「残された言葉」
これは45年も前に死んでしまった母親が詠んだ短歌で、ボクが一番気に入っているもの。
昭和27年 詠 朝霧の深き療園に逢いに来る吾子に持たしむ栗拾ひけり 藤沢の小田急線長後駅から歩いて10分ほどの所にあったサナトリウムに母親は入院していた。当時は林の中にポツンと建っていた病院で、数ヶ月に一度、父に連れられて出かけて行った記憶がある。もっともこの歌ではがぶんはまだ2歳、覚えてはいない。
昭和29年 詠 夕陽さす雑木ヶ原に幼らの遊ぶを見つつ雅文思う 歌集の中で初めて雅文(がぶん)の固有名詞が出てきた歌。母親としては逢いたい我が子だっただろうが、ボクはちっともそんな気分ではなくて、母親の病院に行く時の条件は、長後駅前の行きつけの玩具屋でなんでも好きなものを買ってもらうことだった。
昭和30年 詠 ラビットを降りたる夫の日焼けせし腕に生活の厳しさを見る はっきりと思い出した。そうそう、このころはラビット(スクーター)でよく父親と病院に限らず出かけたものだった。しかも父は無免許、加えて交通違反の二人乗り。それで、同じ日に二度も、同じ警察官に、違う場所でつかまったことがあり、父が逆切れして「お前はオレをつけ狙ってるのか!」。「いえいえそういうわけじゃ」と、結局お目こぼししてもらう。
昭和31年 詠 母も子も夫すら遠く去れる夢見しかば草の露に似しわれ 歌集はこの歌を最後に終わっている。母親はこの翌年に亡くなるのだが、この歌が単に母親の感傷ではないことを今のボクは知っている。当時父親には愛人ができていて、そのことを知った母が父親に宛てた手紙を、ボクは母親が亡くなった数年後に、偶然発見して読んでしまったのだ。たぶん小学4、5年生くらいだったと思うが、読めない漢字を飛ばしても、なんとなく意味は分かった。要は、父の行為を責めるのではなく、認める内容だった。思えば、ボクが初めて性を意識した出来事であり、強烈な思い出として残っている。
世に出でて亡き妻の声きく如し生きの嘆きのこの草の露
ちなみに、そんな父は、斎藤茂吉の弟子、佐藤佐太郎に長年師事していたが、自らの歌集を上梓する際に先生からこんな序歌をいただいている。
海のべに育ちしわれに親しさや大津は君のふるさとにして たましひの流るるまにま巧みなる君の言葉をわれは喜ぶ 昭和五十年五月十一日於銚子 佐藤佐太郎 |