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稲村月記 vol.08  高瀬がぶん

possible dream









          2001年11月26日
 

稲村が崎のがぶん家からバイクで七里ヶ浜住宅地を通り抜け、鎌倉山を越え、夫婦池と名のついたひょうたん型の池の脇を通って大船方面へ抜ける途中に、まだ田んぼや畑がわずかだか残っていて、なんかいい感じの田園風景がほんのちょっぴり広がっている場所がある。
その付近の道端にこの看板は立っている。そこはボクがいつも行くパチンコ屋への通り道なので、必ずこの看板の前を横切ることになるのだが、通るたびに、どうしても視線がそっちに行ってしまうのだ。
顔面血みどろのお嬢ちゃんとお坊ちゃん。
だからといってべつに、アメリカ軍の誤爆にあったというわけでもないらしい。
よく見ると(よく見なくても分かるか)、左側の女の子が「いちご」で、右側の男の子が「ミニとまと」ということになっている。それにしても、この看板を描いた人の美的感覚というか絵のセンスは、いったいどうなっているのだろうか。
ちゃんと塗れってば! と突っ込まずにはいられない。
ひょっとして、最初はきちんと赤く塗ってあったものが、時間が経つにつれ剥がれ落ちて来た。そういうことかもしれないと思って、近くに寄ってよく見たのだが、やはりそうでもないらしい。多少は剥がれ落ちたかもしれないが、あくまで、ハナから塗り方がぞんざいであることには変わりはない。
とはいうものの、じつのところボクはこの看板の絵が妙に好きなのだ。 特に左側のリボンをつけた女の子がボクの気に入りで、威風堂々と両足を広げて立つ姿と、「お〜い、いったいどこ見てんだよ〜」という無気味な視線に惹かれる。その点、右側の男の子のつくり笑顔とお元気ポーズは、あまりに普遍的で、まったくと言っていいほど魅力を感じない。
ところで、「いちご」は「狩り」なのだけれど、「ミニとまと」は「摘み」っていうところがシブイ。それにしても、たかが「いちご」に「狩り」とは、そんな勇壮な呼び方しなくてもいいよな。猛獣狩り、魔女狩り、人間狩り、どれもこれもロクなもんじゃないのに、人はなぜ「もみじ」まで「狩り」にして鼓舞しちゃうんだよおいっ!
まあとにかく、よく考えても、どうして「いちご」が「狩り」で、「ミニとまと」が「摘み」なのか分からない。でも、悲しいかな、なんとなくしっくりする気がする。なんとなくというのは、「ごく自然に」というか「アプリオリ」に、たぶんそうだということだ。
一本が「ぽん」で、二本が「ほん」で、三本が「ぼん」であることに、たいした理由なんかないように、昔から「いちご」はずっと「狩り」で、「とまと」も「摘み」で、しかして「ミニとまと」という新種もそれに準じて自ずから「摘み」と呼ばれることになっている。
と、こんなことを言うと、じつはそうじゃなくて、吃音の次は「ぽ」のほうが発声しやすいから・・・・とか、「いちご」と「とまと」では「実」のつき方が違うので、それによって定義されている・・・・なんていう理論を持ち出してくるやつもきっといるに違いないけれど、どうでもいいからね、そんなこと。
さて、肝心のその「狩り場」もしくは「摘み場」の実際の場所はどこかというと、じつはよく知らないのだけれど、チビ田園風景の真ん中に「いちご狩駐車場」というのがあって、その先にけっこうな大きさのビニールハウスがあるので、たぶんそこだろうと見当はつけているのだが、いまだかつて一度も「いちご狩駐車場」の看板の前に、客のものと思われる一般車両が停まっているのを見たことがないので定かではない。
それでも、いつか行ってみたいな。
「あそびにきてね!」ってせっかく書いてあるし、いつかきっとあそびに行こうと思う。
それがボクの小さな、ほんとうに、力が抜けるほど小さな、夢。

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