◆◇◆息子と嫁の書き込み 投稿者:石川@腰越 投稿日:2011/03/21(Mon) ◆◇◆
拡散が目的ではなく、ご協力いただいた皆さんへのご報告、ということで息子と嫁のSNSへの書き込みを紹介させていただきます。 嫁は、忘れないうちに、と心配してくれた友人たちにお礼とともに自分の体験したことを書き込みました。現地で救難活動を続ける息子は、広く知らせることが希望に繋がるはず、と僅かな空き時間のなかで発信を続けています。
清花の「日記」から 日々震災の様子をテレビで見ていて、ホントに私はラッキーだったと思います。亡くなられた方、家族を亡くされた方にご冥福をお祈りします。そして1日も早い復興を。 日々深刻な被害状況がマスコミによって伝えられていく中で、私がなくした物はたった車1台でした。 震災の前夜の木曜日は雪で外に出られなかったので、桜麻に甘えて外食を提案。17時30分に帰宅してくれて、ファミレスですが、楽しい時間を過ごす。平日の外食なんてホントにひさしぶりでした。時間が早かったので、スーパーで食材やオムツを購入(これが後の食料となる)、桜麻と葉月は楽しくお風呂に入り、就寝。桜麻も寝かしつけができるようになりました。そんな幸せな夜。 地震のあった金曜日は葉月の昼寝が長くて私はのんびり。14時過ぎに目を覚ました葉月と遅めのお昼ごはん。ちょうどお昼ごはんを食べ終えて満腹なところで地震。立っていられないほどの激しい揺れ。慌てて家を飛び出し車へ。カーナビで地震の様子を知る。子供が幼稚園や小学校に通うママ達は車で子供を迎えに出て行くが、その後官舎の駐車場にぼちぼち帰って来る。ここまで津波が来るとは思っていなかったので、私は車に乗ってはいたものの雪道運転の経験がなく、車で待機を決めていました。その時心細かった下の部屋の奥さんを一緒に車に乗せました。 その後自衛官の方が官舎にやってきて、みんなに避難を指示する。一度家に抱っこヒモ、オムツ、おやつを取りに戻り、どうしたらいいかおろおろしていたら、向かいの部屋の奥さんに「いいからついておいで!」と言われ恐る恐る初めての雪道運転を始めたのです。その時もう1世帯ご近所さんが加わり4世帯での避難が始まりました。 あの時、雪道運転が怖くて駐車場に残っていたら流されて死んでたと思います。公道に出てみたら、信号機も着いてなくて土地勘と運転能力のない私はついてこいと言われなかったら動けなかったと思います。 デイケアには毛布もたくさんありました。ただ食事の備蓄は利用者の分しかないということで、一晩過ごした後、避難所へ。同乗者の携帯電話がまれに通じていたので同乗者のダンナを通じて私たちが老人ホームにいることが桜麻にも伝わり、土曜日の午後には泥だらけの自転車で桜麻が私たちを探しに来てくれました。災害が起きたら、救助に行かなければ行けないから、家族は二の次と教えられていただけに、安否を確認しに探しに来てくれたことがただ嬉しかったです。 デイケアにいるお年寄りにとっては、元気過ぎる子供の存在が疎ましかったこともあり、近くの小さな避難所(地区の学習センター)に移ったのですが、そこでは「子供は我々の将来を担う存在だから」と大きな声で言って頂きありがたかったです。子供の着替えも呼びかけて下さり、何人かが家にあった衣類を届けてくれました。 その避難所は地元の消防団の本部だったこともあり、差し入れが豊富で1日に2〜3回おむすびやたまに果物が頂けました。母親としては子供がひもじい思いをするのは耐えられなかったので、自分の分のおむすびはポッケにしまい子供のおやつにして、次の食事までそれが残っていたら、私がそれを食べるような食生活でした。あと少しの自宅から持ってきた菓子をちびちび食べてました。幸い娘は少食だったので、小さいおむすび1つでも1食分として満足してくれていました。 震災3日目に、車が水没したと地元の方に話したらガソリンが貴重なのに、官舎まで車を出して頂き(車で15分歩いたら1時間くらいの距離)着替えや毛布、家にある食料をとりに行くことができました。官舎の前で2階下の奥さんに会い一緒に避難所に呼んで頂けることに。2階下の子供は葉月とお誕生日が1日違いの双子ちゃんなのですが、ひもじさと環境の違いから子供の夜泣きが激しく毛布1枚で車内で2泊していました。 水道ガス電気が当たり前の生活だったので、その不便さは想像を絶するものでした。食べこぼしの多い娘はお風呂で体を洗えないので、首もとが痒くなっていました。 昼間は日が差すので、ストーブや電気がなくても過ごせましたがやはり夜が怖かったです。再び大きな地震や津波が来るのではないかという恐怖、寒さ(スキーウェアを着て寝てました)朝日が昇るとちょっとほっとしました。 今宮城県ではあまりの死者の多さに土葬が検討されているようです。その事に賛成か反対ということではありませんが、私は避難しながら次の地震と津波が来たらもう助からないかもしれない、せめて娘だけは身内のものに身元を確認して荼毘に付して欲しいと思い、私の運転免許所を洋服に携帯していたので(油性マジックで名前を書こうと思ったけど持ち合わせてなかった)それも叶わぬような緊迫した状況におどろいています。 そんな中被災してから5日目の火曜日に官舎の下の階のご両親が秋田県から娘を迎えに来ました。当初私はそのまま避難所に残るつもりでいたのですが、「秋田経由で帰ろう」と言って下さりずいぶん早く避難所を出ることができ、東京まで帰ることができました。一緒に行動していた5世帯のうち火曜日に2世帯が仙台から両親が迎えに来て、私とお向いさん(家は埼玉)は秋田まで乗せて頂き5世帯とも避難所を出ることができました。 まだまだ寒い中避難所に残っている人がたくさんいて心配です。 写真は車から、歩きだすことを決めた時の風景。地震から2時間後の16時41分。手前の、雪が積もっている土砂がガードレールに沿って堆積していたので、それをガイドに歩きました。畑が海のようになっていました。 Re: 息子と嫁の書き込み 石川@腰越 - 2011/03/21(Mon) 09:11 No.2199 うちの奥さんは、すごい 詳しくは奥さんから聞いてみて欲しい もう一度言うけど
おはようございます。朝日が気持ち良い。自分がどんだけ匂うのか分からないけど、そんなこと忘れてしまうくらい、朝起きて、変わりなく生きてるってのは気持ち良い。昨日会った人に今日も会えるのは、当たり前なんかじゃない。今日は雨が降る予定。津波の悲しみも流してくれよ。 分かって欲しいのは、俺はヒーローや救世主なんかじゃないってこと。ただの役立たずだけど、個人として、ヒーローたちの活躍を皆に報せることで、希望を届けたい。救助ヘリのクルーは要救助者を助け出してる。輸送機は昼夜物資を運ぶ。民間企業も乗り出してくる。ヒーローは日本中にいる!
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