弘前劇場公演・「アザミ」を観て
■あめさん
アゴラ劇場は小さいと聞いていたけど、客席の最上段から入って、一番下が舞台なのにはびっくりした。舞台といってもそれは教授の研究室という設定の部屋で、こういう限定された空間と時間の中でおこる物語というのが割と好きなのだが、弘前劇場がどういう劇団なのかも知らないので、登場人物が男女二人ずつで、どうやらこの部屋で何かが起こるらしいという事しか私にはわからない。
上演時間の大部分は4人の会話で、特に教授がしゃべる量といったら膨大な量で、まずそれに感心してしまった。当たり前に使っている日常の言葉も、見方を変えるとこういう風に言えるんだという言葉の返しの連続で、徐々に教授の心の乱れや苦悩が出てくるのと逆に女2人が冷静なのが印象的だった。
教授は何故あんなにも部屋を破壊せずにいられなかったのだろう。それは自分自身に絶望して自分を壊してしまいたい願望の変形だろうか。映画ではもっと派手な事をするのを観ても作られた物と言う気がするのに目の前で起きるとそれが自分に向けられている様で怖かった。

■ナカモリさん
「壊れる」という言葉が機械みたいなものだけじゃなく、人間や人格の状態まで表すようになったのはいつごろからなんだろうか。少なくとも私の子供の頃にはこんな言いまわしは存在しなかったような気がする。
人が壊れるなんて、詩的で具体的にはとても想像しにくいことであるにもかかわらず、たぶんもう多くの人の了解を得ている言いかたなんだろう。
芝居の中盤から、平井という男は編集者の来訪によってもう締め切りを3ヶ月も過ぎている童話の創作をひねりだすのだけれど、彼がこれによってどうにかなってしまうことは編集者の「もうこれが最後です」という言葉によって予告されていて、最後には刃傷沙汰みたいな展開もあって、結局彼は「壊れて」いって、その様子は私にとって最も身近な人を想像させるので、リアリティとして感じるところがあまりにも大きくてつらかった。
でも前半は楽しめました。津軽弁ていいなと前回同様思いました。

■そのはさん
満足して帰った。でも何がおもしろかったのか説明しにくい。設定やストーリーがおもしろかったわけではない。つまらなくはないけど新鮮味はない。登場人物に童話作家がいて、人にとって物語とは何かというような問いかけがあるのも特別おもしろいとも思わなかった。ただこれが演劇だったというのが大きいんだろう、小説や映画やなんかではなくて。
たとえば終盤この作家は、「役に立った本なんてひとつもねえよ」とわめき心情を吐露しながら本をぶちまける。本が音を立てて落ち本棚は軋む。彼はついには倒れ込む。そういう光景は単純に壮観だった。目の前で実際に事が起こる。その説得力。もちろんただテンションが高くてもダメで、雑談が何でもないようでいて含みがあってしかも可笑しかったりと細部がしっかりしていたから、常に興味をひかれ先を期待して観られた。どの役者も素に見えたというか顔や雰囲気がそのまま役になってたけど、かなり凄い演技力かも。

■こばやしさん
僕は、劇や小説を見るときや歌を聞くときなど、テクニックに惹かれる一方で、「強さ」にも惹かれてしまいます。その点でこのお芝居の教授の怒りは強くてかなり惹かれました。…ついこの間つきあう女の趣味の悪さについて、「魅力と強さを履き違えている」と人に説教されたばかりだった。書いてて思い出した。…まあいいや。
強い事はいいことだとどこかで思ってはいます。あとひさしぶりに生で演劇を見て感じたのは、お芝居を演じるという行為の変さ加減です。演技が、僕たちが常日頃否応無く行なっている社会的役割分担を純化したものだとしたら、純化したものはやっぱり特別なもので、日常的な目からは変な行為に映る。醒めた部分の自分はなぜあの4人はお芝居をするのだろうかとずっと考えていました。むず痒い。具体的にはああいう「女子大生の演技をしている女子大生」は本当の大学にもたくさんいて、自分は彼女たちに対して違和感と、そして親しみを感じていたということです。

■ご隠居さん
思い込みが現実の前に崩れてゆこうとしているときにどのようにその現実に向き合ってゆけばいいのだろうか。非情にも主人公の「平井」の場合はラジオドラマの脚本を書くことだった。平井は思い込みという虚構が破綻することから目をそむけるかのように新たな虚構の世界にはまりこんでゆくのだ。この狂気の沙汰は劇中劇のカタチで進行してゆく。現実と虚構の境界をふらふらさまよいながら壊れてゆく澤畑聖悟の演技は真に迫っていた。いつしか澤畑演ずる「平井」ではなく「平井正その人」を観ているような錯覚に陥っていたのだ。
そして、真夜中の研究室でのへんてこりんな会話のシーンから始まった芝居が修羅場と化していた。何気ない日常が気付かぬうちに狂気に浸食されてゆく恐ろしさに僕は引き込まれていたのだった。そのためか芝居の後の呑み会も知らないうちに狂宴と化していた。3月11日の恐怖は忘れはしないだろう。

■くまさん
お芝居を見て行ってらっしゃいな、とお小遣いをいただいたとしたら、はーいと、ぱぱぱとやりくりをし、代わりに映画を2本見に行くような、芝居に対して親しみがなかった。気やすい感じがないし、やる気まんまんな感じがめんどくさかった。最初に掲示保板で弘前劇場のことを保坂さんがいいと言っていてもピンとこなかった。ようすをうかがっていた。ナカモリさんとそのはくんとなつをくん、信頼する彼らがいいと言っていた(これじゃまるで保坂さんを信頼していないようですが、けしてそんなことはない)。次の公演はぜったい行こうと思った。そして弘前劇場、たいそう気に入った。ぜんぶ見たくて、今まで見ていなくて、そういったことを悔いた。地団駄だ。車を1台、壊したいうやつも見たかった。
わたしは、スキップするみたく歩きながら路駐している車の窓を変な棒でたたき割る、ピピロッティ・リストという作家の作品がすごく好きなのだ。上演のほとんどを酔っぱらったみたいにわらっていた。でも、わらっているだけではだめだった。船が出てきた。断崖を見上げるほど高い。螺旋階段は暗くて、わきに置かれたガラス瓶を落っことした。かもめはしろくて大きくて、凍ったかもめはとげとげのつららいくつも体から突き出ていた。すいませんばっかりですいませんと言った。
後半の暴力的な破壊的なのは、通常的にはかなり退いてる自分がいて、しかし目がらんらんしてるらしかった。わたしもやってみたい。ただ落っことしただけで、ごめんね、えんぴつ〜とか、開きすぎて、バキッっていった本にヒヤッとするんだった。まったくだめだ。わたしの彼は絵を書く人で、わたしが言葉というか活字ばかり追っている時が気に入らない。いつか、本たちをぶちまけられそうで怖い。だからあんまり、本を読めない読まない。先生役の人、ああいう人には弱い。ぐいーんと引き込まれいきそうで怖かった。

■チイ
物語はどこにあるか
主人公の作家の男はひたすら何かに怯えているように見える。寺山修司よりもすごい童話を書くはずなのになかなか書き始めようとしないのもそのせいで、たぶんそれは物語だ。編集者の女性はそれを承知で書かせようとする。愛人の学生も。物語は男の中にあるものではない。だから二人との対話によって書かれていく。その童話の中でも物語はどこかから飛んでくるカモメの羽に積もるもので、図書館の男はそのカモメをただ保存するだけだ。
4人のテンポのよい会話にはほとんど主題らしきものは見あたらない。だから筋もない。ストーカーの男が婚約者を殺す部分が唯一物語ぽいけど、作家の男はそれも拒絶する。それは消極的な拒絶かもしれないけど、そのようにして物語に怯え続ける人が優れた物語を書くのは矛盾みたいで矛盾ではないのかもしれない。寺山修司もやっぱり物語に怯え続けた作家の一人だったような気がする。