微冒険シリーズ・その3 「ちゃらおじさん」の巻
2002.07.29
日焼けサロンにせっせと通っている若造を「ちゃらお」と呼ぶらしいが、ほぼ毎日、海で焼いているぼくは、さしずめ「ちゃらおじさん」といったところか?
でもちょっと違う。日焼けサロンで焼いてる若造はナンパのためにとか、それなりの目的意識はあるかもしれない。その点ぼくにはそんなたくらみはない。ただ微冒険がしたいだけ。 となると、「なんでそんなに焼いてんの、意味ないじゃん」という意見も当然出てくるわけで、そう問われれば、「さぁ・・・・(一拍あけて)・・・・♪なんでだろぅ♪なんでだろぅ♪なぜだなんでだろう〜! と答えるしかない。 でもよく考えてみると、この世の中のあらゆる物や事の意味なんてものは、もともとそれ自体に潜在しているわけではなくて、そこから生れ出てくるものなのではないかと思う。と言っても、ほっとけば自動的に生れてくるというものではなく、他者の意味づけによって生れてくるということだ。ということはつまり、世界そのものにだって元々意味なんかあるわけじゃなく、人類を中心とした他者が勝手に意味づけを行っているにすぎないということだ。もちろん人によってその意味も違ってくるわけで、統一的な世界観や認識なんてものは在りようもない。意識の味、心の味、実によくできた言葉で、人のよって舌の感覚が違うのだから、当然、その味わいも変ってくるわけだ。そんなことを言うと、統一的認識を旨とする真理好きの宗教者はきっと嫌な顔をするに違いないけれど、案外ほんとうなんだからしょうがない。 ついでに言うと、右腕をあげたまま30年とか、転がって世界一周とかいうインドのヨガ行者のおじさんたちだって、その行為自体の意味なんて結局わかんないのだと思う。そんなふうな、どうしたって馬鹿げているようにしか見えない行為も、呆れるほど長いことやっていれば、本人も気付かぬうちに、なんらかの哲学的意味を見出しちゃったりするんだろうと思う。その上、運がよけりゃ悟りを開いちゃったりもするのだから、ぼくだってこのまま体を焼き続ければ、いつか、深遠な人生の秘密を知ることができるかもしれないしその前に皮膚ガンになるかもしれない、ありゃりゃ。でも平気。皮膚ガンで毎年一万人も二万人も死ぬわけじゃあるまい。そんなことを気にするくらいなら、海への行き帰りの交通事故(年間平均一万人=交通事故死)や、うっかり思い余って稲村が崎公園の崖っぷちから飛び降り(年間平均二万人=自殺)たりしないように気をつけるほうがよっぽどましだ。 今日は久しぶりに稲村の海に入った。
で、体を焼く、とにかく焼く。
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