小説論
第0回 序論・兼・弁明 保坂和志 8月17日のホームページの正式アップに合わせて、この『小説論』の第1回を書き上げる予定だったのですが、7月末から8月前半にかけて想定外の用事がいろいろと入ってしまって、ゆっくり書くことができません。そこで今回は、全体の見取り図、というよりもこれから書こうと思っていることのいくつかを、ザーッと書いていくことにします。掲示板にcrystaldogさんから、口調がいままで違うという指摘がありましたが、この連載がどういう口調になるのかは今はまだわかりません。hp上では、決定稿という概念は(送り手にとって)存在しないわけですから、2回目に1回目の分も書き換えるというようなことが、頻繁にあるかもしれません。というか、遠慮なくそうしていくつもりです。ですので、いちいち追っていたい方は、こまめにチェックしてみてください。 【1】小説にはどうして人間が登場し、特定の風景や時刻(季節etc.)が設定されるのか——絵画に抽象画があり、音楽もすべてが歌曲というわけではなくて電子音楽まであるというのに。 それはおそらく人間の認識というか思考の回路と関係している。結局、「特定」という設定があるものが、「小説」となり、その設定のないものが、「哲学」となっていったのではないだろうか。プラトンなんかではまだ未分化(?)なので、哲学と言っても、人物の対話になったりしていることが多い。 『生きる歓び』の中でも、ちらっと書いたけれど、人間には目の前にある現実に対処することで思考を訓練するという特色がある(視覚が脳の働きのすごく大きな比率を占めていることがもともとの要因だと思う)。目の前にある現実を消して、思考の訓練(?)の過程だけを書いていくと、哲学になる。小説は、目の前にある現実(「目の前にある現実」というフィクションでも同じこと)に対処することを、読者に要請するという作りになっている。目の前にある現実に対しては、理屈を言うのでなくて何か行為をしなければならない。「どう行為していいかわからない」という態度も、もちろん行為なわけだし、小説の中で理屈が並べられるとき、その理屈もまた“行為としての理屈”となっている(“行為の代わりの理屈”ではないことに注意)。 人間というのは、おそるべき量の情報を発散している。人間と同じように、風景も時刻もおそるべき量の情報を発散している。その情報の多さに(「大いなる」と形容したいくらいだが)、読者以前にまず書き手が助けられ、導かれる。——書き手の何がどう導かれるかについては、【2】でさらに述べる。 しかし、これではまだ疑問の半分にしか答えたことにならない。「なぜ、かくも小説は、「特定」の設定にこだわるのか」の残りの半分は、連載を書きながら考えていくことになる。「書きながら考える」というのが、つねに私の方法で、書く以前にわかっていたら、書く必要はない(ここから先は、『小説論』本論でなく、「私の小説の場合」)。だから、私の小説の読者はほとんどどの小説でも、書き手が考えるプロセスにつき合わされるという負担を強いられることになる。私の小説を「嫌い」「つまらない」という人たちは、結局、書き手が考えるプロセスに読者としてつき合わさせられる負担に耐えられないということだと思う。「そんなことどうでもいいから、早く結論を言えよ」というような感じ。あるいは、「結論がわかってから書くのがプロというもんだろう」というような感じ。しかし、結論なんてじつはたいしたことない。大事なのは、プロセスなのだ(これは私の小説のことではなくて、一般として)。 【2】人間や風景や時刻(季節etc.)が発散する情報の多さに、書き手はどう助けられ、導かれるのか。 まずこれが描写の必要性ということ。描写は、書き手が読者に設定を伝えるためにあるのではなくて、書き手が読者と設定を共有するためにある。そしてそれ以上に、書き手自身が自分の記憶を掘り起こしていくためにある。ここで「記憶」というのは、おもに本人が意識化していない記憶の方であり、フロイトだったら「無意識」と呼んでいるけれど、「無意識」という言葉は実体を持っているかのような印象を与えがちなので、私は「無意識」という言葉をいつも極力避けている。「無意識が私にそれを選択させた」とか「私の無意識と太古の人々の感性が響き合った」というような「無意識」の用法は、無意識を実体化しているとしか考えようがない(この、「無意識」のことと「実体化」のことは、とても大事なことなので、本式に書いていくときに、丁寧に書くことにする。ひとはいろいろな事象をつい実体化してしまうが、これは概念(=思考の部分)の簡略化ではなくて、思考全体の簡略化を意味していて、なんと言えばいいか一番簡単に言ってしまえば、つまりは、正しく考えられなくなる)。 たとえば『季節の記憶』の舞台は、鎌倉の稲村ガ崎で、私は稲村ガ崎の風景が好きだけれど、なぜ稲村ガ崎の風景を好きなのか、私はその理由を完璧に書き尽くすことはできない。真ん中を通っている道の両側に山が迫っていて、その山に木が生い茂っている様子は、一番わかりやすい理由だけれど、その道のわずかな傾斜もたぶん私は好きなのだろうし、海が近いという気分(見えていなくてもつねに前提としてそう思っている)も好きなのだろう。稲村ガ崎には便利屋の松井さんのモデルになった××さんと△△さんが住んでいて、私が稲村ガ崎に行くということは、その人たちと話をするということも意味していた。……と、こういう風に書ける部分は「私自身でわかっている」部分だけれど、「私自身でわかっていない」部分も稲村ガ崎を好きな理由には含まれている。私自身でもわかっていないのだけれど、稲村ガ崎を舞台にして書くという過程で、私は私自身でわかっていないことも動員して、「僕」やクイちゃんがそこの風景を見たときに何かを感じさせたり言わせたりしている。私は書きながら、「どうして“真ん中を通っている道の両側に山が迫っていて、その山に木が生い茂っている様子”を私が好きなのか」ということも考えていて、そのことも小説のどこかに反映されているに違いない。 いまここでは、とても大ざっぱに言ってしまうけれど、人間は感じていることや判断していることの理由をすべてわかっているわけではない、というかほとんどわかっていない。自分の感じることを事前にじゅうぶんにわかってはいない。計算で完全に導き出すことなんかできないわけで、自分の計算を超えるために、風景の力を借りる。書くときに必要な計算があるとしたら、「これを書けば事前の計算を超えるだろう」という計算だ。描写していくというのはとても面倒な作業で、その面倒な作業を通じて書き手は自分自身に、書く以前に考えていたこと以上のことを考えるように仕向けることになる。 【3】文体というのは、センテンスの長短や言葉遣いの堅い/柔らかいなどのことではない。 文体ということが特に強調されるようになったのは90年代になってからではなかったかと思う。しかしそこで言われていたのは、「保坂和志の文体は、『……で、……で、……』と『で』でつないでいくようにだらだらしている」というようなことで、小説の最も表層の、機械でもわかるいわば物理的な特徴のことだった。しかし、本当の文体というのは、文章に含まれている情報量のことだ。たとえば蓮實重彦の文章は、「きわめて甘美な」とか「比類なく美しい」というように形容詞・形容動詞・副詞がやたらと多く、それに対して事実を的確に記述する言葉が非常に少ない。つまり、全体として空疎である、というのが蓮實重彦の文章の特徴で、それを文体と言う。 最近、近所で猫を飼っている人たち(おもに4、50代の女性)と道で話をする機会が多いのだけれど、彼女たちの話は「わかりにくい」という共通した特徴があることに気がついた。たとえば、その家に3匹の猫がいる場合、黒トラはしょっちゅう喧嘩ばっかりしていて、茶トラは人懐っこくて道を通る人の足許にすぐに寄ってきて、鯖トラは最近どういうわけか2、3日に1度しか帰ってこなくなってしまった、というような話はえんえんとつづくのだけれど(しかも、同じ話題が繰り返されることも多くてそれも特徴なのだけれど)、その3匹がどういう関係なのか(親子なのか兄弟なのか血縁はないのかなど)、どれがオスでどれがメスなのか、というような基本的なことが、いくら話を聞いていてもだいたい全然わからなくて、訊こうとしても何故だか答えはズレてしまう。理由は、彼女たちにとってあまりにわかりすぎている前提であるために、その説明に頭が回らないとかいろいろ考えられるけれど、ともかくこの特徴もまた彼女たちの文体と言えると思う。 ——と、まあ、いま思いつくことというかいままで私が小説について考えていたことをザーッと書くとこんなところですが、こんなこととかそれ以外のこととかを、この『小説論』でじっくり丁寧に書いていこうと思っています。 以上 |