「テロビ番組」
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これからはこういう映画の1シーンを見た時に、
「まるで現実の一場面を見ているようだ」
と思うようになるだろう。
2001年9月17日
一機目の旅客機が世界貿易センターに突っ込んだ直後から24時間以上、チャンネルをあっちに回しこっちに回し、ずーっとテレビ画面を見続けていた。おそらくこんなことは、1972年に起こった連合赤軍の「浅間山荘事件」の報道以来29年ぶりのことだ。 最初のうちはどのチャンネルもライブ映像だったわけで、憶測や誤報も含めて、様々な情報がモニターを通じてリアルタイムで流れていた。ところが時間が経つにつれ様子が変ってきた。情報は整理され始め、映像は編集され、破壊場面ではSE(特殊効果音)やサスペンスフルなBGMが流れ、悲惨な光景にはそれなりに悲し気な音楽が使われ、ナレーションの口調も過剰にドラマチックなものに・・・・(NHKだけは違うけれど)。 こうなるともはや画面から溢れて出て来るものは、事実を伝えるニュースなどではなく、その背景に何らかの意図を含んだ、単なるテレビ番組に過ぎなくなる。だからテロビ番組なのだ。本当に、どうしてこうテレビ局は下らない演出をするのだろうか。ところが視聴者も視聴者で、そんな演出が長年の間にすっかり脳に染み込んでしまっていて、その不安をかき立てるような効果音や音楽に不自然さを感じないどころか、うまく乗せられ、心臓をドキドキさせながら画面に見入ってしまうのだ。 そしてあるとき、ハッとそのことに気付く。 それはさておき、とりあえず今回の事件の犯人をイスラム原理主義者として(いいのか?、たぶんいい)考え、あの行為が彼らにとっていかにジハード(聖戦)とはいえ、それを肯定する人はまずいないだろう。もちろん私も絶対的に否定する。しかし、アメリカの軍事力を使った報復行為も、まさしく聖戦なのだが、それを肯定するか否定するか、その点については意見が別れるところだと思う。私ははっきり反対で、日本がなんらかの助力を与えることも反対の立場だ。 アメリカは、あんなことが二度と起きてはならない! とは考えていない。報復する以上、報復の報復の報復の・・・・という無限連鎖のリスクを完全に排除することはできないことを知っている。それでもやらなければ気が済まないし、テロに屈しない国家としては戦争を選ぶわけである。 ブッシュ大統領は「・・・・犯人を法の前で裁く・・・・」と言い放ち、軍事力行使についての正当性を高めようと国際社会へのアピールに必死だが、「それは.ちょっと言い過ぎじゃないか」と思う。
アメリカの報道において、事件発生当初から「パールハーバー以来」と揶揄される、元卑怯者のかたまり(ちょっと僻む)の代表としての小泉首相は「ブッシュ大統領の怒りを共有する」と言ったが、それも嘘っぽい。確かに被害者の中に邦人も含まれているにはいるが、邦人は特に犯人の憎悪の対象ではなかった。いわば巻き添えを喰ったかたちだ。だから余計に怒りがある、ともいえなくはないが・・・・。犯人の標的は飽くまでアメリカという国家であって、日本人全体が、当事国のアメリカほどの怒りをイスラム原理主義者に抱いているとは思えない(少なくとも日本人としての怒りは、単に人の生き死にに関するもので、宗教的な要素は一切ない)。その点、今回の出来事は、見方によれば現代版宗教戦争とも言える様相を呈しているのであって、おおざっぱにいって無宗教の私たちに、両者の、その思いの複雑さと深さは到底理解できるものではない。 イスラム原理主義者とイスラム教信者は当然のごとく違う。しかし、仏教徒とキリスト教徒ほどの違いがあるわけではないので、12臆のイスラム教信者にとって、過剰にイスラム原理主義者が痛めつけられることは、赤の他人がぶたれるわけじゃなく、あまりつき合いのない遠い親戚がぶたれる程度には心が痛むのではないだろうか。いや、彼らが同国人であるにせよないにせよ、もう少し身近な関係にあるのかもしれない。
いずれにせよ、今回ばかりは、アメリカの軍事力の行使は防げそうにもない。
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