能です。これは「現在を追いかける」ことに汲々としていると見えなくなります。ウィトゲンシュタイ ンが言うように「現在を追いかける者はいつか現在に追いつかれる」。話が一巡りして最初に戻りますが、現在はこうなっているからこうしなければ乗り遅れる とか、こんな時代になってしまったから諦めてこうするしかないなどという抑圧的な言説は、惨めな恐怖と怯えと卑屈の産物でしかない。その一夜の一行を信じ ることができない惰弱さの産物でしかない。ですからわれわれはこう言いましょう、「そんなことは知ったことではない!」。
(了)
 

もどる