「稲村の鉄男」と「ラッキー」
2001年2月×日
江ノ電稲村が崎駅から極楽寺に向かう踏切の近く、道路わきに忽然と在る古い井戸。これは見方によれば単なる古井戸に過ぎないが、井戸の機能にもはや誰も期待しなくなった時点からオブジェとなり、井戸以上の存在に昇華した。いやそれでもたまに使う人はいるようだ。数年ほど前までは筆箱ほどの大きさの木札が下がっており、そこに「どうぞご自由にお使い下さい」と言うようなことが書いてあった記憶がある。実際に私も、稲村の地下水はどんな味がするのだろうという興味から、一度この井戸の水を飲んだことがある。それは鉄の粉を溶かしこんだようなエグい味わいの代物で、血の味にもよく似ていた。それ以来私はこれを「稲村の鉄男」と呼んでいる。 それにしてもカッコよくて悩ましいフォルムである。これを見て次に思いつく言葉は「ガジェット」である。荒廃した近未来、例えば「アキラ」の世界にこの「稲村の鉄男」をポンと置いてみたら、どんなに似合うことだろう。 ポンプにつながる汲み手の微妙な曲線、胴体部分のほどよく色あせた緑、手首にも見える汲み口、そして、そこから伸びるビニール紐とその先のちゃちなプラスティックのバケツ・・・・そのどれもこれもが只者でないことを窺わせる。 今でも誰かがこの井戸の面倒を見ている、と考えてもいいが、この井戸は飼い主から独立し、既に自生し始めている、と考えてみるのも面白い。 いつまでも残って欲しい鉄の塊・・・・。 「Fe26=鉄」より軽い元素はある条件下で結びつき、より重いものとなり「鉄」に近づく。そして「鉄」より重い元素もやはりある条件下では分裂を起こし、より軽いものとなって「鉄」に近づく。しかし、「鉄」そのものは酸化することはあっても「鉄」以外のものに変化することはなく、いつまでも.「鉄」で在り続けるのだ。 もしこの宇宙に永遠という時間が与えられていれば、数少ない変化のチャンスも必ずやって来るわけで、だとすれば、やがて宇宙は「鉄」だけになってしまうだろう。 「稲村の鉄男」は、ひょっとして、この永遠を見つめる装置なのかもしれない。 追記
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2001年3月×日
まずはみんなで声に出して言ってみよう、「ラッキ〜〜」 どうです、力が入らないことおびただしいでしょう。 ごらんの通り、これはおそらく世界一貧相な「幸運」である。 この看板を見たあとで運良くお金を拾ったとしても、それは一万円札であるハズはなく、1円玉に決まっている。だとしたら拾わない方が得だ。なぜなら、1円玉を拾うためには1.3円に相当するカロリーを消費すると言われているからだ。でも、そうと分かっていても拾わずにはいられない貧乏性の人が私は好き。 それはともかく、これが床屋さんの看板だということは明白だが、薄灰色の壁に直接ロゴだけを貼り付けるというアイデアもけっこう凄くてセコいし、そのロゴと扉の離れ具合も妙に中途半端で、その居心地の悪さも秀逸である。しかも、その字体も大きさも「そんなに遠慮するなよ!」と言いたくなるほど謙虚な「ラッキー」ではある。 この床屋さんには、一生のうちいつか行かねばなるまい、と感じているのだが、実際に行くのはどうかな、という気もしている。気になっているという、その気になる中身が、単なる興味なのか、それとも何らかの疑問なのか、そのへんは自分でもよく分かっていないのだが、とにかく、実際に行ってしまうと、きっと、なんとなくスッキリしてしまって、次からはもうその前を通っても何も感じなくなるだろう、そう思うと、なんかつまらない。気になることはずっと気にしたまま死んでゆく(大げさ!)のも悪くない、そんな風にも思う。 でも、あくまで気になっているんだから、あれやこれや考えたりはする。 いったい店の中はどうなっているんだろう? どんなオヤジさんが経営してるんだろう? どうしてもっと目立つ看板につけ直さないのか? どのみち繁盛してなさそうだし、それは単純にお金の問題なのか、それとも何か確固たる信念みたいなものがあってのことなのか?・・・・そんな疑問がふつふつと。 そして、そう、この床屋さんに行く人は、やっぱり「坊ちゃん刈」が一番似合うだろうと思う。もしこの写真を見て、ぜひ私も一回行ってみたいと思った人がいたとしても、間違ってもこの店で「パンチパーマ」なんて注文してはいけません。 了 |